カットサロン◇タムラ

内藤 亮

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 二人で汗だくになって粉を捏ね、時間をたっぷりとって寝かせた。最新式のオーブンがものをいって、初めてのパン作りは上々の出来上がりだった。
「美味しいね!」
「ほんと!」
 労力と時間をかけた、という満足感が、味をさらにひきたてている。その日の夕飯は、もちろん焼きたてのパンにした。
 翌日、茜里は早速希恵が縫ったワンピースを着ている。ギャザーたっぷりのティアードスカートはいかにも茜里好みだ。
「まだ寒いんじゃない?」
 短めのパフスリーブはどう見ても夏仕様だった。
「いいの。平気」
「せめてカーディガンくらい着たら」
 茜里は口を尖らせた。こんな顔をすると裕太にそっくりだ。黙ってみていたら、二段ベッドの下のカラーボックスからカーディガンを出してきた。お気に入りの紫色のカーディガンだ。ワンピースの小花模様も紫系だからちゃんとコーディネートされている。
「これでいい?」
「素敵。その組み合わせ、いいわよ」
「ふふ。でしょ? 行ってきます!」
「はい、行ってらっしゃい」
 元気のいい足音が遠ざかっていった。

 田村の具合はどうなのだろう。気にはなったが、美佐緒がいるのだから大丈夫だろう。病でやつれた姿など、他人には見せたくないにちがいない。携帯の番号しか知らないから、千怜は何かあったらいつでも連絡ください、とショートメッセージだけ入れておいた。
 開店準備を終えると、すっかり手持無沙汰だった。安いとは言えない基本給を貰っているから、客が来ないと申し訳ないような気分になる。とはいえ、シンクは常に磨き上げられているし、床もピカピカだから、これ以上掃除のしようもない。
  開店から一時間近くたった頃、やっと電話が鳴った。千怜は飛びつくように受話器を取った。
「カットサロンタムラです」
「カットの予約をしたいのですが」
「本日は店長が休みを取っているのですが、よろしいでしょうか」
「構いません。お願いできますか」
「はい。ご希望の時間は?」
「なるべく早い時間がいいのですが」
「十時頃でいかがでしょう」
 何しろ暇なのだ。すぐにでも来て欲しいくらいだが、余裕をもって、がサロンの鉄則だ。
「ありがとう。これから伺います」   
「お名前、頂いてもよろしいですか」
「木本と申します」
「木本様ですね。承りました。お待ちしています」
 電話口だが思わず頭も下げた。店長がいないにも関わらず、来店してくれるのだ。初めての自分の客だ。気合が入る。
  木本が店に来た。
「娘が貴女のカットをとても気に入って。私も切ってもらいなさいって。よろしくお願いします」
 はにかみながら、木本が店のカードを見せた。  
「こちらへどうぞ」
 なんとも中途半端な長さのカットだ。だからここに来たのだろうが、それにしても、このカットはいただけない。細面の輪郭が貧相に見えてしまう。
「どのくらい、お切りしましょうか」
「お任せします。あのう、若々しく元気に見えるようお願いします」     
 率直な希望に、千怜は思わず吹き出しそうになった。猫毛でぺしゃんこになった髪が、木本をやつれた老け顔に見せていた。本人もよく分かっているのだ。
「分かりました」 
 ボリュームを抑えすぎると、髪が頭にはりついて、痩せた輪郭を目立たせてしまう。カットしすぎないよう、千怜は慎重にシャギーをいれていった。 
「いかがですか」
 長めのボブに仕上げた。カットテクニックがモノをいって、後頭部に作ったほどよいボリュームが頭の形を格好良くみせている。 顔に陰がかからないように入れたシャギーも我ながら上出来だ。肉の少ない頬が品よく見える。 
「ありがとう!」
 木本の顔がぱっと輝いた。すっきりとした一重瞼が娘によく似ていた。
「ムースか何かおつけしましょうか?」
「はい、お願いします。これから人に会うので」
「いいですね。今日はお天気もいいし」
 パステルカラーの柔らかい色合いのワンピース、よく磨かれたパンプス。ハンドバッグも上質のものだ。きっと大切な人に会うのだろう。
 鏡を見ていた木本が、決心をしたように言った。
「実は、これからお見合いなのです」
「まあ、素敵!」
「お化粧もお願いできますか」
「出来なくもないのですが、メイクの道具を用意していないので……」
「私の持っている化粧品でいいのですが」
「それでしたらすぐにでも」
 水分の少ない肌だ。千怜は手持ちの乳液で地肌を整え、ファンデーションでベースを作った。
「ファンデーションって、そうやってつけるものなのですか」
「ええ。こうやって肌にしっかり密着させるんです」
 あの少女に父親ができるかもしれないのだ。おのずと気合がはいる。
「アイラインはどうなさいますか?」
「いつもは入れないのですが……」
「そのほうがいいかもしれませんね」
 木本の顔立ちは、メイク次第でいくらでも華やかになりそうだが、共に家庭を築く相手に、華美な女性を望む男性は少ないだろう。清楚に、上品に。丁寧にベースを整えたら、あとは顔立ちを生かすよう、引き算のメイクだ。最後に頬骨にそって薄く頬紅をいれると、寂しげな顔立ちが途端に華やかになった。
「いかがですか」
「私じゃないみたい」
 目を丸くした様子は、あの少女のように素直な驚きに満ちていた。自分でメイクをして言うのも何だが、くたびれた顔をして店に入ってきた時とは別人のようだ。
「少し整えただけですよ」
「全部でおいくらですか」
「半額期間なので二千五百円です」 
「お化粧もしていただいたのですから」
 そういって木本は一万円札を取り出した。
「メイクの値段設定がないのです。化粧品はお客様の私物ですし。それに、今日は店長がお休みですから。私の裁量でいいんです」
 そういって千怜がちょっと笑ってみせると、
「でしたら、尚更……。受け取ってください」
「そんな。困ります」
「受け取ってください」
 木本はお札を千怜に押し付けた。これではお釣りを受け取りそうない。
「では、このお金はお預かりしておきます。またカットにいらしてください。お待ちしております」
 千怜は丁寧に頭を下げた。頭を上げると、木本は涙ぐんでいた。が、慌ててお辞儀をすると、背筋を伸ばして店を出て行った。
 メイクをしたのは久しぶりだった。メイクアップアーティストを目指した時期もあったが、茜里が生まれてそれどころではなくなったのだ。自分の手がメイクも覚えていてくれたのが嬉しかった。

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