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「母さん?」
茜里の声で千怜は我に返った。
千怜が骨壺を海にあけると、元裕太だった白い骨粉が帯の様に水面に広がっていった。
「さあ、お花を手向けて」
茜里の記憶に残っている父親はベッドに横たわっている姿がほとんどだと思うのだが、小さな胸の中でも嵐は起きているらしい。茜里が握り締めていたせいですっかり萎れてしまった小さな菊の花束が、塊りになったまま海へと沈んでいった。
クルーザーではもう一組の海洋葬が行われていた。こちらは、数えたら総勢十二名もいた。親族とその子供たちという構成メンバーだ。子供たちの中で一番年かさと思われる娘が、
「ばあちゃん、楽しい思い出を沢山ありがとね」
と言ってお骨を海に放った。ばあちゃんの息子と思われる男が大きな花束を力いっぱい海に投げると、色とりどりのバラとカスミソウが青い空に広がって、ベールの様に海面を覆った。
船長の挨拶が終わり、皆が船室に戻った。船室にはビュッフェスタイルの軽食が用意されていて、港に着くまで食事と風景を楽しみながら故人を偲ぶという趣向になっている。速度を落としたクルーズ船の船窓からみなとみらいのビル群が見渡せた。
茜里はトレイにずらりと並べられたケーキと焼き菓子に目を輝かせている。奥にあるフルーツタルトを取りたいようだが手が届かないらしい。どうするのか見ていると、さっきの娘に何か言っている。娘がタルトを取ってやると茜里は礼を述べ、ソフトドリンクのコーナーへと向かった。
千怜がテーブルに戻ると、茜里がトレイにケーキとジュースを載せて危なげない足取りでやってくるのが見えた。
保育園に入った頃は、千怜の姿が見えなくなると大泣きで、お迎えの時間になると飛ぶように迎えに行ったものだった。それがどうだ。今では初対面の娘にもきちんと礼を言い、大きなトレイを一人で運んでいる。
「あら、ジュースと紅茶とケーキまで! 一人で運べたのね」
あたかも今気が付いたように言うと、
「そりゃあ。春から二年だもん。一年生のお世話をしてあげるのよ」
茜里が誇らしげに答えた。
「ねえ、母さん」
茜里がそろり、と言った。
「父さんも見ていてくれる?」
「ええ、もちろん。お空の上から見守っているわ」
千怜がそう言うと、茜里はにこりとしてケーキにかぶりついた。これからは一人で茜里を育てていかなければならない。今頃、裕太だった骨粉は海の生き物の養分となっていることだろう。お空の上。便利な言葉だ。
「茜里は何かいる?」
席を立ちながら問うと、茜里は首を横に振った。
サンドイッチの皿をトレイに取り、サラダバーのトングを手に取ろうとしたら、手と手がぶつかった。
「失礼!」
「レディファーストですから」
と、先ほど花を海に投げ入れた男が千怜を促した。
「すみません、ではお先に」
「今日の葬儀はお二人だけなんですか」
「はい」
「うるさくて申し訳ありませんなあ」
最後に残ったケーキをどちらが取るかで、二人の子供がじゃんけんをしている。元気のいい掛け声がこちらにまで聞こえてくるのだ。
「いいえ、お気になさらずに。仲のいいお子さんたちですね」
子供が総勢五人。賑やかなのが当たり前だ。一番下は幼稚園くらいだろうか。皆、仲が良くてどの子が兄弟姉妹なのか分からないほどだった。一番のチビがケーキを取り落して泣きべそをかき始めると、傍にいた少年がさっとケーキを拾い、チビを慰めている。
千怜がサラダバーから目を上げてほほ笑むと、男はまじまじと千怜の顔を見つめた。
「失礼ですが、ご両親のどちらかが外国の方なのですか」
千怜の暗緑色の瞳と高い鼻梁は、純粋な日本人ではないことを明らかに物語っている。
「はい」
「御両親は今どちらに?」
「両親とも早世していて……」
そういって目を伏せると、男は慌てて謝罪した。
「すみません、立ち入ったことを伺って」
「いえいえ、お気になさらず」
千怜が微笑しながら答えると、男はもう一度すみません、とおじぎをして、そそくさと家族のいるテーブルへ戻っていった。
父親の顔は知らない。多分どこかで生きているのだろうが、出生のあれこれを聞かれるのは面倒だから〝早世した〟と答えることにしている。母親とは長い間連絡を取っていない。たとえ彼女が生きていたとしても、この世にいないのと同じことだった。
茜里にも、祖父母はもう亡くなったと言ってある。いつかは本当のことを話す日が来るのかもしれないが、それはまだまだ先の話だ。子供は太陽が燦々と当たるところで育つべきだ、と思う。母親の生い立ちなど、まだまだ知る必要はない。
「茜里もサンドイッチ食べる?」
テーブルに戻った千怜が声をかけたが、茜里は隣のテーブルに気を取られていて、返事がない。
大所帯の家族は、大人と子供が分かれて座っていた。いつもの取り決めらしくどちらのテーブルも賑やかだ。
千怜は声を張ってもう一度声をかけた。
「帰りに茜里の服、見ていこうか」
「え?」
「ここに来る途中、素敵なお店があったじゃない? 服、見ていかない?」
「いいの?」
子供なりに、今の経済状況が分かっているのだ。
「もちろん。ジーンズもスカートもみんな小さくなっちゃったでしょ」
茜里の顔がぱっと輝いた。茜里はお洒落が大好きで、ここに来る途中もショーウィンドゥに熱い視線を送っていたのだ。
「母さんの服も?」
「私はいらないわ。茜里と違って大きくなっていないもの」
茜里はくすっと笑った。
「お替り、とってくる」
「ケーキ以外も食べなさいよ」
はーい、と機嫌のいい返事がかえってきた。
大きくなっていないどころか。千怜は自分の薄い胸を眺めてため息をついた。面接に行くまでに体重を増やす必要がある。この一年は体重が減るいっぽうだった。やつれたシングルマザーではカットサロンのオーナーも雇う気にならないだろう。サロンは美と夢を売る場所なのだ。
茜里のことは任せて。
千怜は最後のサンドイッチを手に取った。
茜里の声で千怜は我に返った。
千怜が骨壺を海にあけると、元裕太だった白い骨粉が帯の様に水面に広がっていった。
「さあ、お花を手向けて」
茜里の記憶に残っている父親はベッドに横たわっている姿がほとんどだと思うのだが、小さな胸の中でも嵐は起きているらしい。茜里が握り締めていたせいですっかり萎れてしまった小さな菊の花束が、塊りになったまま海へと沈んでいった。
クルーザーではもう一組の海洋葬が行われていた。こちらは、数えたら総勢十二名もいた。親族とその子供たちという構成メンバーだ。子供たちの中で一番年かさと思われる娘が、
「ばあちゃん、楽しい思い出を沢山ありがとね」
と言ってお骨を海に放った。ばあちゃんの息子と思われる男が大きな花束を力いっぱい海に投げると、色とりどりのバラとカスミソウが青い空に広がって、ベールの様に海面を覆った。
船長の挨拶が終わり、皆が船室に戻った。船室にはビュッフェスタイルの軽食が用意されていて、港に着くまで食事と風景を楽しみながら故人を偲ぶという趣向になっている。速度を落としたクルーズ船の船窓からみなとみらいのビル群が見渡せた。
茜里はトレイにずらりと並べられたケーキと焼き菓子に目を輝かせている。奥にあるフルーツタルトを取りたいようだが手が届かないらしい。どうするのか見ていると、さっきの娘に何か言っている。娘がタルトを取ってやると茜里は礼を述べ、ソフトドリンクのコーナーへと向かった。
千怜がテーブルに戻ると、茜里がトレイにケーキとジュースを載せて危なげない足取りでやってくるのが見えた。
保育園に入った頃は、千怜の姿が見えなくなると大泣きで、お迎えの時間になると飛ぶように迎えに行ったものだった。それがどうだ。今では初対面の娘にもきちんと礼を言い、大きなトレイを一人で運んでいる。
「あら、ジュースと紅茶とケーキまで! 一人で運べたのね」
あたかも今気が付いたように言うと、
「そりゃあ。春から二年だもん。一年生のお世話をしてあげるのよ」
茜里が誇らしげに答えた。
「ねえ、母さん」
茜里がそろり、と言った。
「父さんも見ていてくれる?」
「ええ、もちろん。お空の上から見守っているわ」
千怜がそう言うと、茜里はにこりとしてケーキにかぶりついた。これからは一人で茜里を育てていかなければならない。今頃、裕太だった骨粉は海の生き物の養分となっていることだろう。お空の上。便利な言葉だ。
「茜里は何かいる?」
席を立ちながら問うと、茜里は首を横に振った。
サンドイッチの皿をトレイに取り、サラダバーのトングを手に取ろうとしたら、手と手がぶつかった。
「失礼!」
「レディファーストですから」
と、先ほど花を海に投げ入れた男が千怜を促した。
「すみません、ではお先に」
「今日の葬儀はお二人だけなんですか」
「はい」
「うるさくて申し訳ありませんなあ」
最後に残ったケーキをどちらが取るかで、二人の子供がじゃんけんをしている。元気のいい掛け声がこちらにまで聞こえてくるのだ。
「いいえ、お気になさらずに。仲のいいお子さんたちですね」
子供が総勢五人。賑やかなのが当たり前だ。一番下は幼稚園くらいだろうか。皆、仲が良くてどの子が兄弟姉妹なのか分からないほどだった。一番のチビがケーキを取り落して泣きべそをかき始めると、傍にいた少年がさっとケーキを拾い、チビを慰めている。
千怜がサラダバーから目を上げてほほ笑むと、男はまじまじと千怜の顔を見つめた。
「失礼ですが、ご両親のどちらかが外国の方なのですか」
千怜の暗緑色の瞳と高い鼻梁は、純粋な日本人ではないことを明らかに物語っている。
「はい」
「御両親は今どちらに?」
「両親とも早世していて……」
そういって目を伏せると、男は慌てて謝罪した。
「すみません、立ち入ったことを伺って」
「いえいえ、お気になさらず」
千怜が微笑しながら答えると、男はもう一度すみません、とおじぎをして、そそくさと家族のいるテーブルへ戻っていった。
父親の顔は知らない。多分どこかで生きているのだろうが、出生のあれこれを聞かれるのは面倒だから〝早世した〟と答えることにしている。母親とは長い間連絡を取っていない。たとえ彼女が生きていたとしても、この世にいないのと同じことだった。
茜里にも、祖父母はもう亡くなったと言ってある。いつかは本当のことを話す日が来るのかもしれないが、それはまだまだ先の話だ。子供は太陽が燦々と当たるところで育つべきだ、と思う。母親の生い立ちなど、まだまだ知る必要はない。
「茜里もサンドイッチ食べる?」
テーブルに戻った千怜が声をかけたが、茜里は隣のテーブルに気を取られていて、返事がない。
大所帯の家族は、大人と子供が分かれて座っていた。いつもの取り決めらしくどちらのテーブルも賑やかだ。
千怜は声を張ってもう一度声をかけた。
「帰りに茜里の服、見ていこうか」
「え?」
「ここに来る途中、素敵なお店があったじゃない? 服、見ていかない?」
「いいの?」
子供なりに、今の経済状況が分かっているのだ。
「もちろん。ジーンズもスカートもみんな小さくなっちゃったでしょ」
茜里の顔がぱっと輝いた。茜里はお洒落が大好きで、ここに来る途中もショーウィンドゥに熱い視線を送っていたのだ。
「母さんの服も?」
「私はいらないわ。茜里と違って大きくなっていないもの」
茜里はくすっと笑った。
「お替り、とってくる」
「ケーキ以外も食べなさいよ」
はーい、と機嫌のいい返事がかえってきた。
大きくなっていないどころか。千怜は自分の薄い胸を眺めてため息をついた。面接に行くまでに体重を増やす必要がある。この一年は体重が減るいっぽうだった。やつれたシングルマザーではカットサロンのオーナーも雇う気にならないだろう。サロンは美と夢を売る場所なのだ。
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千怜は最後のサンドイッチを手に取った。
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