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イクメンというのだそうだ。休日だというのに、ご苦労なことだ。浮き輪を肩にかけた父親と娘が手を繋いで歩いている。父親は店の外で立ち止まると、浮き輪の空気を抜きはじめた。島崎が何をしているのかと見ていたら、父親は浮き輪を畳み、そのまま店に入ってきた。
「こんにちは。店長は?」
「しばらく休みを取っています」
島崎が答えた。
「そうですか……。あの、店長の休みっていつまでですか」
「申し訳ありません。私には分かりかねます」
いつ尚子が戻って来るのか。聞きたいのは島崎のほうだった。
男はしばらく逡巡していたが、恐る恐る尋ねた。
「あの、もしかしたら病気ですか」
伝票を書いていた島崎は、掬い上げるような眼差しで男をじっと見つめた。
「ええと、私は坂口さんの以前の職場でお世話になった黒澤と申します。ええと、」
この男は一体何を言いたいのだ。見も知らずの男に尚子のことを話すつもりなどさらさらない。島崎が男を帰らせる口実を考えていると、外で猫と戯れていた娘が泣きながら店に入ってきた。
「猫に引っかかれた」
「馬鹿だなあ、なお子は。野良ネコに手を出しちゃダメだっていつも言ってるだろ」
「今、なおこ、っておっしゃいました?」
「え、あ、はい」
「あの猫はうちの猫です。野良ネコじゃありません」
「あ、ええと、失礼しました」
黒澤はしどろもどろになって謝った。
「お嬢さんの手、消毒したほうがいいですね。こちらにどうぞ」
二階から薬箱を持ってきて、娘の手当てをしてやった。娘は驚いて泣いただけのようだ。引っかかれた傷はみみず腫れになっているが、ごく浅い。
「これでよし。大丈夫かい?」
「うん! ありがとう」
「あのう、」
「はい?」
「失礼ですが、尚子さんとはどういうご関係なんですか」
ご関係、ときたか。住居部分の二階に上がっていくのを見て、黒澤は露骨に驚いた顔をしていた。
島崎が、じろり、と一瞥しても、当の本人は不遜な顔をして返事を待っている。
「尚子さんの友人です」
互いの探り合うような視線が交差した。沈黙に耐えかねて、最初に口を開いたのは黒澤だった。
「もしかしたら、再発したのですか」
黒澤は尚子の病を知っているのだ。
「どういうことですか?」
思わず尖った声になった。
「コットンキャップを被って出社していたので。それで病気のことを知ったんです」
再々発だったのか。島崎は思わず呻いた。前回の入院の時は、しょっちゅう尚子の見舞いに行って差し入れをしたり、ちょっとした外出までしたのに、今回は入院手続きはおろか、見舞いにも来るな、と約束させられたのだ。唯一の連絡手段だったラインも、この数日間既読がつかない。
「結婚する時も、尚子さんにはお世話になりまして」
娘が無事生まれたのは尚子のおかげ、とはさすがに言えない。
「弟が生まれたの。それでね、お食い初めのお茶碗を買いにきたのよ。パパ、私のお茶碗も買っていい?」
「もちろん。好きなのを選んでいいよ。裕太の分もちゃんと選ぶんだぞ」
「うん!」
娘は急に真剣な顔になると、一つ一つの茶碗をじっくりと見てまわっている。
「お嬢さんのお名前、」
「ええ。なお子です。さすがに、字は変えましたけれど」
そういって、黒澤はニヤリ、とした。いちいち、癪にさわる男だ。
茶碗を選んでいたなお子が声をあげた。
「パパ、これにする!」
なお子が選んだ茶碗は、曜変天目茶碗だった。
島崎は息がつまりそうになった。まさか……。そんなはずはない。島崎は泡沫のように沸き上がった想像をあわてて打ち消した。
「お星さまみたい。きれいねぇ」
なお子はうっとりとして茶碗を見つめている。
店の固定電話が鳴った。
万が一の時は、島崎さんにも連絡がいくようにしておきましたから。
尚子の声が耳朶に甦ってくる。
「電話、取らなくていいんですか」
いつまでも鳴り続ける呼び出し音に、黒澤が呆れたように言った。島崎はぎゅっと目をつぶると、恐る恐る受話器を取った。
「島崎さん、ただいま! 外を見て!」
尚子の声がいきなり飛び込んできた。外に目をやると、両手にトレッキングポール握った尚子が立っている。
「尚子さん!」
島崎が店の外へ駆け出していった。
島崎は、よく帰って来た、と絞り出すような声で言うと、尚子を抱きしめた。
ああ、そうか。そうだったのか。彰は放り出されたままの受話器をオフにしてレジに置くと、ゆっくりと店の外に出た。
「やあ、白王女、久しぶり。今回は随分へばってるじゃないか」
「黒王子もいたの! あらまあ、りっぱなコブツキになっちゃって」
尚子は小さく笑うと、ゆっくりとしゃがんで、もう一人のなお子に挨拶をした。
「こんにちは。初めまして!」
「こんにちは。足、大丈夫?」
「ええ、大丈夫よ。ありがとう」
尚子は慎重にトレッキングポールを地面に立てると、そろそろと立ち上がった。
「本当に大丈夫なのか」
「今回はキツイ薬を使ったから、ちょっとね。リハビリすれば大丈夫。すぐに走れるようになるわ」
「歩けばいいだろ。いきなり走るなよ」
「いいえ、走ります」
「相変わらずだなぁ」
尚子は知らん顔をして、島崎のほうに向き直った。
「連絡しようとしたら、充電器が壊れていたの。今日が退院だから、そのまま帰ってきちゃいました。島崎さん、留守を守ってくれてありがとう!」
携帯は駅の充電器で無事に復活した。目を潤ませたままの島崎がようやく頷いた。
「茶碗、包んでくれよ」
「あ、これって」
「私が選んだの。綺麗なお茶碗ね!」
「私もこのお茶碗、大好きなの。お星さまみたいで綺麗でしょう」
「うん! 私もそう思ったの。外のメダカが泳いでる、大きな鉢みたいなのなに? すてきね」
「睡蓮鉢っていうのよ」
大きな睡蓮鉢は水生植物を浮かべて、ちょっとしたビオトープになっている。ウォーターパゴパやガガブタの花が咲きはじめ、睡蓮鉢は紫と白の小さな花でいっぱいになっていた。
「パパ、今度のお誕生日はあれにする!」
「また、ここに来ないとじゃないか……」
「ね、いいでしょ?」
「またのご来店をお待ちしています。睡蓮鉢の作り方、教えてあげるわね」
なお子が目を輝かせた。彰は勘弁してくれ、とでも言わんばかりに天を仰いだ。
なお子がバイバイ、と手をふった。尚子も手を振り返した。
仲良く手を繋いだ親子の背中が夕陽に染まっていた。
「あらためてまして、ただいま、です」
クロ親子と寅吉まで! 出迎えてくれた。お帰り! とか大声をださないのがやっぱり猫だ。一匹ずつ、しっぽをたてて、さらっと足元を通りすぎていく。
「ちょっと痩せました?」
言いながら、尚子は可笑しくなった。自分も人のことを言えない姿なのだ。
「尚子さんの顔をみたら、急にお腹がすいてきたよ」
「私もお腹ペコペコです」
物を食べたい、と思うのは本当に久しぶりだった。再びここに還ってきたのだ、と思わずにはいられない。
「黒澤さんのこと、もっとよく知りたいな」
「う、そうですか?」
島崎がニヤリ、とした。ああ、この顔に弱いのだ。
「そろそろ出かけようか。歩けるかい?」
島崎が手を差しだしたので、
「これがあるから大丈夫」
ピッケルを掲げて見せると、島崎がため息をついた。
「しんどい時はすぐ教えてよ」
「はい」
いつの間にか季節が巡り、池の蓮が芽吹きはじめている。柔らかな春風が頬を撫でた。
傍らを島崎が歩いている。もう少し。もう少し、こうやって歩いていきたい。
了
「こんにちは。店長は?」
「しばらく休みを取っています」
島崎が答えた。
「そうですか……。あの、店長の休みっていつまでですか」
「申し訳ありません。私には分かりかねます」
いつ尚子が戻って来るのか。聞きたいのは島崎のほうだった。
男はしばらく逡巡していたが、恐る恐る尋ねた。
「あの、もしかしたら病気ですか」
伝票を書いていた島崎は、掬い上げるような眼差しで男をじっと見つめた。
「ええと、私は坂口さんの以前の職場でお世話になった黒澤と申します。ええと、」
この男は一体何を言いたいのだ。見も知らずの男に尚子のことを話すつもりなどさらさらない。島崎が男を帰らせる口実を考えていると、外で猫と戯れていた娘が泣きながら店に入ってきた。
「猫に引っかかれた」
「馬鹿だなあ、なお子は。野良ネコに手を出しちゃダメだっていつも言ってるだろ」
「今、なおこ、っておっしゃいました?」
「え、あ、はい」
「あの猫はうちの猫です。野良ネコじゃありません」
「あ、ええと、失礼しました」
黒澤はしどろもどろになって謝った。
「お嬢さんの手、消毒したほうがいいですね。こちらにどうぞ」
二階から薬箱を持ってきて、娘の手当てをしてやった。娘は驚いて泣いただけのようだ。引っかかれた傷はみみず腫れになっているが、ごく浅い。
「これでよし。大丈夫かい?」
「うん! ありがとう」
「あのう、」
「はい?」
「失礼ですが、尚子さんとはどういうご関係なんですか」
ご関係、ときたか。住居部分の二階に上がっていくのを見て、黒澤は露骨に驚いた顔をしていた。
島崎が、じろり、と一瞥しても、当の本人は不遜な顔をして返事を待っている。
「尚子さんの友人です」
互いの探り合うような視線が交差した。沈黙に耐えかねて、最初に口を開いたのは黒澤だった。
「もしかしたら、再発したのですか」
黒澤は尚子の病を知っているのだ。
「どういうことですか?」
思わず尖った声になった。
「コットンキャップを被って出社していたので。それで病気のことを知ったんです」
再々発だったのか。島崎は思わず呻いた。前回の入院の時は、しょっちゅう尚子の見舞いに行って差し入れをしたり、ちょっとした外出までしたのに、今回は入院手続きはおろか、見舞いにも来るな、と約束させられたのだ。唯一の連絡手段だったラインも、この数日間既読がつかない。
「結婚する時も、尚子さんにはお世話になりまして」
娘が無事生まれたのは尚子のおかげ、とはさすがに言えない。
「弟が生まれたの。それでね、お食い初めのお茶碗を買いにきたのよ。パパ、私のお茶碗も買っていい?」
「もちろん。好きなのを選んでいいよ。裕太の分もちゃんと選ぶんだぞ」
「うん!」
娘は急に真剣な顔になると、一つ一つの茶碗をじっくりと見てまわっている。
「お嬢さんのお名前、」
「ええ。なお子です。さすがに、字は変えましたけれど」
そういって、黒澤はニヤリ、とした。いちいち、癪にさわる男だ。
茶碗を選んでいたなお子が声をあげた。
「パパ、これにする!」
なお子が選んだ茶碗は、曜変天目茶碗だった。
島崎は息がつまりそうになった。まさか……。そんなはずはない。島崎は泡沫のように沸き上がった想像をあわてて打ち消した。
「お星さまみたい。きれいねぇ」
なお子はうっとりとして茶碗を見つめている。
店の固定電話が鳴った。
万が一の時は、島崎さんにも連絡がいくようにしておきましたから。
尚子の声が耳朶に甦ってくる。
「電話、取らなくていいんですか」
いつまでも鳴り続ける呼び出し音に、黒澤が呆れたように言った。島崎はぎゅっと目をつぶると、恐る恐る受話器を取った。
「島崎さん、ただいま! 外を見て!」
尚子の声がいきなり飛び込んできた。外に目をやると、両手にトレッキングポール握った尚子が立っている。
「尚子さん!」
島崎が店の外へ駆け出していった。
島崎は、よく帰って来た、と絞り出すような声で言うと、尚子を抱きしめた。
ああ、そうか。そうだったのか。彰は放り出されたままの受話器をオフにしてレジに置くと、ゆっくりと店の外に出た。
「やあ、白王女、久しぶり。今回は随分へばってるじゃないか」
「黒王子もいたの! あらまあ、りっぱなコブツキになっちゃって」
尚子は小さく笑うと、ゆっくりとしゃがんで、もう一人のなお子に挨拶をした。
「こんにちは。初めまして!」
「こんにちは。足、大丈夫?」
「ええ、大丈夫よ。ありがとう」
尚子は慎重にトレッキングポールを地面に立てると、そろそろと立ち上がった。
「本当に大丈夫なのか」
「今回はキツイ薬を使ったから、ちょっとね。リハビリすれば大丈夫。すぐに走れるようになるわ」
「歩けばいいだろ。いきなり走るなよ」
「いいえ、走ります」
「相変わらずだなぁ」
尚子は知らん顔をして、島崎のほうに向き直った。
「連絡しようとしたら、充電器が壊れていたの。今日が退院だから、そのまま帰ってきちゃいました。島崎さん、留守を守ってくれてありがとう!」
携帯は駅の充電器で無事に復活した。目を潤ませたままの島崎がようやく頷いた。
「茶碗、包んでくれよ」
「あ、これって」
「私が選んだの。綺麗なお茶碗ね!」
「私もこのお茶碗、大好きなの。お星さまみたいで綺麗でしょう」
「うん! 私もそう思ったの。外のメダカが泳いでる、大きな鉢みたいなのなに? すてきね」
「睡蓮鉢っていうのよ」
大きな睡蓮鉢は水生植物を浮かべて、ちょっとしたビオトープになっている。ウォーターパゴパやガガブタの花が咲きはじめ、睡蓮鉢は紫と白の小さな花でいっぱいになっていた。
「パパ、今度のお誕生日はあれにする!」
「また、ここに来ないとじゃないか……」
「ね、いいでしょ?」
「またのご来店をお待ちしています。睡蓮鉢の作り方、教えてあげるわね」
なお子が目を輝かせた。彰は勘弁してくれ、とでも言わんばかりに天を仰いだ。
なお子がバイバイ、と手をふった。尚子も手を振り返した。
仲良く手を繋いだ親子の背中が夕陽に染まっていた。
「あらためてまして、ただいま、です」
クロ親子と寅吉まで! 出迎えてくれた。お帰り! とか大声をださないのがやっぱり猫だ。一匹ずつ、しっぽをたてて、さらっと足元を通りすぎていく。
「ちょっと痩せました?」
言いながら、尚子は可笑しくなった。自分も人のことを言えない姿なのだ。
「尚子さんの顔をみたら、急にお腹がすいてきたよ」
「私もお腹ペコペコです」
物を食べたい、と思うのは本当に久しぶりだった。再びここに還ってきたのだ、と思わずにはいられない。
「黒澤さんのこと、もっとよく知りたいな」
「う、そうですか?」
島崎がニヤリ、とした。ああ、この顔に弱いのだ。
「そろそろ出かけようか。歩けるかい?」
島崎が手を差しだしたので、
「これがあるから大丈夫」
ピッケルを掲げて見せると、島崎がため息をついた。
「しんどい時はすぐ教えてよ」
「はい」
いつの間にか季節が巡り、池の蓮が芽吹きはじめている。柔らかな春風が頬を撫でた。
傍らを島崎が歩いている。もう少し。もう少し、こうやって歩いていきたい。
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