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今日は第三水曜日。カルテナンバー14、村田京也の来る日だ。年齢は三十代前半くらいだろうか。道を歩けば男も女も振り返るような風貌の持ち主で、多分ブランドものなのだろう、頭からつま先まで隙のない格好をしている。愛犬のボルゾイ、ドリーシュも、飼い主とよく似たすらりとした美しい犬だ。
京也は、毎月決まった曜日の決まった時間に悠希にグルーミングを依頼する。悠希が担当するのはドリーシュのグルーミングだけで、医療行為は行ったことが無い。医療関係は最先端の機器を完備した近代的なペットクリニックの世話になるのだろう。癪ではあるが、定期的に診療所に来る患者は貴重なのだ。
「よくいらっしゃいました」
慣れない愛想笑いをうかべて、診察室に京也を迎え入れる。
「よろしくお願いします」
「では、お預かりします」
いつもは京也が指示すると、ひらりと診療台の上に飛び乗るのだが、今日のドリーシュは違った。京也はドリーシュの大きな身体を抱き上げると、そっと診察台に乗せた。
触診をした悠希は、ひどく違和感を感じた。美しい被毛に覆われているが、触れると筋肉が落ちているのが分かる。背骨や肋骨がごつごつと手にあたった。
「ドリーシュ、少し痩せました?」
飼い主の手前そう言ったが、少しどころではない。たったのひと月でこんなに体重が落ちるのは重篤な状態だ。
「癌が再発したんです。抗がん剤の治療を受けているんですが……」
そういうと京也は黙り込んでしまった。
担当医でもないのに所見を述べるのは憚られる。悠希のためらいをすぐに見抜いたのだろう。
「先生のご意見を伺いたいんです。診てもらえますか」
「ええ、もちろん」
「脳腫瘍なんです」
脳腫瘍、転移。二つのキーワードだけで相当に厳しい状況だと分かる。
CTの映像は、腫瘍が前頭葉の左側に大きな影を落している様が映し出されていた。他の臓器にも薄っすらとした影が映し出されている。
「今の治療方針でいいと思います。この状態では手術が難しいので」
そもそも犬に抗がん剤を使用するようなクリニックだ。先端の治療を行っているにちがいない。
「僕がお訊きしたいのはそういうことではないんです」
「とおっしゃいますと?」
「このまま治療を続けた方がいいのかどうか、ということなんです」
悠希は言葉に詰まった。このひと月でドリーシュはひどく痩せた。ドリーシュはもちろん、飼い主の京也も相当苦しんだにちがいない。京也の目の下には隈ができ、頬がこけて凄惨な顔になっている。
「抗がん剤の効果はでていますか」
京也は黙って首をふった。
「先月から放射線療法も併用しているのですが……。上手くいっていません」
「僕だったら……。この段階のドリーシュに負荷のかかる治療はしません。このままだと薬で弱ってしまうから。強い薬を使わない緩和ケアをお勧めします。美味しいものを食べさせて。一緒に過ごしてやってください」
獣医としてではなく、一飼い主としての気持ちだ。ここまで病状が進むと、その方が延命効果がある場合も少なくないのだ。悠希がそう説明すると、
「そうですよね。そういう選択肢もあるんですよね」
自分に言い聞かせるようだった。京也は丁寧に頭を下げると診察室を出て行った。
優里と杏が一緒に中目黒公園を歩いていると、前方からドリーシュが歩いて来た。
「お久しぶりです」
朝の散歩でよく一緒になる犬仲間の一人だったのだが、ここしばらくは顔を合わせることもなく、どうしたものかと思っていたのである。ドリーシュはひどく痩せて、京也も疲れ切っているようだった。
「やあ、おはようございます。お久しぶりです」
京也はしゃがみ込んで、杏と挨拶をした。杏は嬉しそうに京也と挨拶をして、ドリーシュにも挨拶をした。杏は人には愛想がいいのだが、犬に関しては好き嫌いがはっきりして、相手が気の強い犬だと、小競り合いになることも珍しくない。穏やかなドリーシュは杏の数少ない犬友達の一匹なのだ。
「杏ちゃんは阿賀先生にかかってるの?」
「ええ。功利主義じゃないところがいいかなって。それにね、阿賀先生、手先がすごく器用なんです。猫の避妊手術をしてもらったんですが、傷跡なんて、前の獣医さんの三分の一くらいしかないんですよ」
ここぞとばかり、優里は阿賀動物病院の宣伝をした。ゆっくりと歩くドリーシュに合わせて歩調を緩めると、杏も仲間のただならない様子が分かったようだ。いつもと違って大人しくついてくる。
「ドリーシュもね、阿賀先生に診てもらうことにしたんだよ」
「具合悪いんですか?」
「うん。癌なんだ。今日は調子がいいみたい。外を散歩するのなんて、久しぶりだよ」
京也は寂しそうに微笑んだ。阿賀のいう治療方針に変えてから、ドリーシュはようやく食事がとれるようになった。今朝は久しぶりに散歩に行きたい、と京也にせがんだのだ。
「つらいですね」
京也が顔を上げた。
「私の母もそうだったから」
ようやく歩いていたドリーシュが、道の真ん中で立ち止まってしまった。帰るかい、と京也が声をかけても動こうとしないで、心地よさそうに風の匂いを嗅いでいる。
「やっぱりお外がいいんですね。ちょっとそこで休憩しましょうか」
優里は遊歩道の傍らにあるベンチを指さした。敷地の奥には〝花と緑の学習館〟と書かれたプレートがかけられた作業小屋のような小さな建物が建っている。遊歩道の周りには果樹や農作物が点在して植えられていて、悠里たちが座ったのはぶどう棚のそばだ。学習の成果か、果汁をたっぷりと含んだ大きなマスカットがたわわに実っていた。
「付き合わせてしまって、すみません」
「お気になさらないで」
早朝だから、歩いている人もまばらだ。ドリーシュは足元に伏せると、京也の顔を見上げた。
「家族はこいつだけだけだから」
そういうと京也は黙り込んでしまった。
「看病する側もきついですよね。長丁場だし、出口が見えないし」
慰めの言葉は役に立たないことを優里は知っている。他人は当事者の気持ちに寄り添うことしか出来ないのだ。もしかしたら、それさえもできないのかもしれない。
「お母様も?」
「ええ。ドリーシュと同じ、癌でした。亡くなって三年たちます」
三年前というと、京也がここに越してきて間もない頃だ。ドリーシュの散歩中に優里と知り合って、ショコラやクリーム、ナナと、犬仲間ができたのだ。
「ちっとも知らなかった。優里さん、しっかりしてたから」
「母が亡くなったあと、父がぐちゃぐちゃになっちゃって。悲しむ暇がなかったんです」
優里が頭を撫でると、ドリーシュは嬉しそうに尻尾を振った。
「あの……。一人で抱え込んじゃダメですよ。私なんて莉莎子の前で何度も泣いたんです」
京也には一緒になって泣いてくれる女性、ひょっとしたら男性もいるに違いない。二十歳そこらの小娘がそんなことをいうのもおこがましいと思ったのだが、京也の姿はあまりにも痛々しかった。
「そうなんだ。なるほど、泣くのもありなんですね。その時は優里ちゃん、よろしくね」
冗談とも本気ともつかない口調でそう言うと、京也は微笑んだ。削げた頬にドキリとするような色気があって、さすがの優里も心拍数が上がった。
「はい! 京也さんならいつだって大歓迎ですよ」
半分以上は本気でそう答えた。
ドリーシュがようやく立ち上がった。寒いのか肉の落ちた身体が微かに震えている。
「帰るのかい?」
ドリーシュがうん、というように京也の手をなめた。
「じゃあ、僕はこれで」
ドリーシュと並んで歩く京也の後姿がゆっくりと遠ざかっていった。
秋も深まって、目黒川の川面を吹き抜ける風が急に肌寒く感じられるようになった。川沿いの桜も葉が散り始め、診療所の庭に落ち葉が積もっている。
マミムはすっかり大きくなり、三匹で戯れている。落ち葉がガサガサというのが面白いらしい。三匹が疾風のように足元を駆け抜けて、悠希は転びそうになった。落ち葉を集めていた悠希は腰を伸ばすと、ぐいと伸びをした。
さっきは散歩中の若いカップルがマミムと遊んでいた。家の前の小路はジョギングや、犬の散歩コースになっているらしく、早朝は日中よりも人通りが多いくらいだ。今しがた誠治と英恵が仲睦まじく兄妹犬を連れて通り過ぎて行ったし、杏とも挨拶をした。
敷地が狭くて駐車場設置が出来ないのがネックだが、人の往来は少なくはない。ペット連れの人の流れをこちらに向けるには、トリミングもやっていることをもっと大々的に宣伝したほうがいいかもしれない。そんなこと思いながら悠希は家の中へ入った。外の掃除が終わったら、今度は診療室と待合室の掃除だ。
商売繁盛の秘訣を莉莎子と英恵に聞いたところ、先ずは掃除をしっかりしろといわれ、悠希はそのアドバイスを忠実に守っている。先生は弁が立つ方じゃないから、誠実さを売りに地道にやりなさいと、口調は違うが二十歳の娘と人生の大先輩に言われたのだ。そういう訳で、生まれて初めてというくらい毎日掃除に励んでいる。
そうした気持ちの張りは他人にも伝わるようで、顧客の数もじわじわと増えて来た。面白いものだ、と悠希は思う。ここに引っ越してきた当初はどうなることかと思ったが、先月は初めての貯金も出来たのだ。
今日も予約は入っていないが、トリミングついでにふらりと立ち寄る患者も多い。医療行為は相変わらずほとんどないが、今月も何とかしのげそうだ。ペットが健康なのはいいことだ、とのんびりとしていると、京也が蒼白な顔をして診察室に入って来た。
ドリーシュは口輪をはめ、京也は手に真っ白な包帯を巻いている。いよいよきたか……。悠希は気持ちを引き締めた。
「どうぞこちらへ」
「先週からドリーシュの様子がおかしくて。夜中じゅう鳴いて徘徊したり、粗相もするようになって……」
「その手も?」
「ええ。いきなり噛まれました」
診察台のドリーシュは目を吊り上がらせて、今も低く唸っている。栗色の瞳は凶暴な光を宿していて、かつての聡明な面影はもうなかった。
「病状が進むと、攻撃的になる犬も多いんです」
京也が初めて診察に訪れてから三か月たっている。よくもったほうだろう。最初にここを訪れた時よりドリーシュは一回り小さくなっている。それでも京也が手入れを欠かさないのだろう。艶がなくなったとはいえ、被毛は一点の汚れもない。
「鎮静剤を処方しましょう。あとは輸液をします」
「それで、ドリーシュは元に戻るんですか」
聡明なドリーシュに、と問いかける京也を真っ直ぐに見ることが出来なかった。
「それは、もう……。眠らせて輸液をしてやるしかありません」
「鎮静剤が切れたらどうなるんですか」
「今の状態に戻ります」
京也は唇を噛みしめている。獣医にのみ許された最後の方法があるが、それをこちらから提案するのはためらいがあった。
「ドリーシュは目覚めると辛いんですか」
「そうですね。痛みも強いでしょうし、京也さんのことも分からなくなっているから。混乱していると思います」
「眠らせて、死ぬのを待つんですか……。下の世話は?」
「ペット用のオムツがあります」
「そんな」
美しいドリーシュがオムツをつけた姿が脳裏をよぎったのだろう。京也はそれ以上言葉を継ぐことができなかった。生かしておく場合の説明はすべてした。悠希は深呼吸をすると、最後の提案をした。
「安楽死という方法もあります」
話している間もドリーシュは相変わらず唸り声をあげていて、隙あらば悠希の手を噛もうとしている。口輪の下で歯噛みをして、そのたびに牙がカチカチと音を立てた。
京也はしばらく俯いていたが、やがて決心したように顔をあげた。
「そうしてやってください。お願いします」
「今すぐ判断をしなくてもいいんですよ」
「いえ。もう決めましたから」
京也はドリーシュのほうに向きなおると、頭を優しく撫でた。
「短い間だったけど、ありがとな。ゆっくりお休み」
真っすぐ悠希を見つめる眼に涙が浮かんでいる。
「先生、お願いします」
「外でお待ちになりますか」
「いいえ、最期まで一緒にいます」
「分かりました」
これは慈悲だと、自分に言い聞かせてドリーシュに薬剤を注射する。胃の腑から塊がせり上がってきて吐きそうになった。何度やっても、安楽死の処置に慣れることはできない。どんな言い訳をしようが、延命措置も安楽死も人間のエゴにすぎないのだ。生あるものの命の期限を決めるのは人間ではない。
小さく痙攣をすると、ドリーシュの呼吸はすぐに止まった。
「先生、ありがとうございました。これでやっと口輪を外してやれる」
削げた頬を涙がこぼれ落ちたが、京也は勇敢にも笑みを浮かべている。
「お帰りはどうなさいますか」
「あ、そうですね。こんなことになるなんて考えていなかったから」
悠希はドリーシュを白いシーツで包んでやり、抱えやすいようにした。
「タクシー、呼びましょうか」
「はい、お願いします」
無線タクシーを呼ぶと、ほんの数分でタクシーがやってきた。京也と二人で表に出る。シーツにくるまれた大きな包みを抱えている京也を見ると、タクシーの運転手はぎょっとした顔をした。
「近くですので。よろしくお願いします」
白衣を着た悠希が有無をいわせぬよう毅然とした態度でそういうと、運転手は不承不承、乗車を認めた。
「どちらまで」
京也がこの辺りでは有名な高級タワーマンションの名を挙げると、運転手はようやく表情を緩め、車の外に出てきた。現金なものだ。不快感が募ったが、乗車拒否をされなかっただけでもよしとすべきだろう。
「手伝いましょう」
そう言うと、運転手はいそいそと京也の手助けをした。
「ありがとうございます」
京也とドリーシュが無事タクシーに乗り込んだ。悠希は遠ざかっていくタクシーを見送った。
きっと大丈夫だろう。ドリーシュを抱え、しっかりとした足取りで歩いていた京也の姿が目に浮かんだ。ドリーシュのいない喪失感は、時間と京也の若さが癒してくれるに違いない。
半年も一つ所で獣医をしていると、いつの間にか見送るペットもかなりの数になった。京也のように、最期の治療は家庭的な病院で、と考える飼い主も多いのだ。自慢の外科テクニックを披露する機会がなかなかないのは残念だが、それも獣医の在り方なのだろう。飼い主はペットを失う悲しみに寄り添ってほしいのだ。ペットの治療をするだけが獣医の仕事ではない。
悠希は雲一つない紺碧の空に目をやった。よしっ、と自分に声をかけ、京也に送る花束を買いに馴染みの花屋へ向かった。
冷蔵庫を見ると牛乳が無くなっている。大学を出るときまでは牛乳を買うことを覚えていたのだが、明日のテストのことを考えているうちに、忘れてしまったのだ。ブラックコーヒーは苦手だから、近所のコンビニまで出かけることにした。杏を呼ぶと、大喜びで自分でリードを咥えて走って来た。
「こういう時だけはいい子なのね」
優里は笑いながら杏にリードをつけ外に出た。すっかり日が短くなり、五時を過ぎると外は真っ暗だ。冷たい風に思わず首をすくめた。
坂を下ってビルの隙間の人一人がやっと通れるような路地を抜けるといきなり山手通りに出る。目の前の信号を渡ってすぐの所に大きなコンビニがあって、その隣が目黒警察署だ。いつもは静かな警察署にスポットライトが当たり、アンテナをつけたTV取材の車が数台止まっている。中継中なのだろう。マイクを持った各テレビ局のアナウンサーがそれぞれ勝手な方向を向いて喋っている。早くも野次馬が建物の周りをぐるりと囲んでいた。
芸能人が何かしたのだろうか。数年前、某歌舞伎役者が暴力沙汰を起こした時も、丁度こんな感じだったのだ。あの時は、聞き耳頭巾の莉莎子が、何が起きたのかをいち早く報告してくれた。
まさか今日は莉莎子いないわよね? と人ごみに目をやると、ショコラとクリームの姿が目に入った。優里は思わず笑ってしまった。体高のあるスタンダートプードルは人ごみの中でも目立つのだ。杏がショコラとクリームを目ざとく見つけてリードを引っ張った。
「あ、優里、ここここ!」
莉莎子が大きく手を振った。
「優里も取材、見に来たの?」
「まさか。牛乳を買いに来たのよ」
「俳優の伊集院黎が自殺したんだって」
「ふうん」
テレビドラマはほとんど見ないから、芸能人には疎いのだ。
「ふうん、って呑気ね。伊集院黎って京也さんのことよ」
「えっ」
「毎朝一緒に散歩していて、知らなかったわけ?」
「うん。知らなかった……」
連絡が取れなくなって、心配をしたマネージャーが京也を発見したのだ、と莉莎子は説明した。死因は睡眠薬の過剰摂取だった。京也はドリーシュの骨壺を胸に抱いたまま、事切れていたのだという。
「遺書にはね、ドリーシュも一緒のお墓に入れて下さいって、それだけ書いてあったんだって」
京也には心を許す相手がドリーシュしかいなかったのだろうか。あの時、もっと踏み込んだ助言をするべきだったのかもしれない。それにしても。莉莎子の口は良く動く。
「警察が調査中だから、詳しいことはまだ分からないらしいけど」
母親が亡くなった時も同じだった。いままで共に過ごしていたはずなのに。死者は突然に違う時を刻み始めるのだ。もうあの一人と一匹に会うことは叶わない。
死者は心の中に生きていると人は言うが、彼岸と此岸は果てしなく遠いように思われて、悠里はその断絶を覗くと身がすくむのだった。悲しみだけでない冷やりとしたものが、するりと胸の裡に入り込んでくる。
今まで得た情報を披露して莉莎子は一息ついた。沈黙に違和感を覚えてふと目をあげると、優里がぼんやりと宙を見つめている。双眸が暗い虚のようだった。
「こら、優里!」
ふざけたふりをして、冷たくなった両手をとってぶんぶんと振り回す。
「どうしたのよ? イケメンでも歩いてた?」
「今日はもう帰るね。また連絡する」
上の空で返事をすると、今来た道をそのまま帰ろうとしている。
「牛乳はどうしたのよ?」
「あ、忘れてた」
「もう。しっかりしてよ。杏と待ってるから。さっさと牛乳買ってきなさい」
てきぱきと莉莎子が言った。
「うん。ありがとう」
コンビニエンスストアに走っていく優里の後姿を見送りながら、莉莎子はため息をついた。日頃はなんでもない顔をしているが、ふとしたはずみでまだあんな顔をするのだ。
全く。世話がかかるんだから。軽いノリでそう声に出し、莉莎子は自分の気持ちを立て直した。
互いに黙ったまま、鍋ころ坂をのぼっていく。鍋が転がるほど急だから、そういう名が付いたそうだ。いつの間にか風が止み、冴えた空に星が瞬いていた。京也とドリーシュはもう星になったのだろうか。
「きっと天国にいったわよね」
思わず言葉がこぼれたようだった。
「そりゃあそうよ。あれだけ綺麗な二人だもの。神様だってお傍に置きたいって思うんじゃないの?」
「そうよね」
神様が面食いとは思えないが、冗談めかして元気づけようとしてくれる親友の優しさが心に沁みた。
「一人で大丈夫?」
「うん。そろそろお父さんも帰ってくるし。ありがとね。牛乳買い忘れないですんだわ」
「どういたしまして! じゃあねまた明日!」
「また明日!」
自分には幼馴染の莉莎子がいる。家に帰れば、四匹の猫が待っている。父はもうじき帰って来るだろう。
誰もいないタワーマンションの一室で、京也は何を思ったのだろう。暗闇の中で一人、座っている京也の姿が目に浮かんだ。
ぎゅっと目をつぶって京也の姿を心の底に押し込めると、優里は夕飯を作り始めた。こちら側の者は、こちら側の仕事をしなければならないのだ。
炊飯器から新米のふっくらとした香りが漂ってきた。里芋の煮転がしは、我ながら上手く出来た。あとはカマスの干物を焼けば夕飯は完成だ。
犬猫組は夕飯を食べ終わって、団子になって寛いでいる。父が帰ってきたようだ。婆さん猫のサチ以外の四匹がバタバタと父を迎えに玄関へと走っていった。
猫足というけれど、けっこう足音がするのよね。優里は肩をすくめるとカマスの干物を焼き始めた。いつもは少々面倒くさいと思う夕飯作りが、その夜は少しも苦ではなかった。
川面に浮いた落ち葉が晩秋の冷たい風に煽られてくっついたり離れたりしている。
積もった落ち葉に煙草の吸い殻でも捨てられたら大ごとだ。悠希は朝から庭の掃除に余念がない。落ち葉炊きをしたいところだが、ここは住宅密集地域だ。味気ないと思いつつ大きなごみ袋にぎゅうぎゅう落ち葉を詰めていく。
悠里と莉莎子が手を振りながら近づいてきた。杏、ショコラ、クリームの三匹ももちろん一緒だ。少し前までは京也も一緒に歩いていたのだ。じゃれ合いながら歩いている三匹を見ていると、ドリーシュがそこにいないのがひどく不自然だった。
「先生、おはようございます」
横にいた悠里はニコリと会釈した。
「やあ、おはよう。今朝は寒いね。京也さんに最近会ったかい? ここしばらく見かけないから。ファンのご婦人方が寂しがってるって伝えておいてよ」
仕事に出かけるときは、たとえ遠回りになっても、動物病院の前を通ってちょっと挨拶する。待合室の窓からは通りがよく見えるから、悠希も挨拶を返すのが習慣となっていた。愛犬のシャンプーを頼んでいる常連のご婦人方が、京也の姿を見るたびに黄色い歓声をあげ、一斉に手を振るのもご愛敬だ。京也も心得たもので、輝くような笑顔でご婦人がたに応えるのである。
「先生、ご存知ないんですか」
「何のことだい?」
「京也さん、亡くなったんです」
「事故?」
「自殺です」
手にしていた庭帚がぽろりと地面に転がった。
「教えてくれてありがとう」
かすれた声でそういうと、うわの空で再び落ち葉を集め始めた。箒が地面に転がったままだ。
「先生、大丈夫?」
悠里が顔をのぞき込んだ。
「ドリーシュの最期を一緒に看取って、それで……」
悠希は歯をくいしばっている。一緒に看取った。悠希が何をしたのか、二人にはすぐ分かった。
「先生は悪くないです」
悠里がそれ以上言葉を継がせなかった。
「ありがとう、佐伯さん」
「夕方、サチの輸液を取りに行きますね!」
輸液はまだ十分にあるはずだが……。悠里が気遣わし気にこちらを見ているのが分かった。悠希は辛うじて笑みをうかべた。
「はい、お待ちしてます。サチによろしく!」
悠里と莉莎子はバイバイと手を振ると、公園の方に歩いて行った。
役者だけでやっと食べて行かれるようになりました、と笑顔で話していたのはつい最近のことだったのだ。他にやり方があったのではないか。もっと京也と話をするべきだったのではないか。後悔がひたひたと押し寄せて来る。
何年この仕事をしていても安楽死の処置に慣れることはないだろう。だが。命を奪うことに慣れてしまったら、その時は獣医を辞めるべきなのだ。
しばらくは何を食べても美味くないだろうが、それでいいのだと思う。悠希は大きく深呼吸をしてフワフワとした頼りない胃袋に活をいれると、庭の落ち葉を再び集めはじめた。
京也は、毎月決まった曜日の決まった時間に悠希にグルーミングを依頼する。悠希が担当するのはドリーシュのグルーミングだけで、医療行為は行ったことが無い。医療関係は最先端の機器を完備した近代的なペットクリニックの世話になるのだろう。癪ではあるが、定期的に診療所に来る患者は貴重なのだ。
「よくいらっしゃいました」
慣れない愛想笑いをうかべて、診察室に京也を迎え入れる。
「よろしくお願いします」
「では、お預かりします」
いつもは京也が指示すると、ひらりと診療台の上に飛び乗るのだが、今日のドリーシュは違った。京也はドリーシュの大きな身体を抱き上げると、そっと診察台に乗せた。
触診をした悠希は、ひどく違和感を感じた。美しい被毛に覆われているが、触れると筋肉が落ちているのが分かる。背骨や肋骨がごつごつと手にあたった。
「ドリーシュ、少し痩せました?」
飼い主の手前そう言ったが、少しどころではない。たったのひと月でこんなに体重が落ちるのは重篤な状態だ。
「癌が再発したんです。抗がん剤の治療を受けているんですが……」
そういうと京也は黙り込んでしまった。
担当医でもないのに所見を述べるのは憚られる。悠希のためらいをすぐに見抜いたのだろう。
「先生のご意見を伺いたいんです。診てもらえますか」
「ええ、もちろん」
「脳腫瘍なんです」
脳腫瘍、転移。二つのキーワードだけで相当に厳しい状況だと分かる。
CTの映像は、腫瘍が前頭葉の左側に大きな影を落している様が映し出されていた。他の臓器にも薄っすらとした影が映し出されている。
「今の治療方針でいいと思います。この状態では手術が難しいので」
そもそも犬に抗がん剤を使用するようなクリニックだ。先端の治療を行っているにちがいない。
「僕がお訊きしたいのはそういうことではないんです」
「とおっしゃいますと?」
「このまま治療を続けた方がいいのかどうか、ということなんです」
悠希は言葉に詰まった。このひと月でドリーシュはひどく痩せた。ドリーシュはもちろん、飼い主の京也も相当苦しんだにちがいない。京也の目の下には隈ができ、頬がこけて凄惨な顔になっている。
「抗がん剤の効果はでていますか」
京也は黙って首をふった。
「先月から放射線療法も併用しているのですが……。上手くいっていません」
「僕だったら……。この段階のドリーシュに負荷のかかる治療はしません。このままだと薬で弱ってしまうから。強い薬を使わない緩和ケアをお勧めします。美味しいものを食べさせて。一緒に過ごしてやってください」
獣医としてではなく、一飼い主としての気持ちだ。ここまで病状が進むと、その方が延命効果がある場合も少なくないのだ。悠希がそう説明すると、
「そうですよね。そういう選択肢もあるんですよね」
自分に言い聞かせるようだった。京也は丁寧に頭を下げると診察室を出て行った。
優里と杏が一緒に中目黒公園を歩いていると、前方からドリーシュが歩いて来た。
「お久しぶりです」
朝の散歩でよく一緒になる犬仲間の一人だったのだが、ここしばらくは顔を合わせることもなく、どうしたものかと思っていたのである。ドリーシュはひどく痩せて、京也も疲れ切っているようだった。
「やあ、おはようございます。お久しぶりです」
京也はしゃがみ込んで、杏と挨拶をした。杏は嬉しそうに京也と挨拶をして、ドリーシュにも挨拶をした。杏は人には愛想がいいのだが、犬に関しては好き嫌いがはっきりして、相手が気の強い犬だと、小競り合いになることも珍しくない。穏やかなドリーシュは杏の数少ない犬友達の一匹なのだ。
「杏ちゃんは阿賀先生にかかってるの?」
「ええ。功利主義じゃないところがいいかなって。それにね、阿賀先生、手先がすごく器用なんです。猫の避妊手術をしてもらったんですが、傷跡なんて、前の獣医さんの三分の一くらいしかないんですよ」
ここぞとばかり、優里は阿賀動物病院の宣伝をした。ゆっくりと歩くドリーシュに合わせて歩調を緩めると、杏も仲間のただならない様子が分かったようだ。いつもと違って大人しくついてくる。
「ドリーシュもね、阿賀先生に診てもらうことにしたんだよ」
「具合悪いんですか?」
「うん。癌なんだ。今日は調子がいいみたい。外を散歩するのなんて、久しぶりだよ」
京也は寂しそうに微笑んだ。阿賀のいう治療方針に変えてから、ドリーシュはようやく食事がとれるようになった。今朝は久しぶりに散歩に行きたい、と京也にせがんだのだ。
「つらいですね」
京也が顔を上げた。
「私の母もそうだったから」
ようやく歩いていたドリーシュが、道の真ん中で立ち止まってしまった。帰るかい、と京也が声をかけても動こうとしないで、心地よさそうに風の匂いを嗅いでいる。
「やっぱりお外がいいんですね。ちょっとそこで休憩しましょうか」
優里は遊歩道の傍らにあるベンチを指さした。敷地の奥には〝花と緑の学習館〟と書かれたプレートがかけられた作業小屋のような小さな建物が建っている。遊歩道の周りには果樹や農作物が点在して植えられていて、悠里たちが座ったのはぶどう棚のそばだ。学習の成果か、果汁をたっぷりと含んだ大きなマスカットがたわわに実っていた。
「付き合わせてしまって、すみません」
「お気になさらないで」
早朝だから、歩いている人もまばらだ。ドリーシュは足元に伏せると、京也の顔を見上げた。
「家族はこいつだけだけだから」
そういうと京也は黙り込んでしまった。
「看病する側もきついですよね。長丁場だし、出口が見えないし」
慰めの言葉は役に立たないことを優里は知っている。他人は当事者の気持ちに寄り添うことしか出来ないのだ。もしかしたら、それさえもできないのかもしれない。
「お母様も?」
「ええ。ドリーシュと同じ、癌でした。亡くなって三年たちます」
三年前というと、京也がここに越してきて間もない頃だ。ドリーシュの散歩中に優里と知り合って、ショコラやクリーム、ナナと、犬仲間ができたのだ。
「ちっとも知らなかった。優里さん、しっかりしてたから」
「母が亡くなったあと、父がぐちゃぐちゃになっちゃって。悲しむ暇がなかったんです」
優里が頭を撫でると、ドリーシュは嬉しそうに尻尾を振った。
「あの……。一人で抱え込んじゃダメですよ。私なんて莉莎子の前で何度も泣いたんです」
京也には一緒になって泣いてくれる女性、ひょっとしたら男性もいるに違いない。二十歳そこらの小娘がそんなことをいうのもおこがましいと思ったのだが、京也の姿はあまりにも痛々しかった。
「そうなんだ。なるほど、泣くのもありなんですね。その時は優里ちゃん、よろしくね」
冗談とも本気ともつかない口調でそう言うと、京也は微笑んだ。削げた頬にドキリとするような色気があって、さすがの優里も心拍数が上がった。
「はい! 京也さんならいつだって大歓迎ですよ」
半分以上は本気でそう答えた。
ドリーシュがようやく立ち上がった。寒いのか肉の落ちた身体が微かに震えている。
「帰るのかい?」
ドリーシュがうん、というように京也の手をなめた。
「じゃあ、僕はこれで」
ドリーシュと並んで歩く京也の後姿がゆっくりと遠ざかっていった。
秋も深まって、目黒川の川面を吹き抜ける風が急に肌寒く感じられるようになった。川沿いの桜も葉が散り始め、診療所の庭に落ち葉が積もっている。
マミムはすっかり大きくなり、三匹で戯れている。落ち葉がガサガサというのが面白いらしい。三匹が疾風のように足元を駆け抜けて、悠希は転びそうになった。落ち葉を集めていた悠希は腰を伸ばすと、ぐいと伸びをした。
さっきは散歩中の若いカップルがマミムと遊んでいた。家の前の小路はジョギングや、犬の散歩コースになっているらしく、早朝は日中よりも人通りが多いくらいだ。今しがた誠治と英恵が仲睦まじく兄妹犬を連れて通り過ぎて行ったし、杏とも挨拶をした。
敷地が狭くて駐車場設置が出来ないのがネックだが、人の往来は少なくはない。ペット連れの人の流れをこちらに向けるには、トリミングもやっていることをもっと大々的に宣伝したほうがいいかもしれない。そんなこと思いながら悠希は家の中へ入った。外の掃除が終わったら、今度は診療室と待合室の掃除だ。
商売繁盛の秘訣を莉莎子と英恵に聞いたところ、先ずは掃除をしっかりしろといわれ、悠希はそのアドバイスを忠実に守っている。先生は弁が立つ方じゃないから、誠実さを売りに地道にやりなさいと、口調は違うが二十歳の娘と人生の大先輩に言われたのだ。そういう訳で、生まれて初めてというくらい毎日掃除に励んでいる。
そうした気持ちの張りは他人にも伝わるようで、顧客の数もじわじわと増えて来た。面白いものだ、と悠希は思う。ここに引っ越してきた当初はどうなることかと思ったが、先月は初めての貯金も出来たのだ。
今日も予約は入っていないが、トリミングついでにふらりと立ち寄る患者も多い。医療行為は相変わらずほとんどないが、今月も何とかしのげそうだ。ペットが健康なのはいいことだ、とのんびりとしていると、京也が蒼白な顔をして診察室に入って来た。
ドリーシュは口輪をはめ、京也は手に真っ白な包帯を巻いている。いよいよきたか……。悠希は気持ちを引き締めた。
「どうぞこちらへ」
「先週からドリーシュの様子がおかしくて。夜中じゅう鳴いて徘徊したり、粗相もするようになって……」
「その手も?」
「ええ。いきなり噛まれました」
診察台のドリーシュは目を吊り上がらせて、今も低く唸っている。栗色の瞳は凶暴な光を宿していて、かつての聡明な面影はもうなかった。
「病状が進むと、攻撃的になる犬も多いんです」
京也が初めて診察に訪れてから三か月たっている。よくもったほうだろう。最初にここを訪れた時よりドリーシュは一回り小さくなっている。それでも京也が手入れを欠かさないのだろう。艶がなくなったとはいえ、被毛は一点の汚れもない。
「鎮静剤を処方しましょう。あとは輸液をします」
「それで、ドリーシュは元に戻るんですか」
聡明なドリーシュに、と問いかける京也を真っ直ぐに見ることが出来なかった。
「それは、もう……。眠らせて輸液をしてやるしかありません」
「鎮静剤が切れたらどうなるんですか」
「今の状態に戻ります」
京也は唇を噛みしめている。獣医にのみ許された最後の方法があるが、それをこちらから提案するのはためらいがあった。
「ドリーシュは目覚めると辛いんですか」
「そうですね。痛みも強いでしょうし、京也さんのことも分からなくなっているから。混乱していると思います」
「眠らせて、死ぬのを待つんですか……。下の世話は?」
「ペット用のオムツがあります」
「そんな」
美しいドリーシュがオムツをつけた姿が脳裏をよぎったのだろう。京也はそれ以上言葉を継ぐことができなかった。生かしておく場合の説明はすべてした。悠希は深呼吸をすると、最後の提案をした。
「安楽死という方法もあります」
話している間もドリーシュは相変わらず唸り声をあげていて、隙あらば悠希の手を噛もうとしている。口輪の下で歯噛みをして、そのたびに牙がカチカチと音を立てた。
京也はしばらく俯いていたが、やがて決心したように顔をあげた。
「そうしてやってください。お願いします」
「今すぐ判断をしなくてもいいんですよ」
「いえ。もう決めましたから」
京也はドリーシュのほうに向きなおると、頭を優しく撫でた。
「短い間だったけど、ありがとな。ゆっくりお休み」
真っすぐ悠希を見つめる眼に涙が浮かんでいる。
「先生、お願いします」
「外でお待ちになりますか」
「いいえ、最期まで一緒にいます」
「分かりました」
これは慈悲だと、自分に言い聞かせてドリーシュに薬剤を注射する。胃の腑から塊がせり上がってきて吐きそうになった。何度やっても、安楽死の処置に慣れることはできない。どんな言い訳をしようが、延命措置も安楽死も人間のエゴにすぎないのだ。生あるものの命の期限を決めるのは人間ではない。
小さく痙攣をすると、ドリーシュの呼吸はすぐに止まった。
「先生、ありがとうございました。これでやっと口輪を外してやれる」
削げた頬を涙がこぼれ落ちたが、京也は勇敢にも笑みを浮かべている。
「お帰りはどうなさいますか」
「あ、そうですね。こんなことになるなんて考えていなかったから」
悠希はドリーシュを白いシーツで包んでやり、抱えやすいようにした。
「タクシー、呼びましょうか」
「はい、お願いします」
無線タクシーを呼ぶと、ほんの数分でタクシーがやってきた。京也と二人で表に出る。シーツにくるまれた大きな包みを抱えている京也を見ると、タクシーの運転手はぎょっとした顔をした。
「近くですので。よろしくお願いします」
白衣を着た悠希が有無をいわせぬよう毅然とした態度でそういうと、運転手は不承不承、乗車を認めた。
「どちらまで」
京也がこの辺りでは有名な高級タワーマンションの名を挙げると、運転手はようやく表情を緩め、車の外に出てきた。現金なものだ。不快感が募ったが、乗車拒否をされなかっただけでもよしとすべきだろう。
「手伝いましょう」
そう言うと、運転手はいそいそと京也の手助けをした。
「ありがとうございます」
京也とドリーシュが無事タクシーに乗り込んだ。悠希は遠ざかっていくタクシーを見送った。
きっと大丈夫だろう。ドリーシュを抱え、しっかりとした足取りで歩いていた京也の姿が目に浮かんだ。ドリーシュのいない喪失感は、時間と京也の若さが癒してくれるに違いない。
半年も一つ所で獣医をしていると、いつの間にか見送るペットもかなりの数になった。京也のように、最期の治療は家庭的な病院で、と考える飼い主も多いのだ。自慢の外科テクニックを披露する機会がなかなかないのは残念だが、それも獣医の在り方なのだろう。飼い主はペットを失う悲しみに寄り添ってほしいのだ。ペットの治療をするだけが獣医の仕事ではない。
悠希は雲一つない紺碧の空に目をやった。よしっ、と自分に声をかけ、京也に送る花束を買いに馴染みの花屋へ向かった。
冷蔵庫を見ると牛乳が無くなっている。大学を出るときまでは牛乳を買うことを覚えていたのだが、明日のテストのことを考えているうちに、忘れてしまったのだ。ブラックコーヒーは苦手だから、近所のコンビニまで出かけることにした。杏を呼ぶと、大喜びで自分でリードを咥えて走って来た。
「こういう時だけはいい子なのね」
優里は笑いながら杏にリードをつけ外に出た。すっかり日が短くなり、五時を過ぎると外は真っ暗だ。冷たい風に思わず首をすくめた。
坂を下ってビルの隙間の人一人がやっと通れるような路地を抜けるといきなり山手通りに出る。目の前の信号を渡ってすぐの所に大きなコンビニがあって、その隣が目黒警察署だ。いつもは静かな警察署にスポットライトが当たり、アンテナをつけたTV取材の車が数台止まっている。中継中なのだろう。マイクを持った各テレビ局のアナウンサーがそれぞれ勝手な方向を向いて喋っている。早くも野次馬が建物の周りをぐるりと囲んでいた。
芸能人が何かしたのだろうか。数年前、某歌舞伎役者が暴力沙汰を起こした時も、丁度こんな感じだったのだ。あの時は、聞き耳頭巾の莉莎子が、何が起きたのかをいち早く報告してくれた。
まさか今日は莉莎子いないわよね? と人ごみに目をやると、ショコラとクリームの姿が目に入った。優里は思わず笑ってしまった。体高のあるスタンダートプードルは人ごみの中でも目立つのだ。杏がショコラとクリームを目ざとく見つけてリードを引っ張った。
「あ、優里、ここここ!」
莉莎子が大きく手を振った。
「優里も取材、見に来たの?」
「まさか。牛乳を買いに来たのよ」
「俳優の伊集院黎が自殺したんだって」
「ふうん」
テレビドラマはほとんど見ないから、芸能人には疎いのだ。
「ふうん、って呑気ね。伊集院黎って京也さんのことよ」
「えっ」
「毎朝一緒に散歩していて、知らなかったわけ?」
「うん。知らなかった……」
連絡が取れなくなって、心配をしたマネージャーが京也を発見したのだ、と莉莎子は説明した。死因は睡眠薬の過剰摂取だった。京也はドリーシュの骨壺を胸に抱いたまま、事切れていたのだという。
「遺書にはね、ドリーシュも一緒のお墓に入れて下さいって、それだけ書いてあったんだって」
京也には心を許す相手がドリーシュしかいなかったのだろうか。あの時、もっと踏み込んだ助言をするべきだったのかもしれない。それにしても。莉莎子の口は良く動く。
「警察が調査中だから、詳しいことはまだ分からないらしいけど」
母親が亡くなった時も同じだった。いままで共に過ごしていたはずなのに。死者は突然に違う時を刻み始めるのだ。もうあの一人と一匹に会うことは叶わない。
死者は心の中に生きていると人は言うが、彼岸と此岸は果てしなく遠いように思われて、悠里はその断絶を覗くと身がすくむのだった。悲しみだけでない冷やりとしたものが、するりと胸の裡に入り込んでくる。
今まで得た情報を披露して莉莎子は一息ついた。沈黙に違和感を覚えてふと目をあげると、優里がぼんやりと宙を見つめている。双眸が暗い虚のようだった。
「こら、優里!」
ふざけたふりをして、冷たくなった両手をとってぶんぶんと振り回す。
「どうしたのよ? イケメンでも歩いてた?」
「今日はもう帰るね。また連絡する」
上の空で返事をすると、今来た道をそのまま帰ろうとしている。
「牛乳はどうしたのよ?」
「あ、忘れてた」
「もう。しっかりしてよ。杏と待ってるから。さっさと牛乳買ってきなさい」
てきぱきと莉莎子が言った。
「うん。ありがとう」
コンビニエンスストアに走っていく優里の後姿を見送りながら、莉莎子はため息をついた。日頃はなんでもない顔をしているが、ふとしたはずみでまだあんな顔をするのだ。
全く。世話がかかるんだから。軽いノリでそう声に出し、莉莎子は自分の気持ちを立て直した。
互いに黙ったまま、鍋ころ坂をのぼっていく。鍋が転がるほど急だから、そういう名が付いたそうだ。いつの間にか風が止み、冴えた空に星が瞬いていた。京也とドリーシュはもう星になったのだろうか。
「きっと天国にいったわよね」
思わず言葉がこぼれたようだった。
「そりゃあそうよ。あれだけ綺麗な二人だもの。神様だってお傍に置きたいって思うんじゃないの?」
「そうよね」
神様が面食いとは思えないが、冗談めかして元気づけようとしてくれる親友の優しさが心に沁みた。
「一人で大丈夫?」
「うん。そろそろお父さんも帰ってくるし。ありがとね。牛乳買い忘れないですんだわ」
「どういたしまして! じゃあねまた明日!」
「また明日!」
自分には幼馴染の莉莎子がいる。家に帰れば、四匹の猫が待っている。父はもうじき帰って来るだろう。
誰もいないタワーマンションの一室で、京也は何を思ったのだろう。暗闇の中で一人、座っている京也の姿が目に浮かんだ。
ぎゅっと目をつぶって京也の姿を心の底に押し込めると、優里は夕飯を作り始めた。こちら側の者は、こちら側の仕事をしなければならないのだ。
炊飯器から新米のふっくらとした香りが漂ってきた。里芋の煮転がしは、我ながら上手く出来た。あとはカマスの干物を焼けば夕飯は完成だ。
犬猫組は夕飯を食べ終わって、団子になって寛いでいる。父が帰ってきたようだ。婆さん猫のサチ以外の四匹がバタバタと父を迎えに玄関へと走っていった。
猫足というけれど、けっこう足音がするのよね。優里は肩をすくめるとカマスの干物を焼き始めた。いつもは少々面倒くさいと思う夕飯作りが、その夜は少しも苦ではなかった。
川面に浮いた落ち葉が晩秋の冷たい風に煽られてくっついたり離れたりしている。
積もった落ち葉に煙草の吸い殻でも捨てられたら大ごとだ。悠希は朝から庭の掃除に余念がない。落ち葉炊きをしたいところだが、ここは住宅密集地域だ。味気ないと思いつつ大きなごみ袋にぎゅうぎゅう落ち葉を詰めていく。
悠里と莉莎子が手を振りながら近づいてきた。杏、ショコラ、クリームの三匹ももちろん一緒だ。少し前までは京也も一緒に歩いていたのだ。じゃれ合いながら歩いている三匹を見ていると、ドリーシュがそこにいないのがひどく不自然だった。
「先生、おはようございます」
横にいた悠里はニコリと会釈した。
「やあ、おはよう。今朝は寒いね。京也さんに最近会ったかい? ここしばらく見かけないから。ファンのご婦人方が寂しがってるって伝えておいてよ」
仕事に出かけるときは、たとえ遠回りになっても、動物病院の前を通ってちょっと挨拶する。待合室の窓からは通りがよく見えるから、悠希も挨拶を返すのが習慣となっていた。愛犬のシャンプーを頼んでいる常連のご婦人方が、京也の姿を見るたびに黄色い歓声をあげ、一斉に手を振るのもご愛敬だ。京也も心得たもので、輝くような笑顔でご婦人がたに応えるのである。
「先生、ご存知ないんですか」
「何のことだい?」
「京也さん、亡くなったんです」
「事故?」
「自殺です」
手にしていた庭帚がぽろりと地面に転がった。
「教えてくれてありがとう」
かすれた声でそういうと、うわの空で再び落ち葉を集め始めた。箒が地面に転がったままだ。
「先生、大丈夫?」
悠里が顔をのぞき込んだ。
「ドリーシュの最期を一緒に看取って、それで……」
悠希は歯をくいしばっている。一緒に看取った。悠希が何をしたのか、二人にはすぐ分かった。
「先生は悪くないです」
悠里がそれ以上言葉を継がせなかった。
「ありがとう、佐伯さん」
「夕方、サチの輸液を取りに行きますね!」
輸液はまだ十分にあるはずだが……。悠里が気遣わし気にこちらを見ているのが分かった。悠希は辛うじて笑みをうかべた。
「はい、お待ちしてます。サチによろしく!」
悠里と莉莎子はバイバイと手を振ると、公園の方に歩いて行った。
役者だけでやっと食べて行かれるようになりました、と笑顔で話していたのはつい最近のことだったのだ。他にやり方があったのではないか。もっと京也と話をするべきだったのではないか。後悔がひたひたと押し寄せて来る。
何年この仕事をしていても安楽死の処置に慣れることはないだろう。だが。命を奪うことに慣れてしまったら、その時は獣医を辞めるべきなのだ。
しばらくは何を食べても美味くないだろうが、それでいいのだと思う。悠希は大きく深呼吸をしてフワフワとした頼りない胃袋に活をいれると、庭の落ち葉を再び集めはじめた。
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