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 がらりと引き戸の開く音がして、コンビニエンスストアの大きなレジ袋を下げた優里が診察室に入って来た。走って来たらしく、息を弾ませ頬が紅潮している。
「まずこれ、飲んでください」
 てきぱきと指示をされた。
「ど、どうも」
 手渡されたスポーツドリンクを口に含む。熱で乾ききった身体に水分が染み渡るようだった。
「やだ、私ったら。先生がお医者さんなのをすっかり忘れてました」
「医者って言っても獣医だから」
 悠希が苦笑いした。
「お腹に入れるもの買ってきましたから、ここに置いておきますね。お大事に」
「いろいろありがとう。えっとお金、払わないと」
「お金はいつでもいいですよ。大した金額じゃないし。ご無理なさらないでくださいね。お大事に!」
 海のケージを背中に背負い、右手には空のケージをさげて、優里は診察室を出ていった。

 悠希はのろのろと立ち上がると、レジ袋の中身をテーブルの上に並べた。レトルトの白粥。梅干し、ふりかけ、モモやフルーツポンチの缶詰め各種。紙皿とプラスチックのスプーンまで入っていた。飲料水のレジ袋には、ミネラルウォーターと、190㎎の野菜ジュースの缶、500㎎のペットボトル入りのスポーツドリンクが入っていた。すべて日持ちがして一度に食べきれる物ばかりだ。ドラッグストアの袋には風邪薬も入っていた。
 人の温かさに触れたのはいつだろう。不覚にも涙が溢れてきた。悠希は鼻水と涙を拭うと、冷たいままの粥と梅干を腹に入れた。薬を飲むと急に目蓋が重くなってきて、着替えもそこそこにごろりと横になる。暑いのか寒いのかよく分からないまま、悠希は深い眠りに落ちていった。

 遠くで子供が泣いている。夢うつつに泣き声を聞きながら、それが自分の声だとわかるまでしばらくかかった。
 物心ついた頃には母子家庭だった。父親は死別ではないらしい、ということしか知らない。父親のことを聞くと、母は悲しそうな顔をして、曖昧な返事しか返ってこなかったからだ。
「あなたを守りたかったから……」
 悠希の肩を包み込むように抱くと母は黙って涙をこぼした。右肩から肩甲骨にかけてかなり目立つ火傷の跡が残っている。幼い頃のものらしく傷を負った時の記憶はないのだが、その答えだけで充分だった。
 涙の乾かないまま微笑む母は毅然としていた。そんな母を誇らしく思った。この母のためになることなら何でもする。幼心にそう誓ったのだ。
 新しい父親が来たのは小学二年の夏休みだった。母は派遣された勤め先で今の父と知り合ったのだ。
 新しい生活が始まって間もなくすると弟が生まれた。生まれたての赤ん坊は手がかかる。母は弟に付ききりだった。新しい父は目を細めて母と弟を見守っている。
「悠希君もこっちにおいで。弟、抱っこしてごらん」 
 父親にそう言われたのに、弟を抱くことができなかった。いいお兄ちゃんにならないと。新しい父親に嫌われてはならない。母を悲しませてはならない。頭では分かっていた。それでも、大好きな母親を当たり前のように独り占めしている赤ん坊をどうしても可愛いとは思えなかった。
「お兄ちゃんなのよ。そんなふくれっ面しないの」
 母に諫められると、もう我慢できなかった。
 一人で井の頭線に乗り、電車を乗り換える。気が付くと祖母の家の前に立っていた。
「ばあちゃん」
 自分の声で悠希は目が覚めた。目を開けると祖母の家の台所の流しが見える。
 あの日。祖母はいつまでも泣き止まない悠希のために、この台所で好物のオムライスを作ってくれたのだ。
 台所の白い壁が朝日で光っている。だんだん頭も目覚めてきて、此処に越してきて以来、台所で寝起きしていたことを思い出した。他の部屋は根太が腐り、畳がずぶずぶで入れないのだ。
 熱はすっかり下がっていた。ぎしぎしと痛む身体をそっと起こしてみる。いつもの癖で、つい左手の薬指に触れてしまい、悠希は苦笑いした。
 悠希はダイニングテーブルに置きっぱなしにしていた生ぬるいスポーツドリンクを一息に飲み干すと、台所を片付け始めた。
    
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