カオルの家

内藤 亮

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 吉本の家に行くと、牛小屋の入り口に煉瓦で囲まれた花壇が出来ていて、あの時の苗が早くも蕾を付けていた。
「煉瓦が余ったからよ。苗を植えるのはちっと早いかと思ったんだが、うまく根付いた。ここだと北風があたらねえからな。お前はあの苗どうした?」
 吉本の声が遠くで響いている。
「今日は樋を直すんですよね」
「あ、ああ」
 宥己の事務的な返事に吉本は一瞬驚いたような顔をした。
 一緒に作業をしながらも吉本がちらちらと自分を窺っているのが分かった。作業に集中しようと思うのだが気が付くと手が止まっている。 
「痛っ」
 金づちで強かに打った人差し指の爪から血が滲んでいる。
「あちゃあ。爪、はがれちまったな」
 手際よく手当をしながら吉本が言った。固く巻かれた包帯から血が染み出している。こうしている今も、芳は胃液を絞り出しているのだろうか。
「今日のお前は変だぞ。大怪我する前に作業はやめだ」
 明るい外から母屋に入ると部屋の暗さに目がくらんだ。たまらずしゃがみ込むと、吉本が肩を入れてぐいと立ち上がらせた。
「そこ、座ってろ」
 吉本はあがり間口に宥己を座らせると、台所に戻って握り飯を作り始めた。
「ほら、食えよ」
「今日は遠慮しときます」
 握り飯に勢いよくかぶりつきながら、吉本が言った。
「飯、ちゃんと食ってるのか?」
「はい」
「嘘をつくな。ひでえ顔色だぞ」
 あれからすぐ、芳からメールがきた。
 ーしばらく来ないでください。貴方は貴方の生活をしてください。落ち着いたら連絡します。
 それきりでメールを送っても電話をしても返事が一切返ってこない。
「飯を食わないといい仕事はできねえぞ」
「そんなこと、分かってます!」
 芳にも同じ事を言われたのだ。つい、声を荒げてしまった。
「ほう。怒る元気があるなら見込みがある。女か? 話してみろよ。楽になるぞ」 
 へへっと下品に笑う吉本を見ていると無性に腹が立ち、気が付いたら何もかも吉本にぶちまけていた。
「そりゃあ、難儀だな。笑ってすまん」
 吉本がぽつりと言った。
「いえ、その、僕もどうかしてました」
 何でもない、というように宥己はポケットティッシュを取り出して盛大に鼻をかんでみせ、ついでに目元もごしごしとこすった。
「無理するな。抗ガン剤の治療はきついからなあ。ありゃあ見ているほうも辛い」
 空っぽの湯呑を手に持ったまま、吉本がぽつりと言った。
「あいつも癌だった」
「乳癌?」
 宥己が恐る恐る聞くと、吉本が頷いた。
 家事の手際の良さから、一人暮らしが長いのだろうとは思っていたのだが、改めて突き付けられた吉本の言葉はショックだった。
「昔と違って今は治療方法も進歩してる。死ぬと決まったわけじゃあないんだぞ。お前がめそめそしてどうする」
「でも……。ずっと吐いていて。何も食べてませんでした」
「まあ、そうなるわなあ。水分は?」
「スポーツドリンクを吐きながら飲んでました」
「芳さん、よく分かってるな。抗ガン剤は毒と一緒なんだよ。癌が勝つか、芳さんが勝つか。薬の投与が終わったら、水を呑んでちっとでも早く薬を外に出すのが肝心なんだ」  
 吉本は立ち上がると、大きなレジ袋をがさがさ言わせながら戻ってきた。
「これ、芳さんに食わせてやれ」
 手渡された袋を開けると、かき餅が沢山入っていた。
「飯が喉を通らなくてもこれだと食べやすいらしい。弱火でな、何回もひっくり返しながらじっくり焼くんだぞ。そうじゃねえと、生焼けになるからな」
「でも、もう来るなって……」 
「お前は女に来るなと言われたら、馬鹿正直に〝はいそうですか〟と、いうことをきくのか。そんなのは漢じゃねえな。今以上に嫌われることはあるめぇ。とにかく行ってみろ。じゃあな」 
 吉本は犬でも追い払うかのように宥己を外へ押し出すと、引き戸をぴしゃりと閉めてしまった。

「芳さん、開けてください」
 車庫には車があるし、電気のメーターも回っているから芳は確かに家にいるはずだ。チャイムを押しても芳は出てこない。ドアを叩き続けている拳が痛くなってきた。
「帰って。来ないでって言ったでしょう」
 ようやくドアが開いたが、芳はドアチェーンをつけたままだ。宥己は勢いよく閉まるドアに足を差し入れた。
「いてっ」
 スニーカーがドアの勢いに負けて、ぐにゃりと潰れた。安物のスニーカーは足を守ってはくれない。
「ちょっと! 何やっているのよ」
 ガチャガチャとチェーンを外す音がしてすぐにドアが開いた。
「足、大丈夫だった?」
「やっと会えた!」
 相変わらずニットキャップを目深にかぶっているが、声はしっかりしている。思わずハグをしたら、芳はやれやれというようにため息をついた。
「ちょっと、いい加減にしなさい」
「すみません、あの、つい」
「その大荷物は何?」
「着替えです」
「泊まるつもり?」
「ええ」
「困るわ。明日は薬の投与日なのに」
「それは丁度よかった」
「一人でやれるって言っているでしょう」
「病院へはタクシー?」 
「いいえ。タクシーは待ったりして面倒だもの。自分で車を運転していくの」
「そんな無茶な。病院への送り迎えは僕がします。ただ見ているのはもう嫌だ!」
 芳がふっと笑った。
「必死な顔をしちゃって。全く、仕方ないわねえ。食料を買出しに行かないと。しばらく物が食べられないから、冷蔵庫を空にしてあるのよ」
 そういうと、芳は車のキーをダイニングテーブルに置いてある籠から取り出した。
「食べる物は買ってきました」
「あらまあ、準備のいい事」
 芳は持ってきたレジ袋を覗き込んだ。  
「鶏手羽ね。ポトフにしましょうか」
 鶏は柔らかくて消化もいいし、骨ごと料理すれば滋養にもなる。副作用で筋肉が落ちるから、たんぱく質を取ることが大切だ、と吉本が教えてくれたのだ。 
 服を着ていても身体全体が薄くなっているのが分かった。頬がこけ目がくぼんで、ただでさえ高い鼻が一層高くなっている。こんなになっても、芳は頼ってはくれないのだ。
「急に黙り込んじゃって。どうしたの?」
「いえ、その、ポトフはどうやって作るのかなって思って」
「簡単よ。冷蔵庫の余った野菜をみんな入れちゃえばいいんだから。だけど、ネギ系は必須ね。玉ねぎでも長ネギでもいいのよ。貴方のおかげで冷蔵庫が総ざらいできるわ。バターとかで炒めてから水を入れる方法もあるんだけど、今日は水炊き方式でいい?」
「僕もそっちのほうがいいです」 
「このところなんだか油を受け付けないのよ」
 芳は鶏手羽をさっと水洗いすると、野菜と一緒に鍋に入れた。
 日が落ちるとここが北の町なのだと実感する。凍てついた群青の空に星が輝いていた。勢いよく燃えている薪ストーブが心強い。 
 「さあ、召し上がれ」
「芳さん、ご飯は?」
「今日はいらないわ」
 芳のスープ皿には、野菜と申し訳程度の鶏肉の破片がぷかぷかと浮いている。自分の皿はスカスカなのに、宥己の皿には肉と野菜がたっぷりと盛り付けられていた。
「せっかくご飯も炊いたんだからお食べなさい。その佃煮、美味しいわよ」
  自分だけ飯を食べるのに気が引けて、宥己が箸をとるのを躊躇していると、芳が子供を叱るような口振りで言った。
「私のことはいいから。ちゃんと食べないとすぐに帰ってもらうわよ!」
 言うことをきかないと本当に追い出されそうだった。宥己が箸を取ると、芳もスプーンを手に取った。
「貴方とはね、本当はもっと早くに会っているはずだったのよ。あの秋、この家で会うはずだったの」
 あの秋。馨は交通事故にあったのだ。

 寝るのもトイレに行くのもくっついて歩いていた宥己がようやくね、大丈夫になったみたい。
 こないだもね、山本さんと何してたのって聞いたら、男同士の秘密、ですって。東京で何があったかも話さなくなったし。ちょっと前までは、なんでも私に話していたのにね。
「それって、寂しくないんですか」
 芳が尋ねると、馨は笑いながら首を振った。
「秘密が増えるのは成長の証よ。私に出来ることは、そうねえ。色んな人とあの子を会わせて、色んな世界を見せてあげることくらいかしら」
「なんだか大役だわ」
「構えなくていいのよ。いつもの芳ちゃんで十分素敵なんだから」
「そうかなあ」
「今度の秋の連休は皆で過ごさない? 散歩道の途中にね、鬼胡桃の木を見つけたの。動物に食べられる前に採りにいかないと。そりゃあもう、びっくりするくらい立派な木なの。宥だけじゃあ心許ないわ。芳ちゃん、手伝ってね。主戦力は私と貴女の二人よ!」
 
「僕も一緒に胡桃をとろうって約束していたんです。そうかあ。あの時……」
 事故がなければ、芳に会っていたのだ。
「ね、そう思うとなんだか不思議でしょう」
「胡桃の木、どこにあるんだろう」
 この周辺は幾度も歩き回ったはずだが、胡桃の木は見たことが無い。
「この近くだろうと思うのだけど」
「そんなに大きな木ならすぐみつかりますよ、きっと」
「私もそう思って探したのだけれど。見つからなかったの」
「治療が終わったら一緒に探しましょう」
「そうねえ」
 曖昧な返事をして、芳は庭先に広がる林にぼんやりと目を移した。
「明日は早いから。そろそろ寝るわ。おやすみなさい。残ったご飯は冷蔵庫にそのまま入れといてくれればいいから」
 芳は自分の皿を下げるとリビングを出て行った。
 炊飯器の中には炊いた飯がほとんど手つかずで残っている。宥己は、いつも自分がしているように小分けにしてラップで包み冷凍庫に入れた。冷凍庫も空っぽで、いつ冷凍したのかよく分からない色の変わっためざしの干物が入っていた。
 台所は整頓されてはいるが、以前は麻袋に入っていた根菜類まで片付けられていて、生活の匂いがしない。コーヒーメーカーもトースターも埃をかぶっていた。
 風呂から芳の上がる音がする。宥己は急いで台所の片付けを済ませると、寝室に布団を取りに行った。
「まあ、片付けてくれたのね。ありがとう、助かったわ。今日はお風呂を沸かしてないのよ。シャワーでいい?」
「はい」
「あら、布団も敷いたのね」
 最初に泊まった日と同じように、薪ストーブの側に布団が敷いてあるのを見ると、〝大変宜しい〟、と芳は小さく笑った。
「お茶でもどうですか。ほうじ茶、買ってきたので」
 ほうじ茶なら眠れなくなることはない。子供はほうじ茶といわれ、夜はいつもほうじ茶だったのだ。
「まあ、気が利くわね」
 ちらりと掛け時計を見て時間を確かめると芳は椅子に座った。芳は茶を淹れる宥己の手元をじっと見ている。
「お茶を淹れるのも上手ね。馨さんと一緒だわ。貴方の手のかたち、馨さんとそっくりね」
 芳は両手に湯呑を包むと目を細めた。
「離婚した後もこうやってお茶を淹れてくれて。馨さんの前で私、泣いちゃったの」
「僕なんか、ここに来るたびに泣いてましたよ。なんであんなに泣き虫だったのかなあ」
「泣き虫さんが、こんなに立派に成長して」
 芳が言った。目が笑っている。
「立派だかどうだか。歳だけはとりましたけど」
「今の貴方をみたら、馨さんきっと喜ぶわよ」 
 本当にそうだろうか。あちこちぶつかって、いまだにふらふらと、根無し草のように漂っている。 
「ここに通うことをご家族がよく許してくれましたね」
「父が、尚人さんが協力してくれたの。手紙のことを一人で胸に収めておくことができなくて。父に話しちゃったのよ。私も狡いわよね。父なら協力してくれるに違いないって分かっていたの。まさか、一緒に会うことになるとは思わなかったけれど。馨さんは思っていたよりずっと若くて。私も父も驚いたわ。私が父と一緒に来たものだから、馨さんもびっくりしてた。びっくりして、それから涙ぐんでいたわ。素敵なお父様ねって」
 当時を思い出したのだろう。話している途中から、芳はくくくっと笑った。
「三人で話をしているうちに、すっかり意気投合しちゃって。馨さんの家に遊びに行くときは、父の妹の家に遊びに行くってことにしてくれたの。秘密を共有したおかげで父との距離が一気に縮まったわ。馨さんのおかげね」
「お父様は?」
「一昨年、鬼籍に入ったわ。二人だけになって話すのは決まって馨さんの事。この歳になると一緒にいた人がどんどん向こう側に行っちゃって……」
 芳はふと思い出したように言った。
「会社はどうしたの。今日は平日でしょ?」
「今週は休みを取りました」
「そんな。困るわ」
「ずっと休みを取ってなかったからいいんです。病院へは僕も一緒に行きます」
「投与が終わるまで、午前中いっぱいかかるのよ」
「構いません。待ちます。とにかく、僕はしばらくここに泊まりますから」
「分かったわ。じゃあ、おやすみなさい」
「おやすみなさい」 
 芳はやれやれというように首を振りながら、寝室に引き上げていった。

    
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