カオルの家

内藤 亮

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 芳のぐい吞みを満たすと、芳も宥己のぐい吞みに酒を満たした。さっぱりとした辛口の酒でスルスルと喉を通過する。冷酒、つまみはなし。粗塩だけが皿に盛られている。さしつさされつ、互いに黙ったまま酒を堪能した。
「いい酒ですねえ」
「でしょう。こんなにいいお酒、独りで飲んでもつまらないもの」
 いい酒なら独り占めして飲めばいいように思うのだが、芳は違うらしい。
「副校長ってどんな仕事をするんですか」
「事務処理が多いわね。校長の秘書みたいな感じ? あとは生徒の話し相手。週に一度、専門のカウンセラーが来るのだけど、私のほうが気軽なのかしら」
 休み時間や放課後、生徒が遊びにやってくる。気さくな芳は教師をしているときから生徒に慕われていて、肩書が変わっても生徒との関係はそのままだった。
「今は曲がりなりにも個室があるから、余計に生徒が入り浸っちゃうのよ。進路のことは相談に乗りやすいんだけれど、恋愛相談となるとねえ。野暮なことは言いたくないのよ。でも。いくら男女平等っていっても女は受け身の性なのだから。自分を大切にしなさいって言っても、今の子はなかなか。独身の先生には分かりっこないですって。結婚していた時もあるのよって言うと、バツイチなら余計にダメじゃないですって。ほんとに生意気」
 そういいながらも目が笑っている。
「そんなにセックスが大事なのかしらねえ」
「高校生でしょう。女の子だってフェロモンいっぱいの年頃だろうし。分からなくもないです」
「貴方にもそういう時期があったの?」
「勿論」
「なんだか意外ね」
 芳の目元は赤く染まり、潤んだような瞳で顔を覗き込んでくる。宥己は目を逸らして芳のぐい吞みを満たし、ついでに自分のぐい吞みにも酒を注いだ。
「でもね、あの子たちを見ていると、精気にあふれていて羨ましいくらい」
 芳の声が潤んでいるように思われるのは芳が酔っているせいなのか、それとも自分が酔っているからなのか。
「いくつになっても身体を重ねるってやっぱり特別です」
 宥己は一歩、踏み込んだ。
「そういう人もいるんでしょうけれど。私は違うみたい。残念だけど。って、こんなこと貴方と話したって仕方がないわね」
「仕方なくないです」 
 宥己は芳の手を取り、そのまま抱き寄せてキスをした。
「おやまあ。飲みすぎよ」
 芳は赤子でもあやすように宥己の背中をぽんぽんと叩いて身体を離そうとした。宥己の手に力がこもった。
「物好きねえ」
「僕は本気です」
 芳は顎をひいて、思案するかのように宥己のじっと顔を見ていたが、やがて分かったわ、と頷いた。
 細面なのに、服の下には思いがけないほどの豊かな裸が包まれていた。片方の乳房に真一文字の傷跡がある。宥己が伸ばしかけた手を慌てて引っ込めると、芳が小さく笑った。
「昔の手術の痕。もう平気よ」
 若い女と違って皮膚が薄い。その薄い皮膚を通して芳の高い体温がそのまま伝わってくる。愛撫するにつれて、白い皮膚が灯をともした雪洞のように温かく染まっていく。芳の肢体は柔らかく何処までも伸びやかだった。持ち重りのする乳房を揉みしだき、宥己は少しずつ下にさがっていった。茂みに顔をうずめると芳が柔らかく呻いた。
 共に昇りつめて共に果てる。始まりは互いに手探りだったが、やがて二人の体動が一つになった。

 芳が上から覗き込んでいる。リビングの掃き出し窓から朝日があふれんばかりに差し込んで、目を開けていられないくらい眩しい。
「おはよう。よく眠れた?」 
「芳さんは」
「こんなに深く眠ったのは久しぶり」
 芳はいかにも気持ちよさそうな伸びをした。芳のたわわな裸体が朝日で光っている。昨夜の熱が呼び覚まされるようだった。宥己は堪えきれなくなって芳の乳房に唇を這わせた。
「昨夜はありがとう。おかげさまで生徒にいいアドバイスが出来そうよ」
 宥己の頭をそっと押し返しながら芳が言った。
「そんなつもりで抱いたんじゃありません」 
「そういうことにしておきましょうよ」
 もっと芳に触れたい。もっと芳のことを知りたい。再び乳房に手を伸ばすと、小さなしこりが指先に触れた。傷跡があるのと同じ、右の乳房だ。昨夜は夢中で気が付かなかった。宥己は不吉な思いを打ち消そうと、指先に神経を集中させてもう一度しこりに触れた。
 触診のやり方は明美に教わった。身体のケアに熱心な女で、デートと称して健康診断にもよく付き合わされたのだ。
「まだ、するの?」
 芳があきれたように言った。
「検診とか、ちゃんと行ってますか?」
「ええ、行ってるわ。前回の検診は異動とかあってバタバタしてたものだから延期しちゃったけど。落ち着いたら予約、取るつもりよ」
「ここ、しこりがあります」
 宥己は芳の手を取り、しこりの位置に導いた。しこりは乳房の上の方、脇に近い位置にある。
「よく分からないわ」 
「もっとちゃんと触って!」
 宥己のただならない様子に芳は驚いたような顔をしたが、今度は真剣な顔をして注意深く乳房に触れた。
「確かに、あるわね。そんな顔をしなくても大丈夫。朝ごはんにしましょうよ。お腹がすいちゃったわ」
 声をかける間もなく芳はさっさと着替えて台所に行ってしまった。宥己も慌てて服を着て芳の後を追った。
「折角の朝なのに。そんな難しい顔をして」
「すぐ病院に行ってください」
「はいはい」
 芳の返事は軽すぎだ。ベーコンエッグにはレタスとトマトがたっぷりと添えられ、きつね色に焼かれた厚切りのトーストはバターがこれでもか、というくらいに塗られて黄色くなっている。平気な顔をしてトーストを頬張り、ベーコンエッグを平らげる芳を見ていると、腹が立ってきた。
 宥己が仏頂面をしていると、ようやく芳が言った。 
「受付は9時からだから。すぐに病院に電話するわ。それでいい?」
「はい」
「心配するのは検査が終わってからでも遅くないわ。さあ、冷めないうちに食べて食べて」
 トーストを手に取ったが、指先にはまだしこりの感触が残っていて食事をする気にはとてもなれない。
 黙ったままの宥己を見て、芳は小さなため息をついた。  
「職場の定期健診で乳癌が見つかって。治療が長引いて子供を産めなかったの。その間に夫はよその女の人との間に子供を作っていた。病気は辛かったけどあの男と別れるきっかけを作ってくれたの」
 あの男、と言うとき芳は微かに眉をしかめた。
「詳細は省くわ。折角の朝ごはんが不味くなるもの」
 初めて触れた時、芳は身体をこわばらせていた。それなのに自分に都合のいい解釈をして事を推し進めてしまったのだ。
「あの、昨日は……」
 謝るのも芳を貶めるような気がして後の言葉がでてこない。
「昨日は素敵だった。セックスの認識が変わったわ」
 言葉を継いだ芳は、ほうっとため息をついた。   
「本当に?」
「ええ。あんまりこっちを見ないで。恥ずかしいじゃないの」
 芳は頬を赤らめ、コーヒー淹れてくるわ、といって席を立ってしまった。
 芳を傷つけずに済んだことが分かってほっとしたが、まだ問題は解決していない。帰り際、芳はにこやかに手を振って見送っていた。精気が溢れた芳は輝くように美しかった。あの身体が病魔に侵されているとは思いたくなかった。
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