カオルの家

内藤 亮

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「おお、待ってたぞ!」
 玄関先で古雑誌にひもをかけていた吉本が腰を伸ばした。週末の雪は跡形もなく消え、穏やかな晩秋の光がすっかり葉を落とした木々に降り注いでいる。
「こりゃあ、なんだい?」
「床の研磨をする機械です。棟梁に借りてきました」
 廊下と二階の小部屋、階段の板材は磨いたら綺麗になりそうだった。
「へえ」
「ここに置いてもいいですか」
 素人が日曜大工で使うようなヤワな機械ではない。プロが使う道具はやたらと重いのだ。宥己がグラインダーを抱えてふらふらと歩いていると、吉本がグラインダーを取り上げた。
「俺が持つ」
 微かに足を引きずってはいるが、腰が定まっていて足元がびくともしない。長年身体を使って働いてきた百姓の底力をみるような思いだった。
「手伝います」
「かえって邪魔だ」
「はあ。すみません」
 部屋の中に入った宥己は目を丸くした。部屋の中が空っぽになっている。ちゃぶ台と食器棚は茣蓙を敷いて庭に並べてあった。
「これ、全部お一人で?」
「ああ、そうだよ。畳くらいならお前も運べるだろ。手伝え」
「はい」
 敷き藁を詰めた畳はかなりの重量がある。今時の中にウレタンを詰めた畳とは大違いだ。ようよう畳を抱え廊下に運んでいると、吉本がくくっとのどの奥で笑った。
「ほれ、しっかりしろ。そんなへっぴり腰じゃあ、女も口説けないぞ」
 吉本を見習って腰を落とし足を踏ん張るとようやく畳が持ち上がった。吉本に負けまいとペースアップしたものだから、畳を上げるだけでへたばってしまった。
「無垢材じゃないですか!」
 合板など無い時代の建物なのだ。
「あ? 傷だらけだし寒いから畳を敷いたんだよ」
 部屋の真ん中に敷いてある板戸を外すと、今度は囲炉裏が出てきた。
「囲炉裏だ!」
「いちいちうるせえな。電気の炬燵のほうが文化的じゃねえか」
「これ、見てください」   
 宥己は用意してきた雑誌をすかさず手渡した。時々購入している業界誌で今月の特集は古民家再生だった。古民家情報、古民家カフェと、古民家に関した記事が満載されている。
 吉本はぱらぱらとページを繰っていたが、やがて食い入るように誌面を見入っていた。
「この本、貸してもらえるか?」
「もう読んじゃったので。差し上げます」
「ありがとよ」
 畳をどけると往時の炉裏端が姿を現した。不思議なもので吉本の言う〝文化的〟なものがすべてなくなると、当初は陰鬱にみえた古びた土壁や煤で黒光りしている柱がしっくりと部屋に馴染んで趣深くさえある。
「こうやってみると、まあ悪くはねえな」
「悪くないどころか、素晴らしいです!」
 吉本の大工の腕前はかなりのものだった。床板を丁寧に剥がし、根太のチェックをする。作業は面白いように進んだ。
 根太はなんの問題もなかった。床板を磨けば見違えるようになるだろう。
「いよいよその大仰な機械を使うんだな」
「はい!」
 グラインダーをかけると木材の木目が鮮やかにうきあがってくる。
「栗だ!」 
「へえ、よく分かったな。先代が栗を植えてな、結構な数あったらしい。人が食べるより先に猿に食われてばっかりだったそうだ。そのうち虫がついて病気になっちまったから切っちまったんだとよ」
「いい床材になって。栗の木もきっと喜んでますよ」
「お前は面白いことをいうな」
「コンクリートの建物ばっかり扱っていたから。木の家に憧れているんです。床の塗装は何を使うんですか」
「柿渋だ。昔使ったのが牛小屋に置いてある」
 家の材料はほぼすべてが自前なのだ。金が無いから、と言えばそれまでだが、身の回りの物を使いきる先人の知恵には頭が下がる。
「柿渋、見るのは初めてです」
 吉本は牛小屋の柵を開け、奥から古びた一升瓶を取り出した。充分に発酵のすすんだ柿渋は黒っぽくなりトロリとしていた。
「上々」
 一升瓶を光に透かしながら吉本が呟いた。
 柿渋を少しずつ床に垂らしぼろきれで摺りこんでいく。作業をしていると、吉本が驚いたような顔をした。
「おめえ、この臭い平気なのか?」 
「銀杏みたいな匂いですね。懐かしいなあ」
「都会のもやしっ子と思ってたが、意外だな」
「伯母がこの近くに住んでいて。よく遊びに来ていたんです」
「へえ」
「生の銀杏のあの臭いは閉口しましたけど」
 八百屋で売っている銀杏の形態にするまでが一苦労なのだ。オレンジ色を帯びた薄茶色の果肉に包まれた銀杏はかなりリアルな排泄物のような臭いがする。しばらく水に浸して果肉を柔らかくしてから洗うのだが、発酵した銀杏の臭いがまた強烈だった。
「そっから手伝ったのか」
「はあ。それも勉強だって」
「いい伯母さんだな。今はどうしてる?」
「子供の頃、交通事故で亡くなりました」
「そうか……」
  吉本は黙々と床を磨き始めた。
 乾いて白茶けた木肌が柿渋を塗るとしっとりと黒光りしてくる。木が息を吹き返ようで床を磨く手元におのずと力が入った。
「よし、こんなもんだろ」
 目をあげてみると、黒い床全体が鈍い光を放っていた。
「いいなあ」
 縁側に立って惚れ惚れとしていると、吉本がまんざらでもなさそうに頷いた。
「まあ、悪くねえな。そろそろ昼飯にしようか」
「はい」
 宥己がコンビニエンスストアで買ってきたサンドイッチをバックパックから取り出すと、吉本が憐れむような顔をした。
「そんなもんじゃあ腹に溜まらないだろうが」
「はあ」
「ちょっと待ってろ」
 吉本は身軽に立ち上がると台所から握り飯を持ってきた。猿蟹合戦に出てくるような大きな握り飯だ。
「ほら、これを食え」
「いただきます」 
 握り飯は仄かに温かかった。塩のみで味をつけた塩結びだ。おかずは大根のぬか漬けだった。
「お焦げだ!」
 きつね色になってカリカリとした飯をいい塩梅の塩が引き立てて、後をひく旨さだ。感嘆しながら食べていると、同じように握り飯にかぶりついていた吉本がにやり、とした。
「竈で炊く飯に勝るものはねえな」
「もう一つ、いいですか」
「勿論だ。たんと食え」
 宥己は二個目の握り飯に手を伸ばした。
 次の休みは囲炉裏の修繕をした。灰を掻き出し、壁面を補強する。補強する材料も裏山の粘度質の土を捏ね上げて調達するのだ。いちいち感嘆する宥己を見て吉本は苦笑いをした。次は自在鉤を作らねばならない。
「こんな感じでいいですか」
 宥己が彫り上げた小猿を見せると、自在鉤を切り出していた吉本が頷いた。
「ちっと魚が可愛いすぎるが、ま、いいだろう」
 日が落ちるころには修理が終わった。床の柿渋は乾燥した空気のおかげで十分に乾燥して、本来の鈍い光を放っていた。
「いいなあ」
 囲炉裏に火をいれると闇が急に濃くなった。炎が揺らぐと壁の影も揺らめき、年期の入った家財道具がまるで生き物のように息づいている。
「今年はあいつらも帰ってくるかな」
 囲炉裏端に座って炎をぼんやりとみつめていた吉本が呟いた。
「勿論ですよ!」
「あの機械、一週間ほど貸してもらえるか?」 
「はい。返却はいつでもいいそうですから。あの、囲炉裏の写真を撮らせてもらってもいいですか?」
「ああ」
 吉本が部屋を出て行こうとするので、宥己は慌てて引き留めた。 
「ここに座っていてください。囲炉裏端だけじゃあ絵になりません。お子さんたち、写真を送ったら飛んで帰ってきますよ」 
「そんなものか?」
「ええ」
 宥己が確信をもって答えると、ちょっと待ってろ、と吉本はやおら立ち上がって部屋を出て行った。
 戻ってきた吉本は残り少ない髪をとかし、アイロンのきいたシャツを着て澄ましかえっている。そのままの作業着のほうが絵になるのだが、これはこれで面白いかもしれない。笑いをかみ殺しながらシャッターを切っていると、吉本がなんだよ、と口を尖らせた。
 
 翌週家に行くと、吉本は庭先でトロ箱の中の土を捏ねていた。今日の吉本は地下足袋をはき、鍬を手にしている。
「よく来たな! ちょっと中を見てくれ」
 いそいそと先に立って案内する吉本について家に入ると、室内は一変していた。渡した雑誌を手本としたかのように、囲炉裏には火が灯され自在鉤には鍋がかけられている。
「畳はどうしたんですか」
「処分した」
 照れ臭そうに吉本が答えた。
「今は壁を手直ししている」
「手伝いますよ!」
 上手いじゃないか。吉本におだてられ夢中になって土を捏ね、鏝で壁を塗った。
 手を使っていると目の前の事象だけに集中して思考は停止している。こてが土をこする音、湿った土の滑らかな感触、それがすべてだ。空っぽの頭で身体を動かすのは心地がいい。
「いいじゃねえか」
 立ち上がったら慣れない労働で凝り固まった腰がミシミシと音をたてた。吉本がそっぽを向いて笑いをこらえている。腰は痛むが肉体の疲れは爽快だ。
「あらかた終わったな。二階、見てみるか?」
「はい、ぜひ!」
 顔をあげると、いつの間にか薄暗くなっていた。吉本が囲炉裏に火をいれると、部屋の周囲が闇に沈み、炉の明るさが部屋を仄かに照らした。
 雑然としていた二階の作業場はすっかり壁が塗り直され、床は塗りたての柿渋で鈍く光っていた。囲炉裏の直ぐ上にあるから小さな部屋が心地よく温まっている。部屋の隅には薄く切った餅が新聞紙の上に綺麗に並んでいる。薄切りの餅は、白い餅だけでなく青のりの入ったものと黒豆の入ったものもあった。
「これ、何ですか」
「そりゃあかき餅だ。餅に少し塩をいれて、薄く切ってからこうやって乾燥させるんだ。知らんのか」
「はあ」
 保存食の一種だろうか。
「焼いて食うと旨いぞ。茶漬けにいれてもいいし、小腹が空いたときにつまむのに丁度いい。俺が餅をついてかかあが餅を切る係りだ。昔はここが寝間だった。かき餅の横だっていうのによ。あの頃は若かったな。ほとんど毎晩だ」
 ふと吉本の言葉がこぼれた。板床の隙間から漏れる仄かな明かりの下で互いに肌を温め合う男と女が目に浮かんだ。吉本の言葉には淫らな匂いは少しもなく土に生きる人の逞しさだけがあった。
「今日は冷えるな。飯、食っていかないか」
 暫しの沈黙のあと、吉本が唐突に言った。
「はい! いただきます」
「遠慮しねえのがお前のいいところだな」
「どうも」
 吉村は苦笑しながら急な階段を下りていった。
 大根、ゴボウ、人参、薬味はネギ。夕飯はこの辺りの郷土料理のひっつみ汁だった。米などできない痩せた土地だった頃の名残で、餅の代わりに小麦を練った団子が入っている。全て吉本が作った野菜だ。何の変哲もない野菜だが、香りが強くて各々の野菜が個性を主張している。野菜本来の味を思い出させるような力強い味がした。
 囲炉裏端で夢中になって食べていると、吉本が言った。
「かかあが生きている頃は醤油も味噌も自家製だったんだがな。どうだ、旨いか?」
「はい!」
「今年の正月は皆が帰ってくる。お前の写真のおかげだ。囲炉裏端でひっつみが食いたいだとよ」
「賑やかになりますね」
「ああ」
 炎に照らされた吉本の顔が艶々と光っていた。
 
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