カオルの家

内藤 亮

文字の大きさ
上 下
14 / 32

14

しおりを挟む
「セレクトホーム市村の……」
「慌てなくても大丈夫よ。これから棟梁とお茶にするところだから」
 携帯から芳ののんびりとした声が返ってきた。
「すみません! すぐ行きます」
 天気に恵まれて工事は順調に進んだ。養生を取り払った山小屋は見違えるようになっていた。屋根はすっかり新しくなっているし、壁面も塗り直されている。窓も最新の型番から選んだ二重窓だ。この家はこれから芳と共に新しい歴史を刻むのだ。
「無事完成ですね」
「ええ! 嬉しいわ」
 湯気の立つコーヒーを入れながら芳がほほ笑んだ。
「どうぞ。新しい台所で初めて淹れた記念すべきコーヒーよ」
「これはなかなか」
 コーヒーにはうるさい棟梁の奥村が目を細めた。マグカップにたっぷりと淹れたコーヒーから湯気がたっている。カフェインの摂取を目的にインスタントコーヒーをがぶ飲みしている宥己にも本物の旨さが沁みた。フルーティーな香りが鼻にぬけて後をひくうまさだった。奥村も芳もブラックで飲んでいるが、確かに、こんなコーヒーは砂糖もミルクも入れてはダメだ。
 「コーヒーメーカー、新しいのを買ったのよ。ペーパーを使わないからエコだと思って。今まではペーパーに美味しさが吸い取られてたのね。いつもの豆だけれど何だか香りが高くて美味しいの」
「どこのコーヒーメーカーです?」
 奥村が熱心に尋ねた。 
「ええと、イタリアのメーカーで……。ちょと待って。いま持ってくるわ」
 思っていたよりもずっと小ぶりで可愛らしいコーヒーメーカーだった。
「もう少し大きいサイズもあるのよ。私は一人だからこのサイズにしたけれど」
「へえ。洒落たデザインだな。高いんですか?」
「それが安いの。作りが単純だからかしらね」
 値段を知って奥村はもう買う気になっている。話を聞いているうちに宥己もコーヒーメーカーが欲しくなってきた。淹れたてのコーヒーで目を覚ます。なかなかに洒落ている。 
「ごちそうさまでした。中を見せていただきますね」
 奥村の仕事に間違いはないが、一応、形式的なチェックだ。和室は跡形もなくなくなって広々としたリビングダイニングになった。庭を一望できる大きな掃き出し窓を新しく設置して、そのまま外に出られるウッドデッキも新しく作った。
 トイレに行く時にはいつも馨について来てもらった真っ暗な廊下には、天井際に窓がつけられ柔らかい光が差し込んでいる。こう綺麗で明るくなってはもうお化けも出られないだろう。洋間にはすでに新しいベッドが置かれている。出窓から差し込んだ陽光が研磨された床板に反射して鈍い光を放っていた。
 何処もかしこもすっかり芳の家になっている。
「完璧ですね! さすが棟梁だ!」
「まあな」
 図面を引くことは出来るが、現場を取り仕切るのは奥村だ。もうとっくに引退してもいい年ごろなのだが、ここぞ、という工事では奥村の登場だ。既存の建物を生かすリフォームは新築よりも難しい。長年建っている建物は微妙な歪みや捻じれが生じている。そんな建物の癖を生かして再生する腕前はまさに職人技だった。奥村の仕事を目の当たりにして、自分の設計のやり方も変わってきた、と思うのは自惚れだろうか。
 付き合いのある工務店だけでなく、セレクトホーム市村は社員の平均年齢も高い。身体が動くうちは、と、けっこうな爺さんまで出社している。新築当時と同じ担当者が一軒の家をずっと受け持つことになるから、顧客の家族構成はもちろん、家の構成員の一人一人の好みまで熟知している。爺さんたちと一緒に仕事をして、顧客の愚痴を聞くのも仕事のうちなのだ、と学んだ。一人一人の話をじっくり聞くうちにリフォーム案が固まって、いつの間にかごたついていた家族関係まで良好になっている。
「これで工事は終わりです。何かありましたらいつでもご連絡ください」
「今度は仕事抜きで遊びにいらっしゃい」
 芳がいうと、奥村が妙な顔をした。
 いいというのに、門の外まで見送りに来た芳は、バックミラーから見えなくなるまで手を振っていた。
 車を連ねて事務所に戻ると奥村がニヤニヤとしている。
「隅におけないな」
「残念ですが、そういうんじゃないんですよ。芳さんは伯母の友人だったんです」
「馨さんの?」
 同じカオルだから紛らわしいが、奥村の口調が変わった。 
「ご存知なんですか」
「もちろんだ。あの家は俺がずっと面倒をみてきたんだ。ちょっと待て。渡すものがある」
 奥村は車のトランクを開けると古ぼけた木の箱を取り出した。
「天井裏から出てきたんだ。中にスケッチブックが入っている」
 持ってみるとかなり重い。
「お前の子供の頃の絵も入っているよ。かわいい絵を描いていたんだなあ」
 奥村はそこで言葉を切ると、くくっと笑った。
「油絵もあって、そっちはうちの車庫に置いてある。いつでも取りに来い」 
 業務報告をしている間も、木箱の中身を思うと上の空だった。ズシリと重たい木箱に馨との時間が入っているのだ。
「ちょっと一杯、行かないか」
 宥己は山本の誘いを丁重に断ると、家路を急いだ。

 
 
しおりを挟む

処理中です...