カオルの家

内藤 亮

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 芳が真鍮の鍵を差し込み、無骨なドアを開けた。入るとすぐ目の前には長い廊下があって北側は風呂場とトイレ、正面のドアは居間へと続いている。
 リュックを背負ったまま、靴を脱ぐのももどかしく開けたドアだ。
「開けてみて」
 芳に促されドアを開けると、西日で赤く色づいた部屋が目に飛び込んできた。がらんとした部屋の中を馨が横切ったような気がした。
「とりあえず掃除はしたのだけれど」
 せわしなく歩き回って部屋中の窓を開けながら芳が言った。夕方の冷やりとした空気が埃とカビの入り混じった部屋の空気をたちまちのうちに押しのけていった。
「テーブル、一緒に運んでくれる?」
「このテーブル……」
 壁の片隅に見慣れたダイニングテーブルと椅子が並んでいる。
「懐かしいでしょう。ずっとここにあったのよ。いかにも山小屋仕様のダイニングセットだから。どの住民も置きっぱなしにしていったのね」
 頑丈なだけが取り柄のような飾り気のないダイニングセットだ。分厚い胡桃材で出来たテーブルは優に十人は座れるほどの大きさで、かなりの重量がある。椅子も同じ胡桃材で出来ていて、こちらもかなり重い。テーブルの両端を持ち二人で慎重に移動した。
「これ、僕がつけた傷です」
 テーブルの傷は、彫刻刀を使ってバードカービングをしていた時につけた傷だ。台座にしっかりと固定したつもりだったのだが、手元が狂って彫刻刀は宥己の親指の付け根とテーブルに傷をつけた。テーブルには今も三センチほどの傷跡が残っていて、同じ太さの線が宥己の親指にも刻まれている。

 傷を覆ったティッシュペーパーがあっという間に血で染まり、痛みのせいでゾクゾクと寒気がする。親指を押さえたままうろうろと歩き回って救急箱を探していると、洗濯物を抱えた馨が鼻歌を歌いながら部屋に戻ってきた。 
「怪我してるじゃないの! どうしてすぐ私を呼ばないの!」
「馨ちゃん、ごめん! テーブル、傷つけちゃった」
 宥己が反射的に謝ると、馨が珍しく声を荒げた。
「大事なのは指でしょっ!」
 剣幕に驚いて、傷の痛みも忘れてその場に突っ立っていると、馨は慌ただしく部屋を出ていき、救急箱をひっつかんであっという間に戻って来た。馨は親指にきつく包帯を巻くと、宥己の肩にそっと手を置いた。
「さ、病院に行くわよ」
 病院に向かうタクシーの中で、馨はずっと宥己の肩を抱いていた。馨の胸は柔らかく温かかった。

「こっちにも傷が残ってます」
 宥己は親指の白い線を見せた。
「ここに貴方と馨さんの歴史が刻まれているのね」
「はい。貴女の歴史も」
 声を掛け合ったわけでもないのに、馨がいた頃と寸分違わぬ位置にテーブルは設置されている。
「それで。リフォームはやっぱりやってくださらないの?」
「ぜひ、やらせてください。よろしくお願いします」
 考えるより先に言葉が口をついていた。
「テーブルと椅子があれば、とりあえずご飯が食べられるわ」
 芳は無骨なテーブルの表面を愛おし気にさすりながら微笑んだ。
「このテーブルで馨さんと一緒にご飯を食べて。たくさん元気をもらったの」
「僕もです。一緒に採った山葡萄を食べたり、友達が作ってくれたっていうパウンドケーキを食べたりして。あのケーキ、うまかったなあ。ドライフルーツとナッツが沢山入っていて」
 そういったとたんに芳が嬉しそうな顔をした。
「よく覚えているわね。あれ、私が作ったのよ!」
「そうなんですか! 馨ちゃん、料理は上手かったけど、お菓子はいまいちで。ケーキもクッキーもぼそぼそしてて、おまけにちっとも甘くない。ヘルシーすぎるんですよ。ここでちゃんとしたお菓子が食べられるなんて思ってもいなかったから」
「たしかに。あのお菓子はいただけないわね」
「芳さんも食べたこと、あるんですか」
「ええ。あれじゃあ材料が勿体ないわ」
 率直な感想が可笑しくて宥己は思わず吹き出してしまった。
「料理は基本を守ればクリエイティブでもいいけれど。お菓子は絶対に守らないといけない分量の割合とか焼く温度とかあるの。枠組みが大切なのよ。その中で工夫するのが面白いのに。まあ、馨さん向きじゃあないわね」
 同性に対する観察眼の鋭さゆえか。子供だった自分よりもずっとよく馨をみている。いわれてみれば確かに馨には既存の枠をわざと逸脱して楽しむようなところがあった。菓子作りにもそんな性癖が反映されたのだろう。シュークリームやスポンジケーキがちっとも膨らまずカチカチだったはずだ。
「家の中、拝見させてもらっていいですか」
「ええ、もちろん。ご自由にどうぞ」
「ありがとうございます」
 不動産屋に電話をする、と言って芳は携帯を取り出した。一人で家を見て歩け、ということらしい。今更思い出に浸ることもないだろうが、芳の配慮はありがたかった。
 台所も風呂も当時のままだ。窓もところどころ割れているし、壁紙は黴だらけになって角のほうから剥がれ落ち、だらしなく垂れ下がっている。水回りは全て取り替えないと使えないだろうし、壁も大々的に直す必要がある。芳は人が住んでいた時期もあるようなことを言っていたが、実質はほとんど空家だったのだろう。最寄りの駅は著名な別荘地の名を冠しているが、ここは土地の者ばかりが住む土地だ。来る途中で小さなペンションが建っているのを見かけたが、繁盛しているようには見えなかった。
 建物の躯体自体はしっかりしているから、手を入れればそれなりの家になるだろう。だが、快適さをどこまで求めるのかは施主の予算と考え方次第だ。
 最後に馨の寝室だった和室の襖を開けた。
 腰高の窓から、あの日と同じ、夕方の赤みを帯びた光が部屋の奥まで入り込んでいる。
 夕日が部屋の真ん中に敷かれた布団を照らしている。北枕に寝かされた馨を赤い光が染めていた。
 葬儀はごく近しい身内だけを招いて、この山小屋でひっそりと行われた。棺を抱える男手が足りなくて、葬儀社の社員が棺を運んだ。手伝いをしようと棺の傍に走りよると、「やめなさい」と制止され、霊柩車に運ばれる馨をただ見送ることしかできなかった。

 ふと人の気配を感じて振り返ると、芳が心配そうな顔をして立っていた。
「大丈夫?」
「え?」
「ずっとそこに立っているから。顔色が悪いわ」
「ちょっと食べすぎただけですよ」
 声が震えないように腹に力を入れ、宥己はにこやかに答えた。芳は気遣わしげに宥己を見ていたが、すぐに質問を変えた。
「リフォーム工事、上手くいきそう?」
「ええ。建物の基本の躯体がしっかりしているから大丈夫です」
「よかった。費用は? やっぱり結構かかるわよね?」
 芳がおずおずと尋ねた。
「延べ床面積が小さいから、それほどでもないと思います。建築費って結局は人件費なんです。資材の仕入れ価格も会社によってばらつきがあるし。工務店次第ですね」
 メーカーがパンフレットに表示してある値段はあくまでも小売り希望価格だから、実際に商品を購入して設置するゼネコンや工務店によって仕入れの価格はかなりの差が生じるのだ。
「なるほどねえ」
「あとは、芳さんがこの家に何を求めるか、です」
「そういわれると難しいわ。ええと、そうねえ。私がおばあちゃんになっても住みやすい家にして欲しいの。ここを終の棲家にしたいから」
「それで十分ですよ。話し合ってじっくりリフォームの計画を詰めていきましょう」
「こっちにはしばらくいらっしゃるの?」
「はい。この辺りを見て回ってから帰ろうと思っていたので」
 とはいっても、ここに来ることになったのは予定外だった。馨の家が他人の物になっているのも、荒れ果てているのを見るのも耐え難かった。ここにだけは来ない、と決めていたのだ。
「打ち合わせ、早いほうがいいわね。明日はなにか予定がおあり?」
「いいえ。いつでも大丈夫です」
 失業中なのだ。いくらでも時間はある。そう言うと、芳は大笑いした。
「そうだったわね。どちらにお泊りなの?」
「駅前のビジネスホテルです」
「工務店はここからすぐなの。駅からなら早い時間でも大丈夫ね」
「はい」
 芳はもう一度電話を取り出すと、二言、三言、言葉を交わした。
「明日、十時に事務所で会いしましょうって」
「分かりました。よろしくお願いします」
「こちらこそ、よろしくね」
 馨に最期の別れをすることも出来なかった。山小屋が売りに出され遺品が次々と処分されていくのをただ見ているしかなかった。何もできなかった後悔が心の奥底に澱のように沈んでいる。二人の〝かおる〟の導きで得た機会を無駄にはしたくない。
 芳と別れた後、宥己は近くの文具店でスケッチブックとレポート用紙を買うと、そのままホテルの部屋に直行した。馨のイメージが強すぎて新しい図面を引くのに苦労した。
 ふと気が付くと小鳥の鳴き声がする。遮光カーテンを開けると、東の空が微かに明るくなっていた。一晩中一睡もせずに図面を引くことなど、学生時代の試験勉強以来だった。
 宥己は熱いシャワーを浴びると、よしっと気合をいれた。
 芳から貰った名刺の地図を頼りに『セレクトホーム市村』の事務所に行くと、受付の女性がすぐに気が付いて挨拶をした。
「佐伯様ですね。こちらへどうぞ」
 芳はすでに来ていて、初老の男と話をしていた。幅の広い背中に見覚えがある。
「宥坊! よく来たな」
「山本さん?」
 真っ黒だった髪の毛が白くなって目じりの皺が深くなっていたが、大きな身体とぎょろ目、大きな声は昔のままだ。
「おお! 久しぶりだな」
 山本は分厚い掌で宥己の肩をバンバンと叩いた。
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