シング 神さまの指先

笑里

文字の大きさ
上 下
81 / 97

ピース

しおりを挟む
「帰ろうとは何度も促したんです。でも、なかなか車に乗ってくれなくて。歌い終わるのを待って腕を取ろうとしただけど、なんか何度も上手くスルッとかわされたというか」
 ——すみません。こんな時間まで。
 圭太はボソボソと申し訳なさそうに何回か頭を下げた。
 だが圭司の心は騒めきが収まらなかった。圭がジョン・レノンを、しかも「マザー」を歌ったなんて。
 俺の勘違いだ。やっぱりあの子の気持ちは全然落ち着いてなかったんだ。まだ話すべきじゃなかったのに、紗英のお母さんの十七年間の苦しみを少しでも和らげてあげたかったばかりに——
 圭司はひたすら自分に、浅はかな自分に怒った。

「あの……」
 気がつくと、真剣な顔で圭太がじっと見ていた。
「ああ、ごめん。送ってくれてありがとう。気をつけて帰りなよ」
 動揺を悟られないように水を向けたが、圭太は帰ろうとはしなかった。
「あの——」食いつくような顔。「聞かせてもらうわけにはいきませんか。圭がマザーを歌いたかった理由を」
 本当の両親がいないことは聞いているんで、なんかいつもと違ってて——
 圭太はそう付け加えた。

 この圭太という男も圭の小さな感情の変化に気がついていたのか。
「君は圭の何を知ってる? そんな深い付き合いなのか」
 ついきつい口調で探りたくなる。——わかってるよ。みっともねえな、俺。
 圭太はしばらくポカンとして、やがてゆっくりと口を開いた。
「あの、それってどういう……」
「君は何歳だ? まだ十六歳の圭と付き合ってんのか」
 昨日から自分がおかしい。最低だ——。
 だが、そんな圭司に圭太は意外な答えを返した。
「圭は、僕の希望——です」
「希望?」
「彼女と知り合う前の僕は、デビューするという夢は叶わなかったけど、好きな音楽の世界で生きていければいいと、これからもずっとスタジオミュージシャンとして音楽と関わっていければいいと——」
 真っ直ぐに、目を逸らさずに白い息を吐いた。だいぶ冷えてきたようだ。
「だけど、あの子と出会って、やっぱり自分も作る側にいたいと、そう思ったんです。夢を諦めようとしていた僕は、まだあの時たった十五歳の子にガツンと頭を殴られたようだった。僕はあの子に恩返しがしたい。あの子の音楽をもっと、もっと高いところへ連れていくことが、僕のギターならできる自信があるんです」
 そこまで一気に圭太がしゃべった。そして少し下を向いて笑いながら言った。
「俺たちって、そんなふうに——ははは、今の今まで、全然そんなこと思いもしてなかった」
 圭司は返事ができなかった。圭太はひとしきり笑うと、ぴょこんと頭を下げ、
「すみません、笑っちまって。でもそうですよね、考えてみれば、普通そりゃそう思いますよね」という。「でも僕らはなんというか——、 ジグソーパズルのピースなんですよ」
「ピース?」
「ええ、お互いの音楽というジグソーに欠かせないピース。五線譜には必ずお玉杓子が必要なように、圭の歌と僕のギターはシンクロしてるんですよ」そこで圭太はニヤリと笑った。「それに僕はもうすぐ三十になるんです。まだ十七歳の子と恋愛などしてる暇は今のところないから安心してください」
 圭司は自分が恥ずかしかった。親バカだな。どうやら心配し過ぎたようだ——
「明日は何時から仕事だ?」
「十二時前に渋谷に行く予定ですけど」
「ちょっと飲みに行こう。知り合いの店が近くにあるんだ」
「自分、車っすよ」
「うちに泊まってけよ。それとも何か? 俺とは飲めないってのか?」
 ——昭和流の最低親父だな。一人でにやけてしまう。
「わかりましたよ。だけど明日の朝、車に乗れる程度で解放してくださいよ」
 明日のことなんて考えながら男が酒が飲めるかよ——

 昔馴染みのバーのカウンターに座り、圭司は圭との出会いから、今日までのことを圭太に話した。ただし父親のことだけは伏せた。圭太は注がれたビールには手を付けず、圭司の話を黙って聞いていたが、全部話が終わると、そこでやっと一杯ビールを飲み干して言った。
「今日、埠頭で歌ったマザーを聞かせたかったですよ。俺、心が震えたんすよ、マジで」
 わかるような気がする。きっと横浜のネオンの夜空を漂うような——
「それにしても、どこでマザーという曲を覚えたんだろうな」
 水割りを舐めながらぽつりと圭司がいう。
「僕もあの時初めて圭が歌うのを聞いたんで。でも、昔から知ってたみたいでしたよ」と圭太。「で、あの曲には父親も出てくるじゃないですか。圭の父親のことはわからないんですか」
 さて、どう答えよう。
「いや、はっきりとは圭は知らないが、多分、圭が世界中で一番嫌いな男になってんじゃないかな。だから、それはできるだけ触れないようにしてくれ」
 圭太は何回か小さく頷いて、「わかりました」とだけ答えた。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

光のもとで2

葉野りるは
青春
一年の療養を経て高校へ入学した翠葉は「高校一年」という濃厚な時間を過ごし、 新たな気持ちで新学期を迎える。 好きな人と両思いにはなれたけれど、だからといって順風満帆にいくわけではないみたい。 少し環境が変わっただけで会う機会は減ってしまったし、気持ちがすれ違うことも多々。 それでも、同じ時間を過ごし共に歩めることに感謝を……。 この世界には当たり前のことなどひとつもなく、あるのは光のような奇跡だけだから。 何か問題が起きたとしても、一つひとつ乗り越えて行きたい―― (10万文字を一冊として、文庫本10冊ほどの長さです)

100000累計pt突破!アルファポリスの収益 確定スコア 見込みスコアについて

ちゃぼ茶
エッセイ・ノンフィクション
皆様が気になる(ちゃぼ茶も)収益や確定スコア、見込みスコアについてわかる範囲、推測や経験談も含めて記してみました。参考になれればと思います。

孤独な戦い(3)

Phlogiston
BL
おしっこを我慢する遊びに耽る少年のお話。

ミックスド★バス~家のお風呂なら誰にも迷惑をかけずにイチャイチャ?~

taki
恋愛
【R18】恋人同士となった入浴剤開発者の温子と営業部の水川。 お互いの部屋のお風呂で、人目も気にせず……♥ えっちめシーンの話には♥マークを付けています。 ミックスド★バスの第5弾です。

女体化入浴剤

シソ
ファンタジー
康太は大学の帰りにドラッグストアに寄って、女体化入浴剤というものを見つけた。使ってみると最初は変化はなかったが…

生贄にされた先は、エロエロ神世界

雑煮
恋愛
村の習慣で50年に一度の生贄にされた少女。だが、少女を待っていたのはしではなくどエロい使命だった。

隣人、イケメン俳優につき

タタミ
BL
イラストレーターの清永一太はある日、隣部屋の怒鳴り合いに気付く。清永が隣部屋を訪ねると、そこでは人気俳優の杉崎久遠が男に暴行されていて──?

俺がカノジョに寝取られた理由

下城米雪
ライト文芸
その夜、知らない男の上に半裸で跨る幼馴染の姿を見た俺は…… ※完結。予約投稿済。最終話は6月27日公開

処理中です...