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時間がない
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「なあ、さっきスタートのときの合図の英語、なんつった?」
帰り道、長谷川先生の車の後部座席に二人で座っていると、孝太がそういう。
「英語って……ああ、もしかして『テイク・ユア・マークス』のこと?」
「ええっ、オン・ユア・マークって言わないの?」
「それは陸上でしょ? 水泳はテイク・ユア・マークスっていうのよ。それに、陸上のオン・ユア・マークは『位置について』でしょ。水泳のテイク・ユア・マークスは『用意』だからね」
ちょっと得意げにウンチクを語ってみたり。
「因島のプールじゃ、そんなこと言わなかったよな」
「だって、孝太君がすっごい真剣な顔で私のために言ってくれてたから、ここはツッコむとこじゃないかなあって思ってさ」
風花は思わずニンマリと笑う。
「マジか——俺、めっちゃかっこいいこと言ったと思ってたのに」
孝太が心底恥ずかしそうに両手で顔を覆ったのだった。
東京で風花の水泳指導をしていた斉藤コーチから電話があったのは、両親に水泳をもう一度やりたいと伝えたその夜のことだった。
彼女の名前は斉藤恵理子《さいとうえりこ》。風花が通っていたスイミングスクールのコーチで、かつてはオリンピックの代表選手だった。競技者を引退後に指導者となり、同時に大学に入り直してスポーツトレーナーの資格を取得している努力家だ。
風花の才能を開花させたのも、この斉藤コーチの指導によるものだと言われている。
「稜西《りょうせい》高校って知ってるでしょう?」
もちろん知っていた。高校水泳界では有名な私立学校だ。
「あそこが風花だったら、2学期からでも編入を許可してくれるって。あと2週間もなくて慌ただしいけど、どう? もちろん、特待生扱いだけど」
「でもコーチ、私はほとんど1年泳いでないし、そのレベルで泳げる自信がまだないです」
それは偽らざる風花の本音だった。
「そうだろうね。でも、本気で復帰を考えてるなら、1日でも早い方がいい。自信がないなら、だからこそ最初から体を作り直して、先を見据えようよ」
「先?」
「何よ、忘れたの? オリンピックでしょ」
そうだ。小さい頃にコーチと約束したんだ。
「でも、コーチはどうするんですか」
もし稜西高校に風花が入ったら、部活動が忙しいはずだ。そうなるとスイミングスクールに行く時間が限られてしまう。
「もちろん、風花の専属コーチとして私も稜西に来てくれって言われてる。他の選手のトレーナー兼務って仕事もあるけどね」
「コーチがいるなら、稜西に行きたいです」
「わかった。ご両親にも話しておくから、とりあえず明日にでも東京へ帰って来て。形だけだけど面接は受けなきゃいけないから」
ん? 今——
「ええっ、明日ですかあ!」
「そうよ。新学期まで時間がないからね。1日でも早く決めとかなきゃ。合格したら尾道の高校にはご両親から連絡してもらうからさ、とにかくすぐに来て」
はい、と返事をするしかない。とにかく急いで準備をして、翌日の一番の列車で風花は東京へ向かったのだった。
⌘
面接が終わり、風花は2学期から稜西高校への編入があっさりと決まった。転校まであと10日もない段階で、それまでにやらなければならないことが山積みとなった。
とりあえず尾道へ帰る前に、まずは斉藤コーチとともに去年までずっとお世話になっていたスポーツメーカーを訪ねた。今の体型にピッタリと合わせた水着、「大道風花特製スーツ」を作ってもらうために採寸を行った。
一晩だけ家に泊まる。風花が部屋は出て行ったときのままにしてくれていた。
まずは携帯を取り出して、孝太に編入が決まったことをトークアプリで送ると、すぐに返信があった。
「じゃあ、来年か再来年に高校総体で会えるように俺も頑張るよ」
力こぶの絵文字が添えられていた。
しばらく孝太とトークをした後に、ふっと美織にも送っておくか迷ったが、美織には尾道に帰ってからトークなどではなく顔を見て話そうと決めた。
そういえば、あの因島の件以来、美織とはなぜかすれ違ってばかりだ。母を連れて店に行ったとき顔を合わせたが、彼女は秋に行われる競技かるたのクイーン戦予選のため、かるた会で練習に打ち込んでいるようだ。
東京へ帰ることを、どう話を切り出そうか。きっと驚くだろうな——
久しぶりの自分のベッドに横になって、小さい頃から見慣れた天井を見つめているうちに眠りについた。
早朝の新幹線で再び尾道へ向かう。半年前は景色さえもみる余裕がなかった車窓に雄大な富士山が裾野まで綺麗に見えた。あの頃は自分がどれだけ余裕がなかったのかと改めて思う。
今日は福山から普通列車で尾道に向かう。
海が見えた。海が見える。
たった1日だけ尾道を離れただけで、その列車から見える海の風景がやけに懐かしい。
私はもう、どれだけ尾道が好きになってるんだか。
ひとりでくすりと笑ってしまう。
そんな風花を乗せた列車は、静かに尾道駅へ滑り込んだ。
約1週間でこの街を離れるかと思うと、この駅さえも愛おしいと思いながら、まばらな駅舎をしっかりと目に焼き付けた。
帰り道、長谷川先生の車の後部座席に二人で座っていると、孝太がそういう。
「英語って……ああ、もしかして『テイク・ユア・マークス』のこと?」
「ええっ、オン・ユア・マークって言わないの?」
「それは陸上でしょ? 水泳はテイク・ユア・マークスっていうのよ。それに、陸上のオン・ユア・マークは『位置について』でしょ。水泳のテイク・ユア・マークスは『用意』だからね」
ちょっと得意げにウンチクを語ってみたり。
「因島のプールじゃ、そんなこと言わなかったよな」
「だって、孝太君がすっごい真剣な顔で私のために言ってくれてたから、ここはツッコむとこじゃないかなあって思ってさ」
風花は思わずニンマリと笑う。
「マジか——俺、めっちゃかっこいいこと言ったと思ってたのに」
孝太が心底恥ずかしそうに両手で顔を覆ったのだった。
東京で風花の水泳指導をしていた斉藤コーチから電話があったのは、両親に水泳をもう一度やりたいと伝えたその夜のことだった。
彼女の名前は斉藤恵理子《さいとうえりこ》。風花が通っていたスイミングスクールのコーチで、かつてはオリンピックの代表選手だった。競技者を引退後に指導者となり、同時に大学に入り直してスポーツトレーナーの資格を取得している努力家だ。
風花の才能を開花させたのも、この斉藤コーチの指導によるものだと言われている。
「稜西《りょうせい》高校って知ってるでしょう?」
もちろん知っていた。高校水泳界では有名な私立学校だ。
「あそこが風花だったら、2学期からでも編入を許可してくれるって。あと2週間もなくて慌ただしいけど、どう? もちろん、特待生扱いだけど」
「でもコーチ、私はほとんど1年泳いでないし、そのレベルで泳げる自信がまだないです」
それは偽らざる風花の本音だった。
「そうだろうね。でも、本気で復帰を考えてるなら、1日でも早い方がいい。自信がないなら、だからこそ最初から体を作り直して、先を見据えようよ」
「先?」
「何よ、忘れたの? オリンピックでしょ」
そうだ。小さい頃にコーチと約束したんだ。
「でも、コーチはどうするんですか」
もし稜西高校に風花が入ったら、部活動が忙しいはずだ。そうなるとスイミングスクールに行く時間が限られてしまう。
「もちろん、風花の専属コーチとして私も稜西に来てくれって言われてる。他の選手のトレーナー兼務って仕事もあるけどね」
「コーチがいるなら、稜西に行きたいです」
「わかった。ご両親にも話しておくから、とりあえず明日にでも東京へ帰って来て。形だけだけど面接は受けなきゃいけないから」
ん? 今——
「ええっ、明日ですかあ!」
「そうよ。新学期まで時間がないからね。1日でも早く決めとかなきゃ。合格したら尾道の高校にはご両親から連絡してもらうからさ、とにかくすぐに来て」
はい、と返事をするしかない。とにかく急いで準備をして、翌日の一番の列車で風花は東京へ向かったのだった。
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面接が終わり、風花は2学期から稜西高校への編入があっさりと決まった。転校まであと10日もない段階で、それまでにやらなければならないことが山積みとなった。
とりあえず尾道へ帰る前に、まずは斉藤コーチとともに去年までずっとお世話になっていたスポーツメーカーを訪ねた。今の体型にピッタリと合わせた水着、「大道風花特製スーツ」を作ってもらうために採寸を行った。
一晩だけ家に泊まる。風花が部屋は出て行ったときのままにしてくれていた。
まずは携帯を取り出して、孝太に編入が決まったことをトークアプリで送ると、すぐに返信があった。
「じゃあ、来年か再来年に高校総体で会えるように俺も頑張るよ」
力こぶの絵文字が添えられていた。
しばらく孝太とトークをした後に、ふっと美織にも送っておくか迷ったが、美織には尾道に帰ってからトークなどではなく顔を見て話そうと決めた。
そういえば、あの因島の件以来、美織とはなぜかすれ違ってばかりだ。母を連れて店に行ったとき顔を合わせたが、彼女は秋に行われる競技かるたのクイーン戦予選のため、かるた会で練習に打ち込んでいるようだ。
東京へ帰ることを、どう話を切り出そうか。きっと驚くだろうな——
久しぶりの自分のベッドに横になって、小さい頃から見慣れた天井を見つめているうちに眠りについた。
早朝の新幹線で再び尾道へ向かう。半年前は景色さえもみる余裕がなかった車窓に雄大な富士山が裾野まで綺麗に見えた。あの頃は自分がどれだけ余裕がなかったのかと改めて思う。
今日は福山から普通列車で尾道に向かう。
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たった1日だけ尾道を離れただけで、その列車から見える海の風景がやけに懐かしい。
私はもう、どれだけ尾道が好きになってるんだか。
ひとりでくすりと笑ってしまう。
そんな風花を乗せた列車は、静かに尾道駅へ滑り込んだ。
約1週間でこの街を離れるかと思うと、この駅さえも愛おしいと思いながら、まばらな駅舎をしっかりと目に焼き付けた。
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