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夕凪の頃
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8月13日の夕方、風花は母と尾道駅にいた。父を迎えるためだ。
父が尾道を訪れるのは、結婚の挨拶の時に1日だけ、滞在時間2時間だったと母がいう。そのころはまだ母と祖母がうまくいっていなかったこともあり、母が行かなくてもいいと言ったらしいが、最低限の礼だけは尽くしたいと父が言い、結局のところ挨拶だけすますと、宿泊もせずにとんぼ返りで東京へ帰ったということだった。
列車が駅に入ってきて、一瞬だけ父の顔が窓ガラス越しに目の前を通り過ぎ、その窓はホームの先端に近いところで止まった。
「なんだ、瀬戸内《せとうち》もずいぶん暑いなあ」
列車から降りるなり父が天を仰いだ。
「時間帯によるのよ。特に夕方は風が止まる凪の時間だから、今が一番蒸し暑い時間なのよね」
母がハンカチを取り出して、父の流れ出る汗を拭いて上げた。
風花が気になって仕方なかった父と母は、思っていたよりもずっと仲が良さそうで少し安堵した。
「初めてきた時の俺、若かったんだなあ。ここまで坂だったっけ」
線路を渡って家へ向かう坂道を見上げて父がしみじみと感嘆の声を上げた。
「私は毎日、この坂道から学校へ行ってるんだよ」風花はさらに朝のトレーニングまでしているのだ。「ほら、置いて行くよ」
「お父さんだって、風花の歳のころはこれくらい走って上がれたさ」
強がりを言いながら、父はもう一度坂を見上げて気合を入れた。二人の様子を笑いながら母が後ろからついてきた。
「お義母さん、ご無沙汰して申し訳ありませんでした」
家へ着くと、父はまず仏壇の祖父の写真に手を合わせ、それから祖母へ頭を下げた。
「尾道は遠かったでしょう」
「それが、列車の窓から向島が見えたとき、ああ帰ってきたと思いました。ここへは一度しか来たことはなかったのに不思議です」
父は出された麦茶を一気に飲んだ。
「私のせいだから。隆さんは何度も帰ろうって言ってくれてたんだけどね」
母は父を気遣ったのだろう、父が飲み干したコップに麦茶を注ぎながらそう言った。
「風花、少し話があるんだけど」
父がそう言い出したのは、夕食が終わったときだった。母がテーブルの上をひと通り片付けて、また椅子に座った。
祖母も同席している。何も言わないところをみると、風花がいない間に3人での話はできていたのかもしれない。
「東京で一緒に暮らさないか。もし風花が嫌じゃなかったら、だけど」
最初に口を開いたのは父だった。
この数ヶ月、一度もそんな話がでたことはなかった。突然切り出されて、風花は少し戸惑いながら母の顔を見ると、母が小さく頷いた。
「でも、私は学校もあるし……」
いきなりのことで、すぐに答えられるものでもない。
「もちろん、今すぐとは言わない。高校は品川に編入試験を受けさせてくれるところがあるし」
「お父さんもお母さんも、やっぱり風花と暮らしたいのよ。本気で考えてもらえないかなあ」
父の言葉を継いで、母がそう言った。
助けを求めるように祖母の顔を見ると、とても穏やかな顔で、
「おばあちゃんのことは気にしなくていいんだよ」
と言った。やはり、事前に話をしていたみたいだ。
風花は視線を落としてテーブルクロスの模様をじっと見ていた。大きな花柄の白いレースのクロスだ。見ようによっては水紋のようだった。
「水泳は風花がしたくないなら、もう無理に続けなくてもいいよ。それはお父さんと約束したから」
母の言葉に、風花がハッとしたように顔を上げた。
あの日、あの因島のプールで、くるぶしまでしかない子供用プールに二人で横たわり、少しずつ水に慣れるところからスタートし、次に膝上まで水があるプールに顔をつけながら徐々に慣らしていった。
そして次の日、夏休み中ではあるが長谷川先生に許可をもらい、部活として学校のプールに入った。競泳用の水着は東京にしかないため、いわゆるスクール水着で、最初はやはり恐怖心が抜けずにプールの縁から手が離せなかったが、そのうち孝太の手を掴みながら体を浮かせてバタ足ができるようになった。
約1年という期間が過ぎていた。泳ぐことを忘れた風花の体は、水に対する恐怖心が薄れていくにつれて感覚が蘇ってくるのを感じた。しかも、思ったよりも体力が落ちていなかった。きっと春から孝太と行ってきた坂道トレーニングのおかげなのかもしれないと思った。
肩の可動域も落ちていない。これはどうやら競技かるたの練習の賜物だ。相手の右下段の札を払う右手の素振りは毎日続けていて、さらに体の筋肉のバランスをとるために左手で逆への素振りも行ってきた。さらに姿勢を保つために背筋と腹筋も鍛えてきたのが意外な形で役に立ったようだ。
飛び込み台にはまだ立ててないが、少しずつ自信が戻ってきつつあった。
そんな状況で両親から東京に帰ろうと言われた。両親と暮らすことが嫌なわけではない。
だがそれは、もう孝太のそばにいられなくなるということだ。美織や祖母とも離れてしまうということだ。そして何よりも、尾道が大好きになっている自分がいる。
何日か考えさせて欲しい。風花はそうお願いした。
父が尾道を訪れるのは、結婚の挨拶の時に1日だけ、滞在時間2時間だったと母がいう。そのころはまだ母と祖母がうまくいっていなかったこともあり、母が行かなくてもいいと言ったらしいが、最低限の礼だけは尽くしたいと父が言い、結局のところ挨拶だけすますと、宿泊もせずにとんぼ返りで東京へ帰ったということだった。
列車が駅に入ってきて、一瞬だけ父の顔が窓ガラス越しに目の前を通り過ぎ、その窓はホームの先端に近いところで止まった。
「なんだ、瀬戸内《せとうち》もずいぶん暑いなあ」
列車から降りるなり父が天を仰いだ。
「時間帯によるのよ。特に夕方は風が止まる凪の時間だから、今が一番蒸し暑い時間なのよね」
母がハンカチを取り出して、父の流れ出る汗を拭いて上げた。
風花が気になって仕方なかった父と母は、思っていたよりもずっと仲が良さそうで少し安堵した。
「初めてきた時の俺、若かったんだなあ。ここまで坂だったっけ」
線路を渡って家へ向かう坂道を見上げて父がしみじみと感嘆の声を上げた。
「私は毎日、この坂道から学校へ行ってるんだよ」風花はさらに朝のトレーニングまでしているのだ。「ほら、置いて行くよ」
「お父さんだって、風花の歳のころはこれくらい走って上がれたさ」
強がりを言いながら、父はもう一度坂を見上げて気合を入れた。二人の様子を笑いながら母が後ろからついてきた。
「お義母さん、ご無沙汰して申し訳ありませんでした」
家へ着くと、父はまず仏壇の祖父の写真に手を合わせ、それから祖母へ頭を下げた。
「尾道は遠かったでしょう」
「それが、列車の窓から向島が見えたとき、ああ帰ってきたと思いました。ここへは一度しか来たことはなかったのに不思議です」
父は出された麦茶を一気に飲んだ。
「私のせいだから。隆さんは何度も帰ろうって言ってくれてたんだけどね」
母は父を気遣ったのだろう、父が飲み干したコップに麦茶を注ぎながらそう言った。
「風花、少し話があるんだけど」
父がそう言い出したのは、夕食が終わったときだった。母がテーブルの上をひと通り片付けて、また椅子に座った。
祖母も同席している。何も言わないところをみると、風花がいない間に3人での話はできていたのかもしれない。
「東京で一緒に暮らさないか。もし風花が嫌じゃなかったら、だけど」
最初に口を開いたのは父だった。
この数ヶ月、一度もそんな話がでたことはなかった。突然切り出されて、風花は少し戸惑いながら母の顔を見ると、母が小さく頷いた。
「でも、私は学校もあるし……」
いきなりのことで、すぐに答えられるものでもない。
「もちろん、今すぐとは言わない。高校は品川に編入試験を受けさせてくれるところがあるし」
「お父さんもお母さんも、やっぱり風花と暮らしたいのよ。本気で考えてもらえないかなあ」
父の言葉を継いで、母がそう言った。
助けを求めるように祖母の顔を見ると、とても穏やかな顔で、
「おばあちゃんのことは気にしなくていいんだよ」
と言った。やはり、事前に話をしていたみたいだ。
風花は視線を落としてテーブルクロスの模様をじっと見ていた。大きな花柄の白いレースのクロスだ。見ようによっては水紋のようだった。
「水泳は風花がしたくないなら、もう無理に続けなくてもいいよ。それはお父さんと約束したから」
母の言葉に、風花がハッとしたように顔を上げた。
あの日、あの因島のプールで、くるぶしまでしかない子供用プールに二人で横たわり、少しずつ水に慣れるところからスタートし、次に膝上まで水があるプールに顔をつけながら徐々に慣らしていった。
そして次の日、夏休み中ではあるが長谷川先生に許可をもらい、部活として学校のプールに入った。競泳用の水着は東京にしかないため、いわゆるスクール水着で、最初はやはり恐怖心が抜けずにプールの縁から手が離せなかったが、そのうち孝太の手を掴みながら体を浮かせてバタ足ができるようになった。
約1年という期間が過ぎていた。泳ぐことを忘れた風花の体は、水に対する恐怖心が薄れていくにつれて感覚が蘇ってくるのを感じた。しかも、思ったよりも体力が落ちていなかった。きっと春から孝太と行ってきた坂道トレーニングのおかげなのかもしれないと思った。
肩の可動域も落ちていない。これはどうやら競技かるたの練習の賜物だ。相手の右下段の札を払う右手の素振りは毎日続けていて、さらに体の筋肉のバランスをとるために左手で逆への素振りも行ってきた。さらに姿勢を保つために背筋と腹筋も鍛えてきたのが意外な形で役に立ったようだ。
飛び込み台にはまだ立ててないが、少しずつ自信が戻ってきつつあった。
そんな状況で両親から東京に帰ろうと言われた。両親と暮らすことが嫌なわけではない。
だがそれは、もう孝太のそばにいられなくなるということだ。美織や祖母とも離れてしまうということだ。そして何よりも、尾道が大好きになっている自分がいる。
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