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雨の日、花柄
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傘をさしていても足元はびしょ濡れだ。本降りとなった雨の中、風花はいつもの坂道を登りながら途中で振り向いてみる。そんなことがあるわけはないのに、初めてミオとこの坂を帰ったときのように、いつの間にか孝太が後ろから登ってくるような、そうな気がしたのだ。
低い雨雲が垂れ込めた尾道水道の海は鈍い鉛色で、向島さえも霞んで見える。まだ時間は早いのにまるで夕暮れのようだ。風花はそこでしばらく立ち尽くしてじっと下り坂を見つめていたが、ため息をついてクルリと踵を返し、また坂を登り始めた。
「あら、どしたん? 部活は?」
風花の少し元気のない「ただいま」と言う声が気になったのか、祖母が台所から出てきた。
玄関の上り口に腰掛け、靴の次に靴下も脱いで片手にぶら下げて持ちながら家に上がった。
「来月に近江神宮で大会があるから、今日からミオちゃんたちはかるた会に行くんだって」浴室の扉を開けて、洗濯カゴへ脱いだばかりの靴下を放る。「うわあ、スカートの裾までびしょびしょ——」
「ああ、ミオちゃんたちはやっぱり個人戦に出るんね」祖母はタンスからタオルを出して、風花に渡す。「ほら、風邪引くから、早く着替えておいで」
「うん」
とりあえず足を綺麗に拭いて、自分の部屋へ行き灯りをつけてから普段着に着替えた。横殴りとなった雨がバタバタと窓ガラスに当たり、そのまま川のように流れ落ちてゆく。
孝太が絶景と言ってくれた尾道の景色も見えやしない——
しばらくボーッと雨を眺めていた。
「風花は個人戦は出なくてよかったん? 級別の試合もあるんでしょ?」
「うん、いいの。ちゃんと百人一首を勉強して、ちゃんと強くなって。そしたら来年は団体戦と個人戦に出られるかなあって」
お味噌汁を啜る。今日は雨で気温が下がり、暖かいお味噌汁が美味しい。
「おばあちゃん、このスライスした緑の具はなに?」ひとつ箸でつまみ上げた。
「ああ、それはアスパラよ」
「アスパラ? へえ、初めて食べたけどお味噌汁にアスパラも意外に美味しい」
「『セラ』の初物が出てたからね」
「セラ?」風花が初めて聞く土地の名前。
尾道の北にある世羅町は、「広島の台所」と呼ばれ、農産物が豊かな土地だという。
「世羅は尾道とは切っても切れない縁のあるところだからね」
「何かで有名なところ?」
「世羅町はね——」
今からおよそ千年前、平安時代後期の頃に世羅には「大田庄」と呼ばれる荘園があった。荘園というのは、平安貴族の領地であり、彼ら貴族の食物を生産する農地のことでもある。飛鳥時代の頃はまだ小さな港町だった尾道は、平安時代後期になり、その地形もあって後白河院へ大田庄から年貢の農産物を積み出す主要な港として栄え、それが「港町」尾道の今へ繋がっているという。
そして、その貴族や尾道へ寄港する北前船などの大船主が勢力を誇示するために競ってお寺を寄進した。尾道のもうひとつの顔、「寺の町」尾道がこうしてできたのだった。この小さな街にもかかわらず、尾道に百を越えるお寺があるのはそうした歴史があるのだ。
「平安後期から鎌倉時代って小倉百人一首が編纂された時期でね、それがちょうど尾道の歴史が重なってるのよね。そう考えると尾道とかるたって、ちょっとした縁があるみたいでなかなか面白いでしょ」
「おばあちゃんはそれでかるたを始めたの?」
「そういうわけじゃないけど、古文を研究してたら、かるた遊びって面白そうって思って」
そう言って、おばあちゃんは笑った。
食事が終わった頃、玄関のインターフォンが鳴った。
「はーい」
風花がサッと立ち上がって灯りをつけて玄関の引き戸を開ける。
「いやあ、すごい雨だわ」
傘をたたみながら、後ろ向きに入ってきたのは、なんとミオの母だった。手には風呂敷包を雨に濡れないようにだろう、しっかりと抱いていた。
「こんばんは、風花ちゃん。先生——おばあさまはいらっしゃる?」
「あっ、こんばんは。おばあちゃーん、ミオのお母さん」
風花は大声で台所で洗い物をしている祖母を大声で呼んだ。
「あらあら、ふみちゃん。どしたんね、こんな雨ん中」
祖母はミオの母を「ふみちゃん」と呼んだ。
「先生、お食事中じゃありませんでした?」
「もう終わったわよ。まあ、そんなとこに立ってないで上がりんさい。風花、タオル持ってきて」
「はい、お言葉に甘えて、じゃあ少しだけ」
履き物を脱いだミオの母は、風花がタオルを渡すと丁寧に足を拭いてから家に上がった。
「わあ、この家に上がるのは何年振りかしら」
ミオの母はそう言って天井をキョロキョロと見回している。
「まあ、座りんさい。どしたんね、こんな時間に珍しい。旦那さんは?」
「今日はミオがかるた会に行っとるから、8時ごろに旦那が迎えに行ってからご飯なんですよ。だから、その前にこの間のお店の写真のお礼にって思って」
ミオの母は祖母の前に静かに座り、丁寧にお辞儀をした後に抱いていた風呂敷を畳の上に下ろして風呂敷を解いた。
「これを風花ちゃんに」
そう言ってミオの母が差し出したのは、白地に大きな花柄の生地で——真新しい浴衣と帯だった。
低い雨雲が垂れ込めた尾道水道の海は鈍い鉛色で、向島さえも霞んで見える。まだ時間は早いのにまるで夕暮れのようだ。風花はそこでしばらく立ち尽くしてじっと下り坂を見つめていたが、ため息をついてクルリと踵を返し、また坂を登り始めた。
「あら、どしたん? 部活は?」
風花の少し元気のない「ただいま」と言う声が気になったのか、祖母が台所から出てきた。
玄関の上り口に腰掛け、靴の次に靴下も脱いで片手にぶら下げて持ちながら家に上がった。
「来月に近江神宮で大会があるから、今日からミオちゃんたちはかるた会に行くんだって」浴室の扉を開けて、洗濯カゴへ脱いだばかりの靴下を放る。「うわあ、スカートの裾までびしょびしょ——」
「ああ、ミオちゃんたちはやっぱり個人戦に出るんね」祖母はタンスからタオルを出して、風花に渡す。「ほら、風邪引くから、早く着替えておいで」
「うん」
とりあえず足を綺麗に拭いて、自分の部屋へ行き灯りをつけてから普段着に着替えた。横殴りとなった雨がバタバタと窓ガラスに当たり、そのまま川のように流れ落ちてゆく。
孝太が絶景と言ってくれた尾道の景色も見えやしない——
しばらくボーッと雨を眺めていた。
「風花は個人戦は出なくてよかったん? 級別の試合もあるんでしょ?」
「うん、いいの。ちゃんと百人一首を勉強して、ちゃんと強くなって。そしたら来年は団体戦と個人戦に出られるかなあって」
お味噌汁を啜る。今日は雨で気温が下がり、暖かいお味噌汁が美味しい。
「おばあちゃん、このスライスした緑の具はなに?」ひとつ箸でつまみ上げた。
「ああ、それはアスパラよ」
「アスパラ? へえ、初めて食べたけどお味噌汁にアスパラも意外に美味しい」
「『セラ』の初物が出てたからね」
「セラ?」風花が初めて聞く土地の名前。
尾道の北にある世羅町は、「広島の台所」と呼ばれ、農産物が豊かな土地だという。
「世羅は尾道とは切っても切れない縁のあるところだからね」
「何かで有名なところ?」
「世羅町はね——」
今からおよそ千年前、平安時代後期の頃に世羅には「大田庄」と呼ばれる荘園があった。荘園というのは、平安貴族の領地であり、彼ら貴族の食物を生産する農地のことでもある。飛鳥時代の頃はまだ小さな港町だった尾道は、平安時代後期になり、その地形もあって後白河院へ大田庄から年貢の農産物を積み出す主要な港として栄え、それが「港町」尾道の今へ繋がっているという。
そして、その貴族や尾道へ寄港する北前船などの大船主が勢力を誇示するために競ってお寺を寄進した。尾道のもうひとつの顔、「寺の町」尾道がこうしてできたのだった。この小さな街にもかかわらず、尾道に百を越えるお寺があるのはそうした歴史があるのだ。
「平安後期から鎌倉時代って小倉百人一首が編纂された時期でね、それがちょうど尾道の歴史が重なってるのよね。そう考えると尾道とかるたって、ちょっとした縁があるみたいでなかなか面白いでしょ」
「おばあちゃんはそれでかるたを始めたの?」
「そういうわけじゃないけど、古文を研究してたら、かるた遊びって面白そうって思って」
そう言って、おばあちゃんは笑った。
食事が終わった頃、玄関のインターフォンが鳴った。
「はーい」
風花がサッと立ち上がって灯りをつけて玄関の引き戸を開ける。
「いやあ、すごい雨だわ」
傘をたたみながら、後ろ向きに入ってきたのは、なんとミオの母だった。手には風呂敷包を雨に濡れないようにだろう、しっかりと抱いていた。
「こんばんは、風花ちゃん。先生——おばあさまはいらっしゃる?」
「あっ、こんばんは。おばあちゃーん、ミオのお母さん」
風花は大声で台所で洗い物をしている祖母を大声で呼んだ。
「あらあら、ふみちゃん。どしたんね、こんな雨ん中」
祖母はミオの母を「ふみちゃん」と呼んだ。
「先生、お食事中じゃありませんでした?」
「もう終わったわよ。まあ、そんなとこに立ってないで上がりんさい。風花、タオル持ってきて」
「はい、お言葉に甘えて、じゃあ少しだけ」
履き物を脱いだミオの母は、風花がタオルを渡すと丁寧に足を拭いてから家に上がった。
「わあ、この家に上がるのは何年振りかしら」
ミオの母はそう言って天井をキョロキョロと見回している。
「まあ、座りんさい。どしたんね、こんな時間に珍しい。旦那さんは?」
「今日はミオがかるた会に行っとるから、8時ごろに旦那が迎えに行ってからご飯なんですよ。だから、その前にこの間のお店の写真のお礼にって思って」
ミオの母は祖母の前に静かに座り、丁寧にお辞儀をした後に抱いていた風呂敷を畳の上に下ろして風呂敷を解いた。
「これを風花ちゃんに」
そう言ってミオの母が差し出したのは、白地に大きな花柄の生地で——真新しい浴衣と帯だった。
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