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第七章 常安の春秋
第四十六話
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麦秋が過ぎ、帝都常安に夏が訪れた。皇帝の側近の一人である甄邯が過労で死んだ。甄邯は大新帝国の軍務長官であり、帝国政府が推進する諸改革に関わりながら、対匈奴戦における十五単于擁立作戦の修正、及び破綻状態にある兵站の立て直しに奔走していたが、それらが実を結ぶ前に真夏の執務室で倒れた。甄邯の急死は帝国の政治、軍事、経済に深刻な悪影響を与えた。政庁は混乱し、十五単于擁立作戦の修正は滞り、兵站と流通の問題は後回しにされ、そして、皇帝はまた一人、信頼できる腹心を失くした。
夏が去り、天高く馬肥ゆる秋が来た。匈奴軍が万里の長城を越えて帝国に侵入した。国境を防衛する城塞の一つが攻め落とされ、城民が虐殺された。帝国政府は報復として匈奴軍の捕虜を公開処刑した。処刑された捕虜の中には、於粟置支侯咸の子、登が含まれていた。
晩秋を越え、木枯らしが帝都の大路を吹き抜けた。劉秀の族兄の来歙が隗囂の邸宅を訪れた。隗囂は来歙を主屋へ招き入れた。互いの近況を語り合い、時世を論じた。家内奴隷の老女が、賑やかなことで、と微笑みながら、厨房で温めた酒を運んできた。時勢を論じることを中断し、酒を酌み交わしながら酒を論じた。幾度かの乾杯の後、来歙が隗囂に訊ねた。
「ところで、劉秀の姿が見えませんが、今、どこに?」
「東の城門の秦の金人は見たかね?」
「勿論です。今年も新年に備え、命知らずの若者たちが金人に攀じ登り、黄塵を掃い落としていました。長安、いや、常安の冬の風物詩ですが――」
それがどうかしたのか、と隗囂に訊こうとして、来歙は気づいた。
「――なるほど、あれを見物しているのですか」
「いや、金人を攀じ登る命知らずの一人が劉文叔だ」
何ですと、と来歙が驚いた時、劉秀は清掃道具を肩に担ぎ、秦の金人に立てかけられた梯子を登攀していた。金人の肩に辿り着き、金人の耳を掴んで肩の上に立ち、帝都の城壁よりも高い場所から市街を見た。帝都の大路を進んでいる奮武の行列が見えた。奮武とは帝都の治安を司る高官で、漢帝国の時代は執金吾という名称で呼ばれ、帝都の男子の多くが憧れていた。
「まさか――」
呆れた、というように来歙が大きく息を吐いた。
「――あの秀が、そんなことをするとは」
「わたしがいけないのだ。秦の金人は、来年には熔かされているかも知れないから、今の内によく見ておくよう勧めた。まさか、攀じ登るとは思わなんだ。どうやら劉文叔という青年は、わたしが考えていた以上に真面目なようだ」
「真面目、なのでしょうか?」
「劉文叔は真面目だ。真面目でありながらも、堅物ではない。人を敬い、思いやることも出来る。そして、脚が普通に動く」
「隗公」
「すまない。妙なことを口にした。忘れてくれ。それよりも――」
隗囂は一笑して話題を変えた。
秦の金人の肩の上に立つ劉秀を、偶然、班彪と共に近くを歩いていた鄧禹が見つけた。暴秦の遺物なんて早く壊してしまえばよいのに、と零す班彪を後目に、鄧禹は両腕を大きく振り、劉文叔、と劉秀に呼びかけた。劉秀は鄧禹と班彪に気づいた。劉秀に続いて金人の肩に辿り着いた朱祜が、高さに慄きながら劉秀に訊ねた。
「知り合いか?」
「鄧仲華と班叔皮です」
「ああ、あれが十年に一人と二十年に一人か」
そんなところに登れるなんて羨ましいな、と鄧禹が金人の肩の上へ叫んだ。僕たちも登りたいな、とも叫んだ。僕たちとは何だ、僕を巻き込むな、と班彪が気色ばんだ。怖いのか、と鄧禹は班彪を挑発し、君子危うきに近寄らず、と班彪は孔子の言葉を引用して返した。今日も仲がよい鄧禹と班彪へ、朱祜が金人の頭に全力で掴まりながら叫んだ。
「そんなに羨ましいなら、おれと代わるか、豎子ども」
「お気遣いなく、朱仲先。どんなに羨ましくても、あなたの仕事を横取りしたりはしませんよ」
太陽のような笑顔で鄧禹は叫び返した。悪童め、と朱祜は膝をがたがたと震わせながら歯軋りした。あれが十年に一人の俊英とは世も末だ、と嘆きながら、運んできた箒を持ち直した。金人の冠を箒で掃いながら、そういえば、と劉秀へ話しかけた。
「劉生は、年末は南陽へ帰るのか?」
「そのつもりです。朱生は?」
「おれも帰りたいが、学問を修め終えるまで帰るな、帰る旅費があるなら学費に使えと、母に言われているからな。今はまだ帰れない」
「何か伝えたいことがあれば、僕が伝えますよ。お母上は宛に?」
「いや、復陽だ。復陽が母の故郷でな。父が死んだ後は、宛から復陽へ移り住んだ」
不意に木枯らしが強く吹いた。うお、と朱祜は体勢を崩しかけて金人の頭に抱きつき、その拍子に箒を下に落とした。危ないぞ、気をつけろ、と下から怒鳴り声が聞こえた。すまない、と朱祜は下へ返し、箒を取りに戻るために身を屈め、そろりそろりと梯子の方へ足を伸ばした。
「劉生」
「はい」
「初めての常安は、どうだった?」
朱祜は梯子の最上段に足をかけた。劉秀は突然の問いに目を円くし、次いで僅かに首を傾げた。どうなのだろう、と考えながら、改めて常安の市街へ目を向けた。馬車に揺られながら簡冊に目を通す官吏が見えた。今日の売り上げを懐に花街へ急ぐ商人が見えた。槖駝を引いて常安市内を観光する異邦人の旅行者が見えた。路地裏の痩せた野良犬へ無発酵パンの欠片を抛る游侠が見えた。産婆を抱えて必死に走る若者と、母親と手を繋いだ子供が見えた。なぜかはわからないが、笑みが零れた。朱祜の方へ目を戻した。一段、また一段と慎重に梯子を下りる朱祜へ、劉秀は答えを伝えた。
天鳳元年、大新帝国は内憂外患に揺れていた。匈奴単于国との戦争は終わらず、流通の混乱と物価の高騰は深刻化し、皇帝は信頼できる側近を相次いで失い、劉子輿を自称する者が幾人も現れては処刑された。遠く帝国の外へ目を向ければ、ローマ帝国の初代皇帝アウグストゥスがノーラの地で崩じ、名将ゴンドファルネスに率いられたパルティア帝国軍がガンダーラ王国に迫ろうとしていた。
百万のローマ市民がアウグストゥスの死に涙し、平和を祈る読経がガンダーラ王国の寺院に空しく響いていた時、劉秀は常安の数多の学生の一人に過ぎず、風に翻弄されながら金人の肩の上に立ち、白い息を吐きながら空を見ていた。その瞳の奥に大漢帝国再興の志が秘されていることを、大新帝国は未だ知らず、己が二十八の星の幾つかと既に邂逅していることを、劉秀は未だ知らない。
夏が去り、天高く馬肥ゆる秋が来た。匈奴軍が万里の長城を越えて帝国に侵入した。国境を防衛する城塞の一つが攻め落とされ、城民が虐殺された。帝国政府は報復として匈奴軍の捕虜を公開処刑した。処刑された捕虜の中には、於粟置支侯咸の子、登が含まれていた。
晩秋を越え、木枯らしが帝都の大路を吹き抜けた。劉秀の族兄の来歙が隗囂の邸宅を訪れた。隗囂は来歙を主屋へ招き入れた。互いの近況を語り合い、時世を論じた。家内奴隷の老女が、賑やかなことで、と微笑みながら、厨房で温めた酒を運んできた。時勢を論じることを中断し、酒を酌み交わしながら酒を論じた。幾度かの乾杯の後、来歙が隗囂に訊ねた。
「ところで、劉秀の姿が見えませんが、今、どこに?」
「東の城門の秦の金人は見たかね?」
「勿論です。今年も新年に備え、命知らずの若者たちが金人に攀じ登り、黄塵を掃い落としていました。長安、いや、常安の冬の風物詩ですが――」
それがどうかしたのか、と隗囂に訊こうとして、来歙は気づいた。
「――なるほど、あれを見物しているのですか」
「いや、金人を攀じ登る命知らずの一人が劉文叔だ」
何ですと、と来歙が驚いた時、劉秀は清掃道具を肩に担ぎ、秦の金人に立てかけられた梯子を登攀していた。金人の肩に辿り着き、金人の耳を掴んで肩の上に立ち、帝都の城壁よりも高い場所から市街を見た。帝都の大路を進んでいる奮武の行列が見えた。奮武とは帝都の治安を司る高官で、漢帝国の時代は執金吾という名称で呼ばれ、帝都の男子の多くが憧れていた。
「まさか――」
呆れた、というように来歙が大きく息を吐いた。
「――あの秀が、そんなことをするとは」
「わたしがいけないのだ。秦の金人は、来年には熔かされているかも知れないから、今の内によく見ておくよう勧めた。まさか、攀じ登るとは思わなんだ。どうやら劉文叔という青年は、わたしが考えていた以上に真面目なようだ」
「真面目、なのでしょうか?」
「劉文叔は真面目だ。真面目でありながらも、堅物ではない。人を敬い、思いやることも出来る。そして、脚が普通に動く」
「隗公」
「すまない。妙なことを口にした。忘れてくれ。それよりも――」
隗囂は一笑して話題を変えた。
秦の金人の肩の上に立つ劉秀を、偶然、班彪と共に近くを歩いていた鄧禹が見つけた。暴秦の遺物なんて早く壊してしまえばよいのに、と零す班彪を後目に、鄧禹は両腕を大きく振り、劉文叔、と劉秀に呼びかけた。劉秀は鄧禹と班彪に気づいた。劉秀に続いて金人の肩に辿り着いた朱祜が、高さに慄きながら劉秀に訊ねた。
「知り合いか?」
「鄧仲華と班叔皮です」
「ああ、あれが十年に一人と二十年に一人か」
そんなところに登れるなんて羨ましいな、と鄧禹が金人の肩の上へ叫んだ。僕たちも登りたいな、とも叫んだ。僕たちとは何だ、僕を巻き込むな、と班彪が気色ばんだ。怖いのか、と鄧禹は班彪を挑発し、君子危うきに近寄らず、と班彪は孔子の言葉を引用して返した。今日も仲がよい鄧禹と班彪へ、朱祜が金人の頭に全力で掴まりながら叫んだ。
「そんなに羨ましいなら、おれと代わるか、豎子ども」
「お気遣いなく、朱仲先。どんなに羨ましくても、あなたの仕事を横取りしたりはしませんよ」
太陽のような笑顔で鄧禹は叫び返した。悪童め、と朱祜は膝をがたがたと震わせながら歯軋りした。あれが十年に一人の俊英とは世も末だ、と嘆きながら、運んできた箒を持ち直した。金人の冠を箒で掃いながら、そういえば、と劉秀へ話しかけた。
「劉生は、年末は南陽へ帰るのか?」
「そのつもりです。朱生は?」
「おれも帰りたいが、学問を修め終えるまで帰るな、帰る旅費があるなら学費に使えと、母に言われているからな。今はまだ帰れない」
「何か伝えたいことがあれば、僕が伝えますよ。お母上は宛に?」
「いや、復陽だ。復陽が母の故郷でな。父が死んだ後は、宛から復陽へ移り住んだ」
不意に木枯らしが強く吹いた。うお、と朱祜は体勢を崩しかけて金人の頭に抱きつき、その拍子に箒を下に落とした。危ないぞ、気をつけろ、と下から怒鳴り声が聞こえた。すまない、と朱祜は下へ返し、箒を取りに戻るために身を屈め、そろりそろりと梯子の方へ足を伸ばした。
「劉生」
「はい」
「初めての常安は、どうだった?」
朱祜は梯子の最上段に足をかけた。劉秀は突然の問いに目を円くし、次いで僅かに首を傾げた。どうなのだろう、と考えながら、改めて常安の市街へ目を向けた。馬車に揺られながら簡冊に目を通す官吏が見えた。今日の売り上げを懐に花街へ急ぐ商人が見えた。槖駝を引いて常安市内を観光する異邦人の旅行者が見えた。路地裏の痩せた野良犬へ無発酵パンの欠片を抛る游侠が見えた。産婆を抱えて必死に走る若者と、母親と手を繋いだ子供が見えた。なぜかはわからないが、笑みが零れた。朱祜の方へ目を戻した。一段、また一段と慎重に梯子を下りる朱祜へ、劉秀は答えを伝えた。
天鳳元年、大新帝国は内憂外患に揺れていた。匈奴単于国との戦争は終わらず、流通の混乱と物価の高騰は深刻化し、皇帝は信頼できる側近を相次いで失い、劉子輿を自称する者が幾人も現れては処刑された。遠く帝国の外へ目を向ければ、ローマ帝国の初代皇帝アウグストゥスがノーラの地で崩じ、名将ゴンドファルネスに率いられたパルティア帝国軍がガンダーラ王国に迫ろうとしていた。
百万のローマ市民がアウグストゥスの死に涙し、平和を祈る読経がガンダーラ王国の寺院に空しく響いていた時、劉秀は常安の数多の学生の一人に過ぎず、風に翻弄されながら金人の肩の上に立ち、白い息を吐きながら空を見ていた。その瞳の奥に大漢帝国再興の志が秘されていることを、大新帝国は未だ知らず、己が二十八の星の幾つかと既に邂逅していることを、劉秀は未だ知らない。
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