二十九の星 -後漢光武帝戦記-

真崎 雅樹

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第七章 常安の春秋

第四十五話

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 麦秋、すなわち初夏が帝都常安じょうあんに訪れた。南陽なんよう郡ではそろそろ田植えが始まるだろうか、と故郷に思いを馳せながら、劉秀りゅうしゅうは講堂の前庭で講義を聴いた。講義を聴き終え、地面に敷いた筵を片づけていると、朱祜しゅこに話しかけられた。傭肆ようしで仕事を見つけたので一緒にやらないか、と誘われた。劉秀は苦笑した。

「これからの季節、街路掃除は臭いが酷いでしょうね」

「掃除じゃない。市で蜜を売る仕事だ」

 朱祜が言う蜜とは蜂蜜である。蜂蜜は美味で滋養に富み、絲綢の路シルクロードの西、今はローマ帝国の一部であるエジプトやギリシアヘラスでは、採蜜を目的とした養蜂が千年以上前から行われていた。しかし、大しん帝国では養蜂の技術が未だ確立されておらず、野生の蜂から採取した蜂蜜が高値で流通している。

「蜜は高い。最近は物価高の煽りを受けて更に高い。その高い高い蜜を、高貴な身分の皆さまへ高く高く高く、言葉巧みに売りつけるんだ。こいつは儲かること間違いなしだ」

 ぐふふ、と朱祜は笑みを漏らした。悪い顔だ、と劉秀は思い、少し話が美味すぎないかと怪しみもしたが、数日後の午後、朱祜と共に傭肆で聞いた住所を訪ねた。遠くしょく郡から人の背に負われて運ばれてきた、直視すれば失明しそうなほどに高価な蜂蜜に、故郷の南陽郡であれば畦道の端にでも生えていそうな薬草を漬け込んだ。この蜂蜜を万能薬として相場の五倍の値段で売ると雇用主から聞かされ、劉秀は恐れ慄いて隣の朱祜に囁いた。

「これは人の所業ではありませんよ。天罰が下るのではないでしょうか」

「安心しろ。これを売りつける相手は王侯や豪商だ。貧しくて苦しんでいる人たちではなく、多すぎる銭を使い切れなくて泣いている人たちだ。つまり、これは人助けなんだ。人の涙を止めるために、おれたちはこれを売るんだよ」

 銭を使い切れなくて泣く人なんているのかな、と思いながらも、劉秀は数日後の午後、薬草を漬けた蜜を売るために朱祜と共に市場へ赴いた。市場では公開処刑が執り行われており、正義と刺激を求めて大勢の市民が見物に押し寄せていた。劉秀は人の多さに目を円くした。

「今日は人が多いですね。誰が処刑されるのでしょうか?」

「さて、この盛り上がりを見るに、劉子輿しよではなさそうだが」

 別に知りたくはない、という顔を朱祜はした。劉秀らから少し離れた場所では、同じく事情を知らない通行人が、公開処刑される人物の氏名を露天商に訊ねていた。露天商は斧を片手に籠から小型犬を掴み出しながら、甄豊しんほうの一党が処刑されると答えた。甄豊は皇帝の側近の一人であり、大新帝国成立前は監察長官を務めていたが、大新帝国成立後は監察長官より序列が低い軍務長官の更に下、四大将軍へ遷された。そのことが甄豊は不満でならず、匈奴フンヌとの戦争で存在感を示して返り咲こうとするも、自身が策定を主導した十五単于ぜんう擁立作戦が暗礁に乗り上げ、一方で十五単于擁立作戦に反対した荘尤そうゆう高句麗こうくりに勝利した。甄豊を四大将軍から外し、荘尤を後任に据えるべきではないか、という声が官界で上がり始めた。その声が玉座の近くにまで聞こえ、皇帝が群臣に検討を命じようとした時、皇帝の従弟で監察長官を務める王邑おうゆうが慌てた様子で駆けてきて、皇帝に報告した。曰く、自分は先程まで宴に参加していたが、宴で饗された羊の腹から、古代に造られたと思しき短剣が出てきた。短剣の剣身には、新たに官職を設け、その座に甄豊を就けるべし、という意味の文章が刻まれており、偶然、その場に居合わせていた国師こくし劉歆りゅうきんの子弟が、これは神託に違いないと主張している。

 如何にしたものか、ご聖断を仰ぎたい、と王邑は深く頭を下げた。神託が本物であるか否か、皇帝は群臣に議論させた。本物であるという意見が優勢を占めた。皇帝は官職を新設して甄豊を就任させた。甄豊は窮地から一転し、劉歆や王邑と同等以上の地位へ出世した。

 数十日後、また王邑の身辺で神託らしきものが発見された。神託らしきものには、黄皇室主こうおうしつしゅ――皇帝の娘の一人で、十年前にかん帝国の幼帝に嫁し、幼帝の死後は独身を貫いている女性を、甄豊の子と再婚させるべし、という意味の文章が刻まれていた。黄皇室主が寡婦であり、子供も友人もいないことを気にしていた王邑は、天が黄皇室主を憐れんで良縁を結んでくれたに違いない、と喜んだ。早く聖上へ伝えなければ、と皇帝の許へ急ぎ、おめでとうございます、と祝福の言葉を添えて皇帝へ報告した。

 この王邑の報告が皇帝を激怒させた。かつて皇帝が黄皇室主を再婚させようとした時、黄皇室主は激昂して自殺を試みた。もしまた再婚させようとすれば、黄皇室主は再び自殺を図るであろう。命ある限り、自殺を図り続けるであろう。黄皇室主を再婚させることは不可能であり、不可能なことをさせようとしている神託が本物であるはずがない。そんなこともわからないのか、と皇帝は王邑を一喝し、甄豊を捕らえよ、と近衛軍に命じた。近衛軍が甄豊の邸を包囲し、甄豊は邸内で自殺した。甄豊の子が捕らえられ、暴力的な尋問を受けて神託の偽造を白状した。更なる尋問を受け、共謀者の名を吐いた。共謀者の中には、劉歆の子が二人と、王邑の弟が含まれていた。全員を処刑せよ、と皇帝は命じた。劉歆と王邑は叩頭して子弟の命乞いをしたが、皇帝は耳を貸さず、甄豊と共謀したとされる数百人が市場に引き出された。

 王邑の弟、王奇おうきの首に斧が振り下ろされた。わあ、と大衆が沸く声を、劉秀は市場の端の方、薬草等が売られている区画で聞いた。何がそんなに面白いのか、と朱祜が眉を顰めながら、蜜を売るために声を張り上げた。飲めば万病を治し、塗れば傷が綺麗に塞がる、という口上を、大衆の歓声が何度も掻き消した。掻き消されながらも口上を繰り返していると、一人の少年が露店の前で足を止めた。劉秀は少年を見て顔を綻ばせた。

とう先生」

「蜜売りですか、劉文叔ぶんしゅく

 鄧禹とううは微笑し、値札を覗き込んだ。

「わ、これは高い」

「飲めば万病を治し、塗れば傷が塞がる万能薬です」

「何だか怪しいな。薬草が漬けてあるようですが、何の薬草です?」

「凄い薬草です。凄い薬草を何種類も漬けています」

「この草、道端でよく見るような気がするんですが?」

「よく似ていますが、多分、違うと思います。凄い薬草ですから」

「そうかぁ。多分、違うかぁ」

 劉秀と鄧禹が話す間に、二人、三人と通行人が足を止め始めた。値段の高さに目を瞠る通行人に、劉秀らの雇用主である露天商が、一舐めすれば如何なる病魔も退散する、老人が舐めれば腰が伸び、夫婦で舐めれば子宝に恵まれる、と力説した。五人、六人と通行人が足を止めた。足を止めた男の一人が、この蜜は万能薬ではない、と言い出した。何を言うか、と露天商が気色ばむと、男は蜜に漬けられている薬草を指し、この薬草には副作用がある、この薬草はこの薬草と同時に服用してはいけない、と周りに説明した。鄧禹が劉秀に囁いた。

「あの人、見たことがあります。確か、えん氏の人です」

「宛の李氏、というと、あの李氏?」

「そう。新野しんやいん氏、湖陽こようはん氏と並ぶ、あの李氏です」

 劉秀らが見ている前で、李氏の男は露天商を言い負かし、この店で蜜を買わないよう周りに忠告した。露店の周りから人が去り、わなわなと震える露天商の頭上を、処刑を見物している大衆の歓声が通りすぎた。これからどうするのだろうか、と劉秀が露天商を横目で見ていると、ぎらりと露天商が劉秀らの方を見た。おまえたちは太学たいがくで勉強しているのだろう、それならば万能薬の作り方がわかるはずだ、すぐに作れ、と喚いた。そんな無茶な、と朱祜が声を上げた。

「おれたちが学んでいるのは儒学だ。医学じゃない。薬なんて作れない」

 うるさい、作れなければ給金は無しだ、と露天商は言い、商品を片づけ始めた。約束が違う、と朱祜は抗議したが、露天商は、作れなければ一銭も払わないぞ、と拳を振り回した。荷車を牽いて市場を後にする露天商を、露天商に雇われていた者たちが給金を求めて追いかけた。その場に一人、ぽつんと立ち尽くしている劉秀に鄧禹が話しかけた。

「面倒なことになりましたね」

「鄧先生」

「あんな怪しい人に雇われたら駄目ですよ」

「友人から誘われた、というのは、言いわけにはなりませんね」

「友人というのは、先程、一緒にいた朱仲先ちゅうせん?」

「そうです。彼をご存知で?」

「少しだけ。朱仲先も宛の人ですが、幼少の頃に父を亡くし、母に育てられたと聞いています」

「そうですか」

 劉秀は表情を僅かに翳らせた。鄧禹は劉秀の表情の微細な変化に気づいた。

「それで、どうするんです?」

「どうする、とは?」

「万能薬を作れなければ、給金が一銭も出ないんでしょう?」

「そうでした。どうしましょうか」

 劉秀は顎に手を当てた。自分一人であれば、今回のことは勉強代として諦めることも出来るが、朱祜も一緒となるとそうはいかない。どうしたものか、と劉秀が眉間に皺を寄せると、ところで、と鄧禹が劉秀に背を向けて頭の後ろで手を組んだ。

「ところで、僕の友人のはん叔皮しゅくひを憶えていますか?」

「勿論です。班婕妤はんしょうよの甥で、二十年に一人の神童、と呼ばれている方ですよね?」

「彼の家の書庫には、多くの書物が収められています。大半は儒学や史学、文学に関する書物ですが、医書の類も収蔵されていたはずです。都合が好いことに――」

 鄧禹は劉秀を振り返り、に、と口を笑ませた。

「――僕は今日、市で叔皮と待ち合わせをしている。医書を見せてもらえないか、叔皮に頼んでみましょうか?」

 よろしいのですか、と劉秀は表情を明るくした。勿論、と鄧禹は頷き、班叔皮こと班彪と待ち合わせている場所、文具が売られている区画へ移動した。商店で硯を眺めている班彪はんひょうを見つけた。叔皮、と鄧禹が声をかけて事情を説明すると、班彪は眉を顰めた。

「万能薬なんて存在しない。この世には、体を温めないと治らない病もあれば、体を冷まさないと治らない病もある。体を温めるべき時に服用すれば体を温め、体を冷ますべき時に服用すれば体を冷ます。そんな都合の好い薬が存在するとでも?」

「別に何でも治す必要は無いさ。これからの季節、怖いのは一に熱中症、二に食中毒だ。その二つに効く薬なら作れるだろう?」

「作れなくはないだろうけど、怪しい蜜売りの男が求めているのは、そういう薬ではないんだろう?」

「万能薬を求めているわけでもない。要は高く売れさえすれば何でも構わないんだ。そうですよね、劉文叔」

 鄧禹は劉秀を顧みた。え、と劉秀は虚を衝かれて声を上げたが、すぐに、そうです、その通り、と頷いた。鄧禹は班彪へ目を戻した。

「そういうわけだから、頼むよ。きみは三男、劉文叔も三男。同じ三男として、きみは劉文叔の窮地を座視することは出来ないはずだ。そうだろう?」

「どういう理屈だ」

 班彪は右の眉を複雑に曲げたが、お願いします、と劉秀が深く頭を下げると、仕方がない、というように息を吐いて承諾した。劉秀を班氏の邸へ案内するために歩き出そうとした時、市場の中央に建つ高楼の前の広場で、国師劉歆の子、劉泳りゅうえいの首に斧が振り下ろされた。広場を埋めている大衆が沸いた。班彪は歩きながら眉間に皺を寄せた。

「近頃は風紀の乱れが甚だしい。粛然と執行を見守るべき市斬しざんを――」

 市斬、とは公開処刑のことである。

「――まるで闘犬でも観ているかのように楽しむとは」

 そうですね、と劉秀は班彪に同意した。市場を出て大路を歩く間、最近の若い者は、という老人の嘆きにも似た言葉が、十二歳の班彪の口から滔々と流れ出た。はあ、そうですか、そうですか、と劉秀が頷いていると、そういえば、と班彪は劉秀へ目を向けた。

「劉文叔、あなたは学費を稼ぐために、老子ろうし韓子かんしを筆写していると聞きました」

「はい。かい公に――」

「すぐにやめるべきです」

「え?」

「あれらは儒学を誹謗する悪書です。あれらが世に大量に出回れば、大勢の民が悪しき思想に毒され、道を踏み外してしまうかも知れない。人の心があるのなら、あれらを筆写して売ることはやめるべきです」

「しかし、班先生――」

「先生と呼ぶのはやめてください。僕は鄧仲華ちゅうかのように自惚れてはいない」

 む、と鄧禹が眉の片方を跳ね上げた。そういうことを言うから友達が少ないんだぞ、と鄧禹は班彪に言い、きみも友達が多い方ではないだろう、と班彪は鄧禹に言い返した。まあまあ、と劉秀は二人を宥めると、改めて班彪に対して反論を試みた。

「班叔皮、あなたの言う通り、老子や韓子は儒学の教えに則していません。儒学を批判する文章も多く見られます。しかし、老子の柔の教え、足るを知るの教えは傾聴に値しますし、韓子の不信の教えは義にも情にも背いていますが、その指摘は全くの的外れではないように思います」

「それは、劉文叔、あなたの言葉ですか? それとも、あなたに老子、韓子の筆写を勧めた隗季孟きもうの言葉?」

 班彪の問いに劉秀は即答しかねた。班彪は返答を待たずに続けた。

「隗季孟が国師に招聘された時のことを?」

「いいえ、知りません」

「隗季孟が招聘された時、国師は隗季孟の学識を試すために、自らの門弟たちと闘論をさせました。隗季孟の舌鋒は鋭さと柔らかさを兼ね具え、国師の門弟たちを感服させましたが、国師は不機嫌になりました。闘論を終えて隗季孟が辞去した後、門弟の一人が国師に不機嫌の理由を訊ねると、国師はこう答えました。隗季孟の才は、桀紂けっちゅうの才であると」

 桀紂、とは古代神聖王朝の暴君、紂王ちゅうおうと、紂王に優るとも劣らない上古の暴君、桀王けつおうを併称した言葉である。

「桀紂は優れた才能を具えていましたが、聖賢の尊い言葉に耳を傾けず、それゆえに天賦の才能を正しく使えず、自らの手で自らの国を破滅させました」

「隗公も、同じであると?」

「隗季孟の才能は傑出しています。脚を病み、歩くことが難しい体なのに、大新帝国に招聘された。それがどれほど凄いことか、説明するまでもないでしょう。しかし、隗季孟は聖人の教えを蔑ろにして、儒学を誹謗する悪書に傾倒している。賢臣を遠ざけて佞臣を近づけた桀紂と、同じ過ちを犯しています。心を入れ替えて悪書を退けねば、隗季孟が行き着く先は明らかです。その傑出した才能で世を乱し、自らをも破滅させるでしょう」

 劉文叔、と鄧禹が劉秀の袖を引いた。班彪は頭が固すぎる、彼の言うことを真に受けるな、という意味の言葉を劉秀に囁いた。む、と班彪は眉を寄せた。聞こえたぞ、と言う班彪に、本当のことだろう、と鄧禹は言い返した。まあまあ、と劉秀は二人を宥めた。

 班氏の邸に到着した。班彪に案内されて書庫へ移動していると、回廊の角で班彪の父に遭遇した。劉秀が班彪の父に挨拶すると、班彪の父は息子に新たな友人が出来たことを喜び、何か美味しいものを劉秀に振る舞うべく市場へ人を走らせようとした。班彪は赤面した。

「父上、そういうのは要りませんから」

「そうはいくものか。きみ、好物は何かね? 食べられないものは?」

「本当に要りませんから! それよりも、門の前に立派な馬車が停められていました。大事な客人を待たせておられるのでは?」

「息子の友人も大事な客人だ。きみ、茶を飲んだことは? 茶というのは蜀の名物なのだが、これがまた芳しい香りで――」

「僕の友人は僕がもてなしますから、父上は父上の客人をもてなしてください!」

 行きましょう、と班彪は劉秀の腕と、ついでに鄧禹の腕を掴んだ。足早に書庫へ向かう班彪の背に、美味しいものを運ばせるから、と班彪の父は叫んだ。要りません、と叫び返し、班彪は書庫へ急いだ。駆け込むように書庫へ入り、ばたん、と扉を閉めた。はあ、と満腔で息を吐く班彪に、劉秀は微笑みかけた。

「よい父上ですね」

「どこがですか。あんなの――」

 あんなの、鬱陶しいだけです。そう言おうとして、劉秀が幼少期に父と死別していることを、班彪は思い出した。気まずそうに目を伏せた班彪を見て、鄧禹が劉秀に囁いた。

「叔皮は儒学、儒学と喧しいのに、自分の父親のことは邪険にするんですよ。お父さん、お母さんを大事にしなさいと、孔子こうしが説いていることを知らないのかな?」

 うるさい、と班彪は鄧禹に吼えた。まあまあ、と劉秀は班彪を宥めた。劉秀を盾にしてにやにやしている鄧禹を、こいつは全く本当に、と横目で睨みながら、班彪は書棚から簡冊を引き出した。おほん、と咳払いをして、簡冊を劉秀に見せた。

「まずは、これから始めましょう」

「これは?」

神農本草経しんのうほんぞうきょう神農しんのうの著作とされる医薬書です」

 神農、とは神代に人類を治めた王で、炎帝えんてい、と呼ばれることもある。不老不死の神人であり、不死の体を活かして地上の草という草を試食し、多くの薬草と毒草を発見したことから、民間では医薬の神として祀られている。

「本当に神農が書いたかは疑わしいですが、これが大新帝国の薬学の根幹を成す書物であることは間違いありません。まずはこれから調べましょう」

 班彪は神農本草経の上巻を劉秀へ、中巻を鄧禹へ渡し、自らは下巻を開いた。その様子を、僅かに開かれた書庫の扉の隙間から、班彪の父が覗いていた。傍らに侍している家内奴隷に、頃合を見て息子たちへ茶を淹れるよう命じ、書庫の扉から離れた。息子が友人に恵まれたことを喜びながら、客人を待たせている建物へ移動した。客人がいる部屋に入ると、客人は奥の祭壇に拝礼していた。祭壇には班彪の父の亡兄たちが、尊敬する姉、班婕妤と共に祀られていた。客人が拝礼を続けながら口を開いた。

「班兄が亡くなられてから――」

 客人が言う班兄とは、班彪の父の亡兄のことである。

「――もう三十年は経つだろうか」

「そうですな。孝成こうせい皇帝が世を治めておられた頃ですから、それくらいになります」

「才と徳、両方を具えた人であられた」

「今でも忘れておりません。兄が死んだ時、聖上は共に粗衣を纏い――」

「班公」

 客人が深く下げていた頭を上げた。

「わたしは友として、あなたを訪ねたつもりだ」

「そうでした。無粋なことを申しました」

 班彪の父は苦笑し、客人の背中に頭を下げた。

 班家の厨房で湯が沸かされ、茶が煎じられた。家内奴隷の女が、喫茶の用意を整えたので少し休憩されては如何か、と書庫の中へ呼びかけた。書庫の中にいた劉秀、鄧禹、班彪は、それぞれ数巻の簡冊を抱えて書庫を出た。前を歩く班彪に、喫茶とは何ですか、と劉秀は訊ねた。同様の質問を、班彪の父は客人から受けた。喫茶とは蜀――帝国西部の山岳地域の文化であると答え、客人へ茶を勧めた。客人の手が茶碗を取り、茶碗の蓋を少しだけ開いた。微かな湯気と共に芳しい香りが立ち昇り、客人の口の端が綻んだ。

「ところで、今は何時であろうか?」

「さて、そろそろ日未入ひのいらずになりましょうか」

「そういえば、先程、若い声が聞こえた。あれが噂の神童かね?」

「世間はそう持ち上げますが、わたしから見れば、まだまだ子供です。頭が固く、そのせいで友人が少なく、何より、身の程を弁えない野心を抱いている」

「野心?」

「あろうことか、あの史記しきを自らの手で書き直そうとしているのです」

 史記は正史、すなわち漢帝国が公認した歴史書であり、巻数は百三十巻、文字数は五十二万六千五百字、記されている歴史は古代から漢帝国中期までの千年に及び、百三十巻の内の七十巻を偉人の伝記が占める。後にヒストリアイ――歴史の父ヘロドトスが著した歴史書に匹敵すると評価され、その伝記重視の手法は後進の史家に多大な影響を与えたが、一方で記録の量が膨大、且つ前例が少ない手法を用いたことから粗も多く、特に人物評価の基準が儒学の教義に則していないこと、例えば法を犯すことを躊躇わない游侠アウトローや農業に従事も投資もしない商人を、部分的とはいえ肯定的に評価していることが、帝国の学界では問題視されている。

「それらの欠点を改めた正しい史書を、自らの手で書き上げるのだと、あの子は申しているのです。いやはや、若さとは恐ろしい」

 その正しい史書の草稿の一部を、劉秀は班彪の部屋で見つけた。梅肉を中に詰めた無発酵パンを齧ろうとしていた班彪に、これは何かと訊ねると、班彪は顔色を変えた。まだ人に見せられる出来ではないため、何でもないと誤魔化そうとしたが、横にいた鄧禹が、それはもしや、と言いかけた。言いかけた口に、無発酵パンが押し込まれた。余計なことを言うな、と班彪が鄧禹の口に無発酵パンを詰める声。苦しい、と訴えるように鄧禹が班彪の腕を叩く音。やめてください、死んでしまいます、と劉秀が班彪を止める声。それらが邸の庭を越え、班彪の父の書斎にまで聞こえた。班彪の父は席を立とうとして、叱るに及ばず、と客人に止められた。

「叱るに及ばず。子供は、あれくらい元気な方がよい」

「恐れ入ります」

「ところで、今は何時であろうか?」

「さて、日未入を過ぎたくらいでしょうか」

「そうか。日未入か」

「時刻を気にされているようですが、この後、何か用事が?」

「いや、そうではない」

「では――」

 では、どうして、と問おうとして、班彪の父は思い出した。

「そういえば、今日でしたな。刑が執行されるのは」

 班彪の父は外へ目を向けた。目を向けた先には青空があり、同じ青空の下の市場では、神託偽造事件の主犯である甄豊の遺体が中央広場に引き出されていた。まるで生きているかの如く、甄豊の遺体が跪かされた。四方から罵声や怒号が遺体へ浴びせられた。遺体の首に斧が振り下ろされ、大衆の歓声が市場を揺らした。

「あの者たちは――」

 客人の口が動いた。

「――してはならないことをした。処刑は当然。後悔はしていない。してはいないが、しかし――」

 公開処刑が終わり、市場から人が去り始めた。談笑しながら家路に就く人々の中に、劉歆に仕える奴隷と、王邑に仕える奴隷が紛れていた。劉歆の奴隷は劉歆の邸へ、王邑の奴隷は王邑の邸へ戻り、刑の執行が終了したことを主人に報告した。王邑は弟の名を呼びながら地に泣き伏し、あの時に偽物と見破れていれば、と自らの不明を責めた。一方、劉歆は、そうか、とだけ言い、口を真一文字に引き結んだ。西陽が劉歆の肩を照らした。泣き伏している王邑の背中を照らし、市場に晒されている数百の首を照らした。

「班公」

 西陽に半身を照らされながら、客人が口を開いた。

「わたしと一緒に、来てくれないか?」

 側近として自分に仕えてくれ。そういう意味であると、班彪の父は察した。西陽が射す庭を、鳥と思しき影が過ぎた。班彪の父は客人から目を逸らし、曖昧に微笑した。

「聖上の近くには、既に国師を始めとする賢才が星の如く――」

「劉歆は信用できない。王邑もだ。あの者たちは私情に流され、為政者としての義を違えた。あの者たちに国家の大事を任せることは出来ない。あの者たちに代わる賢才が、大新帝国には必要だ」

「わたしには務まりません」

「そんなことはない」

「わたしは投獄された男です」

「それは周りに陥れられたからだ。わたしの目が行き届かず、あなたの難に気づくことが遅れたからでもある。今は違う。これからも違う。わたしの目が、この重瞳ちょうどうが、あなたを見失うことはない」

「わたしは――」

 班彪の父は体を小さく揺らし、両膝を揃え直した。両手を胸の前で重ね合わせ、客人に深く頭を下げた。

「わたしは、小さな男です。家族と穏やかに暮らす。それだけが望みの、つまらない男です。理想の世を築かれようとしている聖上が、近くに置くべき賢臣ではありません。どうか、お許しください」

 班彪の父の額が、こつん、と床を叩いた。数秒、班彪の父の額が、自らの影と接吻しているかのように床に触れ続けた。影は部屋の奥の方へ伸びていた。同じく奥の方へ伸びている客人の影が、僅かに顔を俯かせた。

「そうか。わたしの友の望みは、家族と穏やかに暮らすことか」

「お許しください。わたしの卑小さを、お許しください」

「何を言うか。あなたは立派だ。父としても、夫としても、あなたは立派だ。わたしは違う。わたしの家族は、恐らく――」

 恐らく、誰も幸せではない。

 日入ひのいり、と大新帝国では呼ばれる時間帯が近づいた。陽が麦秋の地平に近づき、赤光が帝都の城壁を、十二の巨大銅像を、宮殿群を赤く染めた。客人が立ち上がり、班彪の父に揖礼した。

「今日は、楽しい時間を過ごせた」

「わたしもです。友と語らう時間ほど、楽しい時間はありません」

 班彪の父は笑顔を作り、客人へ揖礼を返した。儒学の教義に則した正しい歴史書を、班彪が書き上げるのはいつになりそうか、客人に訊ねられた。さて、と班彪の父は首を傾げた。

「あの史記を超えようというのですから、何十年後になるか。そもそも本当に完成するのか」

「あなたの子ならば、必ず完成させる」

 客人は微笑んだ。班彪のような若者たちのためにも、平和で豊かな国を築かねばならない。そう穏やかに笑みながら、客人は部屋を出ようとした。

「あの――」

 班彪の父は客人を呼び止めた。

「――申し上げたいことがあるのですが、よろしいでしょうか」

「友の言葉だ。喜んで聴こう」

 客人は足を止め、班彪の父へ体を向き直らせた。班彪の父は姿勢を正し、床に両膝を揃えた。

「聖上は五年前、漢の皇帝から位を譲られ、皇帝に即位されました」

「天が即位を命じた。わたしは古の周公しゅうこうのように、摂政として忠義を尽くすことを望んでいたが、天命に逆らえず、帝冠を戴いた」

「即位された年の四月、聖上は奴隷の――」

私属しぞく

「失礼いたしました。私属の売買を禁じられました」

「私属は人だ。人を畜類の如く金銭で売り買いすることは、天地の性、人を貴しと為す、という儒学の教えに背く。大新帝国は、儒学の教えに適う国であらねばならない。人が貴ばれる国、人が虐げられない国であらねばならない。それゆえに、わたしは私属の売買を禁じた」

「同年、聖上は専売制を改められました。漢の皇帝は塩と鉄を国家の専売とし、民間の商人が生産者と直に取引することを禁じましたが、聖上は塩鉄に加え、銅と酒も国家の専売とされました」

 銅は通貨の原料であり、値の変動は経済に大きな影響を与える。酒は万民が求める嗜好品であるが、その需要の高さに着目して不当に値を吊り上げ、暴利を貪る悪徳商人が後を絶たない。大新帝国が銅を国家の専売としたのは、銅の値の変動を抑えて経済を安定させるためであり、また酒を国家の専売としたのは、悪徳商人が民から搾取することを防ぐためである。

「更に同年、聖上は――」

 班彪の父は続けて、大新帝国が暦法を改正し、度量衡を改正したことに触れた。貨幣を新発行したことに触れ、周辺諸国へ贈る金印を変更したことに触れ、王田制おうでんせいに触れた。王田制とは貧富の差の解消を目的とした新たな土地制度で、制度の骨子は約百四十年前、絲綢の路の西の端のイタリア半島でグラックス兄弟が制定を目指したセンプロニウス農地法と近しく、広大な農地を占有する豪族層を解体し、農地を農民へ再分配することで富の偏りを是正する。大新帝国は貧富の差の解消を期待されて成立した国家であり、帝国政府は民衆の期待に応えるべく、王田制の実施を国家の最優先事業とした。

「また、近頃は都を、常安から洛陽らくようへ遷すことを検討されていると聞きました」

「常安は、暴秦ぼうしんの都に近すぎる」

 暴秦、とはしん帝国の蔑称である。

「暴秦は聖人の教えに背き、孔子を誹謗する韓非の妄言を採り上げて儒学を弾圧した。大勢の儒学者を殺し、多くの貴重な書物を焼いた。常安は暴秦の都、咸陽かんようの跡地の近くに築かれた都市であり、大新帝国の帝都として相応しくない。一方、洛陽は古の聖人、周公が築いた都であり――」

「聖上」

 班彪の父は頭を低くした。敢えて申し上げます、と言おうとして、幾度か失敗した。

「あえ、あ、敢えて、敢えて申し上げます。少し、多くはないでしょうか」

「多い?」

「聖上は、多くの改革を行われています。しかし、改革というものは、常に多少の混乱を伴うものです。聖上は、社会に混乱を引き起こすであろう大きな改革を、幾つも並行して進められています。特に、王田制は豪農の抵抗に遭うことは間違いなく、それを匈奴との戦争や、洛陽への遷都と同時に行うのは、あまりにも――」

 班公、と客人の口が吼えた。一日、改革が遅滞すれば、一日、民の苦しみが延びる。それでも改革を遅らせろと言うのか、と屋根が震えんばかりの声で吼えた。ひい、と班彪の父は身を竦ませた。

「お許しください。お許しください。臣が愚かでありました。臣が愚かでありました」

「わたしが改革を行うのは民のためだ。班公、わたしが民に尽くすことは誤りか」

「臣が愚かでありました。臣を罰してください。臣を罰してください。頓首死罪とんしゅしざい、頓首死罪」

 班彪の父は床に額を打ちつけた。二度、三度と強く打ちつけた。四度、五度と打ちつける姿が、重瞳の客人を冷静にさせた。班公、と客人は床に膝をついた。

「班公。顔を上げてくれ、班公」

「臣を罰してください。頓首死罪、頓首死罪」

「わたしは、友として訪れた。頓首死罪、という言葉は、友の間で交わされる言葉ではない」

 赤光に照らされる屋根の上を、風の音が過ぎた。風に含まれる黄塵が、西の城壁の向こうへ消える夕陽の輪郭を霞ませた。重瞳の客人が班氏の邸を辞し、僅かに遅れて劉秀が邸の門を出た。客人を乗せた馬車を見送る班彪の父に、劉秀は挨拶した。またいつでも訪ねておいで、と笑う班彪の父に、劉秀は訊ねた。

「あの、先程の大きな声は?」

「聞かれていたか。いや、恥ずかしながら、無作法をしてね。大事な客人を怒らせた」

「あの声――」

「うん?」

「あの声を――」

 遠ざかる馬車へ、劉秀は目を向けた。

「あの声を、どこかで――」

 どこかで、聞いたことがある。

「――いや、何でもありません」

 多分、気のせいだろう、と劉秀は顔を微笑ませた。
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