二十九の星 -後漢光武帝戦記-

真崎 雅樹

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第七章 常安の春秋

第四十四話

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 寒気に凛と咲く梅花を愛でる時季が過ぎ、帝都常安じょうあんの庭園で桃の蕾が開いた。彼方の山脈から雪融け水が関中かんちゅうへ流れ込み、帝都周辺の畠の麦が伸びた。南陽なんよう郡も今頃は啓蟄を迎えているだろうか、と故郷に思いを馳せながら、劉秀りゅうしゅうは太学の講堂の前庭に筵を広げ、温かな陽の下で書物を開いて講義を聴いた。時に雲雀の声に気を取られ、時に隣で船を漕ぐ朱祜しゅこを肘で突いて起こした。講義を受け終えて隗囂かいごうの邸宅へ戻ると、家内奴隷の老女から買い出しを頼まれた。劉秀は荷車を牽いて市場へ行き、帝都の物価の高さに改めて目を瞠りながら、老女に頼まれたものを買い集めた。

 午後四時――大しん帝国では夕時ゆうじ、或いは日未入ひのいらずと呼ばれる時間帯に、隗囂が帰宅した。劉秀が隗囂を出迎えると、隗囂は二人、客を連れていた。隗囂は劉秀に客人を紹介した。

「こちらはとう公。かん室の孝文こうぶん皇后の弟、章武しょうぶ侯の子孫で、翟義てきぎの乱に従軍して活躍された帝国随一の武人だ」

 翟義の乱、と聞いて劉秀は僅かに緊張した。まさかとは思うが、戦場で剣を交えるなどして顔を憶えられてはいないか。そう心配しながら、目の前に立つ男に揖礼した。劉秀の目の前に立つ男、竇公こと竇融とうゆうは、あまり大袈裟に紹介してくれるな、と苦笑しながら、劉秀に揖礼を返した。どうやら竇融とは初対面、もしくは顔を憶えられてはいないらしいことに、劉秀は安堵した。もう一人の客人、白髪白髯ながらも屈強な体躯の老人を、隗囂は劉秀に紹介した。

「そちらにおられるのは、大新帝国に並ぶ者がいない双錘そうすいの達人、太公たいこうだ」

「おい」

 老人が白い眉の片方を跳ね上げた。

「誰が太公だ。おれはまだ而立じりつ前だぞ」

 而立、とは三十歳のことである。劉秀は驚いた。まさか、と思いながら老人の顔に目を凝らすと、老人の肌は日焼けしているだけで皺は少なく、髪と髭と眉が黒ければ三十歳前後に見えなくもないことに気づいた。老人が両手を揖礼の形に重ね合わせた。

「姓は馬、名はえんあざな文淵ぶんえんだ」

「馬太公は――」

 またしても隗囂が馬援ばえんを馬太公――馬の爺さま、と呼んだ。馬の爺さまは七王国時代の偉人の子孫である、と言おうとした隗囂に、まだ言うか、と馬援が目を剥いて抗議した。これは失礼した、と隗囂は笑いながら馬援に謝り、敬称を訂正して紹介を続けた。

「馬公は、馬服君ばふくくんの子孫だ」

 馬服君は戦国の七王国の一国、ちょう王国の名将である。同じく趙王国の名将とされる廉頗れんぱと同時代を生きた人で、廉頗が不可能と判断した作戦を成功させたことから、智謀と闘志は廉頗を凌ぐと敵国に恐れられたが、一方で後進を教導する才能は欠いたようで、馬服君の死後、馬服君の子の一人が趙軍の司令官になるも、しん王国の侵攻軍に致命的な大敗を喫している。

「わたしが言うのも何だが、馬公は変な人でな。詩経しきょうを学んだが、一字一句、暗記する学習法に異を唱え、師や兄弟子と大論争した末に破門された」

「おれは変なことは言うておらんぞ。四の五の言わずに頭の中へ詰め込んでしまえ、というような学習法では、考える力が育たない。そうだろう。そうではないか、ええと――」

「彼は劉文叔ぶんしゅく

 来歙の族弟で太学の学生である、と隗囂は馬援に劉秀を紹介した。そうか、学生か、と馬援は頷き、劉秀へ顔を向け直した。

「そうではないか、劉せい

「そう、ですね。そう、だと思います」

 馬援に詰め寄られ、劉秀は首を縦に振ることを強いられた。そうだろう、と満足して頷く馬援の後ろで、ははは、と隗囂が笑い声を上げた。

「馬公は変人だが、しかし、馬公の言うことは一理ある。三百年前、馬服君の子、趙括ちょうかつが秦軍に敗れたのは、書物に記されている通りにしか軍を動かせず、それゆえに作戦を秦軍に読まれたからだとされる」

「趙括は孫子そんしを隅から隅まで暗記していたらしいが、如何に孫子が優れた書物でも、暗記するだけで足れりとすれば、そうもなるだろうよ。おれは違う。この馬文淵が馬服君の子に生まれ、趙括の代わりに趙軍を指揮していたならば、武霊王ぶれいおう以来の趙の精兵を縦横無尽に動かし、秦軍に大勝利したことは間違いない」

「それはないな、竇公」

「さすがに無理ですな、隗公」

 ははは、と隗囂と竇融は朗らかに声を揃えた。

 帝都の庁舎や市場の店舗が閉まり、都市の路地裏に設けられている花街に男が集まり始めた。宿を求める旅行者で旅籠の前も賑わい始めた。隗囂の邸宅の主屋に招き入れられた竇融と馬援の前に、厨で温められた酒が劉秀の手で運ばれた。あとは自分たちでやるので休んでよい、と隗囂は劉秀に伝えた。劉秀が一礼して下がると、隗囂、竇融、馬援は乾杯した。互いに酒を酌み合いながら、雑談を楽しんだ。そういえば、と馬援が膝を打ち、隗囂に訊ねた。

「そういえば、子陽しようはどうしている?」

 子陽、とは馬援の同郷の友人の字である。久しく顔を見ていないが、元気にしているだろうか、と馬援に訊かれ、隗囂は酒杯を口から離した。

「つい先日、導江どうこう卒正そっせいに任じられた」

「卒正、とは確か、太守のことだな。導江、とは聞いたことがないが、どこだ?」

しょくだ」

「蜀か。そうか、子陽は蜀郡太守たいしゅか。あいつも、ついに二千せきか。あの子陽が、出世したもんだ」

「彼は優秀な男だ。あれほどの能吏はそうはいない。これからも出世するだろう。末は六監ろっかんか、四少ししょうか。或いは四輔しほにも手が届くかも知れない」

「……六監? 四少?」

「漢の頃の九卿きゅうけいの如きものだ」

「九卿か。あいつなら、なれるかも知れないな。それにしても、昨今は地名や官名がころころ変わるから、よくわからんな。大漢が大新、長安ちょうあんが常安くらいなら憶えられるが、蜀が導江、太守が卒正、九卿が六監に四少となると、わけがわからん」

「正しくは、太守は大尹だいいんで、大尹が侯爵位を有していたら卒正、伯爵位を有していたら連率れんりつ。九卿は六監と六卿ろっけいに職権を分けられ、そこから更に――」

「もうやめてくれ! 頭がおかしくなる!」

 馬援は大声を上げて自らの耳を塞いだ。その様子を見て竇融が笑い、くつくつと隗囂も笑声を零した。意地が悪いやつらだ、と馬援は眦を上げたが、すぐに自らも笑い出した。三人が楽しげに笑う声が戸外に漏れ、自室で書物を筆写していた劉秀の耳にまで届いた。劉秀は筆を止め、友が来たる、楽しからずや、と孔子こうしの言葉を呟くと、筆に墨汁を含ませた。ふう、と竇融が笑い疲れたように息を吐いた。

「平和ですな、常安は」

 竇融は杯を膳の上に置いた。

「今日も常安の郊外では、農夫が畠を耕している。城内の市は賑わい、大路は行き交う人が絶えない。人目につかないよう、狭い路地裏に設けられた花街は、大勢の男たちで溢れている」

 男たちの中には貴族の子弟もいる。皇帝の従弟にして腹心である大貴族、王邑おうゆうも花街を遊び歩いていた一人であり、数年前の夜、妓館で一夜の恋を楽しもうとして、一夜では終わらない恋に落ちた。妹さんをくれ、必ず幸せにする、と懸命に頭を下げる王邑に、おまえのような放蕩者に大事な妹をやれるものか、と王邑の素性を知らずに水を浴びせた朝のことを、竇融は今も鮮明に憶えている。

「こうしている間も――」

 竇融は僅かに顔を俯かせた。

「こうしている間も、北では匈奴フンヌとの戦争が続いている。常安に身を置いていると、そのことを忘れそうになります」

「しかし――」

 隗囂の手が、酒を酌むための杓子へ伸びた。

「――目に見える景色は変わらずとも、戦争は確実に常安を蝕んでいる」

「と、言われますと?」

「例えば、この酒」

 隗囂は杓子で酒壺から酒を掬い、竇融に見せた。

「これは馬乳酒だが、市では幾らの値で売られていると思う?」

「さて、幾らでしょうか?」

「戦争が始まる前の――」

 隗囂は竇融の杯に酒を注ぎ入れた。

「――約十倍だ」

「十倍!?」

 竇融は驚いた。横で酒を飲み乾そうとしていた馬援も驚き、驚いた拍子に口中の高価な酒を噴きそうになり、左手で口を押さえて堪えた。竇融は杯の中の白色の液体を覗き込んだ。

「なぜ、これが十倍もの値に?」

「軍が牛馬を搔き集めているからだ」

 新軍は現在、万里の長城に駐屯する三十万人の将兵へ軍需物資を送るために、国内の牛馬を大量に徴発している。軍による徴発は帝国内、特に都市部に流通している馬の数を急減させ、市場で売られている馬の価格を高騰させた。馬の価格が高騰すれば、馬の乳を原料とする馬乳酒も影響は免れない。馬乳酒の価格の高騰は馬の価格の高騰が原因であり、また馬の高騰は馬を用いた輸送の費用も高騰させ、帝都の物価を強力に押し上げた。

「これほどまでに牛馬を集めているということは、やはり、長城では補給に苦しんでいるのか?」

 隗囂は杓子を置いて竇融に訊ねた。さて、と竇融は曖昧に微笑し、自らの口を塞ぐように酒杯を含んだ。補給に苦しんでいるだけでなく、戦場の様子を語ることまで禁じられているらしいことを隗囂は察した。は、と馬援が嘲るように息を吐いた。

「あんな場所に三十万人も送り込めば、そうもなるわい。上の連中は、どいつもこいつも辺境を知らない。だから、こういう愚かなことをする」

 馬援は帝都周辺に点在する中小都市の出身である。曽祖父が巫蠱ふこの禍――孝宣こうせん皇帝の父母と兄姉が冤罪で処刑された事件で、無実の罪を着せた側の党派に属していたことから、祖父も父も帝国政府に冷遇されたが、王莽おうもうが権力を掌握すると状況が変わり、兄たちが等級二千石の高級官僚に抜擢された。馬援も兄たちの余禄を受けて地方の中級官吏に任命されたが、収監されていた囚人を独断で解放したことで処罰されそうになり、棄官して逃亡した。幸いにも逃亡直後に恩赦が出たが、馬援は宮仕えが嫌になり、帝国北部の辺境に家を建て、一人で荒野の開拓を始めた。羊を飼育しながら農地を開墾し、麦と菽を植えた。開拓を始めて半年が過ぎた頃、十数人の盗賊に襲われた。双錘を振り回して数人の頭を叩き割り、逃げ遅れた数人を捕らえた。捕らえた数人に農具を持たせ、働かせた。その多くは数日の内に逃げた。一人だけが逃げず、働き続けた。その一人、まだ顔立ちに幼さを残した若者に、おまえは逃げないのか、と馬援は訊ねた。若者は肉刺が潰れた手ですきを振るいながら、逃げない、と答えた。なぜだ、と馬援は更に訊ねた。この場所にいれば、もう人を傷つけずに生きていけそうだから、と若者は答え、荒野の土を耕し続けた。

 それからも盗賊の襲撃は続いた。盗賊と戦いながら馬援は開拓を続けた。捕らえた盗賊を働かせた。その多くは数日で逃げたが、逃げない者もいた。逃げない者たちと力を合わせ、農地を拡げた。気がつけば、家が一軒、二軒と増え、小さいながらも開拓村が出来ていた。土を掘り、水を引き、稲作に挑戦した。他の開拓村の農夫たちから、こんなに冷たく乾いた土地で稲作が出来るわけがない、と笑われた。翌年の秋、手を繋げば囲めるような水田から、一握りの米が収穫できた。米の一粒一粒が、まるで真珠のように輝いて見えた。逃げずに働き続けた若者たちを振り返り、見ろ、綺麗だぞ、と微笑んだ。こんなに荒れた土地でも、米は実る。そのことに若者たちは自らの何かを重ね、声を上げて泣いた。

 その夜、馬援は米が収穫できたことを祝い、質素ながらも宴を催した。祭壇を築き、収穫できた米の半分を后土こうど――帝国で信仰されている地母神に捧げた。残りの半分は蒸して皆で分けて食べた。共に火を囲み、歌い、踊り、笑い転げた。若者たちに肉を食わせ、酒を飲ませた。酒が若者たちに自らの過去を語らせた。やはり、と言うべきか、人を殺した者、人から盗んだ者が何人もいた。その多くが早くに両親を亡くし、食べるために犯罪に手を染めていた。馬援も幼少の頃に両親を亡くし、兄たちに育てられた。若者たちの境遇を他人事と思えず、両目に涙を溜めた。おれがこいつらの兄にならなければ、と思い、これからはおれを兄と思え、と若者たちに思いの丈を伝えた。若者たちは、兄ではなく祖父だろう、と涙が流れるほどに大笑いした。

 数年が過ぎ、王莽が皇帝に即位して大新帝国が成立した。収穫と納税の秋を迎えた。馬援は数日かけて庁舎へ出向いて税を納め、帰りを待つ弟たちのために市場で酒を買い、開拓村への帰路に就いた。弟たちが喜ぶ顔を想像しながら馬を進めていると、前方の地平線上に黒煙らしきものが見えた。火事か、それとも盗賊か、と表情を緊張させ、馬を急がせた。皆で協力して開墾した畠が見えてきた。思わず息を呑んだ。畠が踏み荒らされ、数え切れない数の馬蹄の跡が土の上に残されていた。これは盗賊の仕業ではないと直感した。無事でいてくれと祈りながら、開拓村へ馬を駆けさせた。少しでも速く駆けるために酒を捨てた。護身のために帯びていた双錘を、右手が無意識に掴んだ。開拓村が見えてきた。開拓村の門が破壊されていた。破壊された門から村の中へ駆け込んだ。家が燃え、弟たちが倒れていた。落ちるように馬から下り、弟たちへ走り寄り、抱え起こして名を呼んだ。返事は無く、家が燃える音だけが聞こえた。顔を上げ、まだ生きている弟を捜した。弟たちの名を呼びながら村の中を走り回り、燃えている家の中にも飛び込んだ。弟の遺体を見つけ、今にも燃え崩れようとしている家の中から運び出した。

 胸に小さな孔が幾つも開いた、最年少の弟の遺体を見つけた。遺体を見た瞬間、なぜかはわからないが、生存者が一人もいないことを理解した。悲しみと、悲しみに勝る怒りが湧いた。双錘を掴み、馬に乗り、駆け出した。地面に残された馬蹄の跡が、進むべき方向を教えてくれた。鷲も狼も見当たらない荒野を駆けた。荒野の風が絶えず白髯を叩いた。風で髷が崩れて解け、白髪が火のように天を衝いた。無数の馬蹄が起こしているであろう土煙が見えた。掠奪品を満載した槖駝ラクダと、鷲獅子グリフィンの旗を掲げた弓騎兵の一隊が見えた。

 馬援に気づいた一騎が反転し、馬を駆けさせながら馬援を射た。馬援は右の錘で矢を叩き落とし、左の錘を弓騎兵の頭に叩きつけた。今度は二騎が反転した。どちらも双錘で打ち殺した。更に一騎が反転した。弓を構え、しかし、矢は放たず、黒煙のような黒馬を走らせてきた。弓を構えている男の顔が見えた。刀痕だらけだが、端整な顔をしていた。だからこそ、まるで死神のように見えた。おまえが殺したのか、と死神へ叫んだ。死神も何か叫び返した。彼我の馬蹄の音が急速に近づいた。

 気がついた時、馬援は地上に倒れていた。矢に肩を射貫かれていた。愛馬に顔を覗き込まれていることに気づいた。手を上げて愛馬に触れた時、すら、と刀剣が鞘の中を滑る音が聞こえた。径路刀アキナス、と匈奴人が呼ぶ短刀を手に、死神が近づいてきた。どうしてこんなことをしたのか、と匈奴語で問われた。おまえたちに家族を殺されたからだ、と匈奴語で答えた。匈奴に降る気はないか、と問われた。小指を立て、降ることを拒絶した。径路刀が鞘に納められ、死神が馬援に背を向けた。おれを殺せ、と馬援は死神へ叫んだ。次は殺す、と死神は言い、黒馬を走らせて荒野の彼方に消えた。

「おれは、生かされた」

 隗囂に酌まれた酒を、馬援は飲み乾した。生かされた後のことを隗囂に話した。焼け落ちた開拓村へ戻り、弟たちの遺体を埋葬したことを話した。一年、弟たちの墓の傍で過ごしたことを話した。その一年の間に、双錘の技を鍛え直したことを話した。乱世の王たちが胆を嘗めて敵国への憎悪を掻き立てたように、荒野の虫を喰い、その腸の苦さを舌で味わい、匈奴への復讐心を燃え立たせたことを話した。

「おれは、弟たちの仇を取る。匈奴のやつらを、皆殺しにしてやる。おれを殺さず、生かしたことを、後悔させてやる」

 馬援は酒杯を重ねた。陽が没し、馬援は酔い潰れて寝た。隗囂は馬援の寝顔を眺めながら苦笑した。

「こんなになるまで酒を飲ませるとは、わたしは悪い主人だな」

「わたしは、これでよいと思います」

 隗囂の杯に酒を酌みながら、竇融が微笑んだ。

「確かに、酔い潰れるまで酒を飲ませることは酒席の作法に反しますが、こうしている間は、誰も憎まずにいられるでしょうから」

「本当に――」

 隗囂は竇融を見た。

「――彼を従軍させるのか?」

「匈奴と戦わせてくれと、頼まれましたから」

「文淵は――」

 があ、ごお、と寝息を立てる馬援を、隗囂は一瞥した。

「――復讐心に駆られすぎている。戦場へ連れて行くのは、些か危ういように思える」

「わたしも、そう思います。しかし、従軍させねば一人で匈奴に殴り込みかねないように見えますので、それならば、わたしの目の届くところにいてもらう方がよいのではないかと考えました」

「そうだな。それはそうだ。すまない。愚かなことを訊いた」

「そのようなことは」

「竇公は思慮深い。あなたが傍にいてくれるのなら、馬太公が危険を冒しすぎることはあるまい」

「あれこれ考えすぎるせいで、決断が遅いとよく言われます」

「そこは馬太公と助け合えばよい。馬太公は――」

 誰が太公だ、と馬援が寝言を漏らした。隗囂は驚き、驚いた拍子に右手の酒杯から僅かに酒が零れたが、再び馬援が、があ、ごお、と寝息を立て始めると、ふ、と笑みを漏らして杯を置いた。

「――馬公は些か短慮だが、決断と行動は早い。あなたが迷う時は、馬公が背を押してくれるはずだ」
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