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第六章 匈奴襲来

第三十八話

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高句麗こうくりが?」

 烏珠留うしゅりゅう単于ぜんうは驚いた。高句麗は匈奴フンヌ単于国の東に位置する小国であり、かん帝国に従属して金印を授与されたが、しん帝国の成立後は他の従属国と同様、金印の文字を一方的に変えられた。これを高句麗は不満に思うも、帝国との国力差を鑑みて沈黙したが、軍糧の確保に苦しんでいる新軍から糧秣の提供を迫られるに及び、ついに帝国から離反して匈奴単于国に庇護を求めてきた。

「高句麗の求めに応じる」

 烏珠留単于は即断した。すぐに匈奴単于国の南東部総督、左屠耆王さしょきおうに軍を率いて高句麗へ向かうよう命じた。高句麗へ向かうには烏桓うがん、もしくは鮮卑せんぴの勢力圏を通らねばならず、鮮卑と交渉して軍を通行させる許可を得るよう、北東部総督に命じた。自らも軍を率いて東へ進んだ。新帝国の城塞から軍が出撃し、高句麗軍の抵抗に遭いながらも高句麗の主邑へ進んでいる、という報告が届いた。烏珠留単于は匈奴単于国と鮮卑の勢力圏の境界へ軍を進め、鮮卑の族長たちに圧力をかけた。鮮卑が軍の通行を許可した、という報告が届いた。左屠耆王の軍を高句麗の主邑へ急がせ、自らは烏桓を牽制するために単于国の東部に軍を留めた。

 数日後、鷲獅子グリフィンの旗を掲げた騎兵隊が高句麗の主邑に辿り着いた。高句麗軍は城門を開け、鷲獅子の旗の軍を主邑へ迎え入れた。更に数日が過ぎ、左屠耆王の軍が高句麗の主邑に到着した。城門が開けられ、左屠耆王は高句麗の主邑に入城した。数日前、匈奴軍に偽装して高句麗軍を欺いた新軍が、今度は高句麗軍に偽装して匈奴軍を待ち受けていた。罠に嵌められたことに気づいた匈奴軍に、八方から矢が降り注いだ。

 新軍の攻撃で左屠耆王が負傷し、数百の騎兵が失われたことが、単于国東部に軍を留めている烏珠留単于に伝えられた。烏珠留単于は報告を聞き終えると、左骨都侯さこつとこうに二百騎を与え、高句麗から撤退する友軍を支援するよう命じた。負傷した左屠耆王に代わり、左骨都侯が南東方面を守るようにも命じ、軍を西へ返した。

 高句麗の主邑を制圧し、匈奴単于国からの援軍も撃退した新軍の指揮官、討濊とうわい将軍荘尤そうゆうは、そのことを上官である立国りっこく将軍孫建そんけんに書簡で報告した。国境の城塞に設けられた執務室で書簡を読んだ孫建は、相好を崩して補佐官の一人に書簡を見せた。

「見ろ。荘討濊が一仕事してくれたぞ。兵は詭道、とは言うが、匈奴軍の振りをして高句麗軍を騙し、高句麗軍の振りをして匈奴軍を騙すとは、大胆なことをする」

 どうして荘尤は匈奴軍の来援を知ることが出来たのか、補佐官が孫建に質問した。孫建は書簡に目を戻した。

「烏桓が匈奴の動きを知り、荘討濊に報せた。高句麗が匈奴と手を組めば、烏桓は東西から敵に挟まれることになるからな」

 荘尤からの書簡には、離反した高句麗の首長を討ち取ることに成功するも、残党による抵抗が続いていると書かれていた。残党を懐柔して戦いを終わらせるために、高句麗に授けた金印の字句を旧に戻すべきであるとも書かれていた。孫建は苦笑して書簡を文机の上に置いた。

豎子こぞうめ、好き勝手なことを言う。そんなことを決める権限が、おれに有ると思うのか」

 孫建は荘尤の進言を帝都常安じょうあんへ伝送した。帝都の皇帝は荘尤の進言に反応を示さず、孫建も忘れようとしていた時、帝国全土の官吏に宛てた布告書が帝都から届いた。

 布告書には、高句麗を下句麗と改称することが決定した、と書かれていた。

 孫建は思わず壁を殴りつけた。皇帝は清廉、且つ厳格で罪を強く憎むため、帝国に叛いた上に今も抗戦を続ける高句麗に、譲歩するようなことはしないだろうとは考えていた。しかし、この決定は予想よりも遥かに酷すぎた。

「大方、甄豊しんほうめが妙なことを吹き込んだのだろう」

 忌々しいやつめ、と孫建は床を蹴りつけた。十五単于擁立作戦が始動する前、荘尤が兵站の不備を指摘して作戦に反対した時、孫建は甄邯しんかん劉歆りゅうきんらと共に、十五単于擁立作戦に賛成した。指揮官が作戦の成功を公然と疑えば軍の士気が下がり、勝てる戦いも勝てなくなると考えたからであるが、作戦の実施が決定した後、孫建は作戦の立案を主導した甄豊に、本当に三十万もの大軍に物資を供給できるのか、と訊ねた。心配は無用、必ず何とかしてみせる、と甄豊は断言した。孫建は経験豊富な武官であるが、兵站に関する知識は乏しく、兵馬の補充や軍糧の補給は常に他人に任せていた。この時も、甄更始が断言するのなら、と甄豊を信用して任せた。

 その結果、三十万の大軍は集結から一年を経ても、万里の長城を越えることが出来ずにいる。

「あの匹夫ひっぷめ、目の前にいたら、この手で首を引き抜いてやるものを」

 ぎりぎりと孫建が歯を軋らせた時、孫建の補佐官の一人が孫建を訪ねてきた。孫建は咳払いして気持ちを落ち着かせ、補佐官へ顔を向けた。

「おう、とう――」

 竇司馬しばか、と言おうとして、孫建は咳き込んだ。竇司馬、姓名は竇融とうゆうは、驚いて孫建に走り寄り、孫建の体を支えた。

「孫将軍」

「心配するな。それよりも、報告を頼む」

 了解しました、と竇融は孫建から離れ、姿勢を正した。孫建に命じられていた調査の進捗を報告した。予定されていた軍糧が後方から届かず、深刻な食糧不足が続いた結果、餓えた将兵の一部が徴発と称して農村で掠奪を働いていること。掠奪を隠蔽するために、軍の高官、及び掠奪が行われた行政区の官吏に、掠奪品の一部が賄賂として贈られていること。贈収賄を隠蔽するために更に贈賄が行われ、虚偽に虚偽を重ねた報告が繰り返されて軍も行政も機能不全を起こしていること等が、孫建に報告された。孫建は苦虫を噛み潰したような顔をした。

「何という有様だ。これが国を護り、民を安んじる官軍の姿か」

「実は、わたしも賄賂を受け取りました。貪官汚吏を演じねば、軍の腐敗を真に知ることは出来ないと思いましたので」

「正しい判断だ」

 竇融に賄賂を渡してきた者が誰か、孫建は竇融に訊ねた。戦国期の名将、廉頗れんぱの子孫であり、数年前の翟義てきぎの乱では騎兵指揮官を務めた勇将、廉丹れんたんの姓官名を竇融は答えた。その時のことを孫建に話した。民から食糧を奪わなければ兵が餓え、兵が餓えれば敵と戦えず、兵も民も諸共に殺される。そう廉丹は竇融に言い、これで目を瞑れ、と竇融の手に帯鉤おびどめを握らせた。

「これが、その帯鉤です」

 廉丹に握らされた帯鉤を、竇融は孫建に渡した。帯鉤は馬頭を模した形をしており、青銅製の本体にトルコ石が象嵌され、全体に鍍金が施されていた。辺境の農村で手に入るような品ではなく、恐らくは廉丹の私物と思われた。少しの間、孫建は廉丹の帯鉤を見つめた。

 二日後、立国将軍孫建に率いられ、約一万の新軍が城塞を出た。国境を越えて匈奴単于国に侵入し、砂塵混じりの風が吹く荒野を北進した。一日、二日と孫建は馬上で揺られ続けた。退屈を紛らわすために補佐官の竇融と話した。竇融が翟義の乱の討伐に従軍していたことを知り、あの戦いに参加していたのか、と顔を綻ばせた。

「どこの隊に所属していた?」

強弩きょうど将軍の下で、司馬を務めておりました」

「強弩将軍か。当時の強弩将軍は、確か、おう奮武ふんぶだな。翟義との決戦では、右翼を指揮していた」

「あの時は、叛乱軍の猛攻で潰走寸前まで追い込まれました。孫将軍が敵軍の只中へ突入し、賊兵どもを引きつけてくださらねば、わたしは母と弟妹たちを残して死んでいたかも知れません」

「父は、いないのか?」

「わたしが幼い頃に死にました。残された母を助け、幼い弟妹たちを養うために、わたしは軍に入りました」

「そうか。すまんな、こんなことに付き合わせて」

「孫将軍には命を救われました。それに、幸いにも妹は容姿に恵まれ、隆新りゅうしん公に――」

 隆新公、とは新帝国の監察長官、王邑の称号である。

「――見初められて、公の小妻そばめになることが出来ました。わたしがいなくても、妹は生きていけます。母と弟たちの面倒も見てくれるはずです」

 二頭の胡羚羊ガゼルが荒野を駆けた。陽を遮るものが無い大地を、新軍の兵馬は蟻のように歩き続けた。十数里の距離を置き、匈奴軍の斥候が新軍を尾行していた。新軍が沙漠を北上していることが烏珠留単于に伝えられた。軍を立て直して大いなる湖バイカル・ノールへ向かおうとしていた烏珠留単于は、馬上で手綱を強く握りしめた。砂漠を進んでいる新軍の数は約一万。烏珠留単于が指揮している兵の数は、連戦で約四千騎に減じていた。

「新軍を迎え撃つ」

 戦いは兵の数だけで決まりはしない。そう自らに改めて言い聞かせ、烏珠留単于は南へ兵を進めた。途中、補給のために兵站用の羊群に立ち寄ると、羊群を管理している女たちが群れの端に集まり、心配そうに顔を見合わせていた。右屠耆王うしょきおう輿が女たちへ黒馬を近づけ、どうしたのかと訊ねた。女の一人が、うんの馬が子を産んだ、と答えた。輿は眉間を寄せた。

「母馬の容態が悪いのか? それとも、仔馬の方か?」

 女は答えず、仔馬の方を目で示した。輿は女の視線を追い、地上に産み落とされたばかりの仔馬を見た。

「何だ、これは」
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