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第六章 匈奴襲来
第三十五話
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万里の長城を越えて大新帝国に侵入した匈奴軍は、数十の隊に分かれて帝国辺境の原野を駆けた。須卜当に率いられた百騎が小さな農村を見つけた。畠で大豆の手入れをしていた農夫が、馬蹄の轟きに気づいて顔を上げた。須卜当の手許で弦音が鳴り、農夫の頭を矢が貫いた。次の矢を矢箙から抜きながら、須卜当は指揮下の騎兵に命じた。
「捕虜は取るな。家畜も捨て置け。奪うのは鉄と食糧だ」
また須卜当の弓が鳴り、逃げ惑う農夫の脚を矢が射貫いた。農夫の子供と思しき少年が農夫に駆け寄り、農夫を助け起こそうとした。おれに構うな、逃げろ、と農夫は少年を突き飛ばした。少年は農夫から離れず、助け起こして一緒に逃げようとした。馬蹄の轟きが農夫と少年の背中に迫り、その上を通りすぎた。
農村に火が放たれた。地平に立ち昇る無数の黒煙を見て、新帝国の国境警備隊が異変に気づいた。万里の長城の関門を守る城塞から数百の兵が出撃し、黒煙の下へ急いだ。数十騎の匈奴軍騎兵と、匈奴軍騎兵に連行されている農民の列を見つけた。女や子供や老人も連行されている様を見て、新軍の指揮官は怒りに駆られた。数百の兵士が喊声を上げて匈奴軍へ突撃し、匈奴軍は農民を置いて逃走した。新軍は数十人の老若男女を保護した。直後、四方で土煙が上がり、馬蹄の轟きが急速に近づいてきた。長駆して疲労している新軍兵士の頭上に矢が降り注いだ。戦闘は短時間で終わり、鉄の武具を剥ぎ取られた新軍兵士の遺体と、囮に使われた老若男女の屍が、彼方へ駆け去る土煙の後に残された。
大新帝国の北部辺境一帯で破壊、掠奪、殺戮が行われた。辺境を警備していた新軍が撃ち破られ、万里の長城の関門の一つが匈奴軍の手に落ちた。匈奴軍の総指揮を執る烏珠留単于は最初の作戦目標を達成したと判断し、次の作戦へ移るために軍を二つに分けた。分けた軍の一方を左骨都侯に委ね、引き続き帝国北辺で破壊と掠奪を行うよう命じると、自らは匈奴軍の主力を率いて西進し、タリム盆地のオアシス都市国家群を目指した。
烏珠留単于の狙いは、タリム盆地で生産されている鉄である。鉄は匈奴単于国でも生産されているが、その量は決して多くない。指揮下の騎兵に鉄製品の掠奪を命じているが、戦争で消費される大量の鉄を掠奪だけで賄えるはずもない。何か手段を講じねば鉄が不足することは明らかであり、烏珠留単于はタリム盆地のオアシス都市国家群を制圧することで、鉄を大量、且つ安定的に確保しようと考えた。
左骨都侯を帝国北辺で暴れさせ、帝国の注意をタリム盆地から逸らしながら、烏珠留単于は三千騎を率いて西へ進んだ。途中、補給のために帝国の集落を幾つも襲撃した。帝国の領土に幾度も侵入したことがある輿が襲撃を指揮した。単于に委ねられた数百騎を複数に分けて掠奪に向かわせ、自らも数十騎を率いて小さな集落を襲撃した。
その集落は、小規模ながらも灌漑設備があり、よく手入れされた畠があり、牛や羊が放牧されていた。二十人ほどの若者が働いていた。匈奴軍が土煙を巻き上げて近づくと、若者たちは集落を囲う塁壁の内へ逃げた。数人の屈強な若者が塁壁の陰に伏せ、匈奴軍に矢を射た。数倍の数の矢が匈奴軍から射返された。若者たちは堪らず塁壁の裏に隠れ、その隙に匈奴軍は集落の門へ接近した。門を守るために、若者たちは危険を冒して塁壁の上に身を晒し、匈奴軍の騎兵を射ようとした。輿の手許で数度、弓弦の音が鳴り響き、若者たちは頭を射貫かれて倒れた。少年が一人、塁壁の上に現れ、門を破壊しようとする匈奴騎兵に石を投げた。次の瞬間、数本の矢が少年の体を貫き、少年は塁壁の向こう側へ転がり落ちた。
匈奴軍は門を破壊して集落へ入り、尚も斧や耒耜、投石で抵抗する若者たちを殺した。家屋へ押し入り、物資を掠奪した。豆、麦、乾した肉、乾酪、鉄製の農具を奪い、槖駝に載せた。若者たちの遺体からも奪えるものを奪い、槖駝に載せた。家屋に火を放ち、黒煙を背に集落を後にした。本隊へ帰る途中、何者かに追われていることに気づいた。
その何者かは、遠目には老いた男のように見えた。棒の先に鉄球がついた錘という打撃武器を、左右の手に一本ずつ握りしめていた。馬に乗り、髪を火のように振り乱して荒野を駆けていた。老人の馬の脚から上がる小さな土煙が、匈奴軍の大きなそれに少しずつ近づいた。
「殺せ」
輿は追いかけてくる老人を敵と判断し、指揮下の騎兵に命じた。一騎が反転し、老人へ馬を走らせながら弓を構えた。弦音が鳴り、老人へ矢が飛んだ。老人は右手の錘を鋭く振り、矢を叩き落とした。匈奴騎兵が次の矢を矢箙から引き抜いた。再び弓を構えるよりも早く、匈奴騎兵の馬と老人の馬が交錯した。交錯する瞬間、老人の左手の錘が横殴りに振られた。
匈奴騎兵が頭を叩き割られ、吹き飛ぶように馬から落ちる様を、輿は肩越しに見た。同じく仲間が頭を割られる様を見た二騎が、反転して老人に挑んだ。二騎から同時に放たれた二本の矢を、老人は双つの錘で叩き落とした。僅かに時間差をつけて放たれた二本の矢も、双錘に叩き落とされた。もう次の矢を放つ間も無いほどに、老人の双錘が二騎に近づいた。二騎は双錘を避けるために左右に分かれた。老人は迷わず、自分から見て右の騎兵を追いかけた。老人の馬が右の騎兵の馬に追いつき、老人の左手の錘が騎兵の後頭部に叩き込まれた。その間に左の騎兵が老人の背後に回り込み、次の矢を矢箙から引き抜いた。弦音が鳴り、老人の背中へ矢が飛んだ。必殺を期した一矢は、背中に目があるかの如く振られた双錘に弾かれた。何かを罵る声が、左の騎兵の口から放たれた。騎兵の手が弓を横へ投げ、新軍から掠奪した直刀を抜いた。馬を反転させた老人へ向けて、騎兵は雄叫びを上げながら突進した。
老人の馬と匈奴騎兵の馬が馳せ違い、騎兵の雄叫びが絶えた。馬から落ちる騎兵を一瞥もせず、老人は匈奴軍の方へ馬首を巡らした。匈奴の戦士が三人も返り討ちにされたことが輿に伝えられた。次は自分が、と志願する戦士たちの声を、輿は制した。
「おれがやる」
輿は馬を反転させた。老人の方へ馬を駆けさせながら、矢箙から矢を引き抜き、弓を構えた。矢を放たず、馬を走らせ続けた。確実に一矢で殺すために、放たれた矢に反応できないであろう距離まで近づこうとした。輿の黒馬と老人の馬が急速に近づき、老人が双錘の一方を肩の上に振り上げた。老人の口から雄叫びが放たれた。輿も咄嗟に雄叫びを返した。輿の黒馬と老人の馬が更に近づき、二つの雄叫びが擦れ違う寸前、輿の手許で弦音が鳴り、次いで老人の錘が轟と振られた。
二つに叩き折られた弓が、輿の左手から飛んだ。
輿の黒馬と老人の馬が馳せ違い、土煙を上げて離れた。輿は疾駆する黒馬の上から転げ落ちた。僅かに遅れて、どす、どす、と老人の双錘が地面に落ち、どさ、と老人が落馬した。
風が鳴り、双つの錘の上を砂塵が過ぎた。輿の黒馬が輿の許へ戻り、倒れている輿の顔を舐めた。輿は右手で黒馬の鬣を掴み、体を起こした。左手の痺れに顔を顰めながら立ち上がり、大きく息を吐いた。
左手の痺れが、勝敗を分けた一瞬を思い出させた。老人が雄叫びを上げた時、反射的に右手が動き、矢を放ちかけた。咄嗟に叫び返し、老人の気迫に対抗した。そうしていなければ、老人が反応できる距離で矢を放ち、次の一矢を射る前に頭を叩き割られていた。
肩を射貫かれて倒れている老人へ、輿は目を向けた。仰向けに倒れている老人の顔を、老人の馬が覗き込んでいた。老人のことを心配しているように見えて、少しだけ胸が痛んだ。径路刀の柄を右手で掴みながら、老人の方へ歩いた。老人の左手が上がり、馬の頬に触れた。老人の馬が老人の左手に顔を押しつけた。輿の径路刀が、すら、と鞘の中を滑る音を立てた。老人の口が僅かに動いた。
「殺せ」
匈奴単于国の公用語が、老人の口から出た。輿は径路刀を半ばまで抜いた手を止めた。老人の口から匈奴の言葉が出たことに、僅かながら動揺した。また老人の口が動いた。
「早く殺せ」
「なぜ――」
輿は改めて老人の顔を見た。老人は髪と髭が白く、一方で声は意外と若く、日焼けした肌に皺は少なく、それほど老いてはいないように見えた。
「――なぜ、こんなことをした。おまえほどの戦士なら、勝てるはずがないことはわかっていたはずだ」
「おまえたちが――」
向こうへ行け、というように、老人は愛馬の顔を押した。老人の馬は老人から離れず、老人の手を頬で押し返した。
「――おれの家族を殺したからだ」
「家族?」
自分たちが集落を襲い、若者を二十人以上も殺したことを、輿は思い出した。
「そうか。それは、正しい理由だ。おれも、家族を殺されたなら、そうするだろう」
「理解したなら、早く殺せ。おれの家族を殺した手で、おれも殺せ」
「一度だけ訊く。匈奴に降る気はないか。おまえほどの戦士を、殺すのは惜しい」
輿は老人を見つめた。老人の左手が愛馬から離れ、輿に向けて小指を立てた。それがどういう意味かはわからないが、どうやら拒絶されたらしいことを輿は察した。径路刀を鞘から抜き放とうとした。抜き放つことを躊躇した。躊躇した自分に困惑した。数騎の匈奴騎兵が輿と老人の横を駆け抜けた。老人に斃された戦士たちの遺体と、彼らの愛馬が回収された。輿の右手が径路刀を鞘に戻した。老人に背を向け、輿は愛馬の方へ歩き出した。
「おい」
遠ざかる足音を耳にして、老人が輿の背中へ顔を向けた。
「何をしている。早く殺せ」
輿は無言で黒馬に乗り、馬首を巡らした。矢に射貫かれた肩を押さえながら、老人が上体を起こした。
「おい」
「次は殺す」
輿は黒馬を走らせた。おれを殺せ、と叫ぶ老人の声を背後に聞きながら、先を行く数十騎を追いかけた。
その夜、輿は夢を見た。夢の中に女性が出てきた。云に似た美しい黒髪をしていた。輿に背を向けて草原の中に立ち、彼方の地平を見ていた。輿が女性の背中に近づこうとすると、遮るように風が強く吹いた。
破壊と掠奪を繰り返しながら、匈奴軍は西へ進んだ。陽を弾く彷徨える湖の水面を横に見ながら馬を駆けさせ、タリム盆地の最東端のオアシス都市国家、楼蘭の郊外を走り抜けた。先行させていた日逐王――匈奴単于国のタリム盆地方面担当官が、烏珠留単于の軍に合流してきた。日逐王の口から単于へ吉報が伝えられた。帝国に従属しているオアシス都市国家の一つが、首長の称号を王から侯へ一方的に落とされた不満から、単于国へ寝返ることを約束した。
「でかした」
烏珠留単于は喜んだ。寝返りを約束した都市国家へ軍を走らせた。砂漠を駆け、荒野を越え、都市国家まで一日の距離まで到達した時、男が一人、匈奴軍の野営地に駆け込んできた。その男は、寝返りを約束した都市国家の王の弟で、新帝国のタリム盆地駐留軍に寝返りの密約が漏れ、王が処刑されたことを単于に告げた。
「そうか。失敗したか」
烏珠留単于は径路刀を抜いた。自らの顔を径路刀で切り、帝国に処刑された王に弔意を示した。径路刀の刃を拭いて鞘に納め、全軍に進路の変更を命じようとした。お待ちを、と処刑された王の弟が声を上げた。寝返りを首謀した王は死んだが、王の計画は生きている。自分が王の計画を引き継いで都市を降らせる、と王の弟は烏珠留単于に伝えた。
翌日、烏珠留単于は軍を率いて進発し、都市国家の城壁に接近した。城壁の上には新軍の黄旗が無数に翻り、数百の兵士が守りを固めていたが、匈奴軍の鷲獅子の旗が城門に近づくと、不意に城壁の内側で喚声が上がり、城門が開かれた。匈奴軍は城門から市内へ突入した。激しくも短い戦闘の後、都市に駐留していた新軍の指揮官の首が烏珠留単于に捧げられた。
多少の齟齬はありながらも、匈奴軍は新帝国のタリム盆地駐留軍に勝利し、軍事行動の拠点となる都市を得た。烏珠留単于は二日、都市の近郊で兵馬を休ませると、近隣の都市国家を攻撃した。降伏勧告に応じず、帝国に与して抗戦した都市の首長を殺した。奪われた都市を奪還しようとする新軍と戦い、敗走させた。敗兵を追い、帝国のタリム盆地駐留軍の本部が置かれている城塞、烏塁へ軍を進めた。途中、新軍の武官が二人、上官の首を手土産に投降してきた。烏珠留単于は二人を歓迎して将軍の称号を与え、新軍の情報を聞き出した。西域都護、すなわち帝国のタリム盆地駐留軍司令官が、各地の軍を烏塁へ集結させようとしていることを聞き出した。集結途中の新軍を各個に急襲して撃破すべく、烏珠留単于は馬を駆けさせた。
「捕虜は取るな。家畜も捨て置け。奪うのは鉄と食糧だ」
また須卜当の弓が鳴り、逃げ惑う農夫の脚を矢が射貫いた。農夫の子供と思しき少年が農夫に駆け寄り、農夫を助け起こそうとした。おれに構うな、逃げろ、と農夫は少年を突き飛ばした。少年は農夫から離れず、助け起こして一緒に逃げようとした。馬蹄の轟きが農夫と少年の背中に迫り、その上を通りすぎた。
農村に火が放たれた。地平に立ち昇る無数の黒煙を見て、新帝国の国境警備隊が異変に気づいた。万里の長城の関門を守る城塞から数百の兵が出撃し、黒煙の下へ急いだ。数十騎の匈奴軍騎兵と、匈奴軍騎兵に連行されている農民の列を見つけた。女や子供や老人も連行されている様を見て、新軍の指揮官は怒りに駆られた。数百の兵士が喊声を上げて匈奴軍へ突撃し、匈奴軍は農民を置いて逃走した。新軍は数十人の老若男女を保護した。直後、四方で土煙が上がり、馬蹄の轟きが急速に近づいてきた。長駆して疲労している新軍兵士の頭上に矢が降り注いだ。戦闘は短時間で終わり、鉄の武具を剥ぎ取られた新軍兵士の遺体と、囮に使われた老若男女の屍が、彼方へ駆け去る土煙の後に残された。
大新帝国の北部辺境一帯で破壊、掠奪、殺戮が行われた。辺境を警備していた新軍が撃ち破られ、万里の長城の関門の一つが匈奴軍の手に落ちた。匈奴軍の総指揮を執る烏珠留単于は最初の作戦目標を達成したと判断し、次の作戦へ移るために軍を二つに分けた。分けた軍の一方を左骨都侯に委ね、引き続き帝国北辺で破壊と掠奪を行うよう命じると、自らは匈奴軍の主力を率いて西進し、タリム盆地のオアシス都市国家群を目指した。
烏珠留単于の狙いは、タリム盆地で生産されている鉄である。鉄は匈奴単于国でも生産されているが、その量は決して多くない。指揮下の騎兵に鉄製品の掠奪を命じているが、戦争で消費される大量の鉄を掠奪だけで賄えるはずもない。何か手段を講じねば鉄が不足することは明らかであり、烏珠留単于はタリム盆地のオアシス都市国家群を制圧することで、鉄を大量、且つ安定的に確保しようと考えた。
左骨都侯を帝国北辺で暴れさせ、帝国の注意をタリム盆地から逸らしながら、烏珠留単于は三千騎を率いて西へ進んだ。途中、補給のために帝国の集落を幾つも襲撃した。帝国の領土に幾度も侵入したことがある輿が襲撃を指揮した。単于に委ねられた数百騎を複数に分けて掠奪に向かわせ、自らも数十騎を率いて小さな集落を襲撃した。
その集落は、小規模ながらも灌漑設備があり、よく手入れされた畠があり、牛や羊が放牧されていた。二十人ほどの若者が働いていた。匈奴軍が土煙を巻き上げて近づくと、若者たちは集落を囲う塁壁の内へ逃げた。数人の屈強な若者が塁壁の陰に伏せ、匈奴軍に矢を射た。数倍の数の矢が匈奴軍から射返された。若者たちは堪らず塁壁の裏に隠れ、その隙に匈奴軍は集落の門へ接近した。門を守るために、若者たちは危険を冒して塁壁の上に身を晒し、匈奴軍の騎兵を射ようとした。輿の手許で数度、弓弦の音が鳴り響き、若者たちは頭を射貫かれて倒れた。少年が一人、塁壁の上に現れ、門を破壊しようとする匈奴騎兵に石を投げた。次の瞬間、数本の矢が少年の体を貫き、少年は塁壁の向こう側へ転がり落ちた。
匈奴軍は門を破壊して集落へ入り、尚も斧や耒耜、投石で抵抗する若者たちを殺した。家屋へ押し入り、物資を掠奪した。豆、麦、乾した肉、乾酪、鉄製の農具を奪い、槖駝に載せた。若者たちの遺体からも奪えるものを奪い、槖駝に載せた。家屋に火を放ち、黒煙を背に集落を後にした。本隊へ帰る途中、何者かに追われていることに気づいた。
その何者かは、遠目には老いた男のように見えた。棒の先に鉄球がついた錘という打撃武器を、左右の手に一本ずつ握りしめていた。馬に乗り、髪を火のように振り乱して荒野を駆けていた。老人の馬の脚から上がる小さな土煙が、匈奴軍の大きなそれに少しずつ近づいた。
「殺せ」
輿は追いかけてくる老人を敵と判断し、指揮下の騎兵に命じた。一騎が反転し、老人へ馬を走らせながら弓を構えた。弦音が鳴り、老人へ矢が飛んだ。老人は右手の錘を鋭く振り、矢を叩き落とした。匈奴騎兵が次の矢を矢箙から引き抜いた。再び弓を構えるよりも早く、匈奴騎兵の馬と老人の馬が交錯した。交錯する瞬間、老人の左手の錘が横殴りに振られた。
匈奴騎兵が頭を叩き割られ、吹き飛ぶように馬から落ちる様を、輿は肩越しに見た。同じく仲間が頭を割られる様を見た二騎が、反転して老人に挑んだ。二騎から同時に放たれた二本の矢を、老人は双つの錘で叩き落とした。僅かに時間差をつけて放たれた二本の矢も、双錘に叩き落とされた。もう次の矢を放つ間も無いほどに、老人の双錘が二騎に近づいた。二騎は双錘を避けるために左右に分かれた。老人は迷わず、自分から見て右の騎兵を追いかけた。老人の馬が右の騎兵の馬に追いつき、老人の左手の錘が騎兵の後頭部に叩き込まれた。その間に左の騎兵が老人の背後に回り込み、次の矢を矢箙から引き抜いた。弦音が鳴り、老人の背中へ矢が飛んだ。必殺を期した一矢は、背中に目があるかの如く振られた双錘に弾かれた。何かを罵る声が、左の騎兵の口から放たれた。騎兵の手が弓を横へ投げ、新軍から掠奪した直刀を抜いた。馬を反転させた老人へ向けて、騎兵は雄叫びを上げながら突進した。
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「おれがやる」
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二つに叩き折られた弓が、輿の左手から飛んだ。
輿の黒馬と老人の馬が馳せ違い、土煙を上げて離れた。輿は疾駆する黒馬の上から転げ落ちた。僅かに遅れて、どす、どす、と老人の双錘が地面に落ち、どさ、と老人が落馬した。
風が鳴り、双つの錘の上を砂塵が過ぎた。輿の黒馬が輿の許へ戻り、倒れている輿の顔を舐めた。輿は右手で黒馬の鬣を掴み、体を起こした。左手の痺れに顔を顰めながら立ち上がり、大きく息を吐いた。
左手の痺れが、勝敗を分けた一瞬を思い出させた。老人が雄叫びを上げた時、反射的に右手が動き、矢を放ちかけた。咄嗟に叫び返し、老人の気迫に対抗した。そうしていなければ、老人が反応できる距離で矢を放ち、次の一矢を射る前に頭を叩き割られていた。
肩を射貫かれて倒れている老人へ、輿は目を向けた。仰向けに倒れている老人の顔を、老人の馬が覗き込んでいた。老人のことを心配しているように見えて、少しだけ胸が痛んだ。径路刀の柄を右手で掴みながら、老人の方へ歩いた。老人の左手が上がり、馬の頬に触れた。老人の馬が老人の左手に顔を押しつけた。輿の径路刀が、すら、と鞘の中を滑る音を立てた。老人の口が僅かに動いた。
「殺せ」
匈奴単于国の公用語が、老人の口から出た。輿は径路刀を半ばまで抜いた手を止めた。老人の口から匈奴の言葉が出たことに、僅かながら動揺した。また老人の口が動いた。
「早く殺せ」
「なぜ――」
輿は改めて老人の顔を見た。老人は髪と髭が白く、一方で声は意外と若く、日焼けした肌に皺は少なく、それほど老いてはいないように見えた。
「――なぜ、こんなことをした。おまえほどの戦士なら、勝てるはずがないことはわかっていたはずだ」
「おまえたちが――」
向こうへ行け、というように、老人は愛馬の顔を押した。老人の馬は老人から離れず、老人の手を頬で押し返した。
「――おれの家族を殺したからだ」
「家族?」
自分たちが集落を襲い、若者を二十人以上も殺したことを、輿は思い出した。
「そうか。それは、正しい理由だ。おれも、家族を殺されたなら、そうするだろう」
「理解したなら、早く殺せ。おれの家族を殺した手で、おれも殺せ」
「一度だけ訊く。匈奴に降る気はないか。おまえほどの戦士を、殺すのは惜しい」
輿は老人を見つめた。老人の左手が愛馬から離れ、輿に向けて小指を立てた。それがどういう意味かはわからないが、どうやら拒絶されたらしいことを輿は察した。径路刀を鞘から抜き放とうとした。抜き放つことを躊躇した。躊躇した自分に困惑した。数騎の匈奴騎兵が輿と老人の横を駆け抜けた。老人に斃された戦士たちの遺体と、彼らの愛馬が回収された。輿の右手が径路刀を鞘に戻した。老人に背を向け、輿は愛馬の方へ歩き出した。
「おい」
遠ざかる足音を耳にして、老人が輿の背中へ顔を向けた。
「何をしている。早く殺せ」
輿は無言で黒馬に乗り、馬首を巡らした。矢に射貫かれた肩を押さえながら、老人が上体を起こした。
「おい」
「次は殺す」
輿は黒馬を走らせた。おれを殺せ、と叫ぶ老人の声を背後に聞きながら、先を行く数十騎を追いかけた。
その夜、輿は夢を見た。夢の中に女性が出てきた。云に似た美しい黒髪をしていた。輿に背を向けて草原の中に立ち、彼方の地平を見ていた。輿が女性の背中に近づこうとすると、遮るように風が強く吹いた。
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「でかした」
烏珠留単于は喜んだ。寝返りを約束した都市国家へ軍を走らせた。砂漠を駆け、荒野を越え、都市国家まで一日の距離まで到達した時、男が一人、匈奴軍の野営地に駆け込んできた。その男は、寝返りを約束した都市国家の王の弟で、新帝国のタリム盆地駐留軍に寝返りの密約が漏れ、王が処刑されたことを単于に告げた。
「そうか。失敗したか」
烏珠留単于は径路刀を抜いた。自らの顔を径路刀で切り、帝国に処刑された王に弔意を示した。径路刀の刃を拭いて鞘に納め、全軍に進路の変更を命じようとした。お待ちを、と処刑された王の弟が声を上げた。寝返りを首謀した王は死んだが、王の計画は生きている。自分が王の計画を引き継いで都市を降らせる、と王の弟は烏珠留単于に伝えた。
翌日、烏珠留単于は軍を率いて進発し、都市国家の城壁に接近した。城壁の上には新軍の黄旗が無数に翻り、数百の兵士が守りを固めていたが、匈奴軍の鷲獅子の旗が城門に近づくと、不意に城壁の内側で喚声が上がり、城門が開かれた。匈奴軍は城門から市内へ突入した。激しくも短い戦闘の後、都市に駐留していた新軍の指揮官の首が烏珠留単于に捧げられた。
多少の齟齬はありながらも、匈奴軍は新帝国のタリム盆地駐留軍に勝利し、軍事行動の拠点となる都市を得た。烏珠留単于は二日、都市の近郊で兵馬を休ませると、近隣の都市国家を攻撃した。降伏勧告に応じず、帝国に与して抗戦した都市の首長を殺した。奪われた都市を奪還しようとする新軍と戦い、敗走させた。敗兵を追い、帝国のタリム盆地駐留軍の本部が置かれている城塞、烏塁へ軍を進めた。途中、新軍の武官が二人、上官の首を手土産に投降してきた。烏珠留単于は二人を歓迎して将軍の称号を与え、新軍の情報を聞き出した。西域都護、すなわち帝国のタリム盆地駐留軍司令官が、各地の軍を烏塁へ集結させようとしていることを聞き出した。集結途中の新軍を各個に急襲して撃破すべく、烏珠留単于は馬を駆けさせた。
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その先兵となった鬼武蔵こと森長可は三河への中入りを目論み、大軍を率いて丹羽家の居城である岩崎城の傍を通り抜けようとしていた。
「敵の軍を素通りさせて武士といえるのか!」
若き城代・丹羽氏重は死を覚悟する!
鉄と草の血脈――天神編
藍染 迅
歴史・時代
日本史上最大の怨霊と恐れられた菅原道真。
何故それほどに恐れられ、天神として祀られたのか?
その活躍の陰には、「鉄と草」をアイデンティティとする一族の暗躍があった。
二人の酔っぱらいが安酒を呷りながら、歴史と伝説に隠された謎に迫る。
吞むほどに謎は深まる——。
【新訳】帝国の海~大日本帝国海軍よ、世界に平和をもたらせ!第一部
山本 双六
歴史・時代
たくさんの人が亡くなった太平洋戦争。では、もし日本が勝てば原爆が落とされず、何万人の人が助かったかもしれないそう思い執筆しました。(一部史実と異なることがあるためご了承ください)初投稿ということで俊也さんの『re:太平洋戦争・大東亜の旭日となれ』を参考にさせて頂きました。
これからどうかよろしくお願い致します!
ちなみに、作品の表紙は、AIで生成しております。
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