34 / 48
第六章 匈奴襲来
第三十四話
しおりを挟む
匈奴の使節団は云を一行の中に隠して国境を越え、匈奴単于国へ帰還した。使節団に同行していた大新帝国の外交官が、皇帝からの親書を烏珠留単于へ手渡した。大新帝国の外交官が去ると、輿と須卜当が云を連れて烏珠留単于の前に現れた。烏珠留単于は云を見て驚き、王政君の好意で云が帝国から脱出できたことを聞いて喜び、これまで苦労をかけたことを云に詫びた。
再会の挨拶が済むと、烏珠留単于は三人を自らの穹廬に招き入れ、文字が読める云に皇帝からの親書を読ませた。親書を一読した云は、難解な言葉が多くて完全には読み解けない、と前置きした上で、烏珠留単于が最も知りたいであろうことを伝えた。
「皇帝は、金印の文字を旧に戻すつもりはないようです」
「なぜ皇帝が急に金印の文字を変えたのか、それはわかるか? それがわかれば、まだ交渉できるかも知れん」
「帝国には、人は古に立ち返らなければならない、という思想があります」
儒学のことである。儒学の祖である孔子は、数多の国が争う乱世に生まれた人であり、古の聖人、周公旦の政治思想を広めることで乱世の終息を図るも、挫折して後進の育成に努めた。数百年の後、乱世は始皇帝の七王国統一を経て高祖劉邦の即位で終息するも、訪れた平和な時代には貧富の差を始めとする多くの社会問題が存在した。孔子の教えを脈々と受け継いできた儒者たちは、そうした社会問題が存在するのは、今の社会が周公旦の時代のそれと違うからだと考え、周公旦が治めた古き善き時代に立ち返らねばならない、と復古主義的な主張を展開した。
「皇帝は、その思想に傾倒し、世の中を千年前に戻そうとしています。冒頓単于と高祖が兄弟の契りを交わしたのは二百年前。だから、皇帝は兄弟の契りを無かったことにして、匈奴単于国に臣属を求めているのだと思います」
云は親書を閉じて烏珠留単于へ返した。烏珠留単于は返された親書を横に置いた。交渉の糸口を見つけられず、呻くように息を吐いた。須卜当が烏珠留単于に訊ねた。
「諸国の動静は、わかりましたか?」
「やはり、金印の文字を変えられていた。王から侯へ、位を落とされていた。どの国も、そのことが不満ではあるようだが、帝国の武力を恐れて沈黙している。遣使して金印の文字を戻すよう求めたのは、匈奴だけだ」
「単于」
輿が口を開いた。
「交渉で金印の文字を戻せる見込みはありません。諸国も当てにはなりません。行動を起こしたのは、匈奴だけだ。これから行動を起こせるのも、匈奴だけだ。だから、決断してくれ。匈奴の誇りを懸けて、新と戦うか。偉大な冒頓単于の記憶を、忘れて生きるか。決断してくれ」
「単于」
須卜当が床の絨毯の上に拳をつき、烏珠留単于の方へ身を乗り出した。
「命令してくれ。おれたちは、匈奴の戦士だ。おれたちは、嵐を恐れはしない」
須卜当は烏珠留単于を見つめた。烏珠留単于の穹廬の外では、須卜当に集められた烏珠留単于の側近たちが、乗馬して待機していた。烏珠留単于が命令を下した時、すぐに動き出せるよう備えていた。
烏珠留単于の目が、須卜当の顔から逸らされた。
「時間をくれ」
単于、と輿が詰め寄るように拳を床についた。決断を先に延ばすべきではないと吼え、即時の決断を求めた。烏珠留単于は膝を起こして立ち上がり、輿に背中を向けた。
「歴代の単于の墓に詣でる」
烏珠留単于は自らの右耳に手をやり、そこに着けられていた金の耳飾りを外した。
「戦うか、忘れるか。それは、墓に詣でた後に決める」
本当かと輿は烏珠留単于に訊ねた。本当に決断するのかと重ねて質した。烏珠留単于は答えず、左耳から金の耳飾りを外した。
太陽が西へ動いた。茜色の空の下で、烏珠留単于は愛馬に騎乗した。輿や須卜当、云を含む十数騎に見送られ、馬を走らせた。供を連れず、夕陽を追うように駆ける烏珠留単于の騎影を、須卜当と云は馬を並べて見つめた。風が立ち、云は髪を押さえた。不意に輿の黒馬が嘶いた。烏珠留単于を追いかけるように黒馬は走り出した。赤い夕陽の中に消えようとしている烏珠留単于へ、黒馬の背の上から輿が叫んだ。
「単于」
土を、草を、小石を蹴立て、黒馬は疾駆した。
「単于」
風と赤光を正面から浴びながら、輿は夕陽の中の孤影に目を凝らした。
「おれたちは、冒頓単于の子孫だ。おれたちは、冒頓単于になれるはずだ。冒頓単于は、冒頓単于は――」
冒頓単于は、再び匈奴へ来る。
輿は黒馬を立ち止まらせた。烏珠留単于は輿を振り返らず、立ち向かうように西の地平へ馬を走らせ続けた。走り続ける影を見る輿の影を、更に後ろから見る云に、どのような決断を単于は下すだろうか、と須卜当が訊ねた。云は須卜当の方へ目を向けた。
「単于はもう、進む道を決めておられますよ」
「何?」
「そうでなければ、わたしが帰国したことを喜んだりはしないはずです」
「それは、そうかも知れないが、ならば、なぜ――」
「多分、躊躇しておられるのだと思います。叔父さまは、穏やかで優しい人ですから、わたしたちや民のことを、案じておられるのだと思います」
陽が没し、辺りが闇に沈んだ。烏珠留単于は馬から下り、馬を休ませた。自らは狼の襲撃に備え、弓を撫して不寝番をした。夜が明けると再び馬上の人となり、先代の単于の墓を目指した。歩を進める馬の上で朝食の乾酪を食べ、睡眠した。
夢を見た。大漢帝国の孝宣皇帝に跪いていた。隣には父がいて、幼い烏珠留単于を人質に差し出そうとしていた。孝宣皇帝は、人質は不要、と微笑した。皇帝は万人に孝を勧めることが務めであるのに、その子供を人質として大漢帝国に住まわせたら、その子が親孝行できなくなるではないか、と言い、親孝行するのだぞ、と幼い烏珠留単于に微笑みかけた。
兄である先代の単于の墓に辿り着いた。土が僅かに高く盛られたのみの墓の前に、烏珠留単于は馬を進めた。角杯を持ち、馬乳酒を注ぎ入れた。径路刀を抜き、自らの頬に押し当て、軽く引いた。血が付着した径路刀で、角杯の中の酒を掻き混ぜた。角杯を傾け、馬上から墓の土へ酒を注いだ。
「あんたは、よい時に即位したよ」
地下で眠る兄へ、烏珠留単于は語りかけた。
「父のように兄弟と殺し合うこともなく、おれのように帝国に悩まされることもなく、あんたは生を全うした。羨ましいよ」
烏珠留単于は先代の単于の墓を後にして、先々代の単于の墓を目指した。先々代の単于の墓に詣で終え、三代前の単于の墓に詣で終え、四代前の単于である父の墓を目指した。途次、遊牧をしていた匈奴の家族と遭遇した。素性を隠している烏珠留単于に、家族の長老である老婆が、烏珠留単于の顔の真新しい傷を指して、親しい者が死んだのか、と訊ねた。そうだと烏珠留単于が答えると、老婆は自らの髪を剪り、弔意を示した。気を落としてはいけないよ、と烏珠留単于を慰め、搾りたての羊乳を烏珠留単于に飲ませてくれた。
父の墓に辿り着いた。盛られた土の前へ馬を進めた。径路刀で顔を切り、己の血を混ぜた酒を土に注いだ。馬を下り、地面の上に胡坐を掻いた。
孝宣皇帝のことを思い出した。跪いて臣従を申し出た烏珠留単于の父に対し、孝宣皇帝は対等な立場で同盟を結ぶことを許し、匈奴単于璽、と刻まれた金印を与えた。かつて冒頓単于と高祖劉邦が交わした兄弟の契りを重んじたから、ではない。単于が皇帝に膝を屈すれば、草原の遊牧民は単于に対して失望し、単于から離反する。遊牧民に離反された単于を従わせても益は無い。だから、孝宣皇帝は単于に花を持たせることを選んだ。親孝行するのだぞ、という孝宣皇帝の言葉には、花は単于が、果実は皇帝が取るという関係を堅持せよ、という意味も含まれていたに違いない。
「父さん」
地下で眠る父に、烏珠留単于は語りかけた。
「嵐が来るよ。父さんの時の、匈奴単于国を二つに裂いた嵐よりも、大きな嵐が来る」
血が一滴、烏珠留単于の顎先から地面へ落ちた。
「父さんには、孝宣皇帝という、強くて賢くて、恐ろしい味方がいた。おれは違う。おれに、孝宣皇帝はいない。それでも、おれはやるよ。匈奴には、もう花しかない。その花すらも――」
その花すらも、奪われようとしている。
烏珠留単于は歴代の単于の墓を巡り続けた。悪名高い五代前の単于は飛ばし、六代前の虚閭権渠単于、七代前の壺衍鞮単于、八代前の狐鹿姑単于、と代を遡りながら墓に詣で、最後に冒頓単于の墓に辿り着いた。径路刀で顔を切り、角杯の中の馬乳酒を混ぜた。腕を墓の上へ伸ばし、杯を傾けて酒を注いだ。
輿の言葉を思い出した。歴代の単于の墓に詣でるために、夕陽が沈む方へ馬を走らせる烏珠留単于に、自らも夕陽へ馬を走らせながら輿は叫んだ。
おれたちは、冒頓単于の子孫だ。おれたちは、冒頓単于になれるはずだ。冒頓単于は、冒頓単于は――
「冒頓単于は――」
何十年も前に見た情景が、脳裏に浮かんだ。遊牧の成功を祈る蘢城祭で、匈奴の歴史を語る劇を父と一緒に観た。鷲獅子の旗を掲げた子供たちを、尖り帽子の月氏の騎兵と、黒い甲冑の大秦帝国の戦車が囲み、嵐のように駆けていた。子供たちの中で、最も年長の者が径路刀を抜き、自らの命と引き換えに強い戦士を遣わすよう天に祈り、首を掻き刎ねようとした。その時、雷鳴のように太鼓が打ち鳴らされ、一騎の戦士が聖樹の裏から駆け出てきた。それを見て観衆が叫んだ。幼い烏珠留単于も父と一緒に叫んだ。
冒頓単于が来る。冒頓単于が来る。冒頓単于が、匈奴へ来る。
「冒頓単于は、来ない」
角杯の中の馬乳酒が尽きた。白色の雫を縁から滴らせる角杯を、烏珠留単于は胸許へ戻した。
「おれたちは、冒頓単于にはなれない。それを理解していたから――」
理解していたから、父は大漢帝国の皇帝に跪き、皇帝を兄と呼んだ。
「おれも、理解している。冒頓単于は来ない。おれたちは誰も、冒頓単于にはなれない。理解してはいるんだ」
風が哭くように空高く鳴り響いた。血が一滴、烏珠留単于の顎先から空の角杯の縁に落ちた。
陽が沈み、空に星が瞬いた。星が巡り、東の空が白んだ。朝の陽射しを正面から浴びながら、烏珠留単于は自らの穹廬に帰還した。顔に十五も傷痕が増えた烏珠留単于を、単于の首席補佐官の左骨都侯、次席補佐官の右骨都侯らを始めとする数十騎が出迎えた。烏珠留単于は馬を止め、出迎えた者たちの顔を順に見た。朝の空を仰ぎ、白い息を吐きながら目を細めた。
「今日は、空が高いな」
空が高い、という言葉を聞き、左右骨都侯が表情を緊張させた。空が高く見えるのは、空気が乾燥しているからである。空気が乾燥すれば弓の張力が強くなり、より遠くの標的を射貫けるようになる。
「馬も――」
左右骨都侯が乗る馬へ、烏珠留単于は目を向けた。
「――よく肥えているようだ」
単于、と左骨都侯が声を湿らせた。匈奴単于国は遊牧民の国家であり、その軍隊は弓騎兵を主力としている。馬が体に栄養を蓄えて肥え太れば、匈奴軍は長期の軍事行動が可能になる。
「四角に伝えてくれ」
烏珠留単于が言う四角とは、匈奴単于国の南東部、南西部、北東部、北西部をそれぞれ統括する四総督、左屠耆王、右屠耆王、左谷蠡王、右谷蠡王を指す言葉である。
「天高く、馬肥ゆる秋が来たと」
南東へ、北東へ、北西へ、南西へ、単于直属の伝令の騎兵が一斉に駆けた。ある者は草原を駆け、ある者は沙漠を駆け、途中、家畜を遊牧している牧民を見ると、秋が来たぞ、と叫んだ。その言葉を聞いた瞬間、牧民は馬首を返して穹廬へ駆け戻り、単于が招集命令を発したことを家族に伝えた。家族の中で最も強い男が、その場で弓矢と数日分の食糧を家族から渡され、武運を祈る家族の声を背に出征した。同じく招集に応じた牧民と途中で合流しながら、単于の許へ急いだ。草原を駆け、沙漠を駆け、荒野の丘陵を越えた時、女たちに率いられて南へ移動する二万頭の羊群を見た。匈奴軍に飲食物を補給する移動兵站基地である羊群に、男たちは馬を近づけた。羊群の端では、云が羊群の誘導を牧羊犬に任せ、馬の首に伏せて仮眠していた。男たちが云に、須卜居次、と呼びかけると、云は目を覚ました。腕を上げて伸びをする云に、男たちは烏珠留単于の居場所を訊ねた。云は前方を指差した。
「向こう。二日くらい先を進んでる。食べ物は足りてる?」
大丈夫だ、と男たちは答え、馬の脚を速めた。最後尾にいた男が云を振り返り、お帰りなさい、須卜居次、と叫んだ。お変わりないようで何よりです、と破顔した。
「ありがとう。怪我をしないように、気をつけて」
云の言葉に男は手を振り、羊と牧羊犬を追い越した。
北から、西から、東から、招集に応じた遊牧民の戦士たちが、続々と烏珠留単于の軍に馳せ参じた。単于の軍は兵力を増しながら南へ進んだ。軍の先頭で馬を進めながら、烏珠留単于は各地の総督へ命令を出し続けた。
「左屠耆王は東を守れ。烏桓、高句麗からの攻撃に備えるべし」
伝令の騎兵が単于の命令を復唱して駆け出した。
「左谷蠡王は鮮卑に使者を。須卜居次の話によれば、鮮卑は新に存在を知られておらず、皇帝の支配が及んでいない。鮮卑へ使者を遣り、匈奴に味方するよう説け」
また一騎、伝令の騎兵が烏珠留単于の軍を離れた。
「右谷蠡王は丁零に備えよ。日逐王は西へ。彷徨える湖を越えて楼蘭、渠犁 、焉耆へ進み、烏塁を窺え」
単于、と須卜当が烏珠留単于に呼びかけた。烏珠留単于の弟、右犂汗王が合流してきたことを伝え、軍の右後方を指した。約二百騎が土煙を上げて単于の軍に追いつき、並走を始めた。右犂汗王が三人の息子と共に馬を飛ばし、烏珠留単于の許に駆けてきた。
「単于」
「よく来てくれた、右犂汗王」
「単于、申し上げたいことがあります」
「何だ」
「おれに、新帝国と最後の交渉を行うことを許してください」
「交渉は既に行い、決裂した。今は、戦う時だ」
「戦いを止めてくれとは言いません。単于が戦われる間、おれが新と交渉することを許してください」
「戦いの最中に、敵の許へ行くというのか。おまえ、死ぬ気か」
「死ぬつもりはありません。死を恐れていないだけです。匈奴の戦士は、死を恐れはしない」
「戦士として、戦場で名誉ある死を遂げることは出来ないぞ。それでも、構わないのか」
「匈奴のために死ねるのならば、そこが戦場であろうとなかろうと、おれは満足です」
「ならば、行け。おれがそうであるように、己の心に従え」
「感謝します。助、登、角」
息子たちの名を、右犂汗王は順に呼んだ。
「おまえたちは単于と共に戦え。単于、おれの代わりに息子たちが、単于に仕えます」
「それは心強い。頼むぞ、助、登、角」
はい、と右犂汗王の息子たちは返事をした。右犂汗王は単騎で軍を離れた。
前方に砂塵が上がり、四百騎が単于の軍の方へ近づいてきた。四百騎は単于の軍と擦れ違うと、向きを変えて単于の軍を追いかけ、合流した。四百騎を指揮していた右屠耆王輿が烏珠留単于の許へ駆けてきた。
「単于、一大事です。新へ投降する者が相次いでいます。屠各種攣鞮氏からも、匈奴を裏切る者が出ている」
屠各種攣鞮氏、すなわち単于位を世襲する一族から裏切り者が出たと聞き、単于の周りにいた者たちは動揺した。狼狽えるな、と烏珠留単于は周囲を一喝した。
「予想できていたことだ。騒ぎ立てるな」
単于の側近の一人が、右犂汗王が怪しい、と言い出した。新帝国と交渉すると言いながら、実は裏切るつもりなのではないか。そう側近が言うと、右犂汗王の息子たちが色を成した。父を謗る者は許さない、と矢箙の矢に手をかけた。待て、と須卜当が手を上げて右犂汗王の息子たちを制しながら、右犂汗王を弁護した。
「右犂汗王は匈奴を愛し、家族を愛する人だ。家族を残して新へ奔ることは有り得ない」
「その通りだ」
輿が頷いた。
「おれは右犂汗王とは意見が合わないことが多いが、これだけはわかる。右犂汗王は、匈奴を裏切る人ではない」
匈奴軍は南へ進み続けた。土を突き固めて築かれた、高さ九尺(約二メートル)、総延長一万里の壁、万里の長城が見えてきた。万里の長城は二百年前、遊牧民の生活圏が南へ拡大することを阻止するために造られた。遊牧民は家畜に依存して生活しているため、家畜が移動できない場所へ生活圏を拡げることは出来ない。家畜が越えられない壁を築くことで、北方の遊牧民族の南進を止める。そういう意図の下で、大秦帝国の初代皇帝、始皇帝は万里の長城を建設した。
匈奴軍の馬蹄の轟きが長城の前で停止した。長城を越える準備をするよう、烏珠留単于は命じた。全ての騎兵が馬から下り、手で地面を掻いて土を集めた。集めた土を両手で掬い、長城の前へ運んで踏み固めることを繰り返した。空が曇り、湿気を含んだ風が吹き始めた。馬に長城を越えさせるための坂が三つ、匈奴単于国側に築かれた。新帝国側にも同じものが築かれた。築かれるまでの間に、ぽつぽつと雨が降り始めた。
長城を越える準備が整い、騎兵が再び乗馬して烏珠留単于の前に集合した。烏珠留単于は馬首を巡らし、長城の方へ自らを向き直らせた。冷たい雨に打たれながら、万里の長城を見つめた。あれを越えれば、もう引き返すことは出来ない。百年前、匈奴単于国を衰退させた大戦争を、再び始めることになる。血の雨を降らせる嵐が、再び匈奴の民を襲うことになる。
烏珠留単于は空を仰いだ。空は低く、風は湿り、弓の張りは弱い。烏珠留単于の袖の内には、大新帝国から押しつけられた新匈奴単于章の金印が、未だ無傷で存在している。
雨が勢いを増した。手で土を運び、足で踏み固めて築いた坂が、雨に打たれて少しずつ端の方から崩れ始めた。背後で命令を待つ匈奴軍の戦士たちを、烏珠留単于は肩越しに見た。戦士たちが掲げている鷲獅子の旗を見た。鷲獅子の旗は雨で濡れて重く垂れ、雨水を滴らせていた。彼方の曇天で亀裂のように光が走り、雷鳴が轟いた。
雷鳴が轟く空を、影が過ぎた。再び白く閃いた雷が、雨の中を飛翔する影を照らした。重く垂れた旗を見ていた烏珠留単于の目が、幾度も閃く雷光を背に翔る影に気づいた。それは大きな鳥のように見えた。翼を羽ばたかせ、匈奴軍の方へ近づいてきた。鳥の体の後ろに奇妙なものが見えた。烏珠留単于の目には、それは獅子の下半身のように見えた。
烏珠留単于の口が、小さく動いた。
「鷲獅子」
鷲獅子だ、と匈奴軍の戦士の一人が叫んだ。本物の鷲獅子だ、と別の戦士が叫んだ。伝説の禽獣、鷲獅子の出現に匈奴軍は響めいた。鷲獅子は地上の人間たちを意に介さず、雨の空を飛び、匈奴軍の鷲獅子の旗の上を飛び、烏珠留単于の頭上を過ぎ、そして、そこに何も存在していないかのように、万里の長城の上を越えた。
風が流れ、空を覆う雨雲の一部が裂けた。裂けたところから射し込んだ陽の光が、大新帝国の空を飛ぶ鷲獅子を照らした。きらきらと体から雨滴を零しながら、鷲獅子は翼を力強く羽ばたかせた。その雄大で神秘的な姿を目の当たりにした時、烏珠留単于は何かの声を聞いた。
冒頓単于は、来る。嵐を裂いて、冒頓単于は再び来る。
烏珠留単于の手が、袖の内に秘していた新匈奴単于章の金印を掴んだ。躊躇うことなく金印を曇天へ投げた。矢箙の矢を引き抜き、弓を構えた。落ちてくる金印を雷光が照らした。弦音と雷鳴が同時に鳴り響いた。空へ放たれた矢と、地に落ちる金印が交錯した。金印が空中で小さく跳ね、雨で泥濘んだ地面に落ちた。泥に半ば埋もれた金印は、新匈奴単于章の六文字を鏃に削ぎ飛ばされていた。
「長城を越えろ」
烏珠留単于は弓を下ろし、馬を前に進めた。
「長城を越えろ」
地に落ちた金印を一瞥もせず、烏珠留単于は馬を駆けさせた。
「長城を越えろ」
烏珠留単于は万里の長城へ駆けた。長城を越えろ、と烏珠留単于に続いて輿が叫び、黒馬を走らせた。長城を越えろ、と須卜当が叫び、輿の背中に続いた。右犂汗王の子、助、登、角の三兄弟が後に続いた。重く濡れた無数の鷲獅子の戦旗と、数万の蹄が泥濘を蹴散らす音が後に続いた。馬蹄の轟きを背に烏珠留単于は坂を駆け上がり、万里の長城を越えた。
始建国二年(西暦二年)秋、烏珠留単于に率いられた匈奴軍が、万里の長城を越えて大新帝国へ侵入した。
その数、五千騎に満たず。それが、匈奴の全力であった。
再会の挨拶が済むと、烏珠留単于は三人を自らの穹廬に招き入れ、文字が読める云に皇帝からの親書を読ませた。親書を一読した云は、難解な言葉が多くて完全には読み解けない、と前置きした上で、烏珠留単于が最も知りたいであろうことを伝えた。
「皇帝は、金印の文字を旧に戻すつもりはないようです」
「なぜ皇帝が急に金印の文字を変えたのか、それはわかるか? それがわかれば、まだ交渉できるかも知れん」
「帝国には、人は古に立ち返らなければならない、という思想があります」
儒学のことである。儒学の祖である孔子は、数多の国が争う乱世に生まれた人であり、古の聖人、周公旦の政治思想を広めることで乱世の終息を図るも、挫折して後進の育成に努めた。数百年の後、乱世は始皇帝の七王国統一を経て高祖劉邦の即位で終息するも、訪れた平和な時代には貧富の差を始めとする多くの社会問題が存在した。孔子の教えを脈々と受け継いできた儒者たちは、そうした社会問題が存在するのは、今の社会が周公旦の時代のそれと違うからだと考え、周公旦が治めた古き善き時代に立ち返らねばならない、と復古主義的な主張を展開した。
「皇帝は、その思想に傾倒し、世の中を千年前に戻そうとしています。冒頓単于と高祖が兄弟の契りを交わしたのは二百年前。だから、皇帝は兄弟の契りを無かったことにして、匈奴単于国に臣属を求めているのだと思います」
云は親書を閉じて烏珠留単于へ返した。烏珠留単于は返された親書を横に置いた。交渉の糸口を見つけられず、呻くように息を吐いた。須卜当が烏珠留単于に訊ねた。
「諸国の動静は、わかりましたか?」
「やはり、金印の文字を変えられていた。王から侯へ、位を落とされていた。どの国も、そのことが不満ではあるようだが、帝国の武力を恐れて沈黙している。遣使して金印の文字を戻すよう求めたのは、匈奴だけだ」
「単于」
輿が口を開いた。
「交渉で金印の文字を戻せる見込みはありません。諸国も当てにはなりません。行動を起こしたのは、匈奴だけだ。これから行動を起こせるのも、匈奴だけだ。だから、決断してくれ。匈奴の誇りを懸けて、新と戦うか。偉大な冒頓単于の記憶を、忘れて生きるか。決断してくれ」
「単于」
須卜当が床の絨毯の上に拳をつき、烏珠留単于の方へ身を乗り出した。
「命令してくれ。おれたちは、匈奴の戦士だ。おれたちは、嵐を恐れはしない」
須卜当は烏珠留単于を見つめた。烏珠留単于の穹廬の外では、須卜当に集められた烏珠留単于の側近たちが、乗馬して待機していた。烏珠留単于が命令を下した時、すぐに動き出せるよう備えていた。
烏珠留単于の目が、須卜当の顔から逸らされた。
「時間をくれ」
単于、と輿が詰め寄るように拳を床についた。決断を先に延ばすべきではないと吼え、即時の決断を求めた。烏珠留単于は膝を起こして立ち上がり、輿に背中を向けた。
「歴代の単于の墓に詣でる」
烏珠留単于は自らの右耳に手をやり、そこに着けられていた金の耳飾りを外した。
「戦うか、忘れるか。それは、墓に詣でた後に決める」
本当かと輿は烏珠留単于に訊ねた。本当に決断するのかと重ねて質した。烏珠留単于は答えず、左耳から金の耳飾りを外した。
太陽が西へ動いた。茜色の空の下で、烏珠留単于は愛馬に騎乗した。輿や須卜当、云を含む十数騎に見送られ、馬を走らせた。供を連れず、夕陽を追うように駆ける烏珠留単于の騎影を、須卜当と云は馬を並べて見つめた。風が立ち、云は髪を押さえた。不意に輿の黒馬が嘶いた。烏珠留単于を追いかけるように黒馬は走り出した。赤い夕陽の中に消えようとしている烏珠留単于へ、黒馬の背の上から輿が叫んだ。
「単于」
土を、草を、小石を蹴立て、黒馬は疾駆した。
「単于」
風と赤光を正面から浴びながら、輿は夕陽の中の孤影に目を凝らした。
「おれたちは、冒頓単于の子孫だ。おれたちは、冒頓単于になれるはずだ。冒頓単于は、冒頓単于は――」
冒頓単于は、再び匈奴へ来る。
輿は黒馬を立ち止まらせた。烏珠留単于は輿を振り返らず、立ち向かうように西の地平へ馬を走らせ続けた。走り続ける影を見る輿の影を、更に後ろから見る云に、どのような決断を単于は下すだろうか、と須卜当が訊ねた。云は須卜当の方へ目を向けた。
「単于はもう、進む道を決めておられますよ」
「何?」
「そうでなければ、わたしが帰国したことを喜んだりはしないはずです」
「それは、そうかも知れないが、ならば、なぜ――」
「多分、躊躇しておられるのだと思います。叔父さまは、穏やかで優しい人ですから、わたしたちや民のことを、案じておられるのだと思います」
陽が没し、辺りが闇に沈んだ。烏珠留単于は馬から下り、馬を休ませた。自らは狼の襲撃に備え、弓を撫して不寝番をした。夜が明けると再び馬上の人となり、先代の単于の墓を目指した。歩を進める馬の上で朝食の乾酪を食べ、睡眠した。
夢を見た。大漢帝国の孝宣皇帝に跪いていた。隣には父がいて、幼い烏珠留単于を人質に差し出そうとしていた。孝宣皇帝は、人質は不要、と微笑した。皇帝は万人に孝を勧めることが務めであるのに、その子供を人質として大漢帝国に住まわせたら、その子が親孝行できなくなるではないか、と言い、親孝行するのだぞ、と幼い烏珠留単于に微笑みかけた。
兄である先代の単于の墓に辿り着いた。土が僅かに高く盛られたのみの墓の前に、烏珠留単于は馬を進めた。角杯を持ち、馬乳酒を注ぎ入れた。径路刀を抜き、自らの頬に押し当て、軽く引いた。血が付着した径路刀で、角杯の中の酒を掻き混ぜた。角杯を傾け、馬上から墓の土へ酒を注いだ。
「あんたは、よい時に即位したよ」
地下で眠る兄へ、烏珠留単于は語りかけた。
「父のように兄弟と殺し合うこともなく、おれのように帝国に悩まされることもなく、あんたは生を全うした。羨ましいよ」
烏珠留単于は先代の単于の墓を後にして、先々代の単于の墓を目指した。先々代の単于の墓に詣で終え、三代前の単于の墓に詣で終え、四代前の単于である父の墓を目指した。途次、遊牧をしていた匈奴の家族と遭遇した。素性を隠している烏珠留単于に、家族の長老である老婆が、烏珠留単于の顔の真新しい傷を指して、親しい者が死んだのか、と訊ねた。そうだと烏珠留単于が答えると、老婆は自らの髪を剪り、弔意を示した。気を落としてはいけないよ、と烏珠留単于を慰め、搾りたての羊乳を烏珠留単于に飲ませてくれた。
父の墓に辿り着いた。盛られた土の前へ馬を進めた。径路刀で顔を切り、己の血を混ぜた酒を土に注いだ。馬を下り、地面の上に胡坐を掻いた。
孝宣皇帝のことを思い出した。跪いて臣従を申し出た烏珠留単于の父に対し、孝宣皇帝は対等な立場で同盟を結ぶことを許し、匈奴単于璽、と刻まれた金印を与えた。かつて冒頓単于と高祖劉邦が交わした兄弟の契りを重んじたから、ではない。単于が皇帝に膝を屈すれば、草原の遊牧民は単于に対して失望し、単于から離反する。遊牧民に離反された単于を従わせても益は無い。だから、孝宣皇帝は単于に花を持たせることを選んだ。親孝行するのだぞ、という孝宣皇帝の言葉には、花は単于が、果実は皇帝が取るという関係を堅持せよ、という意味も含まれていたに違いない。
「父さん」
地下で眠る父に、烏珠留単于は語りかけた。
「嵐が来るよ。父さんの時の、匈奴単于国を二つに裂いた嵐よりも、大きな嵐が来る」
血が一滴、烏珠留単于の顎先から地面へ落ちた。
「父さんには、孝宣皇帝という、強くて賢くて、恐ろしい味方がいた。おれは違う。おれに、孝宣皇帝はいない。それでも、おれはやるよ。匈奴には、もう花しかない。その花すらも――」
その花すらも、奪われようとしている。
烏珠留単于は歴代の単于の墓を巡り続けた。悪名高い五代前の単于は飛ばし、六代前の虚閭権渠単于、七代前の壺衍鞮単于、八代前の狐鹿姑単于、と代を遡りながら墓に詣で、最後に冒頓単于の墓に辿り着いた。径路刀で顔を切り、角杯の中の馬乳酒を混ぜた。腕を墓の上へ伸ばし、杯を傾けて酒を注いだ。
輿の言葉を思い出した。歴代の単于の墓に詣でるために、夕陽が沈む方へ馬を走らせる烏珠留単于に、自らも夕陽へ馬を走らせながら輿は叫んだ。
おれたちは、冒頓単于の子孫だ。おれたちは、冒頓単于になれるはずだ。冒頓単于は、冒頓単于は――
「冒頓単于は――」
何十年も前に見た情景が、脳裏に浮かんだ。遊牧の成功を祈る蘢城祭で、匈奴の歴史を語る劇を父と一緒に観た。鷲獅子の旗を掲げた子供たちを、尖り帽子の月氏の騎兵と、黒い甲冑の大秦帝国の戦車が囲み、嵐のように駆けていた。子供たちの中で、最も年長の者が径路刀を抜き、自らの命と引き換えに強い戦士を遣わすよう天に祈り、首を掻き刎ねようとした。その時、雷鳴のように太鼓が打ち鳴らされ、一騎の戦士が聖樹の裏から駆け出てきた。それを見て観衆が叫んだ。幼い烏珠留単于も父と一緒に叫んだ。
冒頓単于が来る。冒頓単于が来る。冒頓単于が、匈奴へ来る。
「冒頓単于は、来ない」
角杯の中の馬乳酒が尽きた。白色の雫を縁から滴らせる角杯を、烏珠留単于は胸許へ戻した。
「おれたちは、冒頓単于にはなれない。それを理解していたから――」
理解していたから、父は大漢帝国の皇帝に跪き、皇帝を兄と呼んだ。
「おれも、理解している。冒頓単于は来ない。おれたちは誰も、冒頓単于にはなれない。理解してはいるんだ」
風が哭くように空高く鳴り響いた。血が一滴、烏珠留単于の顎先から空の角杯の縁に落ちた。
陽が沈み、空に星が瞬いた。星が巡り、東の空が白んだ。朝の陽射しを正面から浴びながら、烏珠留単于は自らの穹廬に帰還した。顔に十五も傷痕が増えた烏珠留単于を、単于の首席補佐官の左骨都侯、次席補佐官の右骨都侯らを始めとする数十騎が出迎えた。烏珠留単于は馬を止め、出迎えた者たちの顔を順に見た。朝の空を仰ぎ、白い息を吐きながら目を細めた。
「今日は、空が高いな」
空が高い、という言葉を聞き、左右骨都侯が表情を緊張させた。空が高く見えるのは、空気が乾燥しているからである。空気が乾燥すれば弓の張力が強くなり、より遠くの標的を射貫けるようになる。
「馬も――」
左右骨都侯が乗る馬へ、烏珠留単于は目を向けた。
「――よく肥えているようだ」
単于、と左骨都侯が声を湿らせた。匈奴単于国は遊牧民の国家であり、その軍隊は弓騎兵を主力としている。馬が体に栄養を蓄えて肥え太れば、匈奴軍は長期の軍事行動が可能になる。
「四角に伝えてくれ」
烏珠留単于が言う四角とは、匈奴単于国の南東部、南西部、北東部、北西部をそれぞれ統括する四総督、左屠耆王、右屠耆王、左谷蠡王、右谷蠡王を指す言葉である。
「天高く、馬肥ゆる秋が来たと」
南東へ、北東へ、北西へ、南西へ、単于直属の伝令の騎兵が一斉に駆けた。ある者は草原を駆け、ある者は沙漠を駆け、途中、家畜を遊牧している牧民を見ると、秋が来たぞ、と叫んだ。その言葉を聞いた瞬間、牧民は馬首を返して穹廬へ駆け戻り、単于が招集命令を発したことを家族に伝えた。家族の中で最も強い男が、その場で弓矢と数日分の食糧を家族から渡され、武運を祈る家族の声を背に出征した。同じく招集に応じた牧民と途中で合流しながら、単于の許へ急いだ。草原を駆け、沙漠を駆け、荒野の丘陵を越えた時、女たちに率いられて南へ移動する二万頭の羊群を見た。匈奴軍に飲食物を補給する移動兵站基地である羊群に、男たちは馬を近づけた。羊群の端では、云が羊群の誘導を牧羊犬に任せ、馬の首に伏せて仮眠していた。男たちが云に、須卜居次、と呼びかけると、云は目を覚ました。腕を上げて伸びをする云に、男たちは烏珠留単于の居場所を訊ねた。云は前方を指差した。
「向こう。二日くらい先を進んでる。食べ物は足りてる?」
大丈夫だ、と男たちは答え、馬の脚を速めた。最後尾にいた男が云を振り返り、お帰りなさい、須卜居次、と叫んだ。お変わりないようで何よりです、と破顔した。
「ありがとう。怪我をしないように、気をつけて」
云の言葉に男は手を振り、羊と牧羊犬を追い越した。
北から、西から、東から、招集に応じた遊牧民の戦士たちが、続々と烏珠留単于の軍に馳せ参じた。単于の軍は兵力を増しながら南へ進んだ。軍の先頭で馬を進めながら、烏珠留単于は各地の総督へ命令を出し続けた。
「左屠耆王は東を守れ。烏桓、高句麗からの攻撃に備えるべし」
伝令の騎兵が単于の命令を復唱して駆け出した。
「左谷蠡王は鮮卑に使者を。須卜居次の話によれば、鮮卑は新に存在を知られておらず、皇帝の支配が及んでいない。鮮卑へ使者を遣り、匈奴に味方するよう説け」
また一騎、伝令の騎兵が烏珠留単于の軍を離れた。
「右谷蠡王は丁零に備えよ。日逐王は西へ。彷徨える湖を越えて楼蘭、渠犁 、焉耆へ進み、烏塁を窺え」
単于、と須卜当が烏珠留単于に呼びかけた。烏珠留単于の弟、右犂汗王が合流してきたことを伝え、軍の右後方を指した。約二百騎が土煙を上げて単于の軍に追いつき、並走を始めた。右犂汗王が三人の息子と共に馬を飛ばし、烏珠留単于の許に駆けてきた。
「単于」
「よく来てくれた、右犂汗王」
「単于、申し上げたいことがあります」
「何だ」
「おれに、新帝国と最後の交渉を行うことを許してください」
「交渉は既に行い、決裂した。今は、戦う時だ」
「戦いを止めてくれとは言いません。単于が戦われる間、おれが新と交渉することを許してください」
「戦いの最中に、敵の許へ行くというのか。おまえ、死ぬ気か」
「死ぬつもりはありません。死を恐れていないだけです。匈奴の戦士は、死を恐れはしない」
「戦士として、戦場で名誉ある死を遂げることは出来ないぞ。それでも、構わないのか」
「匈奴のために死ねるのならば、そこが戦場であろうとなかろうと、おれは満足です」
「ならば、行け。おれがそうであるように、己の心に従え」
「感謝します。助、登、角」
息子たちの名を、右犂汗王は順に呼んだ。
「おまえたちは単于と共に戦え。単于、おれの代わりに息子たちが、単于に仕えます」
「それは心強い。頼むぞ、助、登、角」
はい、と右犂汗王の息子たちは返事をした。右犂汗王は単騎で軍を離れた。
前方に砂塵が上がり、四百騎が単于の軍の方へ近づいてきた。四百騎は単于の軍と擦れ違うと、向きを変えて単于の軍を追いかけ、合流した。四百騎を指揮していた右屠耆王輿が烏珠留単于の許へ駆けてきた。
「単于、一大事です。新へ投降する者が相次いでいます。屠各種攣鞮氏からも、匈奴を裏切る者が出ている」
屠各種攣鞮氏、すなわち単于位を世襲する一族から裏切り者が出たと聞き、単于の周りにいた者たちは動揺した。狼狽えるな、と烏珠留単于は周囲を一喝した。
「予想できていたことだ。騒ぎ立てるな」
単于の側近の一人が、右犂汗王が怪しい、と言い出した。新帝国と交渉すると言いながら、実は裏切るつもりなのではないか。そう側近が言うと、右犂汗王の息子たちが色を成した。父を謗る者は許さない、と矢箙の矢に手をかけた。待て、と須卜当が手を上げて右犂汗王の息子たちを制しながら、右犂汗王を弁護した。
「右犂汗王は匈奴を愛し、家族を愛する人だ。家族を残して新へ奔ることは有り得ない」
「その通りだ」
輿が頷いた。
「おれは右犂汗王とは意見が合わないことが多いが、これだけはわかる。右犂汗王は、匈奴を裏切る人ではない」
匈奴軍は南へ進み続けた。土を突き固めて築かれた、高さ九尺(約二メートル)、総延長一万里の壁、万里の長城が見えてきた。万里の長城は二百年前、遊牧民の生活圏が南へ拡大することを阻止するために造られた。遊牧民は家畜に依存して生活しているため、家畜が移動できない場所へ生活圏を拡げることは出来ない。家畜が越えられない壁を築くことで、北方の遊牧民族の南進を止める。そういう意図の下で、大秦帝国の初代皇帝、始皇帝は万里の長城を建設した。
匈奴軍の馬蹄の轟きが長城の前で停止した。長城を越える準備をするよう、烏珠留単于は命じた。全ての騎兵が馬から下り、手で地面を掻いて土を集めた。集めた土を両手で掬い、長城の前へ運んで踏み固めることを繰り返した。空が曇り、湿気を含んだ風が吹き始めた。馬に長城を越えさせるための坂が三つ、匈奴単于国側に築かれた。新帝国側にも同じものが築かれた。築かれるまでの間に、ぽつぽつと雨が降り始めた。
長城を越える準備が整い、騎兵が再び乗馬して烏珠留単于の前に集合した。烏珠留単于は馬首を巡らし、長城の方へ自らを向き直らせた。冷たい雨に打たれながら、万里の長城を見つめた。あれを越えれば、もう引き返すことは出来ない。百年前、匈奴単于国を衰退させた大戦争を、再び始めることになる。血の雨を降らせる嵐が、再び匈奴の民を襲うことになる。
烏珠留単于は空を仰いだ。空は低く、風は湿り、弓の張りは弱い。烏珠留単于の袖の内には、大新帝国から押しつけられた新匈奴単于章の金印が、未だ無傷で存在している。
雨が勢いを増した。手で土を運び、足で踏み固めて築いた坂が、雨に打たれて少しずつ端の方から崩れ始めた。背後で命令を待つ匈奴軍の戦士たちを、烏珠留単于は肩越しに見た。戦士たちが掲げている鷲獅子の旗を見た。鷲獅子の旗は雨で濡れて重く垂れ、雨水を滴らせていた。彼方の曇天で亀裂のように光が走り、雷鳴が轟いた。
雷鳴が轟く空を、影が過ぎた。再び白く閃いた雷が、雨の中を飛翔する影を照らした。重く垂れた旗を見ていた烏珠留単于の目が、幾度も閃く雷光を背に翔る影に気づいた。それは大きな鳥のように見えた。翼を羽ばたかせ、匈奴軍の方へ近づいてきた。鳥の体の後ろに奇妙なものが見えた。烏珠留単于の目には、それは獅子の下半身のように見えた。
烏珠留単于の口が、小さく動いた。
「鷲獅子」
鷲獅子だ、と匈奴軍の戦士の一人が叫んだ。本物の鷲獅子だ、と別の戦士が叫んだ。伝説の禽獣、鷲獅子の出現に匈奴軍は響めいた。鷲獅子は地上の人間たちを意に介さず、雨の空を飛び、匈奴軍の鷲獅子の旗の上を飛び、烏珠留単于の頭上を過ぎ、そして、そこに何も存在していないかのように、万里の長城の上を越えた。
風が流れ、空を覆う雨雲の一部が裂けた。裂けたところから射し込んだ陽の光が、大新帝国の空を飛ぶ鷲獅子を照らした。きらきらと体から雨滴を零しながら、鷲獅子は翼を力強く羽ばたかせた。その雄大で神秘的な姿を目の当たりにした時、烏珠留単于は何かの声を聞いた。
冒頓単于は、来る。嵐を裂いて、冒頓単于は再び来る。
烏珠留単于の手が、袖の内に秘していた新匈奴単于章の金印を掴んだ。躊躇うことなく金印を曇天へ投げた。矢箙の矢を引き抜き、弓を構えた。落ちてくる金印を雷光が照らした。弦音と雷鳴が同時に鳴り響いた。空へ放たれた矢と、地に落ちる金印が交錯した。金印が空中で小さく跳ね、雨で泥濘んだ地面に落ちた。泥に半ば埋もれた金印は、新匈奴単于章の六文字を鏃に削ぎ飛ばされていた。
「長城を越えろ」
烏珠留単于は弓を下ろし、馬を前に進めた。
「長城を越えろ」
地に落ちた金印を一瞥もせず、烏珠留単于は馬を駆けさせた。
「長城を越えろ」
烏珠留単于は万里の長城へ駆けた。長城を越えろ、と烏珠留単于に続いて輿が叫び、黒馬を走らせた。長城を越えろ、と須卜当が叫び、輿の背中に続いた。右犂汗王の子、助、登、角の三兄弟が後に続いた。重く濡れた無数の鷲獅子の戦旗と、数万の蹄が泥濘を蹴散らす音が後に続いた。馬蹄の轟きを背に烏珠留単于は坂を駆け上がり、万里の長城を越えた。
始建国二年(西暦二年)秋、烏珠留単于に率いられた匈奴軍が、万里の長城を越えて大新帝国へ侵入した。
その数、五千騎に満たず。それが、匈奴の全力であった。
1
お気に入りに追加
7
あなたにおすすめの小説
水野勝成 居候報恩記
尾方佐羽
歴史・時代
⭐タイトルを替えました。
⭐『福山ご城下開端の記』もよろしくお願いします。
⭐福山城さま令和の大普請、完成おめでとうございます。
⭐2020年1月21日、5月4日に福山市の『福山城築城400年』Facebookでご紹介いただきました。https://m.facebook.com/fukuyama400/
備後福山藩初代藩主、水野勝成が若い頃放浪を重ねたあと、備中(現在の岡山県)の片隅で居候をすることになるお話です。一番鑓しかしたくない、天下無双の暴れ者が、備中の片隅で居候した末に見つけたものは何だったのでしょうか。
→本編は完結、関連の話題を適宜更新。
猿の内政官 ~天下統一のお助けのお助け~
橋本洋一
歴史・時代
この世が乱れ、国同士が戦う、戦国乱世。
記憶を失くした優しいだけの少年、雲之介(くものすけ)と元今川家の陪々臣(ばいばいしん)で浪人の木下藤吉郎が出会い、二人は尾張の大うつけ、織田信長の元へと足を運ぶ。織田家に仕官した雲之介はやがて内政の才を発揮し、二人の主君にとって無くてはならぬ存在へとなる。
これは、優しさを武器に二人の主君を天下人へと導いた少年の物語
※架空戦記です。史実で死ぬはずの人物が生存したり、歴史が早く進む可能性があります
織田信長 -尾州払暁-
藪から犬
歴史・時代
織田信長は、戦国の世における天下統一の先駆者として一般に強くイメージされますが、当然ながら、生まれついてそうであるわけはありません。
守護代・織田大和守家の家来(傍流)である弾正忠家の家督を継承してから、およそ14年間を尾張(現・愛知県西部)の平定に費やしています。そして、そのほとんどが一族間での骨肉の争いであり、一歩踏み外せば死に直結するような、四面楚歌の道のりでした。
織田信長という人間を考えるとき、この彼の青春時代というのは非常に色濃く映ります。
そこで、本作では、天文16年(1547年)~永禄3年(1560年)までの13年間の織田信長の足跡を小説としてじっくりとなぞってみようと思いたった次第です。
毎週の月曜日00:00に次話公開を目指しています。
スローペースの拙稿ではありますが、お付き合いいただければ嬉しいです。
(2022.04.04)
※信長公記を下地としていますが諸出来事の年次比定を含め随所に著者の創作および定説ではない解釈等がありますのでご承知置きください。
※アルファポリスの仕様上、「HOTランキング用ジャンル選択」欄を「男性向け」に設定していますが、区別する意図はとくにありません。
王になりたかった男【不老不死伝説と明智光秀】
野松 彦秋
歴史・時代
妻木煕子(ツマキヒロコ)は親が決めた許嫁明智十兵衛(後の光秀)と10年ぶりに会い、目を疑う。
子供の時、自分よりかなり年上であった筈の従兄(十兵衛)の容姿は、10年前と同じであった。
見た目は自分と同じぐらいの歳に見えるのである。
過去の思い出を思い出しながら会話をするが、何処か嚙み合わない。
ヒロコの中に一つの疑惑が生まれる。今自分の前にいる男は、自分が知っている十兵衛なのか?
十兵衛に知られない様に、彼の行動を監視し、調べる中で彼女は驚きの真実を知る。
真実を知った上で、彼女が取った行動、決断で二人の人生が動き出す。
若き日の明智光秀とその妻煕子との馴れ初めからはじまり、二人三脚で戦乱の世を駆け巡る。
天下の裏切り者明智光秀と徐福伝説、八百比丘尼の伝説を繋ぐ物語。
改造空母機動艦隊
蒼 飛雲
歴史・時代
兵棋演習の結果、洋上航空戦における空母の大量損耗は避け得ないと悟った帝国海軍は高価な正規空母の新造をあきらめ、旧式戦艦や特務艦を改造することで数を揃える方向に舵を切る。
そして、昭和一六年一二月。
日本の前途に暗雲が立ち込める中、祖国防衛のために改造空母艦隊は出撃する。
「瑞鳳」「祥鳳」「龍鳳」が、さらに「千歳」「千代田」「瑞穂」がその数を頼みに太平洋艦隊を迎え撃つ。
四代目 豊臣秀勝
克全
歴史・時代
アルファポリス第5回歴史時代小説大賞参加作です。
読者賞を狙っていますので、アルファポリスで投票とお気に入り登録してくださると助かります。
史実で三木城合戦前後で夭折した木下与一郎が生き延びた。
秀吉の最年長の甥であり、秀長の嫡男・与一郎が生き延びた豊臣家が辿る歴史はどう言うモノになるのか。
小牧長久手で秀吉は勝てるのか?
朝日姫は徳川家康の嫁ぐのか?
朝鮮征伐は行われるのか?
秀頼は生まれるのか。
秀次が後継者に指名され切腹させられるのか?

土方歳三ら、西南戦争に参戦す
山家
歴史・時代
榎本艦隊北上せず。
それによって、戊辰戦争の流れが変わり、五稜郭の戦いは起こらず、土方歳三は戊辰戦争の戦野を生き延びることになった。
生き延びた土方歳三は、北の大地に屯田兵として赴き、明治初期を生き抜く。
また、五稜郭の戦い等で散った他の多くの男達も、史実と違えた人生を送ることになった。
そして、台湾出兵に土方歳三は赴いた後、西南戦争が勃発する。
土方歳三は屯田兵として、そして幕府歩兵隊の末裔といえる海兵隊の一員として、西南戦争に赴く。
そして、北の大地で再生された誠の旗を掲げる土方歳三の周囲には、かつての新選組の仲間、永倉新八、斎藤一、島田魁らが集い、共に戦おうとしており、他にも男達が集っていた。
(「小説家になろう」に投稿している「新選組、西南戦争へ」の加筆修正版です)
甲斐ノ副将、八幡原ニテ散……ラズ
朽縄咲良
歴史・時代
【第8回歴史時代小説大賞奨励賞受賞作品】
戦国の雄武田信玄の次弟にして、“稀代の副将”として、同時代の戦国武将たちはもちろん、後代の歴史家の間でも評価の高い武将、武田典厩信繁。
永禄四年、武田信玄と強敵上杉輝虎とが雌雄を決する“第四次川中島合戦”に於いて討ち死にするはずだった彼は、家臣の必死の奮闘により、その命を拾う。
信繁の生存によって、甲斐武田家と日本が辿るべき歴史の流れは徐々にずれてゆく――。
この作品は、武田信繁というひとりの武将の生存によって、史実とは異なっていく戦国時代を書いた、大河if戦記である。
*ノベルアッププラス・小説家になろうにも、同内容の作品を掲載しております(一部差異あり)。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる