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第五章 北狄の樹、南陽の竈
第三十一話
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陰氏の邸で働いている家内奴隷が、邸宅の一室に金属製の方形の火鉢を運んだ。劉秀の席と陰麗華の席が、隣り合う形で設えられた。劉秀の膳に酒杯と塩漬け肉が、陰麗華の膳に棗が置かれた。劉秀が陰麗華に勧められて席に着くと、数人の家内奴隷が部屋の隅に控えた。それはそうか、と劉秀は苦笑し、二人きりではないことに安堵した。陰麗華が劉秀に話しかけた。
「劉公のことは、伯姫からよく聞かされています」
「そうなんですか?」
あの伯姫が、と劉秀は表情を明るくした。陰麗華は頷き、膳の上の棗へ手を伸ばした。
「自分には、乱暴者の兄と働き者の兄がいて、乱暴者の兄は大嫌いだけど、働き者の兄は嫌いではないと」
「……それ、僕ではなくて、僕のもう一人の兄です」
「そうなんですか?」
「真面目で、大らかで、よく働く兄です。とても背中が大きくて、伯姫はよく懐いています」
「まあ、あの伯姫が懐くだなんて、公のもう一人の兄は、とても好い人なのですね」
「そうですね。とても好い人だと思います」
劉秀は複雑な笑みを浮かべた。
劉秀はどういう人なのか、陰麗華は劉秀に訊ねた。自分は学問が好きで、帝国の最高学府、太学へ進学する予定であることを、劉秀は陰麗華に話した。陰麗華は学問に対して興味が無く、何だか難しそうな話をしているな、と思いながら劉秀の話を聞いたが、劉秀が学識豊かな人であるらしいことは何となく理解した。
「劉先生は、凄い人なんですね」
劉公、ではなく、劉先生、と陰麗華は劉秀を呼んだ。劉秀は顔を僅かに赤くした。
「先生と呼ばれるほどのことではありませんよ。僕が太学へ進めるのは、父の功績です」
帝国の最高学府、太学は、大漢帝国の第七代皇帝、孝武皇帝の時代に設置された。当初は学生の定員が五十名に過ぎず、後に定員が増やされ、入学方法も多少は緩和されたが、一握りの者しか入学を許されない状態が続いていた。しかし、今から十数年前、当時の大漢帝国の軍務長官、王莽の制度改革により、六百石以上の高級官僚の子弟全員に太学への入学資格が与えられた。劉秀の亡父の最後の官職は県令であり、県令の等級は千石、もしくは六百石であるため、劉秀には太学へ入る資格が有る。
太学で何を学ぶのか、陰麗華は劉秀に訊ねた。劉秀は孝経を始めとする儒学の経典を幾つか挙げ、最後に尚書という書物の名を出した。尚書とは古代の演説集で、古代連合王朝の聖王が暴君との決戦を前にして、兵士たちに語りかけた言葉などが記されているが、無論、陰麗華は尚書も孝経も知らない。
「劉先生は伯姫と同じで、書物が好きなんですね」
「伯姫も好きなのですか?」
「わたしの兄から、伯姫が書物を借りているところを見たことがあります。わたしの兄も書物が好きで、朝から晩まで書物を読んでいます。劉先生は、兄と気が合うかも知れませんね」
陰麗華は棗の実を口に含んで微笑んだ。また複雑な笑みを浮かべた劉秀に、そうとは気づかず、更に質問した。
「わたしの兄は官吏になるそうですが、劉先生も官吏になられるのですか?」
「僕は、官吏にはなれませんよ」
大新帝国の成立後、漢帝国の帝室に属していた人間は、王莽の伯母である王政君や、王莽の智嚢である劉歆のような例外を除き、帝国政府から冷遇されている。特に劉秀が属している舂陵劉氏は、王莽と対立した悪徳貴族の紅陽侯や、打倒王莽を叫んで叛乱を起こした翟義と、親しく交流していた過去がある。何か特別な伝手でもない限り、舂陵劉氏の劉秀が大新帝国に仕官することは難しい。そう劉秀が苦笑いしながら説明すると、陰麗華は口の中の棗を、こくん、と呑み込んだ。
「伝手ならありますよ」
「え?」
「この新野には、聖上の子女がおられます」
十数年前、新都侯と呼ばれていた頃の王莽が、政争に敗れて南陽郡の領地へ追いやられていた時期に、奴隷に産ませた子供のことである。王莽は政界に復帰する際、妻に遠慮して奴隷の子を新野県に留め置き、皇帝に即位した今も帝都に住むことを許していないが、陰麗華の父は王莽の庶子を奇貨、すなわち将来の見返りが期待できる人物と考え、息子たちの立身出世のために接近していた。
「そうだ」
ぱん、と陰麗華は両の掌を叩き合わせた。
「今から聖上の子女へ使者を送りましょう」
「え?」
「劉先生を、聖上の子女に紹介します。聖上の子女も書物を読むことを好まれるので、劉先生とは気が合うはずです」
我ながら何という良案、と陰麗華は微笑した。劉秀は狼狽した。
「駄目です。それは、いけません」
「なぜですか?」
「それは、あれです」
「あれ?」
「そこまでしていただくのは、申しわけないです」
「遠慮なさらず。劉先生は伯姫の兄です。わたしに出来ることは、何でもして差し上げたいのです」
陰麗華は笑顔で席を立ち、絹の履き物を履いた。部屋の隅に控えていた家内奴隷が、陰麗華に斗篷状の赤い外套を着せた。陰麗華が外套を着せられている間、劉秀は、あの、とか、その、という意味が無い言葉を呟きながら、陰麗華を止める言葉を懸命に探した。劉秀が言葉を探し出す前に、家内奴隷が赤い外套を陰麗華に着せ終えた。すぐに戻ると言い残し、陰麗華は使者を手配するために部屋を出た。
麗華、と親しげに呼ぶ声が、回廊へ出た陰麗華を迎えた。陰麗華は足を止め、自らの前に立つ少年の顔を見上げた。陰麗華の表情が、ぱ、と花が咲いたように輝いた。
「舅上」
「元気にしていたかい、麗華」
少年は顔を微笑ませた。劉秀が陰麗華を追い、部屋の外の回廊へ出てきた。陰麗華の前にいる少年を見て、劉秀は目を円くした。
「奉、きみも来ていたのか」
「え?」
陰麗華は少年の顔と劉秀の顔を交互に見た。
「お二人は、知り合いなんですか?」
「おいおい」
少年は苦笑した。
「麗華に伯姫を紹介したのは、おれだぞ。伯姫の兄の劉文叔を、知らないはずがないだろう?」
「そういえば、そうですね」
陰麗華は納得して微笑んだ。少年は劉秀の方へ体を向き直らせ、揖礼の形に両手を重ね合わせた。
「劉公」
「鄧奉」
劉秀は少年へ揖礼を返した。鄧奉、と劉秀に呼ばれた少年は、陰麗華へ目を向けた。
「急いでいるみたいだけど、どうしたんだい?」
「そうでした。実は――」
新野県に留め置かれている王莽の子女へ使者を送り、会う約束を取りつけようとしていることを、陰麗華は鄧奉に説明した。鄧奉は陰麗華の説明を聞きながら、ちらりと劉秀の方を見た。陰麗華を止めてくれ、と劉秀は身振り手振りで鄧奉に伝えた。鄧奉は陰麗華へ目を戻した。
「少し急ぎすぎではないかな。劉文叔は、これから太学へ進む人だ。聖上の子女に紹介するのは、太学で学び終えてからにすべきだろう」
「そうですか? でも、父と兄は――」
「それよりも、伯姫が拗ねていたぞ」
「伯姫が?」
「麗華が劉文叔にばかり構うから、面白くないとさ」
「でも、伯姫はわたしに、二人だけでと――」
「劉伯姫はそういうやつなんだよ。わかるだろう?」
「そうでした。伯姫はそういう子でした」
くすくすと陰麗華は笑い声を零した。鄧奉は劉秀を見た。
「そういうわけですから、構いませんよね、劉先生?」
「あ、うん。行ってあげて。伯姫は、僕の大事な妹だから」
「わかりました」
陰麗華は劉秀に揖礼した。劉秀と鄧奉に背を向け、ぱたぱたと伯姫の許へ急いだ。走り去る陰麗華へ手を振る鄧奉の横で、劉秀は大きく息を吐いた。鄧奉は振る手を止めずに劉秀へ話しかけた。
「気に入られたみたいですね、麗華に」
「そういうわけではないよ。伯姫の兄だから、親切にしてくれているだけだ」
「誰でも最初はそういうものだよ」
鄧奉は、劉秀の次姉の夫、鄧晨の甥である。陰麗華の母の弟でもあり、劉伯姫と陰麗華の幼馴染でもある。
「伯姫も、初めはそうでした」
陰麗華の背中が見えなくなり、鄧奉は手を下ろした。
「初めて二人を会わせた時、背を向けて黙り込んでいる伯姫に、麗華は自分から話しかけた。伯姫は決して話しやすい子ではないのに、伯姫を連れてきた舅のために、そうしてくれた。けれど、伯姫は伯姫だから、善かれと思ってしたことで、麗華の弟を泣かせた」
「そういえば、蟷螂の伯姫と呼ばれていたけど」
「麗華の弟の手に、蟷螂を乗せた」
「なるほど。蟷螂は怖い」
劉秀は苦笑した。鄧奉は微笑して話を続けた。
「当然、麗華は怒る。伯姫も悪気があったわけではないから、素直に謝らない。泣く方が悪いと言わんばかりだ。その時の、どうしようもなさそうな悪い雰囲気に比べたら、劉先生は遥かに好い感じだ。伯姫が麗華の友になれたように、劉先生も麗華の大事な人になれるよ」
庭に設えられた即席の竈に火が入れられ、付近の住民に振る舞われる豚肉が煮られ始めた。劉秀と鄧奉は竈の近くへ移動した。麗華と二人で何を話したのか、竈の火に手を翳して暖を取りながら、鄧奉は劉秀に訊ねた。陰氏は子弟の教育に力を入れていると聞いたので、書物や学問について話した、と劉秀が答えると、鄧奉は笑い出した。
「それは駄目だ。麗華に書物や学問の話は」
「そうなの?」
「そういうものに興味が無い。覚えている文字も、二百か、三百か、それくらいだ。とても一人で書物を読むことは出来ない。新野で一番の士大夫、陰氏の子女が、論語も孝経も読めないのでは様にならないから、せめて千は文字を覚えるよう諭したんだけど、そうしたら、あいつ、何て言ったと思いますか?」
「さあ、何て言ったのかな?」
「わたしが文字を覚えなくても、伯姫が読み聞かせてくれる、だってさ。その時の伯姫の顔ときたら――」
親友に頼られた嬉しさと、どうしてそこまでしてやらねばならないのか、という苛々が混在した伯姫の顔を思い出し、くつくつと鄧奉は笑った。劉秀は炎へ目を向け、白い息を吐いた。
「伯姫は、書物が読めるんだね」
「湖陽の樊太公が仰ったんです。伯姫の母も、よく書物を読んでいたと。それで、伯姫も文字を覚えて読み始めた。多分、母が恋しいんだろうな。母が読んでいた書物を読むことで、僅かでも母の何かに触れられたらと、そう考えているんだと思います」
「奉は、凄いな」
劉秀は微笑んだ。
「伯姫のことを、よく知っている。まるで、本当の兄みたいだ。僕よりも――」
「そう思うのは、劉先生が伯姫の本当の兄だからだよ」
「それは、そうだろうけど」
「これからだよ。麗華と同じ。これから仲よくなるんだよ」
祭事で竈神に奉げられる羊の鳴き声が、庭を囲む建物の向こうから聞こえた。祭事の始まりが近いことを感じながら、鄧奉は話を転じた。
「太学には、何年くらい?」
「三年か、四年か、それくらいは学ぶことになるかな」
「常安は――」
常安、とは大新帝国の帝都の名で、旧称を長安という。
「――物の値段が高いと聞いたけど、向こうで四年も生きていけそうですか?」
「苦労はするだろうけど、何とか四年間、生き延びられそうだよ」
太学へ進学するに際し、劉秀が直面した最大の問題は、費用である。劉秀の実家は食うに困らない程度の収入はあるが、帝国の最高学府へ人を送り込めるような経済的余裕は無い。そのため、劉秀は当初、強い向学心を持ちながらも進学を諦めていたが、劉秀の長兄の劉縯は、劉秀が最高学府で学ぶことを強く望んでおり、費用の問題を何とかするために奔走した。最初は姉婿の鄧晨に援助を求めたが、鄧晨の妻である次姉に、甘えるな、と一喝された。劉秀の養父である叔父に頭を下げたが、仕官の可能性が無いのに太学で学ぶのは時間と金銭の無駄だ、と言われた。そんなことはない、と劉縯は反論した。帝位を簒奪した王莽の天下が長く続くはずがない、太学で学んだことが役に立つ日は必ず来る、と訴えた。現実を見ろ、と叔父の劉良は言い、劉縯を邸から追い出した。
その後も劉縯は親類を訪ねて回るも、叔父と同様の理由で断られ、最後は外祖父の樊重に援助を懇願した。樊重は溜め息をつき、おまえはそういうところがよくない、と劉縯を諭した。親戚や姻戚を頼る前に費用を抑える努力をすべきだ、と説教した。舂陵劉氏ほどの家ならば帝都に知人がいる者がいるはず、まずは安く住める場所を帝都の知人に紹介してもらえ、と助言した。
この樊重の助言を機に、これまでの逆風が少しずつ変わり始めた。帝都に友人がいる親類が、劉秀が友人の家に寄宿できるよう動いてくれた。別の親類が、日雇いで働きながら太学で勉強している苦学生を紹介してくれた。劉秀が働きながら勉学に励むつもりであることを知り、これまで厳しい態度で弟たちに接してきた次姉が、帝都は寒いと聞いているから、と暖かい衣類を用意してくれた。時間と金銭の無駄、と劉秀の進学に反対していた叔父の劉良が、新しい筆記具を劉秀に買い与えてくれた。贈られた荷物を帝都へ運ぶための驢馬が、劉秀の長姉から劉秀へ贈られた。
「兄上や姉上、それから、親戚姻戚の父兄には、幾ら感謝しても足りないよ」
劉秀の口から白い息が淡く漏れ出た。鄧奉は劉秀の横顔を見た。陰氏の邸宅の奥、竈神が祀られた建物の前に設けられた祭壇へ、厨房から料理が運ばれ始めた。鄧奉は火の方へ目を戻した。
「おれも、劉先生に感謝されてみようかな」
「え?」
「鄧氏の男が一人、常安で学んでいます」
鄧奉の目の前の火に薪が足された。火にかけられている大鍋に、一口大に切られた根菜類がどさどさと入れられた。
「とても優秀な人で、何とかという学者の一族と親交があるらしい。公の助けになると思うから、よろしくと書簡で伝えておきます」
「ありがとう。その人の名は?」
「姓は鄧、名は禹、字は仲華」
「鄧仲華か」
「鄧先生は凄い人です。若くして詩経に習熟し――」
詩経、とは儒学の五大経典の一つで、古代連合王朝時代の詩篇である。
「――常安では、十年に一人の俊英と呼ばれたとか。くれぐれも、失礼のないようにしてくださいね」
「心得た」
劉秀は頷いた。陰氏の者たちが、間もなく竈神を祭る儀式が始まることを触れ回り始めた。劉秀は鄧奉に促され、祭壇の方へ共に歩き出した。
「劉公のことは、伯姫からよく聞かされています」
「そうなんですか?」
あの伯姫が、と劉秀は表情を明るくした。陰麗華は頷き、膳の上の棗へ手を伸ばした。
「自分には、乱暴者の兄と働き者の兄がいて、乱暴者の兄は大嫌いだけど、働き者の兄は嫌いではないと」
「……それ、僕ではなくて、僕のもう一人の兄です」
「そうなんですか?」
「真面目で、大らかで、よく働く兄です。とても背中が大きくて、伯姫はよく懐いています」
「まあ、あの伯姫が懐くだなんて、公のもう一人の兄は、とても好い人なのですね」
「そうですね。とても好い人だと思います」
劉秀は複雑な笑みを浮かべた。
劉秀はどういう人なのか、陰麗華は劉秀に訊ねた。自分は学問が好きで、帝国の最高学府、太学へ進学する予定であることを、劉秀は陰麗華に話した。陰麗華は学問に対して興味が無く、何だか難しそうな話をしているな、と思いながら劉秀の話を聞いたが、劉秀が学識豊かな人であるらしいことは何となく理解した。
「劉先生は、凄い人なんですね」
劉公、ではなく、劉先生、と陰麗華は劉秀を呼んだ。劉秀は顔を僅かに赤くした。
「先生と呼ばれるほどのことではありませんよ。僕が太学へ進めるのは、父の功績です」
帝国の最高学府、太学は、大漢帝国の第七代皇帝、孝武皇帝の時代に設置された。当初は学生の定員が五十名に過ぎず、後に定員が増やされ、入学方法も多少は緩和されたが、一握りの者しか入学を許されない状態が続いていた。しかし、今から十数年前、当時の大漢帝国の軍務長官、王莽の制度改革により、六百石以上の高級官僚の子弟全員に太学への入学資格が与えられた。劉秀の亡父の最後の官職は県令であり、県令の等級は千石、もしくは六百石であるため、劉秀には太学へ入る資格が有る。
太学で何を学ぶのか、陰麗華は劉秀に訊ねた。劉秀は孝経を始めとする儒学の経典を幾つか挙げ、最後に尚書という書物の名を出した。尚書とは古代の演説集で、古代連合王朝の聖王が暴君との決戦を前にして、兵士たちに語りかけた言葉などが記されているが、無論、陰麗華は尚書も孝経も知らない。
「劉先生は伯姫と同じで、書物が好きなんですね」
「伯姫も好きなのですか?」
「わたしの兄から、伯姫が書物を借りているところを見たことがあります。わたしの兄も書物が好きで、朝から晩まで書物を読んでいます。劉先生は、兄と気が合うかも知れませんね」
陰麗華は棗の実を口に含んで微笑んだ。また複雑な笑みを浮かべた劉秀に、そうとは気づかず、更に質問した。
「わたしの兄は官吏になるそうですが、劉先生も官吏になられるのですか?」
「僕は、官吏にはなれませんよ」
大新帝国の成立後、漢帝国の帝室に属していた人間は、王莽の伯母である王政君や、王莽の智嚢である劉歆のような例外を除き、帝国政府から冷遇されている。特に劉秀が属している舂陵劉氏は、王莽と対立した悪徳貴族の紅陽侯や、打倒王莽を叫んで叛乱を起こした翟義と、親しく交流していた過去がある。何か特別な伝手でもない限り、舂陵劉氏の劉秀が大新帝国に仕官することは難しい。そう劉秀が苦笑いしながら説明すると、陰麗華は口の中の棗を、こくん、と呑み込んだ。
「伝手ならありますよ」
「え?」
「この新野には、聖上の子女がおられます」
十数年前、新都侯と呼ばれていた頃の王莽が、政争に敗れて南陽郡の領地へ追いやられていた時期に、奴隷に産ませた子供のことである。王莽は政界に復帰する際、妻に遠慮して奴隷の子を新野県に留め置き、皇帝に即位した今も帝都に住むことを許していないが、陰麗華の父は王莽の庶子を奇貨、すなわち将来の見返りが期待できる人物と考え、息子たちの立身出世のために接近していた。
「そうだ」
ぱん、と陰麗華は両の掌を叩き合わせた。
「今から聖上の子女へ使者を送りましょう」
「え?」
「劉先生を、聖上の子女に紹介します。聖上の子女も書物を読むことを好まれるので、劉先生とは気が合うはずです」
我ながら何という良案、と陰麗華は微笑した。劉秀は狼狽した。
「駄目です。それは、いけません」
「なぜですか?」
「それは、あれです」
「あれ?」
「そこまでしていただくのは、申しわけないです」
「遠慮なさらず。劉先生は伯姫の兄です。わたしに出来ることは、何でもして差し上げたいのです」
陰麗華は笑顔で席を立ち、絹の履き物を履いた。部屋の隅に控えていた家内奴隷が、陰麗華に斗篷状の赤い外套を着せた。陰麗華が外套を着せられている間、劉秀は、あの、とか、その、という意味が無い言葉を呟きながら、陰麗華を止める言葉を懸命に探した。劉秀が言葉を探し出す前に、家内奴隷が赤い外套を陰麗華に着せ終えた。すぐに戻ると言い残し、陰麗華は使者を手配するために部屋を出た。
麗華、と親しげに呼ぶ声が、回廊へ出た陰麗華を迎えた。陰麗華は足を止め、自らの前に立つ少年の顔を見上げた。陰麗華の表情が、ぱ、と花が咲いたように輝いた。
「舅上」
「元気にしていたかい、麗華」
少年は顔を微笑ませた。劉秀が陰麗華を追い、部屋の外の回廊へ出てきた。陰麗華の前にいる少年を見て、劉秀は目を円くした。
「奉、きみも来ていたのか」
「え?」
陰麗華は少年の顔と劉秀の顔を交互に見た。
「お二人は、知り合いなんですか?」
「おいおい」
少年は苦笑した。
「麗華に伯姫を紹介したのは、おれだぞ。伯姫の兄の劉文叔を、知らないはずがないだろう?」
「そういえば、そうですね」
陰麗華は納得して微笑んだ。少年は劉秀の方へ体を向き直らせ、揖礼の形に両手を重ね合わせた。
「劉公」
「鄧奉」
劉秀は少年へ揖礼を返した。鄧奉、と劉秀に呼ばれた少年は、陰麗華へ目を向けた。
「急いでいるみたいだけど、どうしたんだい?」
「そうでした。実は――」
新野県に留め置かれている王莽の子女へ使者を送り、会う約束を取りつけようとしていることを、陰麗華は鄧奉に説明した。鄧奉は陰麗華の説明を聞きながら、ちらりと劉秀の方を見た。陰麗華を止めてくれ、と劉秀は身振り手振りで鄧奉に伝えた。鄧奉は陰麗華へ目を戻した。
「少し急ぎすぎではないかな。劉文叔は、これから太学へ進む人だ。聖上の子女に紹介するのは、太学で学び終えてからにすべきだろう」
「そうですか? でも、父と兄は――」
「それよりも、伯姫が拗ねていたぞ」
「伯姫が?」
「麗華が劉文叔にばかり構うから、面白くないとさ」
「でも、伯姫はわたしに、二人だけでと――」
「劉伯姫はそういうやつなんだよ。わかるだろう?」
「そうでした。伯姫はそういう子でした」
くすくすと陰麗華は笑い声を零した。鄧奉は劉秀を見た。
「そういうわけですから、構いませんよね、劉先生?」
「あ、うん。行ってあげて。伯姫は、僕の大事な妹だから」
「わかりました」
陰麗華は劉秀に揖礼した。劉秀と鄧奉に背を向け、ぱたぱたと伯姫の許へ急いだ。走り去る陰麗華へ手を振る鄧奉の横で、劉秀は大きく息を吐いた。鄧奉は振る手を止めずに劉秀へ話しかけた。
「気に入られたみたいですね、麗華に」
「そういうわけではないよ。伯姫の兄だから、親切にしてくれているだけだ」
「誰でも最初はそういうものだよ」
鄧奉は、劉秀の次姉の夫、鄧晨の甥である。陰麗華の母の弟でもあり、劉伯姫と陰麗華の幼馴染でもある。
「伯姫も、初めはそうでした」
陰麗華の背中が見えなくなり、鄧奉は手を下ろした。
「初めて二人を会わせた時、背を向けて黙り込んでいる伯姫に、麗華は自分から話しかけた。伯姫は決して話しやすい子ではないのに、伯姫を連れてきた舅のために、そうしてくれた。けれど、伯姫は伯姫だから、善かれと思ってしたことで、麗華の弟を泣かせた」
「そういえば、蟷螂の伯姫と呼ばれていたけど」
「麗華の弟の手に、蟷螂を乗せた」
「なるほど。蟷螂は怖い」
劉秀は苦笑した。鄧奉は微笑して話を続けた。
「当然、麗華は怒る。伯姫も悪気があったわけではないから、素直に謝らない。泣く方が悪いと言わんばかりだ。その時の、どうしようもなさそうな悪い雰囲気に比べたら、劉先生は遥かに好い感じだ。伯姫が麗華の友になれたように、劉先生も麗華の大事な人になれるよ」
庭に設えられた即席の竈に火が入れられ、付近の住民に振る舞われる豚肉が煮られ始めた。劉秀と鄧奉は竈の近くへ移動した。麗華と二人で何を話したのか、竈の火に手を翳して暖を取りながら、鄧奉は劉秀に訊ねた。陰氏は子弟の教育に力を入れていると聞いたので、書物や学問について話した、と劉秀が答えると、鄧奉は笑い出した。
「それは駄目だ。麗華に書物や学問の話は」
「そうなの?」
「そういうものに興味が無い。覚えている文字も、二百か、三百か、それくらいだ。とても一人で書物を読むことは出来ない。新野で一番の士大夫、陰氏の子女が、論語も孝経も読めないのでは様にならないから、せめて千は文字を覚えるよう諭したんだけど、そうしたら、あいつ、何て言ったと思いますか?」
「さあ、何て言ったのかな?」
「わたしが文字を覚えなくても、伯姫が読み聞かせてくれる、だってさ。その時の伯姫の顔ときたら――」
親友に頼られた嬉しさと、どうしてそこまでしてやらねばならないのか、という苛々が混在した伯姫の顔を思い出し、くつくつと鄧奉は笑った。劉秀は炎へ目を向け、白い息を吐いた。
「伯姫は、書物が読めるんだね」
「湖陽の樊太公が仰ったんです。伯姫の母も、よく書物を読んでいたと。それで、伯姫も文字を覚えて読み始めた。多分、母が恋しいんだろうな。母が読んでいた書物を読むことで、僅かでも母の何かに触れられたらと、そう考えているんだと思います」
「奉は、凄いな」
劉秀は微笑んだ。
「伯姫のことを、よく知っている。まるで、本当の兄みたいだ。僕よりも――」
「そう思うのは、劉先生が伯姫の本当の兄だからだよ」
「それは、そうだろうけど」
「これからだよ。麗華と同じ。これから仲よくなるんだよ」
祭事で竈神に奉げられる羊の鳴き声が、庭を囲む建物の向こうから聞こえた。祭事の始まりが近いことを感じながら、鄧奉は話を転じた。
「太学には、何年くらい?」
「三年か、四年か、それくらいは学ぶことになるかな」
「常安は――」
常安、とは大新帝国の帝都の名で、旧称を長安という。
「――物の値段が高いと聞いたけど、向こうで四年も生きていけそうですか?」
「苦労はするだろうけど、何とか四年間、生き延びられそうだよ」
太学へ進学するに際し、劉秀が直面した最大の問題は、費用である。劉秀の実家は食うに困らない程度の収入はあるが、帝国の最高学府へ人を送り込めるような経済的余裕は無い。そのため、劉秀は当初、強い向学心を持ちながらも進学を諦めていたが、劉秀の長兄の劉縯は、劉秀が最高学府で学ぶことを強く望んでおり、費用の問題を何とかするために奔走した。最初は姉婿の鄧晨に援助を求めたが、鄧晨の妻である次姉に、甘えるな、と一喝された。劉秀の養父である叔父に頭を下げたが、仕官の可能性が無いのに太学で学ぶのは時間と金銭の無駄だ、と言われた。そんなことはない、と劉縯は反論した。帝位を簒奪した王莽の天下が長く続くはずがない、太学で学んだことが役に立つ日は必ず来る、と訴えた。現実を見ろ、と叔父の劉良は言い、劉縯を邸から追い出した。
その後も劉縯は親類を訪ねて回るも、叔父と同様の理由で断られ、最後は外祖父の樊重に援助を懇願した。樊重は溜め息をつき、おまえはそういうところがよくない、と劉縯を諭した。親戚や姻戚を頼る前に費用を抑える努力をすべきだ、と説教した。舂陵劉氏ほどの家ならば帝都に知人がいる者がいるはず、まずは安く住める場所を帝都の知人に紹介してもらえ、と助言した。
この樊重の助言を機に、これまでの逆風が少しずつ変わり始めた。帝都に友人がいる親類が、劉秀が友人の家に寄宿できるよう動いてくれた。別の親類が、日雇いで働きながら太学で勉強している苦学生を紹介してくれた。劉秀が働きながら勉学に励むつもりであることを知り、これまで厳しい態度で弟たちに接してきた次姉が、帝都は寒いと聞いているから、と暖かい衣類を用意してくれた。時間と金銭の無駄、と劉秀の進学に反対していた叔父の劉良が、新しい筆記具を劉秀に買い与えてくれた。贈られた荷物を帝都へ運ぶための驢馬が、劉秀の長姉から劉秀へ贈られた。
「兄上や姉上、それから、親戚姻戚の父兄には、幾ら感謝しても足りないよ」
劉秀の口から白い息が淡く漏れ出た。鄧奉は劉秀の横顔を見た。陰氏の邸宅の奥、竈神が祀られた建物の前に設けられた祭壇へ、厨房から料理が運ばれ始めた。鄧奉は火の方へ目を戻した。
「おれも、劉先生に感謝されてみようかな」
「え?」
「鄧氏の男が一人、常安で学んでいます」
鄧奉の目の前の火に薪が足された。火にかけられている大鍋に、一口大に切られた根菜類がどさどさと入れられた。
「とても優秀な人で、何とかという学者の一族と親交があるらしい。公の助けになると思うから、よろしくと書簡で伝えておきます」
「ありがとう。その人の名は?」
「姓は鄧、名は禹、字は仲華」
「鄧仲華か」
「鄧先生は凄い人です。若くして詩経に習熟し――」
詩経、とは儒学の五大経典の一つで、古代連合王朝時代の詩篇である。
「――常安では、十年に一人の俊英と呼ばれたとか。くれぐれも、失礼のないようにしてくださいね」
「心得た」
劉秀は頷いた。陰氏の者たちが、間もなく竈神を祭る儀式が始まることを触れ回り始めた。劉秀は鄧奉に促され、祭壇の方へ共に歩き出した。
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ゆみすけ
歴史・時代
日本は大東亜戦争に負けた、完敗であった。 そこから架空戦記なるものが増殖する。 しかしおもしろくない、つまらない。 であるから自分なりに無双日本軍を架空戦記に参戦させました。 主観満載のラノベ戦記ですから、ご感弁を
織田信長IF… 天下統一再び!!
華瑠羅
歴史・時代
日本の歴史上最も有名な『本能寺の変』の当日から物語は足早に流れて行く展開です。
この作品は「もし」という概念で物語が進行していきます。
主人公【織田信長】が死んで、若返って蘇り再び活躍するという作品です。
※この物語はフィクションです。
四代目 豊臣秀勝
克全
歴史・時代
アルファポリス第5回歴史時代小説大賞参加作です。
読者賞を狙っていますので、アルファポリスで投票とお気に入り登録してくださると助かります。
史実で三木城合戦前後で夭折した木下与一郎が生き延びた。
秀吉の最年長の甥であり、秀長の嫡男・与一郎が生き延びた豊臣家が辿る歴史はどう言うモノになるのか。
小牧長久手で秀吉は勝てるのか?
朝日姫は徳川家康の嫁ぐのか?
朝鮮征伐は行われるのか?
秀頼は生まれるのか。
秀次が後継者に指名され切腹させられるのか?
剣客逓信 ―明治剣戟郵便録―
三條すずしろ
歴史・時代
【第9回歴史・時代小説大賞:痛快! エンタメ剣客賞受賞】
明治6年、警察より早くピストルを装備したのは郵便配達員だった――。
維新の動乱で届くことのなかった手紙や小包。そんな残された思いを配達する「御留郵便御用」の若者と老剣士が、時に不穏な明治の初めをひた走る。
密書や金品を狙う賊を退け大切なものを届ける特命郵便配達人、通称「剣客逓信(けんかくていしん)」。
武装する必要があるほど危険にさらされた初期の郵便時代、二人はやがてさらに大きな動乱に巻き込まれ――。
※エブリスタでも連載中
蘭癖高家
八島唯
歴史・時代
一八世紀末、日本では浅間山が大噴火をおこし天明の大飢饉が発生する。当時の権力者田沼意次は一〇代将軍家治の急死とともに失脚し、その後松平定信が老中首座に就任する。
遠く離れたフランスでは革命の意気が揚がる。ロシアは積極的に蝦夷地への進出を進めており、遠くない未来ヨーロッパの船が日本にやってくることが予想された。
時ここに至り、老中松平定信は消極的であるとはいえ、外国への備えを画策する。
大権現家康公の秘中の秘、後に『蘭癖高家』と呼ばれる旗本を登用することを――
※挿絵はAI作成です。
蒼雷の艦隊
和蘭芹わこ
歴史・時代
第五回歴史時代小説大賞に応募しています。
よろしければ、お気に入り登録と投票是非宜しくお願いします。
一九四二年、三月二日。
スラバヤ沖海戦中に、英国の軍兵四二二人が、駆逐艦『雷』によって救助され、その命を助けられた。
雷艦長、その名は「工藤俊作」。
身長一八八センチの大柄な身体……ではなく、その姿は一三○センチにも満たない身体であった。
これ程までに小さな身体で、一体どういう風に指示を送ったのか。
これは、史実とは少し違う、そんな小さな艦長の物語。
梅すだれ
木花薫
歴史・時代
江戸時代の女の子、お千代の一生の物語。恋に仕事に頑張るお千代は悲しいことも多いけど充実した女の人生を生き抜きます。が、現在お千代の物語から逸れて、九州の隠れキリシタンの話になっています。島原の乱の前後、農民たちがどのように生きていたのか、仏教やキリスト教の世界観も組み込んで書いています。
登場人物の繋がりで主人公がバトンタッチして物語が次々と移っていきます隠れキリシタンの次は戦国時代の姉妹のストーリーとなっていきます。
時代背景は戦国時代から江戸時代初期の歴史とリンクさせてあります。長編時代小説。長々と続きます。
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