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第五章 北狄の樹、南陽の竈
第二十八話
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その日も、王昭君の娘、云は、馬を駆けさせていた。無数の紐状に編まれた髪を後ろへ靡かせ、緑の草原を風のように馳せる云を、十を超す騎影が追いかけた。云は自分を追う馬蹄の轟きを振り返らず、草原に一本だけ立つ大樹へ駆けた。体を僅かに傾け、馬の速さを些かも落とすことなく大樹を半周し、来た方へ引き返した。わあ、と沸き立つような歓声が左右から云を迎えた。云を乗せた馬が、草原に立つ二本の旗の間を走り抜けた。
鷲獅子が描かれた旗が大きく振られ、角笛の音が草原の空に鳴り響いた。匈奴単于国の現君主、烏珠留単于が馬上で声を上げた。
「撐犂狐塗の名の下に、須卜居次の勝利を認める。青く高き天よ、匈奴の勇ましき女、須卜居次を祝し給え」
須卜居次、とは云の称号である。云は馬首を巡らし、叔父である烏珠留単于の方へ馬を走らせた。羊毛で織られ、体の線に合わせて裁ち縫われた衣服を着た遊牧民たちが、馬上から花を投げるように云へ賛辞を浴びせた。云は賛辞へ手を振りながら馬を駆けさせ、烏珠留単于の前に至ると、馬を止めて一礼した。烏珠留単于は云の馬術を讃え、競走に勝利した賞品を与えた。烏珠留単于の側近が徒歩で云に近づき、漢帝国で織られた絹の衣を馬上の云へ捧げた。云は絹の衣を肩に羽織り、母譲りの美貌を微笑ませた。
「感謝いたします、単于」
単于、とは匈奴単于国の君主の称号である。烏珠留単于は穏やかに目を細めた。微笑む云を見て云の母を思い出し、刀痕だらけの恐ろしげな顔を優しく笑ませた。競走で云に敗れた女騎手たちが、云へ馬を近づけた。云の勝利を讃える一方で、その美しい黒髪に気を取られたせいで負けたのだ、と負け惜しみを口にした。
「羨ましいだろ。母上がくれた、匈奴で最も美しい髪だ」
これ見よがしに黒髪を掻き上げながら、いひひ、と云は悪びれることなく笑んだ。こいつめ、憎たらしいやつ、と女たちの一人が頬を膨らませて横を向いた。それを見て周りの女たちが笑い出した。その声に釣られるように、横を向いていた女も、く、と吹き出し、皆で共に笑い声を響かせた。
その日、漢帝国の暦でいえば元始元年(西暦一年)の初夏、匈奴単于国では蘢城祭が行われていた。蘢城祭とは、匈奴単于国で聖なる樹とされている大樹、蘢城に遊牧の成功を祈る祭事で、毎年、聖樹蘢城の葉が青く茂る季節になると、国内の草原や沙漠から数千の穹廬が聖樹の周辺に集まる。穹廬とは移動生活に適した居住用の幌馬車で、穹廬の住人である遊牧民たちは、聖樹に宿る神霊を歌舞や競技で楽しませる。
烏珠留単于の前を辞した云を囲み、他愛のない話をして笑う女たちに、男を背に乗せた馬が近づいた。女たちが男に気づき、笑うことをやめた。云も男に気づき、表情を緊張させた。
「須卜当さま」
「居次」
男が云の前で馬を止めた。男は若く、猛禽のように目が鋭く、頬に三筋の刀痕が刻まれていた。獅子が描かれた金の尾錠で帯を締め、波のように湾曲した小振りの合成弓を馬上に横たえていた。馬の首を軽く叩きながら、男は云の顔を見た。
「勝ったのか」
先程の競走のことである。云は頷いた。
「はい。勝ちました」
「そうか」
男が黙り込んだ。初夏の風が草原を涼やかに吹き抜けた。云は視線を左右に彷徨わせた後、自らの肩にかけている絹の衣へ目を向けた。
「見てください。漢の絹です。単于に賜りました。美しいでしょう?」
「そうだな」
男が頷いた。それ以上の言葉は無く、また風が吹き抜ける音が辺りに響いた。また何かを探すように云は視線を彷徨わせた。数秒、彷徨わせた後、そうだ、と手を叩いた。
「この絹で、須卜当さまの下着を作りましょう。絹の下着は、怪我をした時に傷口を締めつけ、血を止めると――」
「おれは――」
男が馬首を巡らし、云に背を向けた。
「――怪我なんかしない」
男は馬を前へ歩ませた。男の背中が云から離れた。云は顔を俯かせた。一人の女が云へ馬を近づけ、馬上の云を肘で小突いた。云が振り返ると、女は云が須卜当と呼んだ男の、先程の言葉の意味を云へ教えた。
あれは、その絹は云によく似合う、という意味だよ。
「本当に? 本当の本当に?」
云は女に訊ねた。本当さ、と女は口の両端を上げた。云は須卜当のことになると愚鈍になる、と笑い、目で周りに同意を求めた。その通り、と周りの女たちは頷き、結婚して何年も経つのにこれだもの、二人の間に子供がいるなんて信じられない、と笑い合い、二人が夜の穹廬で何をしているか見てみたい、と些か卑猥な冗談を口にした。云は顔を赤くして、うるせえ、乾酪をぶつけるぞ、と拳を振り回した。
云と別れた須卜当は、祭りで催される競技の一つに参加するために、聖樹の方へ馬を進めた。毛皮の頭巾や円形の帽子の間を進んでいると、居並ぶ穹廬の間から馬が出てきて、須卜当の隣に並んだ。須卜当は馬上の人物を横目で一瞥した。
「盧芳か」
「相変わらず、不愛想な男だな。あんな言葉では真心が伝わらんぞ」
「見ていたのか」
「おうよ」
盧芳、と呼ばれた青年は、なぜか自慢げに胸を反らした。
「おれも須卜居次と同じで、漢人の血を引いているからな。どうしても気になるのよ」
「そんなに気になるなら、居次を攫って妻にすればよかろう」
「なるほど、掠奪婚というやつか。それはよい考えだ。今夜にでもやるか」
「……………………」
須卜当は矢箙から矢を抜き取り、弓につがえた。殺気のようなものを感じ取り、盧芳は慌てた。
「冗談。冗談だよ。単于の血を引いておられる須卜居次を、おれ如きが娶れるものか」
「おまえの体の中には、漢の皇帝の血が流れているのだろう?」
「普段は信じてないくせに、こういう時だけ持ち出すなよ」
「信じていないわけではない。匈奴では意味が無い、と思うだけだ」
須卜当は矢を矢箙へ戻した。
須卜当を乗せた馬が、聖樹の近くまで歩みを進めた。聖樹の周辺では、槖駝の競走が行われていた。馬を止めた須卜当と盧芳の前を、どかどかと二十数頭の槖駝が走り抜けた。七歳の少年が駆る槖駝が競争を制し、同年代の少年少女から熱狂的な声援を浴びた。その様子を見て、見事なものだ、と盧芳が顔を笑ませた。まるで昔の自分を見ているかのようだ、と続けた盧芳の言葉を、須卜当は右から左へ聞き流した。
山羚羊の頭骨を縛り付けた棒が三つ、草原に立てられた。頭骨の二十歩ほど手前に、白く塗られた小石が並べられた。角笛が空高く鳴らされ、次の競技が始められた。競技は騎射――馬を走らせながら矢を放つ技術を競うもので、標的である山羚羊の頭骨へ向けて馬を全力で走らせ、馬の前脚が小石の白線を踏み越える前に三つの標的を射なければならない。全ての標的に矢を命中させれば成功で、複数の成功者が出た場合は、成功者が一人になるまで何回も繰り返す。
最初の競技者が馬を走らせ、揺れる馬上で弓を引き絞り、標的である山羚羊の骨へ矢を連射した。放たれた五本の矢の内、三本が標的に命中したが、二本は同じ標的に命中していた。二人目の競技者も三つの標的を射ることに失敗し、三人目、四人目も脱落した。五人目の競技者として盧芳が登場した。最初の一矢で右の頭骨を、次の一矢で左の頭骨を射貫くも、三本目の矢を矢箙から抜く前に馬が小石の白線を越えた。天を仰いで戻る盧芳と擦れ違うように、六人目の競技者である須卜当が馬を走らせた。一度、二度、三度と弦音を鳴り響かせると、飛んでいく矢の軌跡を確かめずに馬を返した。矢は初夏の陽を弾いて鋭く飛び、山羚羊の頭骨の眉間を突き貫けた。
一巡目が終わり、須卜当を入れて十数人が成功させた。二巡目、三巡目、四巡目、五巡目が終わり、須卜当と一人だけが六巡目に臨む資格を得た。
「頑張るではないか、須卜当」
須卜当と共に六巡目へ臨む男が、須卜当に声をかけた。それでこそ匈奴の貴種、須卜氏の勇士である、と須卜当を讃えた。
「恐れ入ります」
須卜当は男に頭を下げた。男は一笑し、山羚羊の頭骨へ目を向けた。
「しかし、今日は愛する子供たちが見ているからな。おまえと須卜居次には悪いが、勝たせてもらう」
先に行かせてもらうぞ、と男は馬を駆けさせた。流れるように矢箙から矢を抜き、弓を構えた。男の幼い子供たちが、お父さん、頑張れ、と手を振りながら応援した。男は子供たちの名を順に呼び、父の勇姿を見よ、と叫んだ。弦音が二度、鳴り渡り、二つの頭骨が矢に穿たれた。男は矢を構え、最後の標的に狙いを定めた。頑張れ、頑張れ、と仔馬の上から応援する子供たちの後ろに、母譲りの黒髪を靡かせて云が現れた。
「叔父さま!」
云は男に叫んだ。
「もし須卜当さまを負かしたら、大嫌いになるからね!」
この言葉が、男の手を狂わせた。数度、弦音が響いたが、放たれた矢は悉く頭骨から逸れた。あちこちで笑いの渦が起きた。匈奴単于国の君主、烏珠留単于も民と共に大笑いした。とぼとぼと肩を落として戻る男へ、烏珠留単于は馬を近づけた。
「あれしきのことで心を乱すとは、鍛錬が足りんぞ、右犂汗王」
「兄者、いや、単于。そうは言われますが――」
右犂汗王、と単于に呼ばれた男は、反論を試みた。その時、云が右犂汗王の幼い子供たちに、父さんに何てことを言うんだ、と追いかけられながら、右犂汗王へ叫んだ。
「叔父さま、大好きだよ! 世界で二番目に大好き!」
「……もう、いつまでも子供なんだから」
馬上で大きく手を振る云を見ながら、右犂汗王は満更でもなさそうな顔をした。烏珠留単于は愉快そうに笑い、馬を走らせ始めた須卜当へ目を向けた。
「今年の騎射の勝者は、須卜当か」
「決まりでしょう。今日は、あいつがいませんから」
「この大切な日に、あいつはどこで何をしているのだ?」
「南にいるようです。いつものように、奴隷にされた者たちを逃がしているのでしょう」
「気持ちはわからないではないが、迷惑な男だ」
烏珠留単于は苦笑した。その瞬間、須卜当の弓弦が鳴り、矢が山羚羊の骨を射貫いた。弓弦は更に鳴り、山羚羊の眉間が穿たれた。須卜当は三本目の矢を矢箙から抜き取り、弦を引いて最後の標的に狙いを定めた。弓弦が鳴り、矢が放たれた。
競技を見ていた群衆の背後の穹廬の上で、弦音が鳴り響いた。
群衆の上から山羚羊の頭骨へ、黒い羽の矢が飛んだ。須卜当の弓から放たれ、山羚羊の頭骨を撃ち貫こうとしていた矢が、黒い羽の矢と空中で衝突して弾け飛んだ。須卜当の目が大きく見開かれた。咄嗟に馬を止め、黒い羽の矢が飛んできた方へ目をやり、競技を妨害した射手を捜した。
黒衣の男を乗せた黒馬が、自分たちの仕業だと名乗り出るかのように、群衆の中から須卜当の前へ進み出た。須卜当は黒衣の男を睨みつけた。黒衣の男は意に介さず、須卜当に話しかけた。
「今日も弓が巧いな、須卜当。お蔭で、矢を一矢で落とせた」
黒衣の男は、美しい顔立ちをしていた。他の匈奴単于国の男たちのように、複数の刀痕が頬や額に刻まれていた。須卜当が知る人に似た黒髪を、草原の風に靡かせながら、須卜当の精緻な騎射の技を讃える言葉を口にした。須卜当は矢箙の矢を掴んだ。
「なぜ、おれの邪魔をした」
掴んだ矢を半ばまで、須卜当は矢箙から抜いた。黒衣の男は不敵に笑んだ。
「目立つためだ」
黒衣の男は馬首を巡らし、群衆の方を向いた。騎射の競技を妨害した謎の男に注目する群衆に対し、如何に匈奴単于国の人間が優れているか、大声で語り始めた。手始めに南方の農耕民族の国家、漢帝国の食文化を貶した。麦や米などの穀類を草の実と呼び、漢帝国の人間は草の実を食べるが、匈奴単于国の人間は草を食べる羊を食べるから、匈奴単于国の人間の方が漢帝国の人間より優れている、と吼えた。自称、漢帝国の皇帝の子孫である盧芳が、酷い演説だ、と顔を背けた。王昭君の娘を妻に迎えている須卜当も、不快げな顔をした。群衆も一部が眉を顰めた一方、一部が黒衣の男に同調して気勢を上げた。その声を聞いて、右犂汗王が苦虫を噛み潰したような顔をした。
「あいつめ、何ということを。南にいるという話は、さては流言か」
単于、と右犂汗王は烏珠留単于へ呼びかけた。
「すぐにあいつを捕らえなければ。おれに命じてください。あんなのでも、一応は匈奴の貴種。おれが行かなければ――」
「その必要は無い」
「兄者、あいつが可愛いのはわかりますが――」
「そうではない」
黒衣の男がいる方とは逆の方へ、烏珠留単于は目を向けた。
「もう動いている者がいる」
馬蹄が軽やかに地を蹴る音が、烏珠留単于と右犂汗王の前を駆け抜けた。黒衣の男へ近づく騎影に、須卜当が気づいた。須卜当は何も言わずに横を向いた。騎影は美しい黒髪を後ろへ靡かせながら、演説を続ける黒衣の男に突進した。いよいよ本題に入ろうとしていた黒衣の男が、近づいてくる馬蹄の音に気づいた。
音の方を振り返ろうとした黒衣の男の顔面に、作りかけの白く軟らかい乾酪が、勢いよく叩きつけられた。
「この愚兄が!」
佳人、王昭君の娘にして、須卜当の妻である云の怒声が轟いた。云に乾酪を叩きつけられた衝撃で、黒衣の男は落馬した。云は跳ぶように馬から下り、体を起こそうとしていた白面黒衣の男に、助走をつけて蹴りを入れた。
「こいつめ! 須卜当さまに何てことしやがる!」
「云、やめろ、落ち着け、話を聞け。そもそも、おれは兄ではなく、叔父――」
「うるせえ!」
革を鞣して作られた長靴(ブーツ)で、どかどかと云は黒衣の男を踏んだ。思いがけない展開に群衆は唖然とした。先程、黒衣の男の演説に同調していた男たちが我に返り、黒衣の男を助けようと群衆の中から駆け出た。須卜当を乗せた馬が、男たちの前を阻んだ。須卜当の猛禽のような目が、男たちを睨んだ。数秒の睨み合いの後、男たちは下を向いた。その間も黒衣の男は云に踏まれては蹴られ、堪らず須卜当へ助けを求めた。
「助けてくれ、助けてくれ、須卜当。云を、云を止めてくれ」
「……今日は――」
半ばまで抜いていた矢を矢箙へ戻し、須卜当は聖なる大樹、蘢城を振り仰いだ。
「――好い天気だ」
「おい、須卜当、助けてくれ」
「多分、明日も好い天気だろう」
「須卜当、無視するな、須卜当」
そうこうしている間に、黒衣の男の足首に縄が結びつけられた。縄は云の馬に繋がれていた。云が馬に跨り、馬を走らせた。黒衣の男は馬に引き摺られ、数度、草原の馬糞を己の体で蹴散らした後、居並ぶ穹廬と穹廬の間に姿を消した。
妨害者がいなくなり、蘢城祭が再開された。羊の競走が行われ、七歳未満の子供たちを乗せた羊が草原を疾走した。各部族で一番の歌い手たちが、自慢の声を順番に披露した。大いなる湖の畔に定住する者たちが、自慢の織物に身を包んで舞を披露した。匈奴単于国の歴史を語る劇が、聖樹の前で行われた。
匈奴単于国の歴史は、その南方に存在する漢帝国よりも古い。匈奴単于国は文字を持たない民族が築いた国であるため、その正確な起源は既に忘れられているが、少なくとも漢帝国が成立する百年前、戦国の七王国の時代には国家を形成し、七王国の秦や趙と戦いを繰り返していた。しかし、約二百年前、西方の大草原地帯を支配する強大な遊牧民族、月氏が東進を開始し、匈奴単于国を圧迫して多数の遊牧民を離反させた。時を同じくして、南方でも七王国が統一されて大秦帝国が誕生し、帝国の初代皇帝、始皇帝が発した大軍に匈奴単于国は領土の一部を奪われた。
その場面が劇で演じられた。仔馬に乗り、小さな鷲獅子の旗を掲げた子供たちが、尖り帽子の月氏軍の騎兵と、黒い甲冑の秦軍の二輪戦車に追い立てられた。逃げ惑う子供たちを見て、劇を観賞している群衆が悲しげな声を漏らした。群衆の中には須卜当と盧芳がいた。可哀そうに、と目を潤ませている盧芳に、傷だらけの黒衣の男が近づいた。盧芳は黒衣の男に気づき、顔を顰めた。
「うわ、馬糞臭え。体を洗え、衣服を換えろ。周りが迷惑だ」
「うるせえ、漢人。これが匈奴の香りだ。漢人にはわからんだろうがな」
「あんた以外の匈奴人に失礼だぞ。すぐに謝れ。跪いて謝れ」
「云に――」
劇から目を離さずに、須卜当が口を挿んだ。
「――感謝するんだな。云に踏まれて蹴られて、乾酪を叩きつけられて、馬で引き摺られたから、あんたは馬糞塗れになる程度で済んだ」
「全く、どうかしてるぜ」
にやり、と盧芳が歯を見せた。
「大勢に注目されたいのはわかる。そのために、人が集まる蘢城祭を利用する、というのもわかる。だが、競技に乱入して妨害するなんて、愚かも愚かだ」
「匈奴のためだ。漢帝国では、大勢の匈奴人が奴隷にされている。強く、美しく、誇り高い草原の民が、弱く、醜く、卑劣な漢人どもに苦しめられている。おれは、そのことを皆に伝え、おれと一緒に――」
「おい」
じろり、と須卜当が横目で黒衣の男を睨んだ。
「静かにしろ。劇の観賞の邪魔だ」
「須卜当、おれは大事な話を――」
「もうすぐ――」
聖樹の前で演じられている劇へ、須卜当は目を戻した。
「――おれが好きな場面が始まる。あんたが好きな場面でもある」
須卜当の視線の先では、匈奴の子供たちが月氏の戦士、秦帝国の兵士に囲まれていた。太鼓が遠雷のように打たれる中、子供たちは鷲獅子の旗を中心に集まり、天に祈りを捧げた。匈奴単于国を救う英雄を草原へ遣わすよう、声を揃えて天に懇願した。子供たちの中で最も年長の者が、径路刀を抜いた。径路刀とはペルシア様式の短刀で、自らの命を天に捧げ、それと引き換えに願いを叶えてもらうために、自らの胸を径路刀で突こうとした。その時、鉦が激しく打ち鳴らされ、一騎の戦士が聖樹の裏から駆け出てきた。それまで悲しみに沈んでいた群衆が、歓声と指笛と拍手で戦士を迎えた。
鷲獅子が描かれた旗が大きく振られ、角笛の音が草原の空に鳴り響いた。匈奴単于国の現君主、烏珠留単于が馬上で声を上げた。
「撐犂狐塗の名の下に、須卜居次の勝利を認める。青く高き天よ、匈奴の勇ましき女、須卜居次を祝し給え」
須卜居次、とは云の称号である。云は馬首を巡らし、叔父である烏珠留単于の方へ馬を走らせた。羊毛で織られ、体の線に合わせて裁ち縫われた衣服を着た遊牧民たちが、馬上から花を投げるように云へ賛辞を浴びせた。云は賛辞へ手を振りながら馬を駆けさせ、烏珠留単于の前に至ると、馬を止めて一礼した。烏珠留単于は云の馬術を讃え、競走に勝利した賞品を与えた。烏珠留単于の側近が徒歩で云に近づき、漢帝国で織られた絹の衣を馬上の云へ捧げた。云は絹の衣を肩に羽織り、母譲りの美貌を微笑ませた。
「感謝いたします、単于」
単于、とは匈奴単于国の君主の称号である。烏珠留単于は穏やかに目を細めた。微笑む云を見て云の母を思い出し、刀痕だらけの恐ろしげな顔を優しく笑ませた。競走で云に敗れた女騎手たちが、云へ馬を近づけた。云の勝利を讃える一方で、その美しい黒髪に気を取られたせいで負けたのだ、と負け惜しみを口にした。
「羨ましいだろ。母上がくれた、匈奴で最も美しい髪だ」
これ見よがしに黒髪を掻き上げながら、いひひ、と云は悪びれることなく笑んだ。こいつめ、憎たらしいやつ、と女たちの一人が頬を膨らませて横を向いた。それを見て周りの女たちが笑い出した。その声に釣られるように、横を向いていた女も、く、と吹き出し、皆で共に笑い声を響かせた。
その日、漢帝国の暦でいえば元始元年(西暦一年)の初夏、匈奴単于国では蘢城祭が行われていた。蘢城祭とは、匈奴単于国で聖なる樹とされている大樹、蘢城に遊牧の成功を祈る祭事で、毎年、聖樹蘢城の葉が青く茂る季節になると、国内の草原や沙漠から数千の穹廬が聖樹の周辺に集まる。穹廬とは移動生活に適した居住用の幌馬車で、穹廬の住人である遊牧民たちは、聖樹に宿る神霊を歌舞や競技で楽しませる。
烏珠留単于の前を辞した云を囲み、他愛のない話をして笑う女たちに、男を背に乗せた馬が近づいた。女たちが男に気づき、笑うことをやめた。云も男に気づき、表情を緊張させた。
「須卜当さま」
「居次」
男が云の前で馬を止めた。男は若く、猛禽のように目が鋭く、頬に三筋の刀痕が刻まれていた。獅子が描かれた金の尾錠で帯を締め、波のように湾曲した小振りの合成弓を馬上に横たえていた。馬の首を軽く叩きながら、男は云の顔を見た。
「勝ったのか」
先程の競走のことである。云は頷いた。
「はい。勝ちました」
「そうか」
男が黙り込んだ。初夏の風が草原を涼やかに吹き抜けた。云は視線を左右に彷徨わせた後、自らの肩にかけている絹の衣へ目を向けた。
「見てください。漢の絹です。単于に賜りました。美しいでしょう?」
「そうだな」
男が頷いた。それ以上の言葉は無く、また風が吹き抜ける音が辺りに響いた。また何かを探すように云は視線を彷徨わせた。数秒、彷徨わせた後、そうだ、と手を叩いた。
「この絹で、須卜当さまの下着を作りましょう。絹の下着は、怪我をした時に傷口を締めつけ、血を止めると――」
「おれは――」
男が馬首を巡らし、云に背を向けた。
「――怪我なんかしない」
男は馬を前へ歩ませた。男の背中が云から離れた。云は顔を俯かせた。一人の女が云へ馬を近づけ、馬上の云を肘で小突いた。云が振り返ると、女は云が須卜当と呼んだ男の、先程の言葉の意味を云へ教えた。
あれは、その絹は云によく似合う、という意味だよ。
「本当に? 本当の本当に?」
云は女に訊ねた。本当さ、と女は口の両端を上げた。云は須卜当のことになると愚鈍になる、と笑い、目で周りに同意を求めた。その通り、と周りの女たちは頷き、結婚して何年も経つのにこれだもの、二人の間に子供がいるなんて信じられない、と笑い合い、二人が夜の穹廬で何をしているか見てみたい、と些か卑猥な冗談を口にした。云は顔を赤くして、うるせえ、乾酪をぶつけるぞ、と拳を振り回した。
云と別れた須卜当は、祭りで催される競技の一つに参加するために、聖樹の方へ馬を進めた。毛皮の頭巾や円形の帽子の間を進んでいると、居並ぶ穹廬の間から馬が出てきて、須卜当の隣に並んだ。須卜当は馬上の人物を横目で一瞥した。
「盧芳か」
「相変わらず、不愛想な男だな。あんな言葉では真心が伝わらんぞ」
「見ていたのか」
「おうよ」
盧芳、と呼ばれた青年は、なぜか自慢げに胸を反らした。
「おれも須卜居次と同じで、漢人の血を引いているからな。どうしても気になるのよ」
「そんなに気になるなら、居次を攫って妻にすればよかろう」
「なるほど、掠奪婚というやつか。それはよい考えだ。今夜にでもやるか」
「……………………」
須卜当は矢箙から矢を抜き取り、弓につがえた。殺気のようなものを感じ取り、盧芳は慌てた。
「冗談。冗談だよ。単于の血を引いておられる須卜居次を、おれ如きが娶れるものか」
「おまえの体の中には、漢の皇帝の血が流れているのだろう?」
「普段は信じてないくせに、こういう時だけ持ち出すなよ」
「信じていないわけではない。匈奴では意味が無い、と思うだけだ」
須卜当は矢を矢箙へ戻した。
須卜当を乗せた馬が、聖樹の近くまで歩みを進めた。聖樹の周辺では、槖駝の競走が行われていた。馬を止めた須卜当と盧芳の前を、どかどかと二十数頭の槖駝が走り抜けた。七歳の少年が駆る槖駝が競争を制し、同年代の少年少女から熱狂的な声援を浴びた。その様子を見て、見事なものだ、と盧芳が顔を笑ませた。まるで昔の自分を見ているかのようだ、と続けた盧芳の言葉を、須卜当は右から左へ聞き流した。
山羚羊の頭骨を縛り付けた棒が三つ、草原に立てられた。頭骨の二十歩ほど手前に、白く塗られた小石が並べられた。角笛が空高く鳴らされ、次の競技が始められた。競技は騎射――馬を走らせながら矢を放つ技術を競うもので、標的である山羚羊の頭骨へ向けて馬を全力で走らせ、馬の前脚が小石の白線を踏み越える前に三つの標的を射なければならない。全ての標的に矢を命中させれば成功で、複数の成功者が出た場合は、成功者が一人になるまで何回も繰り返す。
最初の競技者が馬を走らせ、揺れる馬上で弓を引き絞り、標的である山羚羊の骨へ矢を連射した。放たれた五本の矢の内、三本が標的に命中したが、二本は同じ標的に命中していた。二人目の競技者も三つの標的を射ることに失敗し、三人目、四人目も脱落した。五人目の競技者として盧芳が登場した。最初の一矢で右の頭骨を、次の一矢で左の頭骨を射貫くも、三本目の矢を矢箙から抜く前に馬が小石の白線を越えた。天を仰いで戻る盧芳と擦れ違うように、六人目の競技者である須卜当が馬を走らせた。一度、二度、三度と弦音を鳴り響かせると、飛んでいく矢の軌跡を確かめずに馬を返した。矢は初夏の陽を弾いて鋭く飛び、山羚羊の頭骨の眉間を突き貫けた。
一巡目が終わり、須卜当を入れて十数人が成功させた。二巡目、三巡目、四巡目、五巡目が終わり、須卜当と一人だけが六巡目に臨む資格を得た。
「頑張るではないか、須卜当」
須卜当と共に六巡目へ臨む男が、須卜当に声をかけた。それでこそ匈奴の貴種、須卜氏の勇士である、と須卜当を讃えた。
「恐れ入ります」
須卜当は男に頭を下げた。男は一笑し、山羚羊の頭骨へ目を向けた。
「しかし、今日は愛する子供たちが見ているからな。おまえと須卜居次には悪いが、勝たせてもらう」
先に行かせてもらうぞ、と男は馬を駆けさせた。流れるように矢箙から矢を抜き、弓を構えた。男の幼い子供たちが、お父さん、頑張れ、と手を振りながら応援した。男は子供たちの名を順に呼び、父の勇姿を見よ、と叫んだ。弦音が二度、鳴り渡り、二つの頭骨が矢に穿たれた。男は矢を構え、最後の標的に狙いを定めた。頑張れ、頑張れ、と仔馬の上から応援する子供たちの後ろに、母譲りの黒髪を靡かせて云が現れた。
「叔父さま!」
云は男に叫んだ。
「もし須卜当さまを負かしたら、大嫌いになるからね!」
この言葉が、男の手を狂わせた。数度、弦音が響いたが、放たれた矢は悉く頭骨から逸れた。あちこちで笑いの渦が起きた。匈奴単于国の君主、烏珠留単于も民と共に大笑いした。とぼとぼと肩を落として戻る男へ、烏珠留単于は馬を近づけた。
「あれしきのことで心を乱すとは、鍛錬が足りんぞ、右犂汗王」
「兄者、いや、単于。そうは言われますが――」
右犂汗王、と単于に呼ばれた男は、反論を試みた。その時、云が右犂汗王の幼い子供たちに、父さんに何てことを言うんだ、と追いかけられながら、右犂汗王へ叫んだ。
「叔父さま、大好きだよ! 世界で二番目に大好き!」
「……もう、いつまでも子供なんだから」
馬上で大きく手を振る云を見ながら、右犂汗王は満更でもなさそうな顔をした。烏珠留単于は愉快そうに笑い、馬を走らせ始めた須卜当へ目を向けた。
「今年の騎射の勝者は、須卜当か」
「決まりでしょう。今日は、あいつがいませんから」
「この大切な日に、あいつはどこで何をしているのだ?」
「南にいるようです。いつものように、奴隷にされた者たちを逃がしているのでしょう」
「気持ちはわからないではないが、迷惑な男だ」
烏珠留単于は苦笑した。その瞬間、須卜当の弓弦が鳴り、矢が山羚羊の骨を射貫いた。弓弦は更に鳴り、山羚羊の眉間が穿たれた。須卜当は三本目の矢を矢箙から抜き取り、弦を引いて最後の標的に狙いを定めた。弓弦が鳴り、矢が放たれた。
競技を見ていた群衆の背後の穹廬の上で、弦音が鳴り響いた。
群衆の上から山羚羊の頭骨へ、黒い羽の矢が飛んだ。須卜当の弓から放たれ、山羚羊の頭骨を撃ち貫こうとしていた矢が、黒い羽の矢と空中で衝突して弾け飛んだ。須卜当の目が大きく見開かれた。咄嗟に馬を止め、黒い羽の矢が飛んできた方へ目をやり、競技を妨害した射手を捜した。
黒衣の男を乗せた黒馬が、自分たちの仕業だと名乗り出るかのように、群衆の中から須卜当の前へ進み出た。須卜当は黒衣の男を睨みつけた。黒衣の男は意に介さず、須卜当に話しかけた。
「今日も弓が巧いな、須卜当。お蔭で、矢を一矢で落とせた」
黒衣の男は、美しい顔立ちをしていた。他の匈奴単于国の男たちのように、複数の刀痕が頬や額に刻まれていた。須卜当が知る人に似た黒髪を、草原の風に靡かせながら、須卜当の精緻な騎射の技を讃える言葉を口にした。須卜当は矢箙の矢を掴んだ。
「なぜ、おれの邪魔をした」
掴んだ矢を半ばまで、須卜当は矢箙から抜いた。黒衣の男は不敵に笑んだ。
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単于、と右犂汗王は烏珠留単于へ呼びかけた。
「すぐにあいつを捕らえなければ。おれに命じてください。あんなのでも、一応は匈奴の貴種。おれが行かなければ――」
「その必要は無い」
「兄者、あいつが可愛いのはわかりますが――」
「そうではない」
黒衣の男がいる方とは逆の方へ、烏珠留単于は目を向けた。
「もう動いている者がいる」
馬蹄が軽やかに地を蹴る音が、烏珠留単于と右犂汗王の前を駆け抜けた。黒衣の男へ近づく騎影に、須卜当が気づいた。須卜当は何も言わずに横を向いた。騎影は美しい黒髪を後ろへ靡かせながら、演説を続ける黒衣の男に突進した。いよいよ本題に入ろうとしていた黒衣の男が、近づいてくる馬蹄の音に気づいた。
音の方を振り返ろうとした黒衣の男の顔面に、作りかけの白く軟らかい乾酪が、勢いよく叩きつけられた。
「この愚兄が!」
佳人、王昭君の娘にして、須卜当の妻である云の怒声が轟いた。云に乾酪を叩きつけられた衝撃で、黒衣の男は落馬した。云は跳ぶように馬から下り、体を起こそうとしていた白面黒衣の男に、助走をつけて蹴りを入れた。
「こいつめ! 須卜当さまに何てことしやがる!」
「云、やめろ、落ち着け、話を聞け。そもそも、おれは兄ではなく、叔父――」
「うるせえ!」
革を鞣して作られた長靴(ブーツ)で、どかどかと云は黒衣の男を踏んだ。思いがけない展開に群衆は唖然とした。先程、黒衣の男の演説に同調していた男たちが我に返り、黒衣の男を助けようと群衆の中から駆け出た。須卜当を乗せた馬が、男たちの前を阻んだ。須卜当の猛禽のような目が、男たちを睨んだ。数秒の睨み合いの後、男たちは下を向いた。その間も黒衣の男は云に踏まれては蹴られ、堪らず須卜当へ助けを求めた。
「助けてくれ、助けてくれ、須卜当。云を、云を止めてくれ」
「……今日は――」
半ばまで抜いていた矢を矢箙へ戻し、須卜当は聖なる大樹、蘢城を振り仰いだ。
「――好い天気だ」
「おい、須卜当、助けてくれ」
「多分、明日も好い天気だろう」
「須卜当、無視するな、須卜当」
そうこうしている間に、黒衣の男の足首に縄が結びつけられた。縄は云の馬に繋がれていた。云が馬に跨り、馬を走らせた。黒衣の男は馬に引き摺られ、数度、草原の馬糞を己の体で蹴散らした後、居並ぶ穹廬と穹廬の間に姿を消した。
妨害者がいなくなり、蘢城祭が再開された。羊の競走が行われ、七歳未満の子供たちを乗せた羊が草原を疾走した。各部族で一番の歌い手たちが、自慢の声を順番に披露した。大いなる湖の畔に定住する者たちが、自慢の織物に身を包んで舞を披露した。匈奴単于国の歴史を語る劇が、聖樹の前で行われた。
匈奴単于国の歴史は、その南方に存在する漢帝国よりも古い。匈奴単于国は文字を持たない民族が築いた国であるため、その正確な起源は既に忘れられているが、少なくとも漢帝国が成立する百年前、戦国の七王国の時代には国家を形成し、七王国の秦や趙と戦いを繰り返していた。しかし、約二百年前、西方の大草原地帯を支配する強大な遊牧民族、月氏が東進を開始し、匈奴単于国を圧迫して多数の遊牧民を離反させた。時を同じくして、南方でも七王国が統一されて大秦帝国が誕生し、帝国の初代皇帝、始皇帝が発した大軍に匈奴単于国は領土の一部を奪われた。
その場面が劇で演じられた。仔馬に乗り、小さな鷲獅子の旗を掲げた子供たちが、尖り帽子の月氏軍の騎兵と、黒い甲冑の秦軍の二輪戦車に追い立てられた。逃げ惑う子供たちを見て、劇を観賞している群衆が悲しげな声を漏らした。群衆の中には須卜当と盧芳がいた。可哀そうに、と目を潤ませている盧芳に、傷だらけの黒衣の男が近づいた。盧芳は黒衣の男に気づき、顔を顰めた。
「うわ、馬糞臭え。体を洗え、衣服を換えろ。周りが迷惑だ」
「うるせえ、漢人。これが匈奴の香りだ。漢人にはわからんだろうがな」
「あんた以外の匈奴人に失礼だぞ。すぐに謝れ。跪いて謝れ」
「云に――」
劇から目を離さずに、須卜当が口を挿んだ。
「――感謝するんだな。云に踏まれて蹴られて、乾酪を叩きつけられて、馬で引き摺られたから、あんたは馬糞塗れになる程度で済んだ」
「全く、どうかしてるぜ」
にやり、と盧芳が歯を見せた。
「大勢に注目されたいのはわかる。そのために、人が集まる蘢城祭を利用する、というのもわかる。だが、競技に乱入して妨害するなんて、愚かも愚かだ」
「匈奴のためだ。漢帝国では、大勢の匈奴人が奴隷にされている。強く、美しく、誇り高い草原の民が、弱く、醜く、卑劣な漢人どもに苦しめられている。おれは、そのことを皆に伝え、おれと一緒に――」
「おい」
じろり、と須卜当が横目で黒衣の男を睨んだ。
「静かにしろ。劇の観賞の邪魔だ」
「須卜当、おれは大事な話を――」
「もうすぐ――」
聖樹の前で演じられている劇へ、須卜当は目を戻した。
「――おれが好きな場面が始まる。あんたが好きな場面でもある」
須卜当の視線の先では、匈奴の子供たちが月氏の戦士、秦帝国の兵士に囲まれていた。太鼓が遠雷のように打たれる中、子供たちは鷲獅子の旗を中心に集まり、天に祈りを捧げた。匈奴単于国を救う英雄を草原へ遣わすよう、声を揃えて天に懇願した。子供たちの中で最も年長の者が、径路刀を抜いた。径路刀とはペルシア様式の短刀で、自らの命を天に捧げ、それと引き換えに願いを叶えてもらうために、自らの胸を径路刀で突こうとした。その時、鉦が激しく打ち鳴らされ、一騎の戦士が聖樹の裏から駆け出てきた。それまで悲しみに沈んでいた群衆が、歓声と指笛と拍手で戦士を迎えた。
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