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第四章 大漢帝国滅亡

第二十六話

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 翟義軍を壊滅させた孫建は、逃亡した翟義と偽帝の捜索を現地の警備隊に任せ、居摂三年一月(西暦八年二月)に帝都へ凱旋した。孫建は仮皇帝王莽に拝謁し、王莽は孫建らの活躍に賛辞を与えたが、その席で王莽の側近の一人である甄豊が孫建の采配を責めた。

「聞き及びますに、孫奮武は翟義らが篭城した都市を完全には包囲せず、そのために翟義は易々と逃げ落ちることが出来たとか。まさか孫奮武が叛乱軍に通じていたとは思いませんが、これは失策だったのではありませんかな」

 甄豊は王舜と共に帝都の警護を命じられていたので、人目を惹く戦功を挙げる機会に恵まれなかった。それを僻んでの中傷であることは明白であったが、王莽は甄豊の言葉を採り上げ、城を包囲しなかった理由を孫建らに問い質した。孫建は堂々と弁明した。

孫子そんし曰く、囲師いしは必ずく」

 敵軍を包囲する際は、包囲の一角を故意に開け、という意味である。

「もし敵城を完全に包囲していれば、敵は死力を尽くして防戦に努めたでしょう。戦いは年を跨いでも終わらず、その間に河北や南陽で乱が起きたかも知れません。そうなれば帝国の一大事と考え、敢えて包囲の一角を開き、叛徒が逃げ散るに任せました。この判断が誤りであったと仰せになるのであれば、臣、建は逃げも隠れもいたしません。どうぞ臣を処罰して、仮皇帝の賞罰の厳正なるを臣民に知らしめてください」

 王莽は孫建の判断を適切と認め、改めて孫建らに労いの言葉をかけた。

 帝都へ帰還した孫建らは、その月の内に軍を再編し、帝都周辺の叛乱を鎮圧するために出撃した。叛乱軍は桃の花が咲く頃までに掃討され、その間に、陳留郡の都城から逃亡していた翟義が、淮陽王国と汝南郡の境で捕縛された。翟義は帝都へ護送され、即日、帝都の広場に設けられた磔台に縛りつけられた。

 広場には、既に磔刑に処せられた翟義の母や兄の遺体が、磔台に縛られた状態で晒されており、翟義の二人の息子の首も梟首台の上に並べられていた。翟義はそれらを磔台の上から見回すと、処刑を見物に来た民衆へ声を振り絞った。

「みんな、よく見ろ。これが王莽という男だ。殷の紂王を伐った周の武王は、紂王の子までは殺さなかった。管叔を誅した周公も、管叔の子までは殺さなかった。然るに王莽はどうだ。王莽はわたしの子を二人とも殺した。これが聖人のやることか」

 翟義の処刑を任されている刑吏が、翟義を黙らせるよう兵士に命じた。矛の柄が翟義の顔を何度も殴打した。血と折れた歯が地上に飛び散ったが、翟義は砕けた顎で絶叫した。

「臣民よ、目を覚ませ。目を覚ませ。王莽は周公の再来にあらず。大漢帝国の逆臣なり」

 早く殺せ、と刑吏が喚いた。翟義は首を後ろへ捻り、王莽がいる宮城を睨みつけた。

「王莽よ、翟義を殺したとて心安んずるは早いぞ。大漢帝国の忠臣は、わたしが最後の一人ではない。わたしに続く者たちが、必ずや汝に天誅を下すであろう」

 二人の兵士が矛を構えた。翟義は最後の息を吸った。

「大漢帝国よ、永遠なれ。千秋万歳」

 翟義の体へ二本の矛が突き出された。矛は脇の下から体内へ入って心臓を貫き、翟義の舌を永遠に黙らせた。

 かくして、居摂二年九月に始まり、帝国政府を震撼させた翟義の乱は、挙兵から半年足らずで鎮圧された。皇帝を僭称した厳郷侯劉信の行方は杳として知れず、伝国璽も歴史の表舞台から再び姿を消したが、反王莽勢力の恐らくは最大にして最後の反撃を退けたことは、王莽政権に自信をつけさせた。

 居摂三年十一月(西暦八年十二月)、帝国政府の官僚の一部が王莽暗殺を企てるも、事前に発覚して処刑された。その数日後、高祖劉邦の霊廟で銅製の箱が発見され、中から一枚の木簡が出てきた。木簡には、仮ではなく真の皇帝になることを王莽に命じる文章が書かれていた。報告を受けた王莽は直ちに官僚たちを招集して議論させた。これは天の意思である、と言う者が多数を占めた。王莽はついに決断した。

 翌日、王莽は正装して高祖の霊廟へ赴き、件の銅製の箱を拝受して詔を下した。

皇天上帝こうてんじょうていおおいに大佑を顕し、予に属するに天下の兆民を以てす。高皇帝の霊は天命をけ、伝国金策の書あり。予は甚だ畏れるも、敢えて王冠を御し、真天子しんてんしの位に即き、天下を有するの号を定めて新と曰わん」

 王莽は木簡の内容を天の意思と承認し、天の意思に従って皇帝に即位し、国名を大漢帝国から大新だいしん帝国へ革めることを宣言した。

 この宣言の前日、これまで王莽を献身的に支え続けた王舜が、皇帝即位の準備を進める王莽に面会を求めていた。大漢帝国を再建する、という誓いを破棄した王莽に王舜は激怒し、王莽と刺し違えるつもりで会見に臨んだが、いざ王莽を前にすると、それまでの怒りが嘘のように萎んだ。これまで王舜は王氏一門の危機に際し、幾度となく勇敢さを発揮してきたが、それらは全て王莽が引き出したものであった。その王莽を敵に回した時、王舜は王莽がいなくては何も出来ない自分を発見し、力無く崩れ落ちるしかなかった。

「其れ正朔を改め、服色をえ、犠牲を変え、徽幟をことにし、器制を異にせん。十二月の朔を以て正月の朔と為し、鶏鳴を以て時と為す。服色は徳に配して黄をたっとび、以て皇天上帝の命を承けん」

 王莽は暦を変更し、大漢帝国の十二月を大新帝国の一月に定め、また帝国の象徴色を赤から黄に変えることを宣した。漢帝国の官僚たちは謹んで王莽の詔勅を受け、新皇帝の誕生を言祝いだ。王莽の即位に抗う者は一人としていないように思われた。

 しかし、王莽が予想もしていなかった抵抗者が、王氏一門の内部から現れた。

「おのれ、莽。わたしを欺いたか」

 漢帝国の孝成皇帝の生母であり、これまで王氏一門の有力な庇護者であり続けた元后であった。元后は王氏一門の繁栄を望んでいたが、それはあくまでも漢帝国の統治下での繁栄であり、王氏が帝位を簒奪することを望んではいなかった。王莽の即位予告を報せられて元后は怒りに打ち震え、皇帝の証である六璽の引き渡しを求めて現れた王莽の使者を、硯を投げつけて追い返した。

 元后の抵抗に王莽は困惑したが、すぐに王舜を二人目の使者として元后の許へ送り出した。現れた王舜を見た元后は、大漢帝国に対する王莽や王舜の背信を激しく責めた。

「今の王氏一門があるのは誰のお蔭か。孝成皇帝を始めとする歴代の皇帝が、我らに恩寵を垂れ給うたからではないか。それなのに、汝らは漢室への恩義に報いるどころか、聖上の幼きに乗じて国を奪おうというのか。おまえたちはそれでも人間か!」

 元后の非難を、王舜は頭を低くして受け止めた。弁解はしなかった。自分たちの行いが犬にも劣る所業であることは、誰に言われずとも王舜自身がよく理解していた。

「おまえたちに、六璽は渡さぬ」

 元后は目に涙を浮かべ、六つの玉璽を胸に掻き抱いた。

「この六璽は、わたしの夫や子の形見のようなもの。おまえたちのような忘恩の輩に渡せるものか。どうしても六璽が欲しければ、自分で作れ。大漢帝国の六璽は、わたしが墓まで持っていく」

「畏れながら――」

 漢室に対する元后の情の深さに胸を打たれ、自らも涙を溢れさせながらも、王舜は元后の前に跪いた。

「――今の仮皇帝は、もはや昔日の新都侯ではありません。六璽を渡さねば、御身に変事が起きないとも限りません」

「変事とな」

 元后は声を震わせた。

「莽が、わたしを殺すというのか。わたしを殺して、わたしの屍から六璽を剥ぐと」

「どうか、六璽の引き渡しに応じてくださいませ」

 王舜は床に額を擦りつけた。元后は唇を噛んで天を仰いだ。自らの無力を、骨身に沁み徹るほどに悟らされた。胸に抱いていた六個の玉璽を、元后は頭上へ振り上げた。

「それほどに六璽が欲しければ、持っていけ」

 六璽が宙へ擲たれた。六個の玉璽の内、一個は王舜の背中に、残りの五個は王舜の前と左右に落ちた。元后は床に手をついて泣き伏した。

「無念だ。王莽という男を、見誤った。死して我が子らに会わす顔がない」

 元后の皺だらけの手が、硬く冷たい床を何度も叩いた。その姿が見えなくなるほどに王舜は涙を流しながら、床に散らばる六個の玉璽を手探りで拾い集めた。

 初始元年十二月(西暦九年一月)、先の宣言の通り、帝都長安の宮城で王莽の即位式が盛大に挙行された。王莽は大漢帝国の幼帝を拝し、自らの即位を宣言する文書を読み上げると、玉座に近づいて幼帝の手を取り、梟に似た大きな目から涙を流した。

「昔、周公は摂政の位にあり、大政を奉還することが出来た。予もまた周公の故事に倣わんと志すも、かくの如く天命が下り、本意を遂げることが叶わなんだ」

 幼帝の世話係が、幼帝を玉座の上から抱え下ろした。幼帝の手を引き、臣下の列へ案内した。涙を堪えかねて泣く声が、あちこちから聞こえた。やがて幼帝が臣下の列の端で跪くと、王莽は玉座に腰を下ろした。列席者は涙を拭いて唱和した。

「大新帝国よ、永遠なれ。千秋万歳」

 この瞬間、大漢帝国の初始元年十二月一日は、大新帝国の始建国元年一月一日に改められた。漢の一字が大書された赤旗が帝都の各所で下ろされ、新の一字が大書された黄旗が新たに掲げられた。

「大新帝国よ、永遠なれ。千秋万歳」

 建国を祝う声と共に、帝国の各地の空に黄旗が翻された。帝国の東部、海に面した地域では、眉の片方が朱で引いたように赤い少年が、海風に煽られる黄旗を見上げていた。帝国の北部、帝国と匈奴単于国の国境地帯では、奴隷にされた同族の逃亡を助けた匈奴の若者が、黄旗を掲げた騎兵に追われて馬を駆けさせていた。帝国の西部、複数の民族が雑居する交易都市では、脚を病んで地に杖をついた青年が、黄旗を先頭に行進する歩兵の列を見ていた。帝国の南部、密林の中の集落では、音楽に合わせて黄旗を左右に振る象を、幼い姉妹が父母に抱えられて見物していた。

「大新帝国よ、永遠なれ。千秋万歳」

 王莽の即位を歓迎する臣民の声が、帝都の市街から溢れた。王莽は空を仰いだ。偉くなろう、と父の墓前と兄と約束した日のことが思い出された。あの日の約束を果たすために進み続けた。時に挫折し、時に自らの手を血で汚した。次男を死なせ、長男を死なせ、妻を失明させた。大切な絆が数多く絶たれた。それでも前へ進み続け、もう頭上には空しかないというところまで辿り着いた。

 しかし、これで終わりではない。玉座に至るまでの日々の中で、新たな志を抱いた。大漢帝国が抱えていた社会矛盾。日を追う毎に拡がる貧富の差。それらの問題を解決し、誰もが幸せに暮らせる国を築くまで、立ち止まることは許されない。

 自分は何のために生きたのか。死の前日、父は落日の赤い光の中で呟いた。あれから数十年を経て、父の問いに答える時が来た。兄との約束を越え、新たな一歩を踏み出す時が来た。王莽は玉座から立ち上がり、梟のように大きな眼を蒼穹の彼方へ向けた。南天で白く輝く太陽の光が、大新帝国の初代皇帝を真正面から照らした。
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