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第二章 南陽の兄弟

第十一話

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 四年前に父が死んだ時、劉縯は帝都の太学に在学していた。執金吾しつきんご――帝都の警備を司る高級武官に憧れ、日々を勉強に費やしていたが、途中で修学を打ち切ることを余儀なくされた。帰郷して家産を相続し、慣れない手つきで自家の農場を経営した。しかし、その年は冷害のために不作であり、大きな損失を出した。損失を埋めるために、農地の一部を売却した。もう自分のものではない農地を見て、自分は何と無力なのか、と落ち込んだ。落ち込むな、十年かけて取り戻すつもりでやれ、と外祖父の樊重に励まされた。叔父の劉良からも若干の銅貨と、まだ若いのだから焦るな、という言葉が届けられた。それらの言葉を、素直に聞き入れることが出来なかった。父が遺してくれた土地を早く買い戻さねばと焦り、農事に疎い自分にも出来そうな、それでいて高い収入が見込める仕事を探した。そういう仕事がないか、外祖父に相談すると、そんな美味い話があるか、と叱られた。叔父の劉良にも、妙なことは考えずに真面目に働け、と諭された。それでも探し続けていると、そのことが舂陵侯の耳に入り、仕事の話を持ちかけられた。

 劉縯の族父である舂陵侯は、親しく交際していた紅陽侯と同じく、表には出せない汚れ仕事を自らの食客に数多く行わせていた。無論、これは舂陵侯や紅陽侯だけでなく、樊氏や陰氏を含む他の豪族も大なり小なり手を染めていたが、紅陽侯と対立していた新都侯王莽が権力を掌握してからは、各地の豪族に対する帝国政府の締めつけが厳しくなり、官憲の追及から逃れることが困難になった。そこで舂陵侯は一族の劉縯に金銭を渡し、近隣の不良少年を集めて汚れ仕事を代行させることで、いざという時は実行者の劉縯に全ての責任を負わせ、自らは官憲の追及を逃れようと考えた。

 劉縯は舂陵侯の思惑を察しながらも、背に腹は代えられない、と話を受けた。嫌な日々が続いた。借金の形に家と農地を差し押さえるよう命じられ、返済の猶予を懇願する貧農の一家を真冬の空の下に蹴り出した。劉秀と同じくらいの歳の子供を奴隷として売り、我が子を連れて行かせまいとする母親を血塗れになるまで棒で殴った。売春婦にさせられた少女たちの見張りを命じられ、少女たちが互いの体を抱いて泣く声を壁越しに聞いた。半年も経たない内に心が荒んだ。些細なことで人を殴るようになった。母や劉仲にも手を上げた。妹の伯姫を殴りそうになった時、この家から出て行け、と母に言われた。母の痣だらけの顔が、急に目に沁みた。母に言われた通り、家を出た。自己嫌悪に苛まれ、自棄を起こして暴れた。人を殴り、人を蹴り、目につく物を叩き壊しながら、誰にも聞こえない声で叫んだ。

 誰か、おれを見つけてくれ。おれが、おれでなくなる前に。

 劉縯の願いは叶えられた。

 その日、借家で休んでいた劉縯は、深夜に数人の賊に襲われた。手足を縛られて袋に詰められ、荷馬車に載せられて運ばれた。なぜ自分は襲われたのか。理由は幾つも思いついた。襲われて当然のことを幾つもしていた。自分はどこへ運ばれているのか。そんなことはどうでもよかった。そんなことより、疲れていた。眠りたかった。生きることも、死ぬことも、どうでもよかった。荷馬車の振動が、妙に心地よく感じられた。

 突然、劉縯は激しい衝撃に襲われた。体が浮き、地面に落ちて転がり、その拍子に袋の口が少しだけ開いた。馬の嘶き、人の悲鳴、そして、ほう、ほう、と梟が鳴く声が、袋の外から聞こえた。月の光が僅かに射す袋の口から、外の様子が見えた。

 横に倒れた荷馬車の車輪が、からからと夜空を向いて回っていた。その車輪の上に何か大きなもの、人にも獣のようにも見えるものが跳び乗り、次の瞬間、血塗れの男が劉縯の目の前に倒れた。男はまだ生きており、必死に血泥の上を這い進んだが、幾らも這い進まない内に、車輪の上から獣らしき影が跳んだ。男の頭に牙が突き立てられる瞬間を、劉縯は至近で見た。男は顎が外れんばかりに絶叫し、誰かに助けを求めるように暗闇へ手を伸ばした。獣は男の頭蓋に空けた孔に舌を捻じ入れ、じゅるじゅると頭蓋の中にあるものを吸い出した。

 男の手が力を失い、地面に落ちた。死んだ男の脳を啜る獣の貌を、劉縯は見た。狼犬のような頭に、剛い体毛に覆われた人型の胴。劉縯は蒼褪めた。このような奇怪な獣は見たことも聞いたこともなかった。しかも、その獣は一匹ではなく、劉縯が見ている前で男の死体に群がり、ほう、ほう、と吼えながら死肉の奪い合いを始めた。

 劉縯は袋の中で震えた。先程までの、死のうが生きようがどうでもよい、という気持ちは消え失せていた。死にたくない、と目を強く瞑り、体を小さく丸めた。ごりごりと牙が骨を削る音が外から聞こえた。は、は、という獣の荒い息遣いが聞こえた。血の臭いと獣の唾液の臭いがした。まだ死にたくない、と劉縯は瞼の端に涙を溜めた。

 その時、風が吹いた。

 獣たちが死肉の奪い合いを止め、頭を上げた。何かを探すかのように、ざわざわと鳴る梢の影を見上げ、頭上を過ぎる風に耳を立てた。風が止み、梢が鳴り止んだ。かさかさと袋が内側から震える音だけが、辺りに小さく響いた。獣たちの目と耳が、かさかさと鳴り続ける袋の方へ動いた。最も近くにいた獣が袋に頭を寄せた。は、は、と血生臭い息を吐く口が、袋の口に接近した。獣の前肢の爪が袋の口にかけられた。

野狗子やくし、か」

 人の声が、獣たちの背後の闇から響いた。獣たちが一斉に声の方を見た。全身の毛を逆立て、長さ一尺の犬歯を根元まで剥き出しにし、威嚇するように唸り声を上げた。袋の中で震えていた劉縯も、人語を耳にして反射的に目を開け、人の姿を求めて外を見た。また声が闇から聞こえた。

「奇なるかな。野狗子が群れを成している」

 奇妙な姿の獣が、暗闇の奥から現れた。形は鹿に似ていたが、毛並みは豹のようで、頭に一本の角が生え、体の横には一対の青い翼が折り畳まれていた。

「しかも、人を襲ったか。野狗子は群れを成すことも、狩りをすることもないはずだが」

 声は、その鹿に似た一角獣の背の上から発せられていた。斗篷状の白い外套に、手指の先まで隠れそうな白い長衣。白い頭巾を被り、長い白髭を蓄えた青緑色の顔の老翁が、有翼、豹紋、鹿身の一角獣の背に腰かけ、犬頭人身の獣たちを見ていた。

「腐肉を漁る野犬が、その性に背いて人を狩る。世が乱れる兆しか、それとも、もう乱れているがゆえか」

 また風が吹いた。風と共に、半透明の小鳥のようなものが無数に現れ、一角獣の周りを飛んだ。一角獣は小鳥のようなものを一瞥し、脚を前に進めた。野狗子、と老翁が呼んだ犬頭人身の獣たちの横を通りすぎようとしたが、獣たちは散開して一角獣を囲み、牙を剥いた。

「……予の頭蓋をも、その牙で穿とうというのか?」

 老翁の口を覆う白髭が、微かに揺れた。劉縯は気づいた。青緑色の顔の老翁は老翁ではなく、青緑色をした、恐らくは青銅製の老翁の仮面で顔を隠していた。

 半透明の小鳥のようなものが四方に散り、風が止んだ。鹿に似た一角獣の、体の横に折り畳まれていた青い翼が僅かに動いた。青銅の翁面の人物が片手を上げた。

「待て」

 翼を広げようとした一角獣を制し、するりと翁面が地上に降りた。

「逃げるのは苦手だ。野犬どもが予の脳漿を欲しているのなら、ほんの少しだけ遊んでやろう」

 翁面は両腕を広げ、長衣の袖を外へ翻した。斗篷状の白色の外套の内側が月下に晒された。腰の右に一本、腰の左に一本、腰の後ろにも一本、合わせて三本もの剣を翁面は佩いていた。そのどれにも手をかけることなく翁面は跳び、三方から殺到してきた野狗子の牙に空を裂かせると、その内の一匹の頭を片足で踏んだ。

 ぐちゃり、と野狗子の頭が潰れた。弾け飛んだ野狗子の頭の中身が、地面の上に大倫の赤い華を描いた。劉縯は目の前の光景を呆然と見つめた。ひらりと翁面が袖を舞わせるたびに、野狗子が潰され、抉られ、引き裂かれ、赤い血肉が花吹雪のように飛散した。この世の光景とは思えない、その白と赤の幻想的な乱舞に、劉縯は圧倒され、心を奪われた。

 十も数えない間に、野狗子の数が半分に減じた。彼我の力の差を理解したのか、ほうほうと悲鳴を残して野狗子が散り散りに逃げ始めた。翁面はどこからか白布を取り出し、血で汚れた右手を拭き清めながら、有翼鹿身の一角獣に命じた。

「殺せ。一匹とて残すな」

 一角獣が翼を広げ、羽ばたかせた。豹紋の体が浮き上がり、羽音が夜の空に消えた。翁面は膝を屈め、血で汚れた白布を野狗子の屍の口へ押し込んだ。再び立ち上がりながら、右手を左腰の剣にかけた。

「さて、定命の者よ、いつまで盗み見ているつもりだ?」

 すらり、と翁面の左腰の剣が抜かれた。劉縯は息を呑んだ。鞘から抜かれた剣身が白い光を発していた。光を発しているというより、剣身そのものが白い光で出来ていた。

「今宵、汝は野狗子どもに殺されるはずだった。今、予は汝を殺すはずだった野狗子を殺したが、それで死から逃れられたと思っているのなら、間違いだ」

 劉縯を隠していた袋が切り裂かれた。呆然としている劉縯の眼前に、光剣の剣尖が突きつけられた。劉縯の顔が白い光に照らされた。

「…………む?」

 翁面が首を傾げた。

「どういうことだ? 汝の顔には死相が出ていない。まさか、汝は予に助けられる運命にあったというのか? 定命の者が、尊星王スドリスティの眷属に」

 風が翁面の衣を揺らした。有翼鹿身の一角獣が翁面の背後に降り立ち、青い翼を折り畳んだ。翁面は一角獣を振り返りながら光剣を一閃させた。劉縯の手足を縛めていた縄が、光剣に断たれてばらりと解けた。

「よもや、予が人を助けることになろうとはな。この世は奇怪なことだらけだ」

 翁面は光剣を鞘に納め、有翼鹿身の一角獣の背に手を置いた。ひらりと跳び、一角獣の背の上に腰かけた。一角獣が歩き始めた。暗闇に消える翁面と一角獣の影を、劉縯は呆然と見送った。影が闇に溶けて見えなくなると、夢から覚めたように我に返った。

 今、自分が見たものは、何だったのか。

 劉縯は体を起こしながら辺りを見回した。夜空から降る月光を受け、地上に撒き散らされた肉片がてらてらと煌めいていた。半ば麻痺していた五感が急速に戻り、強烈な異臭が鼻を衝いた。ほう、ほう、と梟が鳴く声がどこからか聞こえた。犬頭人身の怪物の梟に似た声を思い出した。近くの屍が握りしめていた剣を奪い、横倒しの荷馬車の陰に身を隠した。剣を抱きしめて恐怖に震えていると、不意に青銅の翁面の言葉を思い出した。

 腐肉を漁る野犬が、その性に背いて人を狩る。

 劉縯は荷馬車の陰から転び出た。あの野狗子とかいう犬頭人身の怪物が、本来は死骸を餌とする獣であるのなら、死臭に惹かれて再び荷馬車の車輪の上に現れるかも知れない。もし再び野狗子に遭遇したら、今度こそ助からない。

 劉縯は駆けた。血の臭いから一秒でも早く離れるために、全力で暗闇を駆けた。ほう、ほう、と梟が鳴く声が聞こえた。背後の暗闇で鳴いているような気がした。何かに躓き、転んだ。すぐに跳ね起き、駆け出した。ほう、ほう、と梟が鳴く声が聞こえたような気がした。息が切れ、血が噴き出そうなほどに喉が痛んだ。声にならない声で、誰か、と叫んだ。声にならない声で、誰か、と繰り返した。

 誰か、おれを見つけてくれ。おれを、一人にしないでくれ。

 闇雲に走る内に、森の奥へ迷い込んだ。森の樹の根に足を取られて転んだ。転んだ拍子に手から剣が飛んだ。地面に這い蹲り、剣を探した。間もなく剣を見つけた。飛びつくようにして剣を掴んだ。

 笛の音が聞こえた。

 劉縯は咄嗟に地面に伏せた。月明かりを頼りに音の方へ目を凝らした。樹々の影の向こうに小さな沼が見えた。小さな沼の畔に、小さな白い背中が見えた。

 頭上で別の笛の音がした。劉縯は反射的に笛の音を見上げ、ぎょっとして体を固まらせた。身長七寸(約十六センチ)ほどの小人が、枝に腰かけて卵形の陶笛オカリナを口に当て、白い背中の方から聞こえる笛に合わせて音を鳴らしていた。小人は別の枝の上にも次々と現れ、ある者は手で鼓を打ち、ある者は竪琴を掻き鳴らし、劉縯が聞いたこともない音楽を奏でた。

 小さな白い背中が、口から卵形の陶笛を離した。青銅の翁面を着け直し、近くの大きな石の上に腰を下ろした。小人が樹上から姿を消した。少しの間、静寂が続いた。月が雲に隠れ、また現れた。不意に沼の水が揺らめいた。沼の中心に波紋が生じ、琴の音のようなものが辺りに響き始めた。再び樹や藪の陰から小人たちが列を成して現れ、琴の調べに耳を傾けているらしい翁面の前に酒器を並べた。二つの杯に、翁面は目を留めた。数秒の間を置き、森の方へ顔を向けた。

「出ておいで、孺子ぼうや

 びくりと劉縯は肩を震わせた。警戒して藪の中で息を潜めていると、翁面は酒壺の蓋を開け、二つの杯に杓子で酒を注ぎ入れた。

「この森の藻居そうきょたちが――」

 藻居、とは小人の姿をした山川の妖精のことである。漢帝国の第七代皇帝である孝武皇帝の時代に、帝都の宮城に現れて皇帝に森の保護を訴え、それが聞き入れられると音楽を演奏して感謝したと伝えられている。

「――孺子を予の連れだと誤解したようだ。せっかくだから、孺子も飲んでいくとよい」

 翁面は口を覆う白髭を手で掻き分け、生じた隙間に杯を差し入れて傾けた。劉縯は躊躇したが、意を決して体を起こした。翁面に近づき、土の上に腰を下ろした。剣を置き、杯を掴んだ。杯の中身を一息に飲み乾した。

「悲しげな曲だな」

 口の端から零れた酒の雫を、ぐいと劉縯は拳で拭った。翁面は自らの杯を置いた。

「予は酒を飲めと言った。共に琴を聴けとは言っていない」

 翁面の白い手が杓子を掴んだ。壺の中の酒を掬い、劉縯へ突き出した。

「飲め。この曲は、予のためだけに作られたものだ。孺子にはわからない」

 再び劉縯の杯が酒で満たされた。劉縯はまた一息で乾した。三杯目の酒が静かに注がれた。劉縯は目を瞑り、杯を乾した。

「執金吾に、なりたかった」

 酒精が混じった息を、劉縯は吐き出した。

「執金吾は、大漢帝国の男子の憧れだ。都を騒がす賊に恐れられ、良民に頼られている。着ている甲冑も格好よい。何より、高貴な使命がある。皇帝が御座す都の治安を守る。その使命を担うことに過ぎる名誉は、そうあるもんじゃない。だから、おれは執金吾を目指した」

 そこまで言ってから、劉縯は気づいた。自分は初対面の、それも音楽を観賞している相手に、急に何を語り出しているのか。

「構わない。続けろ」

 四杯目の酒が劉縯の杯に注がれた。劉縯は酒杯を呷り、大きな目をした儒学者から書物を譲られたことを語った。夢を抱いて帝都の太学へ進学したことを語った。その夢が父の死で絶たれたことを語った。

「続けろ」

 五杯目の酒が注がれた。劉縯は酒杯を呷り、農事に失敗したことを語った。その補填のために豪族の汚れ仕事に手を出したことを語った。貧しい農民から土地を奪い、母子を暴力で引き離し、泣いている娘に売春を強いたことを語った。母や弟を殴り、ついには二歳の妹にまで手を上げようとして、家を追い出されたことを語った。

 どこからか聞こえていた琴の音が、余韻を残して消えた。翁面が杓子を置いた。立ち上がり、沼の水に近づいた。足を止め、膝を屈め、指先で沼の水に触れた。

「見事だ。これよりも美しい音楽を聴くことは、決してあるまい。汝の琴を聴くたびに、予はそう思う。次に聴いた時も、次の次に聴いた時も、多分、そう思うのだろうな」

 有翼鹿身の一角獣が翁面に近づいた。翁面は膝を伸ばして立ち上がり、一角獣の背に手を置いた。ひらりと跳んで一角獣の背に腰かけた。

 劉縯の手から杯が落ちた。

 落ちて倒れた杯から、酒が零れた。酒で濡れた地面を蹴り、劉縯は駆け出た。有翼鹿身の一角獣の前に滑り込み、地に両膝をついた。一角獣が威嚇するように翼を広げ、角の尖端を劉縯へ向けた。翁面が片手を上げて一角獣を制し、劉縯を見下ろした。

「どうしたのかな、孺子?」

「おれを――」

 劉縯は両手を揖礼の形に組んだ。

「おれを、あんたの弟子にしてくれ」

 劉縯は自らの額を地面に叩きつけた。どん、と鈍く響いた音に驚き、藻居たちが石や草の陰に隠れた。もう一度、劉縯は額を地面に強く叩きつけた。

「おれを、あんたのように強くしてくれ。今のおれは、屑だ。屑のままで、いたくない」

 また劉縯は額を地面に叩きつけた。土が飛び、額が切れ、血が流れ出た。

「おれは、強くなりたい。おれは――」

 流れ出た血が、ぽたぽたと地面に滴り落ちた。

「――この血に恥じない男になりたい」

 劉縯は叩頭――最上級の懇願を示す作法を繰り返した。鈍い音が何度も響き、抉れた地面に血が染み込んだ。その痛々しい様に、藻居たちが顔を背けた。

 翁面が、何かに気づいたように沼の方へ顔を向けた。

「珍しいな。汝が音楽以外のことに興味を示すとは」

 翁面が何者かに話しかけた。劉縯は反射的に翁面が話しかけている方を見た。そこには誰もいなかったが、劉縯は違和感を覚えた。なぜ違和感を覚えたのか、劉縯はすぐに気づいた。

 沼には誰もいないのに、沼の水に子供らしき影が映り込んでいた。

 少しの間、翁面は沼の水に映る影に顔を向け続けた。風が走り、梢が鳴り、沼の水に映る影が揺れた。風が去り、梢が鳴る音も彼方へ消えると、翁面は改めて劉縯を見た。

「孺子、名は?」

「姓は劉、名は縯、字は伯升」

「予は、生まれた時から強かった。力は人に過ぎ、どれほど獰猛な獣であろうと、白手で狩ることが出来た。予の強さは天から与えられたもので、己の努力で得たものではない。それでも、劉伯升は予に教えを乞うのか?」

「教えられることが一つでもあるのなら、教えてくれ。あんたのようにはなれないとしても、せめて、今のおれよりは強くなりたい」

「今より強く、か。男の子だな」

 くすくすと翁面は笑声を零した。その声を聞いて、劉縯は今更ながら、こいつは何者なのか、と考えた。自らをおれわたしではなく、王侯のように予と呼んでいる。何となく成人男性だと思い込んでいたが、よく見ると背丈は小さい。声は威厳に満ちているが、少年のそれのように聞こえる。そして、くすくすと笑う声は、まるで少女のように可愛らしい。

「予は人を捜して旅をしている」

 翁面が笑いを収めた。

「劉伯升は二千石の家のために働いている。予は自らの旅を一日とて中断するつもりはないし、汝も家を離れて予についてくることは出来まい。予と汝が共に過ごせる時間は極めて少なく、教えられることは限られている。それでも、劉伯升は予に教えを乞うのか?」

「それでも、おれは、あんたから学びたい」

「なぜだ?」

「それは――」

 劉縯は返答に窮した。翁面が言う通り、劉縯に時間を割けない翁面は師に適しているとは言えない。それなのに、なぜ自分は、それでも、と思うのか。理性を超えて自分を急き立てる、この焦りにも似たものは何なのか。

「それは――」

 劉縯は懸命に答えを探した。自分と翁面を納得させられる言葉を懸命に探した。不意に天啓のように言葉が閃いた。その言葉を、劉縯は藁を掴む思いで叫んだ。

「運命だ。それが、おれの運命だからだ」

「…………運命?」

 翁面が不思議そうに繰り返した。劉縯は急に恥ずかしさを覚えた。突拍子もない言葉を口にした、と思った。笑われるに違いない、と覚悟した。しかし、翁面は笑わず、星空を仰いだ。

「なるほど。運命。運命か。予が劉伯升を見つけ、劉伯升が予を見つけたのは、そういうことなのかも知れない」

 翁面は得心したように頷いた。沼の水に映る子供の影が僅かに揺れ動いた。翁面は劉縯へ目を戻した。

「劉伯升、それを構えろ」

 劉縯が地面に置いた剣を、翁面は指した。劉縯は身を起こして剣へ走り寄り、剣を手に翁面の前へ戻ると、剣を構えた。

「振れ」

 言われた通り、劉縯は剣を振り上げ、振り下ろした。翁面は劉縯の姿勢の悪さを注意した。

「腕と肩だけで剣を振るな。足腰を動かし、剣に体重を乗せろ。振り終えたら、すぐに剣を戻せ。構え直すまでが一回だ」

 劉縯は言われた通りに剣を振り続けた。劉縯の姿勢がそれなりに様になると、翁面は顔の前へ左手を上げた。風が吹き、半透明の小鳥のようなものが飛んできた。小鳥のようなものが翁面の指に止まり、風が止んだ。

「旅の途中で南陽に立ち寄ることがあれば、これに伝えさせる。次に会う時までに、左右の手で日に五百度ずつ、合わせて千度は剣を振れるようになれ」

 小鳥のようなものが翁面の指から飛び、また風が吹いた。

 次の日から、劉縯は修練を始めた。舂陵の豪傑として生活しながら、深夜に集落の外へ出て剣を振った。最初は二百回も振らない内に腕が上がらなくなり、体を休めている間に夜が明けた。もっと早く振らなければ、と思ったが、早く振れば早く疲れるため、一夜に振る回数は伸びなかった。やがて季節が変わった。だんだんと気持ちが冷めてきた。こんなことを続けて本当に強くなれるのか、と疑い、怠けるようになった。

 小鳥のようなものが初めて劉縯の許を訪れたのは、そのような時であった。劉縯は新しい教えを求めて例の沼へ向かった。沼の畔では前のように翁面が琴の演奏を聴いていた。翁面は酒杯を含みながら、劉縯に肩越しに訊ねた。

「日に千度、振れるようになったか?」

「勿論だ。千回どころか、二千回だって振り回せる」

「それにしては、綺麗な指をしているな」

 翁面は酒杯を乾した。劉縯は反射的に両手を体の後ろに隠した。直後、自分が何をしたのかに気づいた。自分がどれほど恥ずべき人間に成り果てたか、足が震えるほどに痛感した。情けなさで胸が一杯になり、翁面の前から逃げるように走り出した。走りながら何度も声を上げた。何かに躓いて転んだ。転んだ拍子に小石で額を切り、流れ出た血が地面に滴り落ちた。この血に恥じない男になりたい、という自分の言葉を思い出した。目から涙が溢れ出た。土を強く握りしめた。肺腑から声を噴き上げながら、何度も地面を叩いた。半透明の小鳥のようなものが、後ろから追い抜くように劉縯の上を飛んだ。

 劉縯は修練を再開した。毎夜、剣を振り続けた。手に肉刺が出来ては潰れた。一晩に三百回、四百回と振れるようになった。掌の皮が分厚くなった。母に会い、家族に迷惑をかけないために離れて暮らすことを告げた。五百回、六百回と振れるようになった。叔父に引き取られて沛郡で暮らしていた劉秀が、南陽郡へ戻ってきた。会いに行ったが、叔父に追い返された。七百回、八百回と振れるようになった。初めて舂陵侯の指示に背いた。叱責されたが、道理に反したことはしていない、という自信があった。堂々と顔を上げて舂陵侯を睨みつけた。舂陵侯は睨み返せずに目を逸らした。結局、具体的な処分が劉縯に下されることはなかった。

 季節が変わり、再び小鳥のようなものが訪れた。深夜に沼へ行くと、翁面に問われた。

「日に千度、振れるようになったか?」

 劉縯は直接には答えず、沼の方を向いて剣を構えた。一つ、二つ、と声に出して数えながら剣を振った。十、二十、三十、と剣を振った。百、百五十、二百、と剣を振った。三百、四百、と剣を振った。

「四百九十六、四百九十七、四百九十八、四百九十九、五百」

 劉縯は剣を右手から左手に持ち替えた。五百一、五百二、と数えながら剣を振った。五百十、五百二十、五百三十、と剣を振った。六百、六百五十、七百、と剣を振った。いつの間にか、周りの樹や草の陰に藻居の子供たちが現れ、剣の動きに合わせて首を上下に振りながら、劉縯と共に数を数えていた。七百五十、八百、八百五十、と剣を振った。

「八百九十六、八百九十七、八百九十八、八百九十九、九百」

 劉縯が九百回目を振り下ろした時、足腰が動いていない、と翁面が注意した。劉縯は九百回目を振り直した。九百十、九百二十、九百三十、と剣を振った。九百四十、九百五十、九百六十、と剣を振った。九百七十、九百八十、九百九十、と剣を振った。

「九百九十一、九百九十二、九百九十三、九百九十四、九百九十五、九百九十六、九百九十七、九百九十八、九百九十九――」

 劉縯は息を深く吸い、一際に高く剣を振り上げた。

「――千」

 劉縯は剣を振り下ろした。剣の尖端が地面を浅く掻いた。剣を上げ、構え直した。空は暗く、多くの星が瞬いていた。汗ばんだ肌を夜風が心地よく冷ました。翁面の手が杯を持ち上げた。

「飲め」

 杯が劉縯の方へ差し出された。劉縯は剣を下ろし、翁面へ近づいた。杯を受け取り、腰を下ろした。片手を後ろについて星空を仰ぎ、乱れている呼吸を整えた。冷たい夜気が汗ばんだ肌を心地よく冷ました。乱れていた呼吸が少し落ち着いた。

「おれは、本当に、千度、振ったのか?」

 息をつく合間に、劉縯は翁面に訊ねた。自らの杯に杓子で酒を注ぎながら、翁面は頷いた。

「振った」

「本当か? どこかで百回くらい数え間違えてなかったか?」

「数え間違えていたか?」

 劉縯と共に数えていた藻居の子供たちに、翁面は訊ねた。子供たちは首を横に振った。

「そうか。おれは、振れたのか」

 劉縯は安堵した。琴の音が沼の中心から響き始めた。藻居の子供たちが樹や草の陰から駆け出て、沼の岸辺に腰を下ろした。成人の藻居も姿を現し、思い思いの場所で琴の音に耳を傾け始めた。劉縯は顔を沼の方へ向け直した。

「これは、あんたと初めて会った時と、同じ曲か?」

「同じ曲だな」

 翁面が答えた。劉縯は首を傾げた。

「妙だな。前に聴いた時は、とても悲しげな曲だったのに、今は、その、違ったように聴こえる」

「どのように違って聴こえる?」

「何というか、とても優しい曲のような気がする」

「そうか」

 翁面は手中の杯を視線を落とした。

「汝も、少しは音楽がわかるようになったな」

 杯の縁を指で撫でながら、翁面は嬉しそうに声を微笑ませた。その白髭の老翁の仮面の向こうに、美しい少女の笑顔を見た気がして、劉縯は少しの間、翁面を見つめた。
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 満州国は、日本が作った対ソ連の干渉となる国であった。 未開の不毛の地であった。 無法の馬賊どもが闊歩する草原が広がる地だ。 そこに、農業開発開墾団が入植してくる。 とうぜん、馬賊と激しい勢力争いとなる。 馬賊は機動性を武器に、なかなか殲滅できなかった。 それで、入植者保護のため満州政府が宗主国である日本国へ馬賊討伐を要請したのである。 それに答えたのが馬賊専門の討伐飛行隊である。 

剣客逓信 ―明治剣戟郵便録―

三條すずしろ
歴史・時代
【第9回歴史・時代小説大賞:痛快! エンタメ剣客賞受賞】 明治6年、警察より早くピストルを装備したのは郵便配達員だった――。 維新の動乱で届くことのなかった手紙や小包。そんな残された思いを配達する「御留郵便御用」の若者と老剣士が、時に不穏な明治の初めをひた走る。 密書や金品を狙う賊を退け大切なものを届ける特命郵便配達人、通称「剣客逓信(けんかくていしん)」。 武装する必要があるほど危険にさらされた初期の郵便時代、二人はやがてさらに大きな動乱に巻き込まれ――。 ※エブリスタでも連載中

大陰史記〜出雲国譲りの真相〜

桜小径
歴史・時代
古事記、日本書紀、各国風土記などに遺された神話と魏志倭人伝などの中国史書の記述をもとに邪馬台国、古代出雲、古代倭(ヤマト)の国譲りを描く。予定。序章からお読みくださいませ

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