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第二章 南陽の兄弟

第十話

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 四年ぶりに劉秀は生家へ足を踏み入れた。隣に立つ劉縯が、仲、仲、と弟の劉仲を呼んだ。劉秀の次兄の劉仲が建物の奥から出てきた。兄、劉縯の隣に立つ少年が、弟の劉秀であることに、劉仲は一目で気づいた。劉秀に駆け寄り、劉秀の肩を掴み、手を掴み、懐かしげに目を細めて微笑んだ。慌てた様子で建物の奥を振り返り、母上、母上、と母を呼んだ。

 祖霊が祀られた祭壇の前へ、劉秀は通された。母と兄たちに見守られながら、劉秀は祭壇に跪き、父の霊に帰宅を報告した。亡父への拝礼を終えると、改めて母に挨拶し、生家に滞在する間の費用として、叔父と外祖父に与えられた銅貨を母に渡そうとした。袖が広く動きにくい長衣から、袖が細く動きやすい短衣に着替えた劉縯が、どん、と拳で床を叩いた。

「秀、おまえは、この家の男だ。他人ではないんだぞ。宿代なんか払うな」

「しかし――」

「縯の言う通りです」

 劉秀の母、樊嫺都かんとの手が、紐に通された銅貨の塊を掴んだ。

「これは、あなたが本当に必要な時に使いなさい」

 嫺都は劉秀の手を取り、銅貨を握らせた。話が一段落したと見て、劉仲が自らの背後を顧みた。

「さあ、伯姫。伯姫の三番目の兄さんだよ。挨拶するんだ」

 背中に隠れている五歳の妹に、劉仲は挨拶を促した。しかし、伯姫は劉仲の後ろから出ようとせず、劉仲が伯姫の袖を掴んで引き出そうとすると、がぶりと劉仲の指に噛みついた。こら、と長兄の劉縯が拳骨を振り上げた。劉仲は噛まれていない方の手を上げて兄を止めた。

「わたしなら平気です。秀、すまないな。見ての通り、元気すぎて困るくらいに元気な子で、男の子を泣かせたりすることも多いんだが、よく知らない人の……あ、いや、あれだよ。秀が美丈夫だから、前に出るのが恥ずかしいんだな」

「気にしないでください」

 劉秀は寂しげに微笑んだ。

「僕が叔父上に引き取られて家を出た時、伯姫は生まれて半年にもなりませんでした。僕のことを、憶えているはずが――」

「秀」

 母、樊嫺都が口を挿んだ。伯姫が産まれた時のことを憶えているか、嫺都は劉秀に訊ねた。劉秀は頷いた。

「勿論です。伯姫は――」

 妹が産まれた時の情景を、劉秀は脳裏に思い起こした。

「――伯姫は、泣かない子でした。産まれた、という産婆さんの声は聞こえたのに、産まれた伯姫が泣く声は聞こえませんでした。産室から出てきた人たちに、産まれた子は無事なのか、死んではいないかと、兄上たちが訊ねていました」

 産まれた子は無事なのか、と劉縯と劉仲から問われた助産婦は、こういうことはよくあるんだよ、と言い、泣きながら二人を抱きしめた。嘘だ、と劉縯が喚いた。当時の劉秀は何が嘘なのか理解できず、初めての弟、もしくは妹の姿を無邪気に求め、産室の中を覗いた。産室の中では、身を横たえている嫺都が、一度だけでも抱かせてほしい、と助産婦に手を伸ばしていた。助産婦は数秒、躊躇した後、抱えていたものを嫺都に抱かせた。

「その時、伯姫が泣きました。伯姫が泣く声を聞いて――」

 伯姫が泣く声を聞いて、兄たちも泣いていた。

「――……よい兄にならなければ、と思いました。兄上たちのような、よい兄にならなければといけないと、思いました」

「その気持ちは、今も変わりませんか?」

「はい」

「ならば、今から努めなさい」

 酒、雑穀、魚等が供えられた祭壇へ、嫺都は顔を向けた。

「よい兄に、おなりなさい。地に樹や草が生えるのは、天が雨を降らせればこそ。あなたがよい兄になり、よい兄が弟妹にすべきことを伯姫にしてやれば、樹が地から天へと伸びるように、あなたを自ずから慕うようになるでしょう」

「もう、遅くはないでしょうか?」

「高祖は齢三十九で兵を挙げ、大漢帝国を興されました。あなたは齢十三。何を始めるにしても、遅いということはありません」

 雲が屋根の上を往き、陽が西に沈んだ。劉秀は四年ぶりに家族と食事を共にした。蒸した米、焼いた魚、豚肉とダイコンと豆の葉の羹などが、各々の膳の上に並んだ。ふと劉秀が横を見ると、次兄の劉仲が伯姫のために魚の骨を取り除いていた。魚の骨を取り除く役を譲るよう、劉秀は劉仲に頼み込んだ。劉仲は劉秀の思いを酌んで快諾し、伯姫の魚が劉秀の膳に置かれた。劉秀は意気揚々と骨を抜き始めたが、一本抜き、二本抜く内に、魚の身がぼろぼろに崩れた。獺が食い散らかしたかのような魚が、伯姫の膳に置かれた。自分の魚を見つめる伯姫の眉間に、子供らしくない縦皺が深く深く刻まれた。

 食事が半ばを過ぎた頃、劉秀が樊重から陰氏との縁談を押しつけられたことを、劉縯が母と弟に明かした。驚く母と次兄に、劉秀は微笑んでみせた。

「単なる座興ですよ。本気で仰せになったわけではないでしょう」

「本気も本気だよ。そうでなければ、わざわざ湖陽から出てくるものか」

 豚の脂が浮いた羹の煮汁を、劉縯は器に口をつけてぐいと飲み乾した。でも、と劉秀は穏やかに反論を試みた。

「陰氏は、せい管仲かんちゅうの末裔であると聞いています」

 管仲、とは春秋時代の五大覇者の一人に仕えた人物で、衣食足りて礼節を知る、という不朽の名言を残した為政者である。

「莫大な資産を有し、且つ管仲以来の名家である陰氏が、どうして僕などに愛娘を嫁がせたりするでしょうか」

「名家というなら、我が家は長沙定王の裔。それも太守や都尉を輩出した二千石の家だ。家格では、我が家の方が遥かに優る」

「その通りです」

 嫺都が頷いた。

「もし父上が――」

 この父上とは嫺都の父の樊重ではなく、劉秀らの亡父のことである。

「――生きておられたならば、今頃は二千石に昇進されていたでしょう。湖陽の樊太公がわたしを嫁がせたのも、また新野の鄧氏があなたの姉上を嫁に望んだのも、偏に長沙定王の血筋と二千石の家格を敬えばこそです」

 噂では、陰氏は次代当主の陰識に儒学を学ばせており、いずれは帝都へ遊学させ、帝国政府に仕官させるつもりであるという。陰氏は南陽郡屈指の大豪族ではあるが、一族から高名な文化人や高官を出したことはなく、その家格は決して高くはない。陰氏が陰識に英才教育を施しているのは、一族から帝国政府の高官、乃至は高名な文化人を出すことで家格を上げるためであり、また陰氏の家長の陰陸が鄧晨の姪を後妻に迎えたのも、新野県の名門である鄧氏の名声に肖りたいと考えているからであろう。

「家格を上げることを望んでいる陰氏が、この縁談を断ることはないでしょう。むしろ、樊太公が提案されなければ、陰氏の側から求めてきたのではないでしょうか」

「つまり、樊太公は陰氏に先んじたということですか」

 なるほど、と劉秀は頷いた。先に話を切り出すことで主導権を握り、且つ陰氏に恩を売りつける。一代で巨財を築いた外祖父の判断に、劉秀は感服したが、それを見て劉縯が膳を叩いた。

「感心している場合か。秀、おまえは本当にそれでいいのか?」

「よいも悪いも、僕なんかには過ぎた話だと――」

「何が過ぎた話だ!」

 劉縯は再び膳を叩いた。膳の上の食器が跳ね、箸が床の上に転がり落ちた。

「秀、おまえは、おれや仲とは違う。うんと勉強すれば、千石、二千石にもなれる男だ。万石も目指せる男だ。だから、おまえは自分の将来のためになるところから嫁を迎えるべきだ。あの竈憑きの娘なんかと結婚しても、将来のためにはならない」

 市井の伝聞によれば、陰氏は竈神を祭ることで財運と得たとされており、そのために陰氏は竈憑き――竈神に憑かれている家、と裏では呼ばれている。竈神は決して悪神ではなく、一般の家庭でも祀られている家内安全の神であるが、鬼神は敬して遠ざく、すなわち神秘思想に深入りするなという儒学の教えを受けた者の中には、陰氏を敬遠している者が少なくない。現在の帝国政府は儒学を重視し、その教義の普及に力を入れており、もし劉秀が陰氏の娘と結婚すれば、将来の立身の妨げになる可能性がある。

「おれが樊太公を説得する。あの爺さんも、おまえの将来を閉ざしたくはないはずだ。だから、考え直せ」

「まあまあ、兄上」

 劉秀に翻意を迫る劉縯を、劉仲が手を上げて宥めた。

「そう急がずとも、秀は十三歳、陰氏の娘は三歳です。如何に樊太公が性急でも、明日にも婚礼を、というわけにはいきますまい。難しい話はそれくらいにして、今は――」

「暢気すぎるぞ、仲。あの樊太公が、時が過ぎるのを大人しく待つものか。時が経てば経つほど、あちこちに根回しされて断りづらくなるに違いない」

「そう思うのであれば――」

 羹で汚れた伯姫の口の周りを、清潔な布で拭いながら、嫺都が口を開いた。

「――どうして、その場で断らなかったのです。あなたもそこに居合わせていたのでしょう?」

「いや、それは、その――」

「樊太公が怖いのですか?」

「いや、怖いということはありませんが」

「秀」

 娘の顔を拭き終えた布を、嫺都は膝の上で小さく折り畳み、自らの膳の端に置いた。

「あなたの将来は、この家の浮沈にも少なからず関わることです。そのことを肝に銘じ、改めて熟慮した上で、陰氏との縁談を受けるか否か、お決めなさい。もし――」

 嫺都は劉縯の方へ顔を向けた。

「――秀が陰氏との縁談を断ると決めた時は、この母が樊太公と話します。それでよいですね、縯」

 劉縯は顔を俯かせた。縯、と嫺都は劉縯に返事を促した。

 突然、劉縯の両手が膳を掴んだ。膳が斜めになり、がらがらと膳の上の食器が床に落ちた。劉秀は身を竦ませた。劉仲が自らの膳を越えて前へ跳び出し、己の体で母と妹を庇った。ぴんと張り詰めた数秒間が過ぎた。劉縯は己を落ち着かせるように深く息を吐き、翻しかけた膳を静かに戻した。

「申しわけありません、母上。今日は、これで帰ります」

「今夜は泊まりなさい。郷の門は、もう閉められています」

「帰ります」

 劉縯は立ち上がり、母に一礼して部屋を出た。足音が部屋から遠ざかり、やがて表の門が開き、閉まる音がした。ふう、と劉仲が大きく息を吐き出し、蒼褪めている劉秀に笑いかけた。

「秀、すまないな。この四年の間に、兄上は、その、少し気が短くなられてな」

「帰る、と言われていましたが」

「兄上は、他所に家を借りて、そこに住んでおられる」

「なぜですか?」

「それは、その、何というか」

 劉仲は視線を左右に彷徨わせた。劉秀は自分の膳を横に押し退け、姿勢を正して胸の前で両手を重ね合わせた。

「教えてください。兄上は、確かに少し乱暴なところはありましたが、あのように軽々しく暴力を振るう人ではなかったはずです。僕がいない四年の間に、一体、何があったのですか?」

 秋の夜風が屋根の上を過ぎ、集落の通りを吹き抜けた。集落の門番が数度、風の冷たさに肩を震わせ、夜空に浮かぶ月を仰いだ。目を地上へ戻した時、門へ近づいてくる影を見つけた。腰の剣に手をかけ、そこにいるのは誰だ、と声を発した。劉伯升だ、と劉縯の声が答えた。門を開けろ、と劉縯が言うと、門番は劉縯に背を向け、咳払いをして声を整えた。こけこっこー、と雄鶏の鳴き真似をしてから、雄鶏が時を告げるまで開けてはいけない門を開けた。腕を上げたな、と劉縯は門番の肩を叩いて門を過ぎ、隣の集落を目指して歩いた。隣の集落の門も既に閉じられていたが、劉縯が姓と字を名乗ると、先程よりも幾分か下手な雄鶏の鳴き真似の後、門が開けられた。劉縯は借家に帰り着いた。帰り着くなり、壁を思い切り殴りつけた。同居している不良少年たちが、何事かと驚いて部屋から出てきた。何でもない、と劉縯は不良少年たちを部屋へ戻し、自室の寝台の上に腰を下ろした。

 家族の前で暴力を振るいかけたことを、強く悔いた。

 陰氏の娘との婚姻を許せば、劉秀を南陽郡の豪族社会に閉じ込めることになる。そうさせてはならない、劉秀は更に上を目指すべきだと考えたから、劉秀を説得した。しかし、思い通りにならず、腹を立てた。

 叔父が劉秀を帰したがらないはずだ、と劉縯は項垂れた。自らの気の短さを、改めて嫌悪した。息を吐いて窓の方へ目をやると、月の光が部屋の中に射し込んでいた。月光に淡く照らされた床の上で、小さな鳥に似たものが二つ、旋風を巻くように動いていた。劉縯は目を見開き、寝台の上から腰を上げた。
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