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第二章 南陽の兄弟
第七話
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兄、劉縯の名を耳にして、劉秀は顔を上げた。布靴を履かずに床に下り、そろりそろりと壁に近づき、壁の向こう側へ聞き耳を立てた。
「どんな話かは知らないが、こちらへは持ち込まないでくれ」
また叔父の声が聞こえた。叔父の声に続いて、客人と思しき声が聞こえた。客人は地に額を擦りつけているような声で、謝礼は払う、この書簡と袋を劉縯に渡してくれるだけでよい、と劉良に懇願した。
「渡すだけでよいのなら、自分で縯に渡せばよかろう」
そんなことをしたら殺されてしまう、と客人は悲鳴を上げた。しばらくの間、劉良と客人の間で押し問答が続いた。劉良は懸命に客人を追い返そうとしたが、客人は謝礼の増額に泣き落とし――自分には老いた母がいて、自分が死んだら面倒を看る者がいないのだ、ということを涙ながらに語るなど、必死に食い下がった。
「わかった。わかったよ」
ついに劉良が根負けした。劉秀は猫のように足音を忍ばせて自分の席へ戻り、乾きかけていた毛筆に墨汁を含ませた。
「全く、あのごろつきめ。今度は何をしでかしたのやら」
劉良が戻ってきた。受け取らされた書簡と袋を自らの文机の上に置くと、布靴を脱いで敷き物の上に座り、眉間に皺を寄せて深く息をついた。
「先程の話、聞こえていたか?」
中庭へ目を向けながら、劉良は劉秀に訊ねた。劉良の住居は、漢帝国の標準的な建築様式である中庭式住居――敷地の中心に中庭を設け、中庭の四方を家屋で囲んだ形式の住居で、中庭では劉良の幼い息子が玩具の弓矢で遊んでいる。
劉秀は筆を置き、不機嫌そうに外を見ている叔父を見た。
「兄の名は聞こえましたが」
「縯が、また何かやらかしたようだ。あの舂陵劉氏の面汚しめ」
劉良は忌々しげに吐き捨てた。劉秀は顔を俯かせた。劉良は甥の表情に気づき、少し気まずげに咳払いをした。
「……そういえば、おまえを養い始めて四年近くになるが、おまえを生家へ帰らせたことは一度もないな」
少しの間、劉良は考え込んだ。玩具の弓の弦音が中庭で響いた。劉良は上を向いて息をついた。
「よい機会、なのかも知れんな。秀、この書簡と袋を、おまえの生家へ届けてくれ」
「わかりました」
劉秀は席を立ち、叔父の文机に近づいた。書簡と袋を受け取り、叔父に一礼した。
「すぐに発ちます」
「今から出れば夜になる。明日にしなさい。それから――」
劉良は懐へ手を入れ、客人から謝礼として押しつけられた銅貨の塊を取り出した。
「――これをやる。向こうに十日ほど留まり、お母上に孝行しなさい」
「ありがとうございます。でも、この銭は――」
「受け取れ。銭は孝行の助けになる。それに、親子兄弟といえども、無銭で家に泊まろうとすれば、嫌な顔をされるものだ」
漢帝国の銅貨は重さ五銖(約三グラム)の円形で、中心に正方形の孔がある。その孔に紐を通して一つにまとめた銅貨の塊を、劉良は甥に握らせた。
「秀」
「はい」
「おまえは、おまえだ」
銅貨を握らせた劉秀の手を、劉良は自らの両手で包んだ。
「わたしは、おまえの父の弟だ。おまえの父のことを、目の前で悪く言われたら、わたしは心穏やかではいられない。だから、おまえの気持ちも少しは理解できるつもりだ。しかし、おまえは秀だ。縯ではない。縯のようになるべきでもない。おまえが縯のようになれば、お母上が悲しむ。お母上は、もう十分に悲しまれた。これ以上、お母上を悲しませるようなことは、してはならんぞ」
翌朝、劉秀は雄鶏が目を覚ますよりも早く起床した。顔を洗い、髪を結い上げて布で覆い、広袖の長衣に帯を締めた。斗篷状の外套を肩に羽織り、頭に頭巾を被り、叔父の妻に見送られて邸を出た。通りに人影は無く、民家から上がる炊煙の数も少なく、自らの足音がよく響いた。劉秀は集落の門の前まで行き、門番と朝の挨拶を交わして雄鶏の目覚めを待った。やがて雄鶏が鳴き、それを合図に門番が門を開けた。劉秀は集落を出て南へ進んだ。頭を垂れ始めた稲穂の間を抜け、用水路に架けられた丸木橋を渡り終えた時、地平から朝陽が顔を覗かせた。
劉秀の生家は、蔡陽県の行政区域内に点在する集落の一つにある。漢帝国の地方行政区の単位は、上から順に州、郡、県、郷、亭、里と定められているが、州は郡の行政を監察するために設けられた機構であり、実際に行政を担当しているのは郡である。郡は十から三十の県から成り、県は区域内の集落を管理する。県の下にある郷、亭、里とは、集落の規模に応じた呼称で、大規模な集落を郷、中規模な集落を亭、小規模な集落を里という。劉秀の生家がある集落は郷で、農業を主産業とする典型的な開拓村である。
陽が高くなり、稲穂の上を蜻蛉が飛び始めた。劉秀は生家へ通じる道を歩き続けた。道の左右の稲穂が雑木林に変わり、更に歩き続ける内に再び稲穂に変じた。小規模な集落が見えてきた。集落では、集落を守る土壁の補修が行われていた。棒と板で型枠を作り、そこに土を流し入れて杵で撞き固める人々の横を、劉秀は通りすぎた。太陽が南へ動いた。また小さな集落が見えてきた。葬儀の列が集落の門から出てきた。劉秀は白色の喪服の列に道を譲り、弔意を示すために左手を手前側にして揖礼した。喪主と思しき男が劉秀に会釈して通りすぎた。
太陽が中天に達した。劉秀の生家がある集落が見えてきた。集落の門に近づくと、知らない顔の門番がいた。門番に挨拶して集落に入り、左右を民家に挟まれた道を歩いた。見覚えがある顔の老人が、日当たりが良い場所に筵を敷いて籠を編んでいた。子供たちが虫籠を手に広場へ集まり、虫を扱う商人に虫籠の中の蟋蟀を売り渡していた。学童たちが書物を朗読する声が聞こえてきた。
子曰く、天地の性、人を貴しと為す。人の行いは、孝より大なるは莫し。孝は父を厳ぶより大なるは莫し。父を厳ぶは天に配するより大なるは莫し。則ち周公は其の人なり。
「父子の道は天性なり。父母、之を生む。續くこと、焉より大なるは莫し。故に其の親を愛さずして他人を愛する者、之を徳に悖ると謂う。其の親を敬わずして他人を敬う者、之を礼に悖ると謂う」
学童たちの声に合わせて暗唱しながら、劉秀は初等学校の門の前を通りすぎた。
陽を建物に遮られた薄暗い道へ、劉秀は足を踏み入れた。微かな湿気と涼気を肌に感じながら歩いていると、傘状の車蓋が付いた二頭立ての二輪馬車が前方に現れ、劉秀の方へ進んできた。劉秀は車を避けるために小走りに道の端へ寄り、赤茶色の瓦が葺かれた民家の壁に背をつけた。馬蹄と車輪の響きが近づいてきた。目の前を馬が通りすぎ、車輪が通りすぎた。劉秀は民家の壁から離れ、再び歩き出した。
遠ざかりかけていた馬蹄と車輪の音が、不意に停止した。
「秀?」
劉秀の名を呼ぶ声が、後ろから聞こえた。劉秀は足を止めて振り向いた。男が馬車から身を乗り出し、劉秀を見ていた。
「やはり秀か!」
男が馬車の縁を跳び越え、地面に下りた。劉秀も気づいた。
「もしや、劉公であられますか?」
公、と劉秀は敬称で男に呼びかけた。男は劉秀へ走り寄りながら、く、と吹き出した。
「何が劉公だ。他人行儀な呼び方をするな」
男は劉秀の前で足を止め、劉秀を見つめた。
「久しぶりだな、秀。三年、いや、四年ぶりか。元気にしていたか?」
「はい」
劉秀は頭巾を脱いだ。
「兄上も、噂で聞いていた通り、健やかに過ごされているようで、秀はとても嬉しく思います」
目の前に立つ長兄の顔を、劉秀は見上げた。劉秀の長兄、劉縯は眉を顰めた。
「噂。噂か」
劉縯は二十三歳の若者に成長していた。大きな口、高い鼻筋、美しい眉を具え、七尺七寸(約百八十センチ)の堂々たる体躯を、大漢帝国の人士の正装である緩やかな長衣で包んでいた。
「以前、おまえに会うために何度か叔父上の邸を訪ねたが、門前払いされた。多分、悪い噂なんだろうな」
「そんなことは。叔父上は沛郡蕭県の県令でした。沛郡は高祖の故郷であるためか、若き日の高祖の真似をする無頼の輩が――」
「そうだ、高祖だ!」
劉縯は手を叩いた。
「蕭県といえば沛郡、沛郡といえば高祖だ。おまえは高祖の故郷に二年もいた。あの高祖の故郷に二年も! こいつめ、羨ましい、羨ましすぎるぞ」
劉縯は悪童のように笑むと、弟の首に右腕を回し、こいつめ、こいつめ、と弟の頭を左肘で小突いた。劉秀はこそばゆさに似たものを覚え、笑いながらじたばたした。
「それで、こちらへは、いつまでいられる?」
劉縯が右腕を緩めた。劉秀は兄の顔を仰ぎ見た。
「十日ほど時間をいただいています。そうだ、兄上、渡さなければいけないものが――」
「後で聞こう。実は、今から大切な用事があってな」
「ああ、だから――」
劉秀は改めて劉縯の服装を見た。劉縯は、広袖の緩やかな上衣を重ね着し、丈が長くて股が無い下衣を二重に穿き、結い上げた髷に箱状の小さな冠を被せていた。如何にも高雅な文人という装いであるが、劉秀は下を向き、く、と吹き出した。
「――そのように似合わない衣を着ておられるのですね」
「言いやがったな、こいつめ!」
くすくすと笑う弟の頭を、劉縯は再び、こいつめ、こいつめ、と肘で小突いた。
「そういうわけだから、家に戻って…………いや、待て」
劉縯は二秒ほど考えた。
「せっかくだから、おれと一緒に来い」
「え?」
「よい機会だ。おまえに、庠序の先生が――」
庠序、とは初等学校のことである。
「――教えてくれないことを教えてやる」
善は急げ、とばかりに劉縯は弟の腕を引いた。劉秀は困惑したが、劉縯は有無を言わさず弟の体を抱え上げ、馬車の後部に乗せた。
途次、劉秀は書簡と袋を届けに来たことを劉縯に伝えた。劉縯は弟から書簡を受け取ると、揺れる車上で文面に目を通した。
「何だ、あれか」
劉縯は舌打ちし、書簡を懐に捻じ込んだ。
「くだらない話さ。真面目だが、この辺りのことをよく知らない商人が、吏に賄賂を贈らずに市で商いをして、投獄された。その商人が、おれの弟分の親戚の恩人……いや、恩人の親戚だったか? とにかく、知り合いの知り合いだったから、おれが賄賂を立て替えて商人を獄から出させた。で、今頃になっておれが舂陵の劉伯升だとわかり――」
伯升、とは劉縯の字である。漢帝国の良家の人間は、男性の場合は成人の際に、女性の場合は婚約の際に、名とは別に通称をつける。この通称を字という。
「――吏が銭を返してきた。あの貪官汚吏め、返すなら自分で返しに来ればよいものを、おれと直に会う度胸も無かったらしい。おまえと叔父上には面倒をかけたな」
「迷惑だなんて、そのようなことは。お蔭で久しぶりに帰ることが出来ました」
返された銅貨が入れられた袋を兄に渡そうと、劉秀は懐に手を入れた。劉縯は遠くの雲へ目を向けた。
「その銭は、おまえにやる」
「え、でも――」
「おまえが叔父上になかなか帰郷させてもらえなかったのは、おれが舂陵の豪傑、劉伯升だからだ」
劉縯が言う豪傑とは、無法者や無頼漢の美称である。
「おまえには迷惑をかけた。その銭で許してくれ、なんて言うつもりはないが、まあ、受け取っておいてくれ」
劉縯らを乗せた馬車が集落の門を出た。馬車の後部に立ち乗りしている劉秀に、劉縯は傘状の車蓋の中棒に掴まるように言い、自らも車体の縁を掴むと、馭者に馬の脚を速めさせた。
「これから向かう先は、舂陵侯の別邸だ」
「そこで何をするのですか?」
「抗争の仲裁だ」
漢帝国には郷挙里選という制度がある。地方の人材の中から有徳者を選び出し、帝国政府に官吏として推薦する、という制度で、被推薦者は郡の長官と地域の有力者の合議で決められる。
今年の春、郷挙里選の被推薦者を決める合議に先立ち、南陽郡の豪族の間で意見統一のための意思確認が行われた。その結果、新野県の大豪族である陰氏と、湖陽県の大豪族である樊氏が、それぞれ別の人士を推薦しようとしていることが判明し、まず樊氏が先制して南陽郡の名士の買収に乗り出し、陰氏も負けじと郡の長官とその側近に賄賂を贈り、両者の裏工作が段々と白熱して、ついには陰氏の私兵が樊氏の被推薦者を襲撃し、樊氏が送り込んでいた護衛を負傷させた。樊氏は激怒して私兵を総動員し、陰氏も樊氏の報復に備えて自邸に私兵を詰めさせ、一触即発の空気が新野県と湖陽県の間に流れた。
舂陵侯の一族、すなわち舂陵劉氏は、湖陽県の樊氏と通婚関係にあり、仁義の上では樊氏に味方すべき立場に置かれていた。しかし、舂陵劉氏の長である舂陵侯は、南陽郡屈指の大豪族である陰氏を敵に回すことを厭い、むしろ樊氏と陰氏の間を取り持つことで両者に恩を着せようと考え、樊氏と陰氏の両方と繋がりがある劉縯に両者の周旋を命じた。劉縯は鄧晨――劉縯と劉秀の次姉の夫であり、陰氏の当主の妻の叔父でもある人物を仲間に誘い、伝手を駆使して仲裁に奔走した。その苦労が実を結び、酒宴という名目で会談を行うことを樊氏と陰氏は承諾した。
劉縯と劉秀を乗せた馬車が、舂陵侯の別邸の前に到着した。まず劉縯が、次いで劉秀が馬車から降りた。瓦葺き二階建ての正門から邸へ入り、中庭を巡る回廊を進んだ。先に到着していた鄧晨が劉縯を見つけた。劉縯に走り寄り、劉縯が約束の時間に少し遅れたことを咎めた。悪い、と劉縯は義兄に詫びた。
「そこで久しぶりに秀と会ったものだから、つい話し込んでしまった。秀、挨拶しろ」
「お久しぶりです、鄧公」
「おお、秀か。懐かしいなあ、元気にしていたか?」
丁寧に一礼した劉秀を見て、鄧晨は相好を崩したが、すぐに表情を緊張させた。
「伯升、一大事だ」
「どうしたんだ? 何か揉め事でも?」
「樊太公が――」
太公、とは高年者に対する敬称である。
「――自ら出席された」
「何だと」
「どんな話かは知らないが、こちらへは持ち込まないでくれ」
また叔父の声が聞こえた。叔父の声に続いて、客人と思しき声が聞こえた。客人は地に額を擦りつけているような声で、謝礼は払う、この書簡と袋を劉縯に渡してくれるだけでよい、と劉良に懇願した。
「渡すだけでよいのなら、自分で縯に渡せばよかろう」
そんなことをしたら殺されてしまう、と客人は悲鳴を上げた。しばらくの間、劉良と客人の間で押し問答が続いた。劉良は懸命に客人を追い返そうとしたが、客人は謝礼の増額に泣き落とし――自分には老いた母がいて、自分が死んだら面倒を看る者がいないのだ、ということを涙ながらに語るなど、必死に食い下がった。
「わかった。わかったよ」
ついに劉良が根負けした。劉秀は猫のように足音を忍ばせて自分の席へ戻り、乾きかけていた毛筆に墨汁を含ませた。
「全く、あのごろつきめ。今度は何をしでかしたのやら」
劉良が戻ってきた。受け取らされた書簡と袋を自らの文机の上に置くと、布靴を脱いで敷き物の上に座り、眉間に皺を寄せて深く息をついた。
「先程の話、聞こえていたか?」
中庭へ目を向けながら、劉良は劉秀に訊ねた。劉良の住居は、漢帝国の標準的な建築様式である中庭式住居――敷地の中心に中庭を設け、中庭の四方を家屋で囲んだ形式の住居で、中庭では劉良の幼い息子が玩具の弓矢で遊んでいる。
劉秀は筆を置き、不機嫌そうに外を見ている叔父を見た。
「兄の名は聞こえましたが」
「縯が、また何かやらかしたようだ。あの舂陵劉氏の面汚しめ」
劉良は忌々しげに吐き捨てた。劉秀は顔を俯かせた。劉良は甥の表情に気づき、少し気まずげに咳払いをした。
「……そういえば、おまえを養い始めて四年近くになるが、おまえを生家へ帰らせたことは一度もないな」
少しの間、劉良は考え込んだ。玩具の弓の弦音が中庭で響いた。劉良は上を向いて息をついた。
「よい機会、なのかも知れんな。秀、この書簡と袋を、おまえの生家へ届けてくれ」
「わかりました」
劉秀は席を立ち、叔父の文机に近づいた。書簡と袋を受け取り、叔父に一礼した。
「すぐに発ちます」
「今から出れば夜になる。明日にしなさい。それから――」
劉良は懐へ手を入れ、客人から謝礼として押しつけられた銅貨の塊を取り出した。
「――これをやる。向こうに十日ほど留まり、お母上に孝行しなさい」
「ありがとうございます。でも、この銭は――」
「受け取れ。銭は孝行の助けになる。それに、親子兄弟といえども、無銭で家に泊まろうとすれば、嫌な顔をされるものだ」
漢帝国の銅貨は重さ五銖(約三グラム)の円形で、中心に正方形の孔がある。その孔に紐を通して一つにまとめた銅貨の塊を、劉良は甥に握らせた。
「秀」
「はい」
「おまえは、おまえだ」
銅貨を握らせた劉秀の手を、劉良は自らの両手で包んだ。
「わたしは、おまえの父の弟だ。おまえの父のことを、目の前で悪く言われたら、わたしは心穏やかではいられない。だから、おまえの気持ちも少しは理解できるつもりだ。しかし、おまえは秀だ。縯ではない。縯のようになるべきでもない。おまえが縯のようになれば、お母上が悲しむ。お母上は、もう十分に悲しまれた。これ以上、お母上を悲しませるようなことは、してはならんぞ」
翌朝、劉秀は雄鶏が目を覚ますよりも早く起床した。顔を洗い、髪を結い上げて布で覆い、広袖の長衣に帯を締めた。斗篷状の外套を肩に羽織り、頭に頭巾を被り、叔父の妻に見送られて邸を出た。通りに人影は無く、民家から上がる炊煙の数も少なく、自らの足音がよく響いた。劉秀は集落の門の前まで行き、門番と朝の挨拶を交わして雄鶏の目覚めを待った。やがて雄鶏が鳴き、それを合図に門番が門を開けた。劉秀は集落を出て南へ進んだ。頭を垂れ始めた稲穂の間を抜け、用水路に架けられた丸木橋を渡り終えた時、地平から朝陽が顔を覗かせた。
劉秀の生家は、蔡陽県の行政区域内に点在する集落の一つにある。漢帝国の地方行政区の単位は、上から順に州、郡、県、郷、亭、里と定められているが、州は郡の行政を監察するために設けられた機構であり、実際に行政を担当しているのは郡である。郡は十から三十の県から成り、県は区域内の集落を管理する。県の下にある郷、亭、里とは、集落の規模に応じた呼称で、大規模な集落を郷、中規模な集落を亭、小規模な集落を里という。劉秀の生家がある集落は郷で、農業を主産業とする典型的な開拓村である。
陽が高くなり、稲穂の上を蜻蛉が飛び始めた。劉秀は生家へ通じる道を歩き続けた。道の左右の稲穂が雑木林に変わり、更に歩き続ける内に再び稲穂に変じた。小規模な集落が見えてきた。集落では、集落を守る土壁の補修が行われていた。棒と板で型枠を作り、そこに土を流し入れて杵で撞き固める人々の横を、劉秀は通りすぎた。太陽が南へ動いた。また小さな集落が見えてきた。葬儀の列が集落の門から出てきた。劉秀は白色の喪服の列に道を譲り、弔意を示すために左手を手前側にして揖礼した。喪主と思しき男が劉秀に会釈して通りすぎた。
太陽が中天に達した。劉秀の生家がある集落が見えてきた。集落の門に近づくと、知らない顔の門番がいた。門番に挨拶して集落に入り、左右を民家に挟まれた道を歩いた。見覚えがある顔の老人が、日当たりが良い場所に筵を敷いて籠を編んでいた。子供たちが虫籠を手に広場へ集まり、虫を扱う商人に虫籠の中の蟋蟀を売り渡していた。学童たちが書物を朗読する声が聞こえてきた。
子曰く、天地の性、人を貴しと為す。人の行いは、孝より大なるは莫し。孝は父を厳ぶより大なるは莫し。父を厳ぶは天に配するより大なるは莫し。則ち周公は其の人なり。
「父子の道は天性なり。父母、之を生む。續くこと、焉より大なるは莫し。故に其の親を愛さずして他人を愛する者、之を徳に悖ると謂う。其の親を敬わずして他人を敬う者、之を礼に悖ると謂う」
学童たちの声に合わせて暗唱しながら、劉秀は初等学校の門の前を通りすぎた。
陽を建物に遮られた薄暗い道へ、劉秀は足を踏み入れた。微かな湿気と涼気を肌に感じながら歩いていると、傘状の車蓋が付いた二頭立ての二輪馬車が前方に現れ、劉秀の方へ進んできた。劉秀は車を避けるために小走りに道の端へ寄り、赤茶色の瓦が葺かれた民家の壁に背をつけた。馬蹄と車輪の響きが近づいてきた。目の前を馬が通りすぎ、車輪が通りすぎた。劉秀は民家の壁から離れ、再び歩き出した。
遠ざかりかけていた馬蹄と車輪の音が、不意に停止した。
「秀?」
劉秀の名を呼ぶ声が、後ろから聞こえた。劉秀は足を止めて振り向いた。男が馬車から身を乗り出し、劉秀を見ていた。
「やはり秀か!」
男が馬車の縁を跳び越え、地面に下りた。劉秀も気づいた。
「もしや、劉公であられますか?」
公、と劉秀は敬称で男に呼びかけた。男は劉秀へ走り寄りながら、く、と吹き出した。
「何が劉公だ。他人行儀な呼び方をするな」
男は劉秀の前で足を止め、劉秀を見つめた。
「久しぶりだな、秀。三年、いや、四年ぶりか。元気にしていたか?」
「はい」
劉秀は頭巾を脱いだ。
「兄上も、噂で聞いていた通り、健やかに過ごされているようで、秀はとても嬉しく思います」
目の前に立つ長兄の顔を、劉秀は見上げた。劉秀の長兄、劉縯は眉を顰めた。
「噂。噂か」
劉縯は二十三歳の若者に成長していた。大きな口、高い鼻筋、美しい眉を具え、七尺七寸(約百八十センチ)の堂々たる体躯を、大漢帝国の人士の正装である緩やかな長衣で包んでいた。
「以前、おまえに会うために何度か叔父上の邸を訪ねたが、門前払いされた。多分、悪い噂なんだろうな」
「そんなことは。叔父上は沛郡蕭県の県令でした。沛郡は高祖の故郷であるためか、若き日の高祖の真似をする無頼の輩が――」
「そうだ、高祖だ!」
劉縯は手を叩いた。
「蕭県といえば沛郡、沛郡といえば高祖だ。おまえは高祖の故郷に二年もいた。あの高祖の故郷に二年も! こいつめ、羨ましい、羨ましすぎるぞ」
劉縯は悪童のように笑むと、弟の首に右腕を回し、こいつめ、こいつめ、と弟の頭を左肘で小突いた。劉秀はこそばゆさに似たものを覚え、笑いながらじたばたした。
「それで、こちらへは、いつまでいられる?」
劉縯が右腕を緩めた。劉秀は兄の顔を仰ぎ見た。
「十日ほど時間をいただいています。そうだ、兄上、渡さなければいけないものが――」
「後で聞こう。実は、今から大切な用事があってな」
「ああ、だから――」
劉秀は改めて劉縯の服装を見た。劉縯は、広袖の緩やかな上衣を重ね着し、丈が長くて股が無い下衣を二重に穿き、結い上げた髷に箱状の小さな冠を被せていた。如何にも高雅な文人という装いであるが、劉秀は下を向き、く、と吹き出した。
「――そのように似合わない衣を着ておられるのですね」
「言いやがったな、こいつめ!」
くすくすと笑う弟の頭を、劉縯は再び、こいつめ、こいつめ、と肘で小突いた。
「そういうわけだから、家に戻って…………いや、待て」
劉縯は二秒ほど考えた。
「せっかくだから、おれと一緒に来い」
「え?」
「よい機会だ。おまえに、庠序の先生が――」
庠序、とは初等学校のことである。
「――教えてくれないことを教えてやる」
善は急げ、とばかりに劉縯は弟の腕を引いた。劉秀は困惑したが、劉縯は有無を言わさず弟の体を抱え上げ、馬車の後部に乗せた。
途次、劉秀は書簡と袋を届けに来たことを劉縯に伝えた。劉縯は弟から書簡を受け取ると、揺れる車上で文面に目を通した。
「何だ、あれか」
劉縯は舌打ちし、書簡を懐に捻じ込んだ。
「くだらない話さ。真面目だが、この辺りのことをよく知らない商人が、吏に賄賂を贈らずに市で商いをして、投獄された。その商人が、おれの弟分の親戚の恩人……いや、恩人の親戚だったか? とにかく、知り合いの知り合いだったから、おれが賄賂を立て替えて商人を獄から出させた。で、今頃になっておれが舂陵の劉伯升だとわかり――」
伯升、とは劉縯の字である。漢帝国の良家の人間は、男性の場合は成人の際に、女性の場合は婚約の際に、名とは別に通称をつける。この通称を字という。
「――吏が銭を返してきた。あの貪官汚吏め、返すなら自分で返しに来ればよいものを、おれと直に会う度胸も無かったらしい。おまえと叔父上には面倒をかけたな」
「迷惑だなんて、そのようなことは。お蔭で久しぶりに帰ることが出来ました」
返された銅貨が入れられた袋を兄に渡そうと、劉秀は懐に手を入れた。劉縯は遠くの雲へ目を向けた。
「その銭は、おまえにやる」
「え、でも――」
「おまえが叔父上になかなか帰郷させてもらえなかったのは、おれが舂陵の豪傑、劉伯升だからだ」
劉縯が言う豪傑とは、無法者や無頼漢の美称である。
「おまえには迷惑をかけた。その銭で許してくれ、なんて言うつもりはないが、まあ、受け取っておいてくれ」
劉縯らを乗せた馬車が集落の門を出た。馬車の後部に立ち乗りしている劉秀に、劉縯は傘状の車蓋の中棒に掴まるように言い、自らも車体の縁を掴むと、馭者に馬の脚を速めさせた。
「これから向かう先は、舂陵侯の別邸だ」
「そこで何をするのですか?」
「抗争の仲裁だ」
漢帝国には郷挙里選という制度がある。地方の人材の中から有徳者を選び出し、帝国政府に官吏として推薦する、という制度で、被推薦者は郡の長官と地域の有力者の合議で決められる。
今年の春、郷挙里選の被推薦者を決める合議に先立ち、南陽郡の豪族の間で意見統一のための意思確認が行われた。その結果、新野県の大豪族である陰氏と、湖陽県の大豪族である樊氏が、それぞれ別の人士を推薦しようとしていることが判明し、まず樊氏が先制して南陽郡の名士の買収に乗り出し、陰氏も負けじと郡の長官とその側近に賄賂を贈り、両者の裏工作が段々と白熱して、ついには陰氏の私兵が樊氏の被推薦者を襲撃し、樊氏が送り込んでいた護衛を負傷させた。樊氏は激怒して私兵を総動員し、陰氏も樊氏の報復に備えて自邸に私兵を詰めさせ、一触即発の空気が新野県と湖陽県の間に流れた。
舂陵侯の一族、すなわち舂陵劉氏は、湖陽県の樊氏と通婚関係にあり、仁義の上では樊氏に味方すべき立場に置かれていた。しかし、舂陵劉氏の長である舂陵侯は、南陽郡屈指の大豪族である陰氏を敵に回すことを厭い、むしろ樊氏と陰氏の間を取り持つことで両者に恩を着せようと考え、樊氏と陰氏の両方と繋がりがある劉縯に両者の周旋を命じた。劉縯は鄧晨――劉縯と劉秀の次姉の夫であり、陰氏の当主の妻の叔父でもある人物を仲間に誘い、伝手を駆使して仲裁に奔走した。その苦労が実を結び、酒宴という名目で会談を行うことを樊氏と陰氏は承諾した。
劉縯と劉秀を乗せた馬車が、舂陵侯の別邸の前に到着した。まず劉縯が、次いで劉秀が馬車から降りた。瓦葺き二階建ての正門から邸へ入り、中庭を巡る回廊を進んだ。先に到着していた鄧晨が劉縯を見つけた。劉縯に走り寄り、劉縯が約束の時間に少し遅れたことを咎めた。悪い、と劉縯は義兄に詫びた。
「そこで久しぶりに秀と会ったものだから、つい話し込んでしまった。秀、挨拶しろ」
「お久しぶりです、鄧公」
「おお、秀か。懐かしいなあ、元気にしていたか?」
丁寧に一礼した劉秀を見て、鄧晨は相好を崩したが、すぐに表情を緊張させた。
「伯升、一大事だ」
「どうしたんだ? 何か揉め事でも?」
「樊太公が――」
太公、とは高年者に対する敬称である。
「――自ら出席された」
「何だと」
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一九〇〇年代のドイツ
二人の青春物語
youtube : https://www.youtube.com/channel/UC6CwMDVM6o7OygoFC3RdKng
参考・引用
彡(゜)(゜)「ワイはアドルフ・ヒトラー。将来の大芸術家や」(5ch)
アドルフ・ヒトラーの青春(三交社)
上意討ち人十兵衛
工藤かずや
歴史・時代
本間道場の筆頭師範代有村十兵衛は、
道場四天王の一人に数えられ、
ゆくゆくは道場主本間頼母の跡取りになると見られて居た。
だが、十兵衛には誰にも言えない秘密があった。
白刃が怖くて怖くて、真剣勝負ができないことである。
その恐怖心は病的に近く、想像するだに震えがくる。
城中では御納戸役をつとめ、城代家老の信任も厚つかった。
そんな十兵衛に上意討ちの命が降った。
相手は一刀流の遣い手・田所源太夫。
だが、中間角蔵の力を借りて田所を斬ったが、
上意討ちには見届け人がついていた。
十兵衛は目付に呼び出され、
二度目の上意討ちか切腹か、どちらかを選べと迫られた。
永き夜の遠の睡りの皆目醒め
七瀬京
歴史・時代
近藤勇の『首』が消えた……。
新撰組の局長として名を馳せた近藤勇は板橋で罪人として処刑されてから、その首を晒された。
しかし、その首が、ある日忽然と消えたのだった……。
近藤の『首』を巡り、過去と栄光と男たちの愛憎が交錯する。
首はどこにあるのか。
そして激動の時代、男たちはどこへ向かうのか……。
※男性同士の恋愛表現がありますので苦手な方はご注意下さい
16世紀のオデュッセイア
尾方佐羽
歴史・時代
【第12章を週1回程度更新します】世界の海が人と船で結ばれていく16世紀の遥かな旅の物語です。
12章では16世紀後半のヨーロッパが舞台になります。
※このお話は史実を参考にしたフィクションです。
剣客逓信 ―明治剣戟郵便録―
三條すずしろ
歴史・時代
【第9回歴史・時代小説大賞:痛快! エンタメ剣客賞受賞】
明治6年、警察より早くピストルを装備したのは郵便配達員だった――。
維新の動乱で届くことのなかった手紙や小包。そんな残された思いを配達する「御留郵便御用」の若者と老剣士が、時に不穏な明治の初めをひた走る。
密書や金品を狙う賊を退け大切なものを届ける特命郵便配達人、通称「剣客逓信(けんかくていしん)」。
武装する必要があるほど危険にさらされた初期の郵便時代、二人はやがてさらに大きな動乱に巻き込まれ――。
※エブリスタでも連載中
大陰史記〜出雲国譲りの真相〜
桜小径
歴史・時代
古事記、日本書紀、各国風土記などに遺された神話と魏志倭人伝などの中国史書の記述をもとに邪馬台国、古代出雲、古代倭(ヤマト)の国譲りを描く。予定。序章からお読みくださいませ
満州国馬賊討伐飛行隊
ゆみすけ
歴史・時代
満州国は、日本が作った対ソ連の干渉となる国であった。 未開の不毛の地であった。 無法の馬賊どもが闊歩する草原が広がる地だ。 そこに、農業開発開墾団が入植してくる。 とうぜん、馬賊と激しい勢力争いとなる。 馬賊は機動性を武器に、なかなか殲滅できなかった。 それで、入植者保護のため満州政府が宗主国である日本国へ馬賊討伐を要請したのである。 それに答えたのが馬賊専門の討伐飛行隊である。
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