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第一章 重瞳の人
第四話
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「動くな」
劉縯は王莽に気づき、異民族の少年に向けていた弓矢を、素早く王莽へ向け直した。目の前で何が起きているのか、王莽は察した。
「見張っていたのか。その少年が逃げ出したり、或いは、わたしに連れて行かれたりしないように」
劉縯は昨日、この私闘は自分が預かる、と舂陵侯の食客たちに宣言した。預かると宣言したからには、舂陵侯に損失を与えないように事を収める責務が、劉縯にはある。
「そいつは族父上の、舂陵侯の奴隷だ」
劉縯が異民族の少年を目で示した。
「舂陵侯のものは、舂陵侯へ返すのが筋だ。返さなければ、おれだけでなく、おれの父母まで咎められる」
「弓を下ろしてくれ。確かに、きみがやろうとしていることは正しい。舂陵侯のものは舂陵侯へ返すべきだ。しかし、死なせたり傷つけたりしてから返しては、返したことにならない。結局は、きみの両親に責めが及ぶことになる」
両親に責めが及ぶ。その一言が、劉縯を僅かに動揺させた。次の瞬間、異民族の少年が身を翻して駆け出した。劉縯は咄嗟に異民族の少年へ弓を向けた。少年の小さな背中に狙いをつけた。矢を放つことを、ほんの数瞬だけ躊躇した。その間に王莽は自らの体を弓の射線に割り込ませた。
「よせ」
「どいてくれ。殴られていたら助けてやる。おれに出来るのは、そこまでだ。それ以上のことは、おれにはしてやれないんだ」
「きみに、人を殺させはしない」
王莽は両腕を横に広げた。劉縯は更に強く弓を引いた。王莽の右の肩の向こうに、懸命に走る異民族の少年の背中が小さく見えた。見えていた背中が何かに躓いて転んだ。すぐに起き上がり、また走り出した。ざぶざぶと水を踏み、川を渡り始めた。
びん、と弓弦の音が鳴り響いた。ひゅ、という風切り音を残して、矢が王莽の右耳の横を通りすぎ、川の水を掻き分けて前進する小さな背中の後ろに落ちた。小さな背中は矢に気づくことなく川を渡り、対岸で一度だけ王莽らの方を振り返ると、再び走り出した。
劉縯の手から弓が落ちた。王莽は広げていた両腕を下ろした。いつの間にか、鳥の声が辺りから消えていた。朝の白く清しい光が、劉縯の肩を静かに照らしていた。王莽は劉縯に近づいた。劉縯の口が動いた。
「先生も、早く逃げろ」
劉縯は顔を俯かせた。
「先生は、舂陵侯の奴隷を逃がした。侯に知られる前に、逃げるべきだ」
「わたしが逃げたら――」
王莽は劉縯の前で足を止めた。
「――きみはどうなる?」
「おれは父が県令で、母は士大夫の子女だ」
士大夫、とは豪族の美称である。
「だから、父と母と、それから、母の実家に頭を下げてもらえば、幾らか銭を払う程度で済む。先生は違う。勿論、先生に王侯か士大夫の知り合いでもいれば話は別だが――」
「わたしは、新野の新都侯と親しい」
「それが本当なら、族父上も多少は遠慮するかもな」
下手な嘘だ、と劉縯は口の片端を僅かに綻ばせた。王莽は自らの左袖に右手を入れた。
「これを――」
王莽はごそごそと右手を左袖の中で動かした。
「――舂陵侯へ渡してくれ」
黄色の紐が結びつけられた小さなものを、王莽は左袖の奥から取り出し、劉縯へ差し出した。劉縯は差し出されたものを見た。一辺が四分(約一センチメートル)ほどの小さな銅印が、きらりと朝陽を反射していた。この銅印が何であるか、王莽は説明した。
「新都の印綬だ」
印綬、とは印章と紐のことである。王莽は劉縯に差し出した印綬は、銅製の印章に黄色の紐を組み合わせた銅印黄綬と呼ばれるもので、漢帝国の正官員が公務で用いるために携帯している。
「わたしは官吏ではないが、旅の途中で何か起きた時のために、新都侯が新都の官吏ということにしてくれた。この印綬を舂陵侯へ提出し、こう伝えてもらいたい。舂陵侯の下から逃亡した奴隷は、新都侯の属吏が保護した、と」
舂陵侯は王氏一門の紅陽侯と親しく交流している。王莽は過去に紅陽侯の贈収賄を告発して以降、紅陽侯と対立している。逃亡した奴隷が新都侯王莽に保護されている、と舂陵侯に伝えれば、恐らく舂陵侯は事態を深読みするであろう。奴隷を利用して紅陽侯の友人を糾弾することで、紅陽侯の不正を追及する端緒を作る。それが王莽の狙いではないか、と考えるに違いない。
「舂陵侯は紅陽侯と親しいとはいえ、王氏の争いに巻き込まれることを望みはしないだろう。争いに巻き込まれないために、逃げた奴隷はいない、ということにするに違いない」
「逃げた奴隷は、いない?」
は、と劉縯は気づいた。
「逃げた奴隷はいない、ということは――」
「そうだ。逃げた奴隷がいなければ、きみが舂陵侯から咎められる謂れは消える。きみの父母に責めが及ぶこともない」
父母に責めが及ぶことはない。その一言が、劉縯を安心させた。安心した拍子に体の力が脱け、劉縯は地面に座り込んだ。しかし、すぐに表情を一変させて王莽を見上げた。
「待ってくれ。そんなことをしたら、先生はどうなる?」
逃げた奴隷はいない、ということにするからには、舂陵侯は逃げた奴隷の痕跡を消し去ろうとするであろう。当然、劉縯が提出した印綬も処分するに違いない。印綬は官吏の身分証でもあり、常に携帯するよう法律で定められている。もし印綬を紛失すれば、厳しく罰せられる。
「気にすることはない。わたしなら大丈夫だ」
「大丈夫なもんか」
劉縯は立ち上がり、声を荒げた。
「印綬を失くすことは悪いことだ。新都侯は、悪いことを正すためなら、我が子でさえも死に追いやる人だと聞いた。印綬を失くして、無事で済むはずが――」
「頼む」
王莽は劉縯の手を取り、懇願するように頭を垂れた。
「わたしのことを案じてくれているのなら、どうかわたしを、子供を助けられない大人にしないでくれ」
王莽は劉縯に手を開かせた。銅印を劉縯の掌に置き、両手で包むようにして劉縯の手に印綬を握らせた。
陽が東の地平から離れ、農夫が畠で牛に犂を牽かせ始めた。王莽の驢馬の背に荷が載せられた。出発を前に王莽が驢馬に川の水を飲ませていると、劉縯の弟の仲が、例の不思議な幼児の手を引いて現れた。辺りを見回して異民族の少年を捜す仲と幼児に、あの少年は新都侯に保護された、と王莽は嘘をついた。仲は王莽の嘘を信じ、新都侯は奴隷を大事にする人だと聞いている、あの少年のことも大事にしてくださるだろう、と幼児と一緒に喜んだ。
「よろしければ、道中で食べてください」
驢馬に水を飲ませ終えた王莽へ、仲が球形の弁当箱を差し出した。王莽が引き換えに銅貨を数枚、仲へ渡そうとすると、劉縯が手を上げて制した。
「銭はいらない。先生には昨日、面白いものを見せてもらった」
「面白いもの?」
「舂陵侯の食客どもを叩きのめした」
くつくつと劉縯は笑みを零した。
「あいつらは、一応は侯の客分だからな。あいつらに何かされても、大抵は泣き寝入りするしかない。下手に抗議して侯の機嫌を損ねでもしたら、後でどんな嫌がらせをされるかわからないし、県に訴えたとしても、相手が列侯では動いてくれないからな」
「酷いものだ」
「だから、先生があいつらを叩きのめしてくれて、すかっとした。それにしても、先生は先生なのに、強いんだな」
「子曰く、市朝に諸と遭えば、兵に反らずして闘う」
かつて学んだ儒学の経典の一節を、王莽は暗唱した。外出先で親の仇と遭遇したら、武器を取りに帰宅したりせず、その場にて素手で闘うべし、という意味である。
「武器が無ければ闘えないようでは、真の儒者とはいえぬ」
「本当かよ。儒者というのは、やれ仁だ、やれ徳だと、お上品なことばかり言うものだと思っていたが」
「儒学の教えは、口先の空論ではない。人が人として生きるための教えである。人が人であることを忘れてしまうような、乱れた世の中でこそ、儒学の教えは生きる」
「乱れた世の中か。まさに今のことだな」
劉縯は呟いた。
今から二十年ほど前、南陽郡の北東にある潁川郡で、製鉄に従事していた労働者たちが叛乱を起こし、郡の長官を殺害した。劣悪な生活環境の下で過酷な重労働を強いられたことが、労働者を決起に至らせた。叛乱は他の郡へ燃え広がる前に鎮圧されたが、その後も叛乱の原因である労働者の待遇が改善されることはなく、製鉄労働者による叛乱や暴動が帝国の各地で続発した。
南陽郡の遥か北西、匈奴単于国と境を接する地域でも叛乱が起きた。叛乱を起こしたのは、匈奴単于国から大漢帝国へ帰順した遊牧民で、農本主義を掲げる帝国政府から農地を与えられるも、痩せた土地を割り当てられたせいで困窮し、奴隷に身を落とす者が相次いでいた。遊牧民は良質な農地、及び同族の解放を求めて幾度も蜂起したが、やはり帝国政府が訴えを聞き入れることはなく、騒乱と貧困が拡大していた。
これらの叛乱は、大漢帝国を覆う混迷の一部でしかない。政治の荒廃が貧富の格差を生み、貧困層を増大させる。貧困層が叛乱軍や盗賊団に身を投じ、治安を悪化させて社会を混乱に陥れる。人の世の乱れに感応したのか、水害や蝗害などの天災も多発し、帝国の臣民は不安に慄いていた。
「改めて名乗らせてくれ」
劉縯は王莽へ体を向き直らせた。
「汝南郡南頓県の劉県令の子、縯。大漢帝国の孝景皇帝の子、長沙定王の裔で、舂陵侯の族子だ。そっちは――」
劉縯は仲を目で示した。
「――弟の仲」
どうも、と仲は両手を胸の前に持ち上げ、掌を自分の方へ向けて、且つ右手を手前側にして左右の手を重ね合わせ、ぺこりと王莽に頭を下げた。揖礼という漢帝国の作法である。
「仲の横にいる小さいのが、末弟の秀」
劉縯が幼児を紹介すると、仲が幼児の前に身を屈め、こうするんだよ、と自らの両手を揖礼の形に重ね合わせた。秀と紹介された幼児は、仲を真似て両手を重ね合わせ、ぺこりと王莽に頭を下げた。
「重ね重ねの無礼、心から謝罪する」
劉縯が地面に両膝をつき、王莽に揖礼した。揖礼は相手に対して敬意を示す作法で、主に挨拶や感謝の際に用いられるが、両膝をついた状態での揖礼は、相手への謝罪や懇願を意味している。
「本当に申しわけない」
「頭を上げられよ。きみには感謝している。きみがいなければ、わたしは――」
王莽の頭の端を、次男の顔が掠めた。
「――わたしは、人を殺めていたかも知れない」
帰宅する劉縯、劉仲、劉秀の三兄弟と、王莽は途中まで一緒に歩いた。途次、王莽は舂陵侯に関する情報を求め、劉縯の実家について訊ねせた。
「自慢じゃないが、我が家は二千石の家だ」
二千石、とは漢帝国の官僚制度における等級の一つである。帝国の官吏は、上から順に万石、二千石、千石、六百石、四百石、三百石、二百石、百石、それ以下と等級が定められており、二百石以上が帝国政府に正規登用された正官員で、六百石以上が高級官僚とされている。劉縯の家の場合、曽祖父と祖父の最終等級が二千石、父の現在の等級が千石、もしくは六百石である。
「お父上は、汝南で県令をされているのであったな」
劉縯の父親についても、王莽はそれとなく訊ねた。劉縯は頷き、汝南郡南頓県の県令、すなわち県の長官になる前は、陳留郡済陽県の県令をしていたことを話した。
「汝南に済陽か」
王莽は考え込んだ。劉縯の父が赴任している汝南郡は、南陽郡と同じく漢帝国の第二線開拓地帯に属している地方行政区であり、また劉縯の父が以前に県令をしていたという陳留郡済陽県は、皇帝の行宮の一つが置かれている場所である。劉縯の父は舂陵侯の再従兄弟に当たる人物であるが、将来を有望視されていると考えて間違いない。
「きみたちの父上は、立派な人物なのだな」
「父上は我ら兄弟の誇りだ。おれも、将来は父上のように仕官するつもりでいる。勿論、その時はこいつらも一緒だ」
劉縯は弟たちを顧みた。
「おれの中にも、こいつらの中にも、この国を興した皇帝の血が流れている。だから、兄弟で力を合わせて、この国のために働きたいと思っている」
「わたしは――」
歩みが遅れがちな劉秀の体を、劉仲が抱え上げた。
「――仕官するつもりはありませんけどね。字を読んだり書いたりするよりも、土を耕したり、豚を太らせたりしている方が、性に合っている」
「おまえはまたそういうことを言う。もっと志を大きく持て。おまえは二千石の家に生まれたんだぞ」
劉縯は劉仲を叱りつけた。その様子が、死んだ兄にどことなく似ている気がして、王莽は梟のような目を細めた。偉くなろう。そう兄と約束を交わしたから、今の自分がいる。そして、今、兄に似た少年が自分の前にいる。
分かれ道が見えてきた。あの左右に分かれた道を、王莽は左へ、劉縯、劉仲、劉秀の三兄弟は右へ行く。
分かれ道が近づいてきた。不意に、王莽は焦りのような、胸騒ぎのような、ざわざわとした何かを胸の奥に覚えた。僅かに戸惑いながら、一歩、また一歩と分かれ道へ足を進めた。分かれ道の少し手前で劉縯が足を止めた。王莽は驢馬を立ち止まらせた。劉縯が王莽へ体を向き直らせ、両手を胸の前で揖礼の形に重ね合わせた。
「先生の、旅の無事を祈る」
「これまで以上に、貴家が盛んになることを祈る」
王莽は揖礼を返した。風が草を揺らしながら、王莽と劉縯の間を抜けた。劉縯は腕を下ろし、行くぞ、と劉仲に声をかけて歩き出した。劉秀は王莽に頭を下げ、小走りに兄の背を追いかけた。劉仲に抱えられている劉秀が、劉仲の体越しに王莽を見た。
劉秀の目に、何かを問われたような気がした。
「待て」
劉縯は王莽に気づき、異民族の少年に向けていた弓矢を、素早く王莽へ向け直した。目の前で何が起きているのか、王莽は察した。
「見張っていたのか。その少年が逃げ出したり、或いは、わたしに連れて行かれたりしないように」
劉縯は昨日、この私闘は自分が預かる、と舂陵侯の食客たちに宣言した。預かると宣言したからには、舂陵侯に損失を与えないように事を収める責務が、劉縯にはある。
「そいつは族父上の、舂陵侯の奴隷だ」
劉縯が異民族の少年を目で示した。
「舂陵侯のものは、舂陵侯へ返すのが筋だ。返さなければ、おれだけでなく、おれの父母まで咎められる」
「弓を下ろしてくれ。確かに、きみがやろうとしていることは正しい。舂陵侯のものは舂陵侯へ返すべきだ。しかし、死なせたり傷つけたりしてから返しては、返したことにならない。結局は、きみの両親に責めが及ぶことになる」
両親に責めが及ぶ。その一言が、劉縯を僅かに動揺させた。次の瞬間、異民族の少年が身を翻して駆け出した。劉縯は咄嗟に異民族の少年へ弓を向けた。少年の小さな背中に狙いをつけた。矢を放つことを、ほんの数瞬だけ躊躇した。その間に王莽は自らの体を弓の射線に割り込ませた。
「よせ」
「どいてくれ。殴られていたら助けてやる。おれに出来るのは、そこまでだ。それ以上のことは、おれにはしてやれないんだ」
「きみに、人を殺させはしない」
王莽は両腕を横に広げた。劉縯は更に強く弓を引いた。王莽の右の肩の向こうに、懸命に走る異民族の少年の背中が小さく見えた。見えていた背中が何かに躓いて転んだ。すぐに起き上がり、また走り出した。ざぶざぶと水を踏み、川を渡り始めた。
びん、と弓弦の音が鳴り響いた。ひゅ、という風切り音を残して、矢が王莽の右耳の横を通りすぎ、川の水を掻き分けて前進する小さな背中の後ろに落ちた。小さな背中は矢に気づくことなく川を渡り、対岸で一度だけ王莽らの方を振り返ると、再び走り出した。
劉縯の手から弓が落ちた。王莽は広げていた両腕を下ろした。いつの間にか、鳥の声が辺りから消えていた。朝の白く清しい光が、劉縯の肩を静かに照らしていた。王莽は劉縯に近づいた。劉縯の口が動いた。
「先生も、早く逃げろ」
劉縯は顔を俯かせた。
「先生は、舂陵侯の奴隷を逃がした。侯に知られる前に、逃げるべきだ」
「わたしが逃げたら――」
王莽は劉縯の前で足を止めた。
「――きみはどうなる?」
「おれは父が県令で、母は士大夫の子女だ」
士大夫、とは豪族の美称である。
「だから、父と母と、それから、母の実家に頭を下げてもらえば、幾らか銭を払う程度で済む。先生は違う。勿論、先生に王侯か士大夫の知り合いでもいれば話は別だが――」
「わたしは、新野の新都侯と親しい」
「それが本当なら、族父上も多少は遠慮するかもな」
下手な嘘だ、と劉縯は口の片端を僅かに綻ばせた。王莽は自らの左袖に右手を入れた。
「これを――」
王莽はごそごそと右手を左袖の中で動かした。
「――舂陵侯へ渡してくれ」
黄色の紐が結びつけられた小さなものを、王莽は左袖の奥から取り出し、劉縯へ差し出した。劉縯は差し出されたものを見た。一辺が四分(約一センチメートル)ほどの小さな銅印が、きらりと朝陽を反射していた。この銅印が何であるか、王莽は説明した。
「新都の印綬だ」
印綬、とは印章と紐のことである。王莽は劉縯に差し出した印綬は、銅製の印章に黄色の紐を組み合わせた銅印黄綬と呼ばれるもので、漢帝国の正官員が公務で用いるために携帯している。
「わたしは官吏ではないが、旅の途中で何か起きた時のために、新都侯が新都の官吏ということにしてくれた。この印綬を舂陵侯へ提出し、こう伝えてもらいたい。舂陵侯の下から逃亡した奴隷は、新都侯の属吏が保護した、と」
舂陵侯は王氏一門の紅陽侯と親しく交流している。王莽は過去に紅陽侯の贈収賄を告発して以降、紅陽侯と対立している。逃亡した奴隷が新都侯王莽に保護されている、と舂陵侯に伝えれば、恐らく舂陵侯は事態を深読みするであろう。奴隷を利用して紅陽侯の友人を糾弾することで、紅陽侯の不正を追及する端緒を作る。それが王莽の狙いではないか、と考えるに違いない。
「舂陵侯は紅陽侯と親しいとはいえ、王氏の争いに巻き込まれることを望みはしないだろう。争いに巻き込まれないために、逃げた奴隷はいない、ということにするに違いない」
「逃げた奴隷は、いない?」
は、と劉縯は気づいた。
「逃げた奴隷はいない、ということは――」
「そうだ。逃げた奴隷がいなければ、きみが舂陵侯から咎められる謂れは消える。きみの父母に責めが及ぶこともない」
父母に責めが及ぶことはない。その一言が、劉縯を安心させた。安心した拍子に体の力が脱け、劉縯は地面に座り込んだ。しかし、すぐに表情を一変させて王莽を見上げた。
「待ってくれ。そんなことをしたら、先生はどうなる?」
逃げた奴隷はいない、ということにするからには、舂陵侯は逃げた奴隷の痕跡を消し去ろうとするであろう。当然、劉縯が提出した印綬も処分するに違いない。印綬は官吏の身分証でもあり、常に携帯するよう法律で定められている。もし印綬を紛失すれば、厳しく罰せられる。
「気にすることはない。わたしなら大丈夫だ」
「大丈夫なもんか」
劉縯は立ち上がり、声を荒げた。
「印綬を失くすことは悪いことだ。新都侯は、悪いことを正すためなら、我が子でさえも死に追いやる人だと聞いた。印綬を失くして、無事で済むはずが――」
「頼む」
王莽は劉縯の手を取り、懇願するように頭を垂れた。
「わたしのことを案じてくれているのなら、どうかわたしを、子供を助けられない大人にしないでくれ」
王莽は劉縯に手を開かせた。銅印を劉縯の掌に置き、両手で包むようにして劉縯の手に印綬を握らせた。
陽が東の地平から離れ、農夫が畠で牛に犂を牽かせ始めた。王莽の驢馬の背に荷が載せられた。出発を前に王莽が驢馬に川の水を飲ませていると、劉縯の弟の仲が、例の不思議な幼児の手を引いて現れた。辺りを見回して異民族の少年を捜す仲と幼児に、あの少年は新都侯に保護された、と王莽は嘘をついた。仲は王莽の嘘を信じ、新都侯は奴隷を大事にする人だと聞いている、あの少年のことも大事にしてくださるだろう、と幼児と一緒に喜んだ。
「よろしければ、道中で食べてください」
驢馬に水を飲ませ終えた王莽へ、仲が球形の弁当箱を差し出した。王莽が引き換えに銅貨を数枚、仲へ渡そうとすると、劉縯が手を上げて制した。
「銭はいらない。先生には昨日、面白いものを見せてもらった」
「面白いもの?」
「舂陵侯の食客どもを叩きのめした」
くつくつと劉縯は笑みを零した。
「あいつらは、一応は侯の客分だからな。あいつらに何かされても、大抵は泣き寝入りするしかない。下手に抗議して侯の機嫌を損ねでもしたら、後でどんな嫌がらせをされるかわからないし、県に訴えたとしても、相手が列侯では動いてくれないからな」
「酷いものだ」
「だから、先生があいつらを叩きのめしてくれて、すかっとした。それにしても、先生は先生なのに、強いんだな」
「子曰く、市朝に諸と遭えば、兵に反らずして闘う」
かつて学んだ儒学の経典の一節を、王莽は暗唱した。外出先で親の仇と遭遇したら、武器を取りに帰宅したりせず、その場にて素手で闘うべし、という意味である。
「武器が無ければ闘えないようでは、真の儒者とはいえぬ」
「本当かよ。儒者というのは、やれ仁だ、やれ徳だと、お上品なことばかり言うものだと思っていたが」
「儒学の教えは、口先の空論ではない。人が人として生きるための教えである。人が人であることを忘れてしまうような、乱れた世の中でこそ、儒学の教えは生きる」
「乱れた世の中か。まさに今のことだな」
劉縯は呟いた。
今から二十年ほど前、南陽郡の北東にある潁川郡で、製鉄に従事していた労働者たちが叛乱を起こし、郡の長官を殺害した。劣悪な生活環境の下で過酷な重労働を強いられたことが、労働者を決起に至らせた。叛乱は他の郡へ燃え広がる前に鎮圧されたが、その後も叛乱の原因である労働者の待遇が改善されることはなく、製鉄労働者による叛乱や暴動が帝国の各地で続発した。
南陽郡の遥か北西、匈奴単于国と境を接する地域でも叛乱が起きた。叛乱を起こしたのは、匈奴単于国から大漢帝国へ帰順した遊牧民で、農本主義を掲げる帝国政府から農地を与えられるも、痩せた土地を割り当てられたせいで困窮し、奴隷に身を落とす者が相次いでいた。遊牧民は良質な農地、及び同族の解放を求めて幾度も蜂起したが、やはり帝国政府が訴えを聞き入れることはなく、騒乱と貧困が拡大していた。
これらの叛乱は、大漢帝国を覆う混迷の一部でしかない。政治の荒廃が貧富の格差を生み、貧困層を増大させる。貧困層が叛乱軍や盗賊団に身を投じ、治安を悪化させて社会を混乱に陥れる。人の世の乱れに感応したのか、水害や蝗害などの天災も多発し、帝国の臣民は不安に慄いていた。
「改めて名乗らせてくれ」
劉縯は王莽へ体を向き直らせた。
「汝南郡南頓県の劉県令の子、縯。大漢帝国の孝景皇帝の子、長沙定王の裔で、舂陵侯の族子だ。そっちは――」
劉縯は仲を目で示した。
「――弟の仲」
どうも、と仲は両手を胸の前に持ち上げ、掌を自分の方へ向けて、且つ右手を手前側にして左右の手を重ね合わせ、ぺこりと王莽に頭を下げた。揖礼という漢帝国の作法である。
「仲の横にいる小さいのが、末弟の秀」
劉縯が幼児を紹介すると、仲が幼児の前に身を屈め、こうするんだよ、と自らの両手を揖礼の形に重ね合わせた。秀と紹介された幼児は、仲を真似て両手を重ね合わせ、ぺこりと王莽に頭を下げた。
「重ね重ねの無礼、心から謝罪する」
劉縯が地面に両膝をつき、王莽に揖礼した。揖礼は相手に対して敬意を示す作法で、主に挨拶や感謝の際に用いられるが、両膝をついた状態での揖礼は、相手への謝罪や懇願を意味している。
「本当に申しわけない」
「頭を上げられよ。きみには感謝している。きみがいなければ、わたしは――」
王莽の頭の端を、次男の顔が掠めた。
「――わたしは、人を殺めていたかも知れない」
帰宅する劉縯、劉仲、劉秀の三兄弟と、王莽は途中まで一緒に歩いた。途次、王莽は舂陵侯に関する情報を求め、劉縯の実家について訊ねせた。
「自慢じゃないが、我が家は二千石の家だ」
二千石、とは漢帝国の官僚制度における等級の一つである。帝国の官吏は、上から順に万石、二千石、千石、六百石、四百石、三百石、二百石、百石、それ以下と等級が定められており、二百石以上が帝国政府に正規登用された正官員で、六百石以上が高級官僚とされている。劉縯の家の場合、曽祖父と祖父の最終等級が二千石、父の現在の等級が千石、もしくは六百石である。
「お父上は、汝南で県令をされているのであったな」
劉縯の父親についても、王莽はそれとなく訊ねた。劉縯は頷き、汝南郡南頓県の県令、すなわち県の長官になる前は、陳留郡済陽県の県令をしていたことを話した。
「汝南に済陽か」
王莽は考え込んだ。劉縯の父が赴任している汝南郡は、南陽郡と同じく漢帝国の第二線開拓地帯に属している地方行政区であり、また劉縯の父が以前に県令をしていたという陳留郡済陽県は、皇帝の行宮の一つが置かれている場所である。劉縯の父は舂陵侯の再従兄弟に当たる人物であるが、将来を有望視されていると考えて間違いない。
「きみたちの父上は、立派な人物なのだな」
「父上は我ら兄弟の誇りだ。おれも、将来は父上のように仕官するつもりでいる。勿論、その時はこいつらも一緒だ」
劉縯は弟たちを顧みた。
「おれの中にも、こいつらの中にも、この国を興した皇帝の血が流れている。だから、兄弟で力を合わせて、この国のために働きたいと思っている」
「わたしは――」
歩みが遅れがちな劉秀の体を、劉仲が抱え上げた。
「――仕官するつもりはありませんけどね。字を読んだり書いたりするよりも、土を耕したり、豚を太らせたりしている方が、性に合っている」
「おまえはまたそういうことを言う。もっと志を大きく持て。おまえは二千石の家に生まれたんだぞ」
劉縯は劉仲を叱りつけた。その様子が、死んだ兄にどことなく似ている気がして、王莽は梟のような目を細めた。偉くなろう。そう兄と約束を交わしたから、今の自分がいる。そして、今、兄に似た少年が自分の前にいる。
分かれ道が見えてきた。あの左右に分かれた道を、王莽は左へ、劉縯、劉仲、劉秀の三兄弟は右へ行く。
分かれ道が近づいてきた。不意に、王莽は焦りのような、胸騒ぎのような、ざわざわとした何かを胸の奥に覚えた。僅かに戸惑いながら、一歩、また一歩と分かれ道へ足を進めた。分かれ道の少し手前で劉縯が足を止めた。王莽は驢馬を立ち止まらせた。劉縯が王莽へ体を向き直らせ、両手を胸の前で揖礼の形に重ね合わせた。
「先生の、旅の無事を祈る」
「これまで以上に、貴家が盛んになることを祈る」
王莽は揖礼を返した。風が草を揺らしながら、王莽と劉縯の間を抜けた。劉縯は腕を下ろし、行くぞ、と劉仲に声をかけて歩き出した。劉秀は王莽に頭を下げ、小走りに兄の背を追いかけた。劉仲に抱えられている劉秀が、劉仲の体越しに王莽を見た。
劉秀の目に、何かを問われたような気がした。
「待て」
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過去の出来事ではありますが、独裁国家が民主国家を数で上回り、戦争が相次いで起こる『現代』だからこそ、この歴史物語はどこかに通じるものがあるかもしれません。
【第壱章 独裁者への階段】 国を一つにできない弱く愚かな支配者は、必ず滅ぶのが戦国乱世の習い
【第弐章 川中島合戦】 戦争の勝利に必要な条件は第一に補給、第二に地形
【第参章 戦いの黒幕】 人の持つ欲を煽って争いの種を撒き、愚かな者を操って戦争へと発展させる武器商人
【第肆章 織田信長の愛娘】 人間の生きる価値は、誰かの役に立つ生き方のみにこそある
【最終章 西上作戦】 人々を一つにするには、敵が絶対に必要である
この小説は『大罪人の娘』を補完するものでもあります。
(前編が執筆終了していますが、後編の執筆に向けて修正中です)
16世紀のオデュッセイア
尾方佐羽
歴史・時代
【第13章を夏ごろからスタート予定です】世界の海が人と船で結ばれていく16世紀の遥かな旅の物語です。
12章は16世紀後半のフランスが舞台になっています。
※このお話は史実を参考にしたフィクションです。
女の首を所望いたす
陸 理明
歴史・時代
織田信長亡きあと、天下を狙う秀吉と家康の激突がついに始まろうとしていた。
その先兵となった鬼武蔵こと森長可は三河への中入りを目論み、大軍を率いて丹羽家の居城である岩崎城の傍を通り抜けようとしていた。
「敵の軍を素通りさせて武士といえるのか!」
若き城代・丹羽氏重は死を覚悟する!
鉄と草の血脈――天神編
藍染 迅
歴史・時代
日本史上最大の怨霊と恐れられた菅原道真。
何故それほどに恐れられ、天神として祀られたのか?
その活躍の陰には、「鉄と草」をアイデンティティとする一族の暗躍があった。
二人の酔っぱらいが安酒を呷りながら、歴史と伝説に隠された謎に迫る。
吞むほどに謎は深まる——。
剣客居酒屋 草間の陰
松 勇
歴史・時代
酒と肴と剣と闇
江戸情緒を添えて
江戸は本所にある居酒屋『草間』。
美味い肴が食えるということで有名なこの店の主人は、絶世の色男にして、無双の剣客でもある。
自分のことをほとんど話さないこの男、冬吉には実は隠された壮絶な過去があった。
多くの江戸の人々と関わり、その舌を満足させながら、剣の腕でも人々を救う。
その慌し日々の中で、己の過去と江戸の闇に巣食う者たちとの浅からぬ因縁に気付いていく。
店の奉公人や常連客と共に江戸を救う、包丁人にして剣客、冬吉の物語。
【新訳】帝国の海~大日本帝国海軍よ、世界に平和をもたらせ!第一部
山本 双六
歴史・時代
たくさんの人が亡くなった太平洋戦争。では、もし日本が勝てば原爆が落とされず、何万人の人が助かったかもしれないそう思い執筆しました。(一部史実と異なることがあるためご了承ください)初投稿ということで俊也さんの『re:太平洋戦争・大東亜の旭日となれ』を参考にさせて頂きました。
これからどうかよろしくお願い致します!
ちなみに、作品の表紙は、AIで生成しております。
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