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第一章 重瞳の人
第三話
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「待て」
王莽は声を上げた。無頼の若者たちが一斉に振り向いた。どの若者も、ぎょ、と驚いた顔をしていた。王莽は生来、老いた狼に似た恐ろしげな声をしており、その声を初めて聞く者は、上は皇帝から下は奴隷まで驚いた。無頼の若者たちも例に漏れず、王莽の声を聞いて動揺した。王莽は自らの頭巾に手をかけた。
「人を教え導く時は、拳骨で教えねばならんこともあろうが――」
王莽は頭巾を取り、自らの面相を若者たちに見せた。若者たちは怯んだ。王莽の目は梟のように大きく、瞳は血のように赤く、更に先天的な眼疾患のせいで、一つの瞳の中に複数の瞳孔があるように見えた。その異様な目から放たれる眼光が、無頼の若者たちを圧倒した。
「――剣を抜くのは、度が過ぎている」
黙れ、と剣を抜いた若者が喚いた。王莽の胸に剣尖を突きつけ、無関係な者は口を出すな、と恫喝した。王莽は声や眼こそ人を畏怖させるに足るが、供はおらず、武器も帯びていない。若者には五人の仲間がいて、それぞれが腰に剣を佩いている。そのことが若者の口に歪んだ笑みを浮かばせた。法が及ばない裏社会の恐ろしさを知らない、口先ばかりの学者を嘲笑する言葉を、若者は王莽へ吐いた。仁だ礼だと高説を垂れるなら他所でやれ、さもなくば怪我では済まない、と目を剥いて凄んだ。若者の仲間たちが同調し、下卑た笑い声を上げた。その様子を離れた場所から見ていた子供たちが、恐怖で身を竦ませた。
しかし、新都侯王莽――かつて皇帝の護衛官を務め、その後、近衛軍の弓兵隊長や騎兵隊長を歴任した男は、突きつけられた剣に怯むことなく、剣の向こうにある若者の顔を見た。
「人を教え導く時は、拳骨で教えねばならんこともある。汝らもしていたことだ。文句は言うまいな」
あ、と若者は凄みながら首を傾げた。この期に及んで強がる王莽を、何をほざいていやがる、と嘲笑おうとした。次の瞬間、王莽の手が風のように動き、剣を握りしめている若者の手を掴んだ。若者は驚き、咄嗟に腕を引いて振り解こうとした。王莽は素早く手を放して若者の体をよろめかせると、若者の腹に拳を打ち込んだ。
若者の体が地面に崩れ落ちた。若者の仲間たちが血相を変えた。怒声と共に剣が抜かれた。数秒も経たない内に、一人が殴り倒された。二人目が投げ飛ばされ、三人目が蹴り倒された。最初に王莽に腹を打たれた若者は、打たれた腹を苦しげに押さえながら愕然と目を見開いたが、あることに気づいて地面の上を這い進んだ。その間に四人目が顎に拳を喰らい、最後の一人が畠の隅の牛糞の山へ投げ落とされた。
最初に王莽に倒された若者が、おい、と王莽へ凶暴な笑みを向けた。王莽が若者の方を振り返ると、王莽が助けようとした奴隷の少年が、若者の左腕に抱え込まれていた。こいつの命が惜しければ大人しくしろ、と若者は奴隷の少年の首に剣の刃を押し当てた。奴隷の少年に気を取られた王莽の背後で、若者の仲間の一人が身を起こした。剣を肩の上に振り上げ、王莽の背中へ突進し、剣を振り下ろした。
ひらり、と王莽の体が剣を躱した。王莽の肘が、剣を振り下ろした男の胸に打ち込まれた。胸が潰れるかのような衝撃を受け、男は吹き飛ぶように倒れた。剣を握りしめている男の手が、王莽の足に踏みつけられた。男は絶叫した。王莽の足が離れると、男は土の上を転がりながら、指が、指が、と泣き叫んだ。奴隷の少年に剣を突きつけていた若者が蒼褪め、こいつの命が惜しくないのか、と王莽に質した。王莽は若者の方へ目を戻した。
「その子を殺せば、次は、おまえが死ぬことになる」
そんな脅しに誰が乗るか、と若者は歯を剥き出しにした。漢帝国の法律では、奴隷を殺しても死刑にはならない。だが、おれを殺せば、おまえは死刑だ、と若者は口角から泡を飛ばした。
「子曰く、天地の性、人を貴しと為す」
王莽の重瞳――複数の瞳孔を有する瞳が、波一つ無い湖面のように若者の顔を映した。
「わたしは、儒者だ」
儒者、とは儒学という学問を修めた者のことである。
「たとえ生きながらにして地に埋められることになろうとも、儒学の教えに従う。人を貴ばず、人を殺めれば、死を以て償わせる」
一歩、王莽は若者の方へ足を踏み出した。赤い重瞳に尋常ならざる光を湛え、二歩、三歩と足を進めた。若者は近づいてくる重瞳に慄いた。懸命に足で土を掻き、重瞳から遠ざかろうとしながら、殺せるはずがない、と喚いた。見ず知らずの奴隷のために、そこまで出来るはずがない、と目を血走らせた。
奴隷を殺した我が子に自殺を強いた男が、この南陽郡にいることを、若者は唐突に思い出した。血のように赤い重瞳が、更に一歩、若者に近づいた。
「その子を放せ。その子は、人間だ」
うるさい、と若者は叫んだ。殺せるものなら殺してみやがれ、と喚き、人質にしている奴隷の少年を殺すために、剣を強く握りしめた。
「そこまでだ!」
王莽の後ろで、少年の声が凛然と響いた。びくりと若者の肩が震え、奴隷の少年の喉を裂こうとしていた剣が寸前で停止した。少年の声が更に響いた。
「諸君の私闘は、汝南郡南頓県の劉県令の子、縯が預かる」
馬の蹄が地を打つ音が近づいてきた。王莽は音が聞こえる方へ重瞳を向けた。年齢は十四か十五くらいの、明らかに普通の農民とは異なる雰囲気の少年が、葦毛の馬に騎乗して王莽らの許へ駆けてきた。
劉縯、と若者が馬上の少年を睨みつけた。手綱を引いて馬を止めた少年に、何のつもりだ、と大声で質した。劉縯と呼ばれた少年は若者を睨み返した。
「この場は縯が預かる。その奴隷を放して、諸君は去れ」
その赤い目の男に味方するのか、と若者は吠えた。
「おまえら屑どもの尻拭いをしてやると言っているんだ」
何だと、と若者は顔面に朱を上らせたが、地面に倒れている仲間たちに制止された。数秒の葛藤の後、若者は奴隷の少年を王莽の方へ突き飛ばした。剣を杖にして立ち上がりながら、葦毛の馬の上の少年を睨みつけ、このことは舂陵侯に報告する、と歯の間から言葉を絞り出した。
「勝手にしろ。おれも族父上に、おまえらは通りすがりの儒者に叩きのめされるような役立たずだと伝えさせてもらう」
役立たずだと、と若者は再び顔を赤くしたが、よせ、と止める仲間の声が四方から飛んだ。
無頼の若者たちが去ると、王莽は自らの異様な相貌を頭巾で隠し、奴隷の少年を助け起こした。物陰から様子を見ていた子供たちが、縯という名の少年の周りに駆けてきた。どの子供も、舂陵侯の私兵に痛めつけられた奴隷の少年を心配していたが、王莽が梟のように大きな目を向けると、怯えた様子で劉縯の馬の陰に隠れた。無理もない、と王莽は頭巾を深く被り直した。劉縯が王莽へ葦毛の馬を近づけた。
「そいつは、先生の――」
劉縯が言う先生とは、学識が豊かな者に対する敬称である。
「――知り合いか?」
傷だらけ、土塗れの奴隷の少年を、劉縯は一瞥した。王莽は馬上の劉縯を見上げた。
「違う」
「見ず知らずの奴隷を、助けようとしたのか?」
「大勢に殴られたり蹴られたりしていた。剣を抜いた者もいた。それを見たら、考えるより先に体が動いていた」
「これから、そいつをどうするつもりだ?」
「とりあえず、どこかで休ませたい。近くに休める場所はないだろうか?」
王莽が問うと、少しの間、劉縯は考える素振りを見せた。
「郷の者が共同で使っている小屋がある。そこを使わせてもらおう」
劉縯に案内され、王莽は奴隷の少年を小屋へ運んだ。少年を筵の上に寝かせた時、近くで野草を摘んでいた子供たちが小屋の前に集まり、中を覗き込んできた。満二歳くらいの幼児を背負い、他の子供を引率していた少年が、小屋の出入り口の子供たちを掻き分けて劉縯に話しかけた。
「兄上、怪我人ですか?」
「仲か。そいつらを今すぐ郷へ帰せ。これは舂陵侯の食客どもの仕業だ」
舂陵侯の食客と聞き、仲と呼ばれた少年は顔を顰めた。食客とは私兵の一種で、客分という形で主人に仕えている民間人を指すが、その多くは世間から弾き出された無法者であり、凶悪な犯罪者が潜り込んでいることも少なくない。仲は子供たちに郷へ戻るよう指示した。子供たちが小屋の前から去ると、筵の上に寝かされている奴隷の少年に近づき、もう大丈夫だぞ、と穏やかに微笑みかけながら、首を伸ばして傷の様子を検めた。
「傷が土で汚れている。兄上、秀を頼みます」
仲は背中の幼児を劉縯に預けると、近くの川から水を汲んできた。王莽は仲と共に奴隷の少年の傷を洗い清めたが、ふと気配を感じて顔を上げた。郷に帰されたはずの子供たちの一人が、恐る恐るという態で、小屋の出入り口から中を覗いていた。子供は王莽と目が有ると、抱えていた籠を足許に置いて走り去った。籠の中には、出血や炎症を抑える効果がある薬草が入れられていた。
劉縯が小屋の外へ顔を出し、早く帰れと言ったろう、と拳を振り上げた。物陰から数人の子供が転がり出た。まあまあ、と仲が劉縯を宥めながら、薬草を掌で揉み潰し、滲み出た汁を奴隷の少年の傷に塗り込んだ。
「他に痛むところはないか?」
自分の着替えの衣を掛けてやりながら、王莽は出来るだけ優しい声で奴隷の少年に訊ねた。少年は口を開いて何か言った。王莽は困惑した。少年が口にした言葉は、漢帝国の公用語ではなかった。
「あいあおう」
横から声がした。声の方を見ると、先程まで仲の背に負われていた幼児が王莽を見ていた。
「あいあおう」
幼児は笑顔で繰り返した。王莽は動揺した。頭巾で半ば隠されている王莽の眼へ、幼児は恐れることなく円らな瞳を向けていた。この赤く大きな重瞳を恐れず、正面から見つめてくる幼児を、王莽は初めて見た。
「ありがとう、と言いたいらしい」
王莽の動揺の意味を勘違いし、劉縯が幼児の言葉を通訳した。王莽は幼児から目を逸らした。
「その子は、蛮夷の言葉がわかるのか?」
蛮とは南方異民族、夷とは東方異民族を意味する語である。劉縯は忌々しげに頷くと、腕に抱えている幼児を叱りつけた。
「その言葉は忘れろと言ったろう。蛮夷の言葉なんか覚えても、出世の役には立たない。そんなものを覚える暇があるなら、一つでも多く文字を覚えろ」
「まあまあ、よいではありませんか」
劉縯を宥める仲の声を背中で聞きながら、王莽は改めて奴隷の少年を見た。南陽郡の更に南、南方異民族の生活圏と境を接している第一線開拓地帯では、開拓民と先住民族の間で土地を巡る争いが絶えない。南陽郡へ供給される奴隷には、開拓民との紛争で捕らえられた異民族が少なからず含まれており、この少年も開拓民の山狩りで捕らえられ、南陽郡へ売り飛ばされたのであろう。
その日、王莽は異民族の少年と小屋に宿泊した。夜が更けても眠れず、窓の格子から漏れる月の光を眺めた。闇に耳を澄ますと、異民族の少年の寝息が聞こえた。
昔のことを思い出した。十三歳の夜、病床で眠る父の手を握り、今にも消えそうな父の寝息に耳を澄ました。二十四歳の夜、病床で眠る伯父の枕頭に侍り、だんだんと細くなる伯父の寝息に耳を澄ました。伯父の寝息が途絶えた数日後、皇帝の護衛官に任命された。以後、近衛軍の要職を歴任し、爵位と領地を与えられ、政争に敗れて帝都を追われ、そして、次男が人を殺した。
不意に異民族の少年が身動ぎした。寝言のようなものが少年の口から漏れた。王莽は少年の寝顔へ目を向けた。自らの膝に掛けていた布を取り、少年の体に掛けた。
夜が明けた。王莽は鳥の声で目を覚ました。異民族の少年に掛けた布が、自らの体に掛けられていることに気づいた。上体を僅かに起こし、小屋の中を見回した。少年と、少年が着ていた衣服が消えていた。王莽は跳ね起きた。姿が見えない少年を捜し、小屋の外へ走り出た。
劉縯が弓を構え、異民族の少年へ矢を放とうとしていた。
王莽は声を上げた。無頼の若者たちが一斉に振り向いた。どの若者も、ぎょ、と驚いた顔をしていた。王莽は生来、老いた狼に似た恐ろしげな声をしており、その声を初めて聞く者は、上は皇帝から下は奴隷まで驚いた。無頼の若者たちも例に漏れず、王莽の声を聞いて動揺した。王莽は自らの頭巾に手をかけた。
「人を教え導く時は、拳骨で教えねばならんこともあろうが――」
王莽は頭巾を取り、自らの面相を若者たちに見せた。若者たちは怯んだ。王莽の目は梟のように大きく、瞳は血のように赤く、更に先天的な眼疾患のせいで、一つの瞳の中に複数の瞳孔があるように見えた。その異様な目から放たれる眼光が、無頼の若者たちを圧倒した。
「――剣を抜くのは、度が過ぎている」
黙れ、と剣を抜いた若者が喚いた。王莽の胸に剣尖を突きつけ、無関係な者は口を出すな、と恫喝した。王莽は声や眼こそ人を畏怖させるに足るが、供はおらず、武器も帯びていない。若者には五人の仲間がいて、それぞれが腰に剣を佩いている。そのことが若者の口に歪んだ笑みを浮かばせた。法が及ばない裏社会の恐ろしさを知らない、口先ばかりの学者を嘲笑する言葉を、若者は王莽へ吐いた。仁だ礼だと高説を垂れるなら他所でやれ、さもなくば怪我では済まない、と目を剥いて凄んだ。若者の仲間たちが同調し、下卑た笑い声を上げた。その様子を離れた場所から見ていた子供たちが、恐怖で身を竦ませた。
しかし、新都侯王莽――かつて皇帝の護衛官を務め、その後、近衛軍の弓兵隊長や騎兵隊長を歴任した男は、突きつけられた剣に怯むことなく、剣の向こうにある若者の顔を見た。
「人を教え導く時は、拳骨で教えねばならんこともある。汝らもしていたことだ。文句は言うまいな」
あ、と若者は凄みながら首を傾げた。この期に及んで強がる王莽を、何をほざいていやがる、と嘲笑おうとした。次の瞬間、王莽の手が風のように動き、剣を握りしめている若者の手を掴んだ。若者は驚き、咄嗟に腕を引いて振り解こうとした。王莽は素早く手を放して若者の体をよろめかせると、若者の腹に拳を打ち込んだ。
若者の体が地面に崩れ落ちた。若者の仲間たちが血相を変えた。怒声と共に剣が抜かれた。数秒も経たない内に、一人が殴り倒された。二人目が投げ飛ばされ、三人目が蹴り倒された。最初に王莽に腹を打たれた若者は、打たれた腹を苦しげに押さえながら愕然と目を見開いたが、あることに気づいて地面の上を這い進んだ。その間に四人目が顎に拳を喰らい、最後の一人が畠の隅の牛糞の山へ投げ落とされた。
最初に王莽に倒された若者が、おい、と王莽へ凶暴な笑みを向けた。王莽が若者の方を振り返ると、王莽が助けようとした奴隷の少年が、若者の左腕に抱え込まれていた。こいつの命が惜しければ大人しくしろ、と若者は奴隷の少年の首に剣の刃を押し当てた。奴隷の少年に気を取られた王莽の背後で、若者の仲間の一人が身を起こした。剣を肩の上に振り上げ、王莽の背中へ突進し、剣を振り下ろした。
ひらり、と王莽の体が剣を躱した。王莽の肘が、剣を振り下ろした男の胸に打ち込まれた。胸が潰れるかのような衝撃を受け、男は吹き飛ぶように倒れた。剣を握りしめている男の手が、王莽の足に踏みつけられた。男は絶叫した。王莽の足が離れると、男は土の上を転がりながら、指が、指が、と泣き叫んだ。奴隷の少年に剣を突きつけていた若者が蒼褪め、こいつの命が惜しくないのか、と王莽に質した。王莽は若者の方へ目を戻した。
「その子を殺せば、次は、おまえが死ぬことになる」
そんな脅しに誰が乗るか、と若者は歯を剥き出しにした。漢帝国の法律では、奴隷を殺しても死刑にはならない。だが、おれを殺せば、おまえは死刑だ、と若者は口角から泡を飛ばした。
「子曰く、天地の性、人を貴しと為す」
王莽の重瞳――複数の瞳孔を有する瞳が、波一つ無い湖面のように若者の顔を映した。
「わたしは、儒者だ」
儒者、とは儒学という学問を修めた者のことである。
「たとえ生きながらにして地に埋められることになろうとも、儒学の教えに従う。人を貴ばず、人を殺めれば、死を以て償わせる」
一歩、王莽は若者の方へ足を踏み出した。赤い重瞳に尋常ならざる光を湛え、二歩、三歩と足を進めた。若者は近づいてくる重瞳に慄いた。懸命に足で土を掻き、重瞳から遠ざかろうとしながら、殺せるはずがない、と喚いた。見ず知らずの奴隷のために、そこまで出来るはずがない、と目を血走らせた。
奴隷を殺した我が子に自殺を強いた男が、この南陽郡にいることを、若者は唐突に思い出した。血のように赤い重瞳が、更に一歩、若者に近づいた。
「その子を放せ。その子は、人間だ」
うるさい、と若者は叫んだ。殺せるものなら殺してみやがれ、と喚き、人質にしている奴隷の少年を殺すために、剣を強く握りしめた。
「そこまでだ!」
王莽の後ろで、少年の声が凛然と響いた。びくりと若者の肩が震え、奴隷の少年の喉を裂こうとしていた剣が寸前で停止した。少年の声が更に響いた。
「諸君の私闘は、汝南郡南頓県の劉県令の子、縯が預かる」
馬の蹄が地を打つ音が近づいてきた。王莽は音が聞こえる方へ重瞳を向けた。年齢は十四か十五くらいの、明らかに普通の農民とは異なる雰囲気の少年が、葦毛の馬に騎乗して王莽らの許へ駆けてきた。
劉縯、と若者が馬上の少年を睨みつけた。手綱を引いて馬を止めた少年に、何のつもりだ、と大声で質した。劉縯と呼ばれた少年は若者を睨み返した。
「この場は縯が預かる。その奴隷を放して、諸君は去れ」
その赤い目の男に味方するのか、と若者は吠えた。
「おまえら屑どもの尻拭いをしてやると言っているんだ」
何だと、と若者は顔面に朱を上らせたが、地面に倒れている仲間たちに制止された。数秒の葛藤の後、若者は奴隷の少年を王莽の方へ突き飛ばした。剣を杖にして立ち上がりながら、葦毛の馬の上の少年を睨みつけ、このことは舂陵侯に報告する、と歯の間から言葉を絞り出した。
「勝手にしろ。おれも族父上に、おまえらは通りすがりの儒者に叩きのめされるような役立たずだと伝えさせてもらう」
役立たずだと、と若者は再び顔を赤くしたが、よせ、と止める仲間の声が四方から飛んだ。
無頼の若者たちが去ると、王莽は自らの異様な相貌を頭巾で隠し、奴隷の少年を助け起こした。物陰から様子を見ていた子供たちが、縯という名の少年の周りに駆けてきた。どの子供も、舂陵侯の私兵に痛めつけられた奴隷の少年を心配していたが、王莽が梟のように大きな目を向けると、怯えた様子で劉縯の馬の陰に隠れた。無理もない、と王莽は頭巾を深く被り直した。劉縯が王莽へ葦毛の馬を近づけた。
「そいつは、先生の――」
劉縯が言う先生とは、学識が豊かな者に対する敬称である。
「――知り合いか?」
傷だらけ、土塗れの奴隷の少年を、劉縯は一瞥した。王莽は馬上の劉縯を見上げた。
「違う」
「見ず知らずの奴隷を、助けようとしたのか?」
「大勢に殴られたり蹴られたりしていた。剣を抜いた者もいた。それを見たら、考えるより先に体が動いていた」
「これから、そいつをどうするつもりだ?」
「とりあえず、どこかで休ませたい。近くに休める場所はないだろうか?」
王莽が問うと、少しの間、劉縯は考える素振りを見せた。
「郷の者が共同で使っている小屋がある。そこを使わせてもらおう」
劉縯に案内され、王莽は奴隷の少年を小屋へ運んだ。少年を筵の上に寝かせた時、近くで野草を摘んでいた子供たちが小屋の前に集まり、中を覗き込んできた。満二歳くらいの幼児を背負い、他の子供を引率していた少年が、小屋の出入り口の子供たちを掻き分けて劉縯に話しかけた。
「兄上、怪我人ですか?」
「仲か。そいつらを今すぐ郷へ帰せ。これは舂陵侯の食客どもの仕業だ」
舂陵侯の食客と聞き、仲と呼ばれた少年は顔を顰めた。食客とは私兵の一種で、客分という形で主人に仕えている民間人を指すが、その多くは世間から弾き出された無法者であり、凶悪な犯罪者が潜り込んでいることも少なくない。仲は子供たちに郷へ戻るよう指示した。子供たちが小屋の前から去ると、筵の上に寝かされている奴隷の少年に近づき、もう大丈夫だぞ、と穏やかに微笑みかけながら、首を伸ばして傷の様子を検めた。
「傷が土で汚れている。兄上、秀を頼みます」
仲は背中の幼児を劉縯に預けると、近くの川から水を汲んできた。王莽は仲と共に奴隷の少年の傷を洗い清めたが、ふと気配を感じて顔を上げた。郷に帰されたはずの子供たちの一人が、恐る恐るという態で、小屋の出入り口から中を覗いていた。子供は王莽と目が有ると、抱えていた籠を足許に置いて走り去った。籠の中には、出血や炎症を抑える効果がある薬草が入れられていた。
劉縯が小屋の外へ顔を出し、早く帰れと言ったろう、と拳を振り上げた。物陰から数人の子供が転がり出た。まあまあ、と仲が劉縯を宥めながら、薬草を掌で揉み潰し、滲み出た汁を奴隷の少年の傷に塗り込んだ。
「他に痛むところはないか?」
自分の着替えの衣を掛けてやりながら、王莽は出来るだけ優しい声で奴隷の少年に訊ねた。少年は口を開いて何か言った。王莽は困惑した。少年が口にした言葉は、漢帝国の公用語ではなかった。
「あいあおう」
横から声がした。声の方を見ると、先程まで仲の背に負われていた幼児が王莽を見ていた。
「あいあおう」
幼児は笑顔で繰り返した。王莽は動揺した。頭巾で半ば隠されている王莽の眼へ、幼児は恐れることなく円らな瞳を向けていた。この赤く大きな重瞳を恐れず、正面から見つめてくる幼児を、王莽は初めて見た。
「ありがとう、と言いたいらしい」
王莽の動揺の意味を勘違いし、劉縯が幼児の言葉を通訳した。王莽は幼児から目を逸らした。
「その子は、蛮夷の言葉がわかるのか?」
蛮とは南方異民族、夷とは東方異民族を意味する語である。劉縯は忌々しげに頷くと、腕に抱えている幼児を叱りつけた。
「その言葉は忘れろと言ったろう。蛮夷の言葉なんか覚えても、出世の役には立たない。そんなものを覚える暇があるなら、一つでも多く文字を覚えろ」
「まあまあ、よいではありませんか」
劉縯を宥める仲の声を背中で聞きながら、王莽は改めて奴隷の少年を見た。南陽郡の更に南、南方異民族の生活圏と境を接している第一線開拓地帯では、開拓民と先住民族の間で土地を巡る争いが絶えない。南陽郡へ供給される奴隷には、開拓民との紛争で捕らえられた異民族が少なからず含まれており、この少年も開拓民の山狩りで捕らえられ、南陽郡へ売り飛ばされたのであろう。
その日、王莽は異民族の少年と小屋に宿泊した。夜が更けても眠れず、窓の格子から漏れる月の光を眺めた。闇に耳を澄ますと、異民族の少年の寝息が聞こえた。
昔のことを思い出した。十三歳の夜、病床で眠る父の手を握り、今にも消えそうな父の寝息に耳を澄ました。二十四歳の夜、病床で眠る伯父の枕頭に侍り、だんだんと細くなる伯父の寝息に耳を澄ました。伯父の寝息が途絶えた数日後、皇帝の護衛官に任命された。以後、近衛軍の要職を歴任し、爵位と領地を与えられ、政争に敗れて帝都を追われ、そして、次男が人を殺した。
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夜が明けた。王莽は鳥の声で目を覚ました。異民族の少年に掛けた布が、自らの体に掛けられていることに気づいた。上体を僅かに起こし、小屋の中を見回した。少年と、少年が着ていた衣服が消えていた。王莽は跳ね起きた。姿が見えない少年を捜し、小屋の外へ走り出た。
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忍者同心の誕生である。
だが、忍者ではない文蔵が忍者と呼ばれる事を、伊賀、甲賀忍者の末裔たちが面白く思わず、事あるごとに文蔵に喧嘩を仕掛けて来る事に。
それに、江戸を騒がす数々の事件が起き、どうやら文蔵の過去と関りが……
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