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第一章 重瞳の人
第二話
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王莽の爵位は列侯爵、爵位に付随する称号は新都侯であり、その領地である新都侯国は南陽郡にある。
南陽郡は漢帝国の第二線開拓地帯に属している重要な地方行政区の一つである。かつては深い森が広がり、独自の文化を持つ異民族が生活していたが、二百年前に多くの開拓民が送り込まれ、今日までに広大な農地が拓かれた。帝都と東南の諸市を結ぶ交通の要衝でもあり、そのために商人の動きが活発で、また水や森、鉱山などの天然資源にも恵まれていることから、手工業や製鉄業なども盛んに営まれていた。
建平二年四月(紀元前五年五月)、王莽は新都侯国への帰国を命じられた。事実上の追放であり、少なくない官民が再考を求めたが、皇帝が意を翻すことはなく、王莽は妻子を連れて帝都を離れた。
南陽郡へ居を移してからも、王莽は清貧と評された生活を堅持した。内心は鬱々としていたが、幸か不幸か、そういう気持ちと共存することには慣れていた。憂さを晴らすために酒食や遊興に逃げたりはせず、時折、地元の名士と目立たない程度に交流しながら、壁と書物を相手にする日々を過ごした。
南陽郡へ蟄居させられて一年が過ぎた頃、事件が起きた。王莽と共に暮らしていた王莽の次男が、邸で働いていた奴隷を殺した。王莽の次男は王莽と異なり、有力な父親の庇護の下で、贅沢は許されないながらも人に阿られて成長した。不遇や挫折に慣れておらず、些細な理由で奴隷に暴力を振るい、ついには剣を抜いて刺し殺した。
王莽は次男の凶行を知ると、自殺して罪を償え、と次男に命じた。次男が恐れて、帝国の法律では奴隷を殺しても死刑にはならないはず、と抗弁すると、王莽は厳然と告げた。
「子曰く、天地の性、人を貴しと為す」
人は天地の間に存在する万物の中で最も貴い、という意味の言葉である。
「奴隷といえども人である。汝は人を貴ばず、人を殺めた。死して償うべきである」
その夜、横たわる次男の亡骸に付き添う妻に、王莽は次男を自殺させたことへの理解を求めた。王氏一門は過去の専横のために皇帝から嫌われており、もし次男の凶行が皇帝の耳に達すれば、一門の全員が粛清される可能性がある。次男に自殺を強いたのは、王氏に自浄能力があることを示すことで粛清を避けるためでもあり、決して死なせたくて死なせたわけではない。全ては一族を守るためだ、と王莽は声を大きくしたが、妻は王莽の言葉に耳を貸さず、涙で赤く腫れた目で次男の顔を見つめ続けた。
居合わせていた長男が、今夜はもう休むよう王莽に勧めた。王莽は妻と長男と残して部屋を出た。夜空を見上げて息をつき、中庭に面した回廊を歩き出したが、回廊の角を曲がろうとした時、妻の声が後ろから微かに聞こえた。
あの人は、己の子を愛さず、己の子を殺めた。何が人格高潔の士か。これが人の親のすることか。
王莽は足を止めた。兄の喪に服していた時、賑やかな物音が遠くから聞こえたことを思い出した。再び歩き出しながら、あの時のように上を向いて書物の文章を暗唱した。かつての自分は、そうすることで兄の死に耐えた。だから、あの時と同じことをすれば、次男の死に耐えられると信じた。
しかし、あの時のように耐えるには、王莽は少しだけ歳を取りすぎていた。次男の死から数十日が過ぎた。王莽は暗唱することに疲れた。疲れた自分に気づいて愕然とした。悲嘆し、絶望し、その果てに何かを求めて三人の侍女を愛した。侍女の膝を枕にして横になりながら、ふと王莽は考えた。
自分は、これで終わりなのだろうか。何か自分に出来ることはないのか。こうして緩やかに朽ちていくことを、受け入れるしかないのだろうか。
誰か、わたしを見つけてくれ。わたしが朽ちてしまう前に。
王莽は侍女たちに子を産ませた。妻との関係はますます冷え込んだ。王莽の長男が父母を案じ、少しでも母の慰めになればと庭に花の苗を植えながら、その様子を眺めていた王莽に外出して気分転換を図ることを勧めた。王莽は長男の勧めを容れ、素性を隠して密かに外出することを繰り返した。
その日も、王莽は旅の学者を装い、広袖の緩やかな長衣を身に纏い、斗篷状の灰色の外套を肩に羽織り、黒い頭巾を目深に被り、荷を載せた驢馬を後ろに従えた姿で邸の裏門を出た。
季節は春になろうとしていた。集落の外へ通じる道を歩いていると、ぴいちちと雲雀が鳴く声が瓦葺きの屋根の上から聞こえた。集落を出て農地を見渡せば、農夫が牛に犂を牽かせて土を耕していた。王莽は驢馬を引いて南へ進んだ。途中の集落で一泊し、翌日の夕方に城壁を備えた小都市へ入り、四日目の朝に目的地である舂陵侯国の土を踏んだ。
漢帝国の一大開拓地である南陽郡には、労働力の需要を満たすために多数の人間が流入している。その多くは貧困層に属しており、裕福な豪族から金銭や穀物を借りたり、家族や自身を奴隷として豪族に売ることで、辛うじて生活していた。豪族は買い入れた奴隷に新たな農地を拓かせ、その一方で金穀の返済に窮した貧農の田地を買い上げることで、自らが私有する農地を増やした。
舂陵侯国の領主であり、大漢帝国の帝室の一員である舂陵侯も、そのようにして三百頃(約千四百ヘクタール)もの農地を手に入れた南陽郡の有力豪族の一人である。王莽は頭巾を深く被り直した。王莽は失脚する以前、王氏一門の浄化のために従兄の贈収賄を告発し、従兄から贈賄を受けていた紅陽侯を帝都から追い出していた。紅陽侯は王莽の叔父の一人であるが、帝都に蔓延る無法者を私兵として養い、地方の行政長官と結託して農民から土地を奪う等の行為を繰り返していた。その絵に描いたような悪徳貴族の紅陽侯と、舂陵侯は親しく交際しており、もし王莽の微行が露見すれば、生きては舂陵侯国から出られない可能性がある。
怪しまれない程度に辺りを見回しながら、王莽は歩を進めた。しばらく進むと、川の水を牛に飲ませている農夫を見つけた。王莽は農夫の頭に目を留めた。漢帝国では、男性は髪を結い上げて髷を作り、それを布で包んで大切に保護する。髪には霊力が宿ると考えられているからであるが、牛に水を飲ませている農夫は、結い上げた髪を布で包まずに剥き出しにしていた。王莽は川辺へ近づき、自らも川の水を驢馬に飲ませながら農夫に話しかけた。
「洛陽の東では――」
洛陽、とは南陽郡の北隣の郡にある都市で、帝国領の中心に位置している。
「――雨が降らないそうだが、この辺りはどうだね」
王莽の声を聞いて、ぎょ、と農夫は驚いた顔をしたが、すぐに表情を和らげた。見ての通りさ、と目の前の川を指し、この水量なら自分たちの田まで水が回ってくるだろう、と微笑んだ。
「回ってくる? 順番があるのかね?」
王莽は農夫に訊ねた。農夫は頷き、舂陵侯国では舂陵侯が最初に農業用水を使い、残りを中小農民が分け合う、と説明した。雨が少ない時は舂陵侯が農業用水を使い切ることもあるが、舂陵侯国の農民は舂陵侯から金銭、種籾、犂を牽かせる牛などを借りており、舂陵侯を頼らねば生活を成り立たせることが出来ない。何より、舂陵侯は数百人の無法者を私兵として従えているので、とても逆らうことは出来ない、と肩を竦めた。
対岸に数人の子供が現れ、微風に揺れる野花、野花の上を飛ぶ蝶には目もくれず、食べられる草、薬になる草を摘み始めた。その様子を眺めながら、王莽は少しの間、農夫と話した。髷を包むための僅かな布にも事欠いているらしい農夫へ、王莽が手持ちの布を何枚か贈ると、農夫は子供のように無邪気に喜び、王莽からの質問に自分が知る限りのことを答えた。
「舂陵侯は、陰氏とも繋がりがあるのか」
舂陵侯と交流がある豪族について、遠回しに農夫に訊ねた王莽は、農夫の答えを聞いて驚いた。陰氏は七百頃(約三千三百ヘクタール)もの農地を私有している南陽郡屈指の大豪族で、その邸宅は王莽の領地のすぐ近くにある。
舂陵侯と陰氏の詳しい関係を、王莽は農夫に訊ねた。舂陵侯の一族の女が、これも南陽郡の有力な豪族である鄧氏に嫁いでおり、その鄧氏から陰氏へ女が嫁いでいることを、農夫は王莽に教えた。
「なるほど、新野の鄧氏が舂陵侯と陰氏を繋げているのか」
農夫は更に、陰氏の当主が自らの子の教育のために、優れた教師を探していることを王莽に伝え、学識に自信があるなら陰氏を訪ねるよう勧めた。王莽は謝辞を述べて農夫と別れた。牛と共に去る農夫の背を見送り、驢馬の手綱を引いて歩き出した。
邸の外へ出て気分転換をしてはどうか、と長男に勧められて以降、王莽は積極的に南陽郡の各地を微行し、開拓村の空気に触れた。最初の微行では、彼方まで広がる水田が鏡のように青空を映している様を見た。北の地平から南の地平へ滔々と流れる河川と、舳先に羊を乗せて河川を渡る竹の船を見た。人生の大半を帝都で過ごした王莽の目には、それらの風景は素朴でありながらも新鮮、且つ美しく見えた。大いに感動して帰宅し、数日の休息を経て二度目の微行に出た。二度目の微行では、夕空を飛ぶ数百羽の鴇の群れを見た。夜の川辺で数百の蛍の光を見た。淡水生の小型の歯鯨が船に並走して戯れる様を見た。
そして、米の飯を食べている犬を、豪族の邸で見た。家畜の餌を食べて飢えを凌ぐ子供を、貧農の家で見た。
衝撃を受けた。農村に深く根を下ろす貧富の格差に愕然とした。豪族の搾取の苛烈さに憤激し、豪族を放置している帝国政府に憤慨した。憤りに憤りを重ねた末に、これまで農村の現実を知らずにいた自分に気づき、己の無知を心から恥じた。今からでも農村の現実を知り、現実を変えるために行動しなければ、と決意した。農村の現実を知るために微行を繰り返し、訪れた場所で農民の話に耳を傾けた。
しかし、王莽は時に思うことがある。農村の現実を変えることが、本当に出来るのか。現実を変えるために行動することが出来るのか。政争に敗れて帝都を追われた、政治的には既に死んでいるも同然の自分に、今さら何が出来るというのか。今、自分がしていることは、結局は現実逃避に過ぎないのではないか。妻との冷めた関係から、逃げているだけではないのか。
王莽は驢馬を引いて歩き続けた。顔を見られないように下を向き、時に深く息を吐きながら足を進めていると、不意に人の気配を感じた。気配の方へ目をやると、道端の柳の陰に数人の子供が身を隠し、何かを見ていた。どの子供も怯えた表情をしていた。王莽は不審に思い、子供たちが見ている方を見た。
堅気ではなさそうな風体の若者たちが、襤褸を着た少年を囲んで殴る蹴るの暴行を加えていた。
王莽は赫とした。駆け出そうとして、寸前で自制した。あの堅気ではなさそうな風体の若者たちは、恐らくは舂陵侯の私兵であろう。逃亡を企てた舂陵侯の私有奴隷に制裁を加え、連れ戻そうとしているに違いない。出来ることなら暴行を止めたいが、今の自分の立場を考えれば、手を出すことは憚られた。若者たちへの怒りと、何も出来ない自分への怒りを抑え、王莽は顔を伏せた。柳の陰に隠れていた子供の一人が王莽に気づいた。何かを訴えるように、子供は王莽を見つめた。王莽は気づかない振りをして歩き出した。耐えるために、かつて学んだ書物の文章を小声で暗唱した。
子曰く、天地の性、人を貴しと為す。人の行いは、孝より大なるは莫し。孝は父を厳ぶより大なるは莫し。父を厳ぶは天に配するより大なるは莫し。則ち周公は其の人なり。
若者たちに暴行されていた少年が地面に倒れた。亀のように蹲る少年の背を、若者たちは踏み躙るように何度も蹴りつけた。王莽と王莽の驢馬が若者たちの後ろを通りすぎた。若者の一人が少年の髪を掴んで引き起こし、どこかへ連れて行こうとした。少年は若者の手に噛みついて抵抗した。別の若者が少年を殴りつけた。地に倒れ伏した少年を見下ろして、ち、と苛立たしげに舌打ちし、腰の佩剣を掴んだ。
すら、と剣が鞘の中を滑る微かな音を、王莽は背後に聞いた。死んだ次男の顔が、王莽の脳裏を掠めて消えた。
「待て」
南陽郡は漢帝国の第二線開拓地帯に属している重要な地方行政区の一つである。かつては深い森が広がり、独自の文化を持つ異民族が生活していたが、二百年前に多くの開拓民が送り込まれ、今日までに広大な農地が拓かれた。帝都と東南の諸市を結ぶ交通の要衝でもあり、そのために商人の動きが活発で、また水や森、鉱山などの天然資源にも恵まれていることから、手工業や製鉄業なども盛んに営まれていた。
建平二年四月(紀元前五年五月)、王莽は新都侯国への帰国を命じられた。事実上の追放であり、少なくない官民が再考を求めたが、皇帝が意を翻すことはなく、王莽は妻子を連れて帝都を離れた。
南陽郡へ居を移してからも、王莽は清貧と評された生活を堅持した。内心は鬱々としていたが、幸か不幸か、そういう気持ちと共存することには慣れていた。憂さを晴らすために酒食や遊興に逃げたりはせず、時折、地元の名士と目立たない程度に交流しながら、壁と書物を相手にする日々を過ごした。
南陽郡へ蟄居させられて一年が過ぎた頃、事件が起きた。王莽と共に暮らしていた王莽の次男が、邸で働いていた奴隷を殺した。王莽の次男は王莽と異なり、有力な父親の庇護の下で、贅沢は許されないながらも人に阿られて成長した。不遇や挫折に慣れておらず、些細な理由で奴隷に暴力を振るい、ついには剣を抜いて刺し殺した。
王莽は次男の凶行を知ると、自殺して罪を償え、と次男に命じた。次男が恐れて、帝国の法律では奴隷を殺しても死刑にはならないはず、と抗弁すると、王莽は厳然と告げた。
「子曰く、天地の性、人を貴しと為す」
人は天地の間に存在する万物の中で最も貴い、という意味の言葉である。
「奴隷といえども人である。汝は人を貴ばず、人を殺めた。死して償うべきである」
その夜、横たわる次男の亡骸に付き添う妻に、王莽は次男を自殺させたことへの理解を求めた。王氏一門は過去の専横のために皇帝から嫌われており、もし次男の凶行が皇帝の耳に達すれば、一門の全員が粛清される可能性がある。次男に自殺を強いたのは、王氏に自浄能力があることを示すことで粛清を避けるためでもあり、決して死なせたくて死なせたわけではない。全ては一族を守るためだ、と王莽は声を大きくしたが、妻は王莽の言葉に耳を貸さず、涙で赤く腫れた目で次男の顔を見つめ続けた。
居合わせていた長男が、今夜はもう休むよう王莽に勧めた。王莽は妻と長男と残して部屋を出た。夜空を見上げて息をつき、中庭に面した回廊を歩き出したが、回廊の角を曲がろうとした時、妻の声が後ろから微かに聞こえた。
あの人は、己の子を愛さず、己の子を殺めた。何が人格高潔の士か。これが人の親のすることか。
王莽は足を止めた。兄の喪に服していた時、賑やかな物音が遠くから聞こえたことを思い出した。再び歩き出しながら、あの時のように上を向いて書物の文章を暗唱した。かつての自分は、そうすることで兄の死に耐えた。だから、あの時と同じことをすれば、次男の死に耐えられると信じた。
しかし、あの時のように耐えるには、王莽は少しだけ歳を取りすぎていた。次男の死から数十日が過ぎた。王莽は暗唱することに疲れた。疲れた自分に気づいて愕然とした。悲嘆し、絶望し、その果てに何かを求めて三人の侍女を愛した。侍女の膝を枕にして横になりながら、ふと王莽は考えた。
自分は、これで終わりなのだろうか。何か自分に出来ることはないのか。こうして緩やかに朽ちていくことを、受け入れるしかないのだろうか。
誰か、わたしを見つけてくれ。わたしが朽ちてしまう前に。
王莽は侍女たちに子を産ませた。妻との関係はますます冷え込んだ。王莽の長男が父母を案じ、少しでも母の慰めになればと庭に花の苗を植えながら、その様子を眺めていた王莽に外出して気分転換を図ることを勧めた。王莽は長男の勧めを容れ、素性を隠して密かに外出することを繰り返した。
その日も、王莽は旅の学者を装い、広袖の緩やかな長衣を身に纏い、斗篷状の灰色の外套を肩に羽織り、黒い頭巾を目深に被り、荷を載せた驢馬を後ろに従えた姿で邸の裏門を出た。
季節は春になろうとしていた。集落の外へ通じる道を歩いていると、ぴいちちと雲雀が鳴く声が瓦葺きの屋根の上から聞こえた。集落を出て農地を見渡せば、農夫が牛に犂を牽かせて土を耕していた。王莽は驢馬を引いて南へ進んだ。途中の集落で一泊し、翌日の夕方に城壁を備えた小都市へ入り、四日目の朝に目的地である舂陵侯国の土を踏んだ。
漢帝国の一大開拓地である南陽郡には、労働力の需要を満たすために多数の人間が流入している。その多くは貧困層に属しており、裕福な豪族から金銭や穀物を借りたり、家族や自身を奴隷として豪族に売ることで、辛うじて生活していた。豪族は買い入れた奴隷に新たな農地を拓かせ、その一方で金穀の返済に窮した貧農の田地を買い上げることで、自らが私有する農地を増やした。
舂陵侯国の領主であり、大漢帝国の帝室の一員である舂陵侯も、そのようにして三百頃(約千四百ヘクタール)もの農地を手に入れた南陽郡の有力豪族の一人である。王莽は頭巾を深く被り直した。王莽は失脚する以前、王氏一門の浄化のために従兄の贈収賄を告発し、従兄から贈賄を受けていた紅陽侯を帝都から追い出していた。紅陽侯は王莽の叔父の一人であるが、帝都に蔓延る無法者を私兵として養い、地方の行政長官と結託して農民から土地を奪う等の行為を繰り返していた。その絵に描いたような悪徳貴族の紅陽侯と、舂陵侯は親しく交際しており、もし王莽の微行が露見すれば、生きては舂陵侯国から出られない可能性がある。
怪しまれない程度に辺りを見回しながら、王莽は歩を進めた。しばらく進むと、川の水を牛に飲ませている農夫を見つけた。王莽は農夫の頭に目を留めた。漢帝国では、男性は髪を結い上げて髷を作り、それを布で包んで大切に保護する。髪には霊力が宿ると考えられているからであるが、牛に水を飲ませている農夫は、結い上げた髪を布で包まずに剥き出しにしていた。王莽は川辺へ近づき、自らも川の水を驢馬に飲ませながら農夫に話しかけた。
「洛陽の東では――」
洛陽、とは南陽郡の北隣の郡にある都市で、帝国領の中心に位置している。
「――雨が降らないそうだが、この辺りはどうだね」
王莽の声を聞いて、ぎょ、と農夫は驚いた顔をしたが、すぐに表情を和らげた。見ての通りさ、と目の前の川を指し、この水量なら自分たちの田まで水が回ってくるだろう、と微笑んだ。
「回ってくる? 順番があるのかね?」
王莽は農夫に訊ねた。農夫は頷き、舂陵侯国では舂陵侯が最初に農業用水を使い、残りを中小農民が分け合う、と説明した。雨が少ない時は舂陵侯が農業用水を使い切ることもあるが、舂陵侯国の農民は舂陵侯から金銭、種籾、犂を牽かせる牛などを借りており、舂陵侯を頼らねば生活を成り立たせることが出来ない。何より、舂陵侯は数百人の無法者を私兵として従えているので、とても逆らうことは出来ない、と肩を竦めた。
対岸に数人の子供が現れ、微風に揺れる野花、野花の上を飛ぶ蝶には目もくれず、食べられる草、薬になる草を摘み始めた。その様子を眺めながら、王莽は少しの間、農夫と話した。髷を包むための僅かな布にも事欠いているらしい農夫へ、王莽が手持ちの布を何枚か贈ると、農夫は子供のように無邪気に喜び、王莽からの質問に自分が知る限りのことを答えた。
「舂陵侯は、陰氏とも繋がりがあるのか」
舂陵侯と交流がある豪族について、遠回しに農夫に訊ねた王莽は、農夫の答えを聞いて驚いた。陰氏は七百頃(約三千三百ヘクタール)もの農地を私有している南陽郡屈指の大豪族で、その邸宅は王莽の領地のすぐ近くにある。
舂陵侯と陰氏の詳しい関係を、王莽は農夫に訊ねた。舂陵侯の一族の女が、これも南陽郡の有力な豪族である鄧氏に嫁いでおり、その鄧氏から陰氏へ女が嫁いでいることを、農夫は王莽に教えた。
「なるほど、新野の鄧氏が舂陵侯と陰氏を繋げているのか」
農夫は更に、陰氏の当主が自らの子の教育のために、優れた教師を探していることを王莽に伝え、学識に自信があるなら陰氏を訪ねるよう勧めた。王莽は謝辞を述べて農夫と別れた。牛と共に去る農夫の背を見送り、驢馬の手綱を引いて歩き出した。
邸の外へ出て気分転換をしてはどうか、と長男に勧められて以降、王莽は積極的に南陽郡の各地を微行し、開拓村の空気に触れた。最初の微行では、彼方まで広がる水田が鏡のように青空を映している様を見た。北の地平から南の地平へ滔々と流れる河川と、舳先に羊を乗せて河川を渡る竹の船を見た。人生の大半を帝都で過ごした王莽の目には、それらの風景は素朴でありながらも新鮮、且つ美しく見えた。大いに感動して帰宅し、数日の休息を経て二度目の微行に出た。二度目の微行では、夕空を飛ぶ数百羽の鴇の群れを見た。夜の川辺で数百の蛍の光を見た。淡水生の小型の歯鯨が船に並走して戯れる様を見た。
そして、米の飯を食べている犬を、豪族の邸で見た。家畜の餌を食べて飢えを凌ぐ子供を、貧農の家で見た。
衝撃を受けた。農村に深く根を下ろす貧富の格差に愕然とした。豪族の搾取の苛烈さに憤激し、豪族を放置している帝国政府に憤慨した。憤りに憤りを重ねた末に、これまで農村の現実を知らずにいた自分に気づき、己の無知を心から恥じた。今からでも農村の現実を知り、現実を変えるために行動しなければ、と決意した。農村の現実を知るために微行を繰り返し、訪れた場所で農民の話に耳を傾けた。
しかし、王莽は時に思うことがある。農村の現実を変えることが、本当に出来るのか。現実を変えるために行動することが出来るのか。政争に敗れて帝都を追われた、政治的には既に死んでいるも同然の自分に、今さら何が出来るというのか。今、自分がしていることは、結局は現実逃避に過ぎないのではないか。妻との冷めた関係から、逃げているだけではないのか。
王莽は驢馬を引いて歩き続けた。顔を見られないように下を向き、時に深く息を吐きながら足を進めていると、不意に人の気配を感じた。気配の方へ目をやると、道端の柳の陰に数人の子供が身を隠し、何かを見ていた。どの子供も怯えた表情をしていた。王莽は不審に思い、子供たちが見ている方を見た。
堅気ではなさそうな風体の若者たちが、襤褸を着た少年を囲んで殴る蹴るの暴行を加えていた。
王莽は赫とした。駆け出そうとして、寸前で自制した。あの堅気ではなさそうな風体の若者たちは、恐らくは舂陵侯の私兵であろう。逃亡を企てた舂陵侯の私有奴隷に制裁を加え、連れ戻そうとしているに違いない。出来ることなら暴行を止めたいが、今の自分の立場を考えれば、手を出すことは憚られた。若者たちへの怒りと、何も出来ない自分への怒りを抑え、王莽は顔を伏せた。柳の陰に隠れていた子供の一人が王莽に気づいた。何かを訴えるように、子供は王莽を見つめた。王莽は気づかない振りをして歩き出した。耐えるために、かつて学んだ書物の文章を小声で暗唱した。
子曰く、天地の性、人を貴しと為す。人の行いは、孝より大なるは莫し。孝は父を厳ぶより大なるは莫し。父を厳ぶは天に配するより大なるは莫し。則ち周公は其の人なり。
若者たちに暴行されていた少年が地面に倒れた。亀のように蹲る少年の背を、若者たちは踏み躙るように何度も蹴りつけた。王莽と王莽の驢馬が若者たちの後ろを通りすぎた。若者の一人が少年の髪を掴んで引き起こし、どこかへ連れて行こうとした。少年は若者の手に噛みついて抵抗した。別の若者が少年を殴りつけた。地に倒れ伏した少年を見下ろして、ち、と苛立たしげに舌打ちし、腰の佩剣を掴んだ。
すら、と剣が鞘の中を滑る微かな音を、王莽は背後に聞いた。死んだ次男の顔が、王莽の脳裏を掠めて消えた。
「待て」
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