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しおりを挟む抱きしめられることに慣れていない私は、いつまでもエル様の腕の中で身を固くしていた。
呆れたようで彼に笑われる。
「ぎこちないな、早く慣れてくれよ」
「はい。……その、そろそろ帰りたいわ」
「……ハティは情緒って言葉を知らないのか?」
「その、両親が気になって……」
エル様が私の髪に指を絡める。
「今、無理して帰る必要ない。連絡は入れてあるし、朝になってからだってこっそり帰ることは可能だ……誰にもすれ違わずにここに来たんだ。任せておけ」
そう念を押されて私は頷いた。
体が重くて、疲れている。
普段より低い、エル様の声が再び眠気を誘う。
そろそろ起きているのが限界だった。
「なにも心配するな。朝になったら口の堅い侍女を連れてくるから眠っておけよ」
「はい……」
朝の庭園を通り抜け、静かに馬車に乗り込んだ。
誰かにこっそり見られていない限り、私が会ったのはエル様の侍従と手配した侍女と御者だけ。
彼が先に馬車に乗り込み、時間差で私が侍女と共に乗り込んだ。
王宮の周りを一回りしてから侍女を目立たないところで降ろし、私の隣にエルが移動する。
「無駄なこと考えるなよ。大丈夫だから」
「ありがとう、エル様」
殿下の婚約者候補から外れた翌朝に、エル様を連れて帰るなんて本来ならあり得ないこと。
現実に戻った今、両親と対峙するのは気が重い。
きっと気難しい顔をしていると思う。
もしもすでに別の相手が決まっていたらどうしようかと思う。
でもきっと純潔を失ったと思うだろうし、今の私はエル様以外と結婚なんて考えられない。
「ハティ」
エル様が私の手を強く握る。
温かさが伝わり、一人じゃないと元気づけられたみたい。
「侯爵家に顔を出したら、俺が借りている屋敷に住むか? 息抜きしたい時に泊まっているんだ。ずっとそこにいればいい」
「いえ……そういうわけにはいかないでしょう」
エル様は無言で私の手の甲を撫でる。
思い通りにならなくて少し機嫌が悪そうだけど、手の動きは優しい。
「屋敷に招待するよ。部屋も余ってるし、ハティは目を離すと何をするかわからない」
「そんなことないわ」
今回みたいなことは初めてのことだし、何度もあったら困る。
「……巻き込まれるのが心配なのかもしれない」
「もっと注意深くなるわ」
そんなふうにぽつりぽつりと話しながらエドウズ侯爵家の屋敷に着いた。
いつもと違って緊張したままエル様と一緒に入るといつも通りに見えるのは家令くらいで、心なしか使用人達の様子もピリッとした空気を感じた。
ものすごく気まずい。
応接間に案内されてそれほど待たされずにお父様が入って来る。
「エルナンド様! 愚妻の勝手な行動で大変ご迷惑をおかけしました。ハリエット、すまなかった」
青白い顔のお父様の態度に驚く。
目も赤いようだし眠っていないのかもしれない。
「…………」
お母様が先走ってしまったのだと分かったから、お父様に謝られても困ってしまう。
姿の見えないお母様はまさかのんきに寝ているのだろうか。
今日ははっきりと気持ちを伝えるつもりでいたから、勢いが削がれる。
「おはようございます、エドウズ侯爵。早速ですが私は手紙にも書いた通り彼女と結婚します。今後のことを二人きりで話し合いたいのですが」
「わかりました……では私の書斎でいいでしょうか? こちらへどうぞ」
神妙な表情のお父様がエル様を誘う。
だけどエル様が心配するなと言うように私の手を一度ぎゅっと握ってから離した。
「ハティ、待っていて」
「はい」
残された私は、使用人に尋ねた。
「お母様は眠っているの?」
「……ハリエット様、その……奥様は……」
使用人達が顔を見合わせて言葉を濁す。
何か様子がおかしい。
「ハリエット様、こちらへどうぞ」
どこからか現れた家令が私に言った。
普段は立ち入らない地下へと続く階段を降りると、入り口に護衛が立っている部屋がある。
「ここ?」
「左様でございます」
ノックすると、中からお母様がどうぞと言う声が聞こえた。
日当たりの悪い小さな部屋で、ベッドに腰かけている。
「ハリエット、元気そうでよかったわ。まさかこんなことになるなんて……ごめんね?」
「どうしてあんなことを? 危うく大変な目に遭うところでした」
「……だって、あなたが公爵様の後添えになるよりは殿下がいいと思ったのよ。父親とたいして歳の変わらない男に嫁いで、あなたと歳の変わらない子供がいるなんて嫌でしょう? それに殿下は飲まなかったのよね。エルナンド様ならよかったじゃないの」
そう言って笑うから、ムッとした。
公爵の後妻は予想した通りとはいえ、やっていいことじゃない。
「稚劣すぎます。タイミングが悪ければ殿下からお咎めを受けたでしょうし、社交界に下品な噂が流れるところでした」
いつもならわかりましたと言って引き下がる私だから、お母様が驚いた顔をした。
「あら、私だって良かれと思って用意したのに昨夜は叱られたのよ。この部屋に閉じ込められて、外出禁止になってしまったわ。結果的にうまくいったんだし、ハリエット、あなたからもとりなして頂戴よ」
信じられない。
反省の色が見えないお母様に、唖然としているとさらに続ける。
「失敗しても公爵様なら憐れに思って受け入れてくれたでしょうし、しばらく領地で静かに過ごせばなんとかなったわよ。殿下なら家を潰すようなことはしないでしょうし」
殿下は柔和な見た目だけど限度を超えた相手にはとても厳しくて、いつの間にか社交界から姿を消している。
今回の企みがもしも漏れたらお母様も……。
爵位を継ぐ幼い弟のためにも今後は大人しくしてほしい。
「殿下はそこまで甘くないです。今すぐには謝罪を受け入れることはできませんから、お母様はしばらくそこで反省されたらいいと思います」
「……そんなっ、ハリエット……待って! ごめんね。悪かったわ! 領地に押し込められるのは嫌なのよ!」
お母様が喚いていたけど、私は部屋を出た。
私だけじゃなくて色々な人に迷惑をかけたのだから、ちゃんと反省したほうがいいと思う。
殿下に知られてしまった場合を恐れて、お父様はこの対応にしたのだろうし、エル様もお父様との話し合いで何か求めてくるかもしれない。
とりあえず応接間で待つことにした。
それからエル様とお父様が上機嫌で戻り、一ヶ月以内に両家で顔を合わせて、エル様の希望は半年後には挙式を挙げたいとのことだった。
エル様が帰った後もお父様の機嫌が崩れることはなくて。
「エルナンド様は王位継承権が四位なんだってなぁ! ひょっとしたら、ひょっとすることもあるかもしれんな。それに、海上貿易が盛んで船を持っているというし、海に面した領地は観光業が盛んなんだそうだ。各国の王族が集まるというし! なかなかいい相手をつかまえた。よかったな、ハリエット」
朝は青白い顔をしていたのに、今は笑顔を浮かべている。
殿下の婚約者になるようあれだけうるさかったのに、ころっと意見を変えたことに驚いて、呆れて漏らした。
「……現金ですね」
「人間とはそう言うものだ。柔軟にいかないとな」
「…………」
「まぁ、あれのことも、目が行き届かず悪かった。エルナンド様は真っ直ぐな方だ。幸せになってほしい」
「……お母様のことはどうされるのですか?」
「しばらく社交界には出せないな。反省しているようなら式だけ出席させるかだが、半年後ではまだ難しいかもしれない……。結婚式の準備はエルナンド様が取り仕切りたいそうだ」
「そうですか……わかりました。またエルナンド様と話してみます」
「苦労をかけてすまない」
「いえ、王宮で受けてきた教育よりも難しくありませんわ」
「そうか、頼もしいな」
お父様もお母様も全然、完璧じゃない。
間違った言動があると気づいたし、私の気持ちを素直に出しても問題なかった。
むしろ、お父様との距離が近づいたかも。
大変な思いをしたけれど、エル様との結婚を反対されることもなく、明るい未来を感じることができて、自然と笑顔が浮かんだ。
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