この夜を忘れない

能登原あめ

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 ハーヴィー殿下と別れて王族専用の庭園を抜けた後、ほんの少し歩みを早めた。
 胸の中にぽっかり穴が空いたような気持ちもある。

 この先のことなどゆっくり落ち着いて考えたいのに、今の私は動悸がして体がおかしい。
 動いたせいもあるのか体温が上がり、目も潤むし、息が熱い気がする。
 お酒を飲んだ時とも違う気がする。
 高熱が出た時に近いけれど、それだけではない。
 
「はぁ……」

 一人で大丈夫と言って、侍従の見送りを断り、小さな池の近くを通りながら私はため息を吐いた。
 それから巾着の中に手を入れて小瓶を取り出す。
 念のため最後に持ち帰ってよかった――。

 多分何か混ぜてあったのだと思う。
 これを飲んでから体が少しずつおかしくなっているから。
 お母様はこれを渡した時なんと言っていた?

 とても貴重なものだから二人で飲みなさい、と。

 二粒しか入っていなかったのも、私と殿下以外の者に渡らないように考えたからかもしれない。
 それに、いつもより繊細な作りの新しい下着を身につけさせられ、頑張るのよ、と私の耳元で囁いた。

 考えられること……。
 つまり、これは媚薬――?
 確信はないけれど、今出ている症状が当てはまる気がする。
 そんなものを使ってまで、私を殿下の結婚相手におさめようとするなんて信じられない。
 
 今回が最後のチャンスだと考えたのだろうけど、こんなことをしたら殿下との信頼関係はなくなるし、一つもいいことがないのに。

「……暑い」

 思わず小さく漏らした。
 もっとちゃんと考えたいのに、それができない。
 小瓶を握っていないほうの手の平に爪を立てて強く握り、痛みで気を紛らわそうとした。

 けれど意識してしまった今、少しくらいの痛みでは何も変わらない。
 やけに感覚だけが鋭くなったとわかっただけ。

 こんなの、いや。
 知りたくない。
 歩くたびに布地がこすれて肌を刺激し、初めての感覚におののいた。

 早く帰らなくては。
 こんなところを誰にも見られたくない。

 一瞬中身を池に捨ててしまおうかと思ったけれど、このまま屋敷に持ち帰ってお母様に問いただすことにした。
 いくらなんでも勝手にこんなことをするなんてひどい。

 とにかく早く、帰らないと。
 家に着いたら、作用を消す薬をもらえばなんとかなるはずだから。
 このままでは、私――。

「ハリエット?」

 そんな時にどうして。

 突然エルナンド様が現れて私の手首を掴む。
 王宮に滞在しているから、こうしてばったり会ってもおかしくはない。
 だけど、いつもより注意力が落ちているのか、近づいて来たことに気づかなかった。

「どうした?」
「いえ、その……」

 驚いて目を泳がせてしまった私に、エルナンド様は目をすがめた。
 
 気づかれたくない。
 手を離してほしい。

 エルナンドさまの熱が伝わって苦しくなる。
 助けて、とすがりつきたいと思うなんて、今の私はおかしい。

「手を、離してください……」

 自分のものとは思えない吐息混じりの弱々しい声に驚いた。

 ああ、まずい。
 早く、早く帰らないと。
 とんでもない醜態を晒してしまいそう。
 
「これは?」

 いきなり小瓶を取り上げられて私は慌てた。

「返してください! その……それは私が好きな砂糖なので、大事に、食べたいのです」

 今、無性に泣いてしまいたい。
 感情のコントロールも難しくなった私の言い訳に、エルナンド様が笑った。

「へぇ? ハリエットが好きだというなら、どんな味か知りたい」

 知られたくない。
 自分がこんなことにおちいっているなんて。恥ずかしい。
 エルナンド様にはこれ以上見られたくなかった。

「エルナンド様、には、その、すごく、甘すぎますから……」
「そうか? 食べてみないとわからないだろう?」
「駄目、です!」

 取り返そうと手を伸ばすと、エルナンド様が小瓶を高いところに持ち上げてしまう。
 背伸びしても届かないし、こんなことになって情けなくて、でも取り返さなくてはいけなくて。
 
 エルナンド様は簡単に蓋を開け、私の前で匂いをいだ。

「ああ……っ、返して」

 今すぐにも泣きそうな気持ちでいる私に、エルナンド様は口をゆがめる。

 知られてしまう。
 用意したのは私じゃない、でも不注意で飲んでしまったと打ち明けることは恥ずかしい。
 エドウズ家の全体の評判に関わるから……。

 エルナンド様は躊躇ためらいもせず中に指を入れて擦りつけ、ぺろっと舐めた。

「あ……っ!」
「……これ。まさかと思ったけど……こんなことまでしてあいつの婚約者になりたかったのか? 馬鹿が!」

 気づかれてしまった――。
 きつい眼差しに射抜かれ、私は動くことができない。
 エルナンド様が懐に小瓶をしまい、私を縦に抱き上げて歩き出した。
 はっ、として抵抗する。

「誰かに……見られたら、困ります!」

 体が熱くて敏感になっているのに、エルナンド様に触れられるのはひどく困った。
 早く家へ帰らないといけないのに……。
 彼はため息を吐いて、私を抱える腕の力を強めた。

「しばらく黙ってろよ。騒ぐほど目立つだろ」

 そう言われて私は彼の肩に顔をうずめて隠した。
 自分の息が熱い。
 エルナンド様の体温も、香りも今の私には毒だった。

 彼の前でこれ以上みっともない姿をみせたくないのに、頼りたくなって、でもやっぱり彼にはちゃんとしている時の私を見てもらいたい。
 そう考えて気づいた。

 まだ情愛とまではいえないかもしれない。
 私なりにエルナンド様に対して微かに芽生えたものがあった。
 気づいたところで何かかわるわけでもなく、エルナンド様はこんな私に幻滅したと思う。恥ずかしい。苦しい。
 消えてしまいたい。
 
「馬車まで、お願いします。……御者がいるはずなので」

 どうにかやり過ごそうとエルナンド様の体から身を起こそうとした。
 だけど収まりの良い位置に抱えなおされて、私は逃れることができない。
 できる限り、静かに息を吐いてやり過ごす。

「待ってろ。楽にしてやるから」
 
 そう言われて、彼の腕が今の私には助かるための一本の綱のように感じた。

「……ありがとう」

 今の状態から抜け出せる薬があるなら、早くそれが欲しかった。

「殿下に勧めなくてよかった……」

 私の漏らした言葉に、エルナンド様が全くだ、と低く頷く。
 エルナンド様の体に私の熱が移ったのか最初より熱い気がする。

 それに、大きく硬い体に包まれていると安心感はあるものの、何かわからない欲求がわき上がって感情が乱れた。

「エルナンド様、ごめんなさい……」
「無理して喋るな」

 不機嫌な声に私は黙る。
 薬の作用が強くなってきた。
 頭の中はますますぼんやりしていくのに、体の感覚がどんどん敏感になっていく。
 このままでは、私が私じゃなくなっていくみたいで――。
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