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しおりを挟む怖くなって足早になります。
今日は来客があるなどという話も、この辺りを領民が出入りしているとも聞いていません。
庭園の外は林になっていて野生動物が出るとは聞いていましたが、危険だから出るなとも言われませんでした。
グリズリーが冬眠から目覚めるのはまだ先のはずで、この辺りは大丈夫だと聞いています。
安心していいはずなのに、得体の知れないものは怖いです。
スカートをぎゅっと握って持ち上げ、とうとう走り出しました。
急がなければ。
振り返るのも恐ろしく、ただひたすら前を向いて走ることしかできません。
心臓が激しく打ち、私の荒い呼吸が林に響き渡っているように感じます。
早くどこかへ隠れてしまいたいのに、そんな場所もなく屋敷までも遠く。
さらに足音が大きく響きました。
「アリソン!」
ブレンダン様の声が聞こえたと思ったら、私はすくいあげられるようにして彼の腕の中へ、馬に乗せられたのです。
「ブレンダン、さま?」
わけがわかりませんが、屋敷とは離れてどこかに向かって走ります。
とにもかくにも野生動物じゃなくてほっとしました。
私が力を抜きますと、ブレンダン様の腕が私のお腹に食い込みます。
少し苦しくて、腕に手を添えましたが、全く変化はありませんでした。
「今夜は別宅に泊まる」
ブレンダン様の声が少し硬いです。
横座りなので落ちたら大変ですし、大人しくしていたほうがいいのでしょう。
お義父様達がよく利用していた別宅ですが、つい数日前にお二人の本当の住まいに戻っています。
領地に関することは一通り教えていただいたので、これからは困った時、いえ時々おしゃべりや食事をしに来てくださることになりました。
馬で駆けると別宅まであっという間です。
私は初めて訪れますが、管理している夫妻が常駐しているそうで、木造りで素朴な建物の中は落ち着いた温かみのある雰囲気でとても綺麗でした。
「ブレンダン様、私歩けますわ」
馬から抱えて降ろされ、そのまま私を運んでくださいます。
庭園からずっと歩いて来たものの、疲れはあっても足を痛めているわけでもないのに。
ソファにゆっくり降ろしてくださり、目の前に立つブレンダン様を見上げました。
「どうなさいましたの?」
無言で私の前に片膝をついて、私の左手を握ります。
そういえば、彼は軍に所属していたのでした。
その姿はとても凛々しくて思わず笑みが溢れます。
顔の傷だって野生的でとても素敵に見えるのは私が彼を愛しているからでしょうか。
この傷があるからこそ、他の女性に奪われないと思えば悪くないと思うのです。
とても歪んだ考えだと自覚はあるのですが。
「ブレンダン様は格好いいですね」
「…………」
驚いたように私の顔を見つめるのですが、どうしてそのような顔をされるのかわかりません。
「その傷も勇ましくて好ましいです」
一度も彼の顔について言ったことはありませんでしたが、今日はなぜかするりと言葉が出てきました。
この場には二人きりで、先ほど感情が揺さぶられたせいかもしれません。
ブレンダン様が口を開きました。
「……アリソンが家出したのだと」
「はい?」
全く身に覚えのないことです。
今度は私が驚く番でした。
「……いえ。そんなつもりはありません。……考え事をしながら歩いていたら庭園を抜けてしまったのです。ちょうど戻るところでした。心配をかけましたか……?」
お茶の時間はとうに過ぎていたから、侍女達が探していたのかも知れないと思いました。
「本当に?」
「はい。ブレンダン様、ごめんなさい」
慌てて私を探しに来てくださったのかと思うと申し訳ないのですが、悪い気はしません。
私は胸元からハンカチを取り出して彼の額を押さえました。
そのまま汗の伝ったこめかみから頬へ――。
触れるのは初めてではありませんが、傷跡はほんの少しくぼんでいます。
ブレンダン様は私の好きにさせてくれて、そのまま私の顔を見つめていました。
何か考えているようです。
「痛かったですか?」
「……今は痛くない」
「そうですか」
当時は相当痛かったのだろうと思います。
ハンカチを引っ込めようとした時、もう片手もブレンダン様に握られました。
「侍女から聞いたが、誤解してほしくない」
私が歩きながら考えていたことを、彼が先に話し始めました。
「この数ヶ月、あなたを抱かなかったのは心が欲しかったからだ。そもそもアリソンが妊娠を隠して嫁いだとは一度も考えたことがない。……この傷は人を不快にさせるから、アリソンに私の内面を知って欲しかった」
普段はあまり気にしていない様子でしたのに、自嘲するような笑みを浮かべるから胸が締めつけられます。
「……その傷跡も含めてブレンダン様は素敵です」
私を見つめる瞳はいつだって優しいのです。
今は、いつもより真剣な眼差しですが。
「軍にいる時はこの傷も気にならなかったが、久しぶりに夜会に出て貴族の妻を求めるのは難しいと思ったんだ。そして……爵位を継いでから初めて私に届いた縁談が、あなたの家からだよ。申し訳ないが、アリソンの事を調べさせてもらった」
唐突に、けれどすまなそうに話しますので、私は首を横に振りました。
どこの家でも縁談となったら細々と調べるでしょう。
「私達は結婚式に会ったのが初めてだ。だけどあなたの育った環境や結婚相手を知るうちに、私が守りたいと強く思った。それに……お互いに初めての結婚に恵まれなかったからこそ、上手くいくのではないかと」
ブレンダン様は全てを知った上で私との結婚を決めたのだとわかりました。
式を早めたのも彼なのだと――。
結婚式の夜に言われたことを思い出します。
「今言うことではないかもしれないが……あなたが望むなら、家族を助ける用意がある」
「あの、どういうことでしょう?」
いきなり話が変わって驚きました。
父が金を採掘できる山に多額の投資をし、お金を全て持ち逃げされたと兄から手紙が届いたそうです。
「そんな……!」
「まず最後まで聞いてほしい」
兄が困って伯父に相談したそうです。
働き者の伯父は兄をとても可愛がっておりましたので、父に対して兄へと爵位を譲るように求めたということ。
それから伯父の領地にて父達がおかしな事をしないように見張りつつ、きっちり返済させるとのことでした。
今の父は落ち込んで伯父の言う通りにしているそうですが、もしかしたら私とブレンダン様に援助を求めるかもしれないと兄は考えているようです。
すぐに兄が爵位を継ぐなら現在の婚約者の家からも援助してもらえるといいますし、堅実にしていれば乗り切れるとのことでした。
ブレンダン様は兄に対して協力する考えがあると言います。
継母がどうするかわかりませんが、兄は継母と異母妹の面倒などみないと思います。
冷たいかもしれませんが、彼女達にこちらに来てほしくないと思いましたし、ここでの生活は厳しいでしょう。
「兄を助けてくださると、嬉しいですわ……ファニーの縁談はどうなるのでしょうね」
「身の丈に合った相手と結婚すればいいだろう」
ブレンダン様はあっさり言い放ちました。
これまで来ていた縁談はすべて白紙だそうです。
持参金が用意できるかもあやしいですから、伯父が口出しするかもしれません。
「そうですね。ブレンダン様、ご迷惑をおかけして申し訳ありません」
「いや、たいしたことではないよ。この話は終わりでいいかな?」
私が頷きますと、ブレンダン様が私の顔をのぞき込みました。
なんとなく艶めいた雰囲気を感じます。
「あの日、私の顔を見て顔色も変えなかったあなたは女神だと思う。それにあまりにあなたが可愛らしいから、本当に愛を欲しくなったんだ」
ブレンダン様の言葉に私の心はどうしようもなく震えました。
「アリソン、愛しているんだ。本当の妻になってほしい。今夜、この場所で」
「私もあなたを愛しています。ですが……女神になんてなれませんし、いい妻になれるかもわかりません。努力はいたしますけれど」
ブレンダン様がほっとしたように私の手のひらに唇を寄せました。
「私もいい夫になれるように努力する。あなたと添い遂げたい」
「はい、これからも末永くよろしくお願いいたします」
まるで物語のようなプロポーズをされたみたいです。
すでに夫婦として生活してますのに。
今日は色々なことがありすぎて、それ以上言葉が出てきませんでした。
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