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3 目が醒めたけれど
しおりを挟むエルバが目を開けると、そこはクエスタ侯爵家の自室だった。
いつの間に戻ってきたのかと不思議に思う。
もしかしたら死期が近づいて慈悲深いグアダルペがエルバを看取ろうとしているのかもしれない。
いっそのこと、フェルシアノと同じ薬を飲ませてくれたらいいのに――。
毒物をどこでどうやって手に入れたかはわからないけれど、簡単に暴かれるような真似はしないだろう。
「エルバ様、おはようございます。寝過ごすなんて今日は珍しいですね。……フェルシアノ様が待っていますよ」
エルバ付きの侍女がやって来てにこりと笑った。
緑色の髪なのは一度染髪に失敗した時で、それは何年も前の話。また失敗したのだろうか。それに――。
「フェルお義兄様?」
彼はもうこの世にいないのに、どうしてそんな残酷なことが言えるのだろう。
それとも、今、夢を見ているのかもしれない。
「今日は薔薇を見に行く約束をされていましたでしょう? エルバ様?」
ゆっくりと体を起こして気がついた。
かさついて筋張った手ではなく、張りがある。
そのまま顔に触れるとなめらかで、しっかり手入れがされていた。
それに起き上がる時に体が軽かった。
「こちらをどうぞ」
大麦を深く焙煎したお茶――オルヅォを差し出されて一口飲んだ。
深い味わいと温かさがお腹に広がる。
これは本当に夢?
それともとうとう狂ってしまったのかもしれない。
「いい天気ですから、楽しく過ごせますね」
窓から見える景色はエルバが覚えている景色と違った。
それから言われるまま着替えて、鏡に映る少女の姿に驚く。
何が起こっているかわからないまま、部屋を出て食堂へ向かった。
「おはよう、エルバ。珍しいね」
「おはよう、ございます。フェルお義兄様」
やっぱりこれは夢なのだ。
穏やかな笑顔を浮かべるフェルシアノも、数年若返っている。
朝食室にいるのも、珍しいから。
エルバは泣きたくなって、唇をギュッと噛んだ。
「どうした? 寝過ごしたくらいで怒らないよ」
彼が立ち上がってやってくる気配を感じたものの、エルバは動くことができなかった。
息をすることだってやっとだから――。
「エルバ?」
「……フェルお義兄様」
エルバをのぞき込んだフェルシアノがそっと抱きしめてくれる。昔から悲しい時は同じように抱きしめて慰めてくれた――。
やっぱり夢を見ているみたい。
「まだ寝ぼけているのか? 怖い夢でも見た?」
フェルシアノの腕の中は温かくて、それから鼓動が聞こえてきて、エルバはとうとう泣き出した。
「怖い夢だったの……とても」
「そう……もう大丈夫だよ。たまにびっくりするような夢を見ることがある。エルバは今、目覚めていて、これは現実だから」
エルバが落ち着くまで優しく背中を撫でてくれる。
「朝食を食べて薔薇を見に行こう」
「はい」
両親は夜会に出席することが多く、朝は遅い。そのため朝食は二人きりのことが多かった。
使用人達は控えているものの、今朝も二人でよかったとこっそり息を吐く。
夢であってもグアダルペの顔を見たくなかった。
杏ジャムの入ったブリオッシュを食べて、ミルクのたっぷり入ったオルヅォを飲んで甘さを堪能しながら、時々フェルシアノをのぞき見る。
何年前の夢を見ているのだろう?
これまで朝寝なんて一度もしたことがなかったのに。
エルバの視線に気づいていないのか、彼は手元の手紙を次々に開けていく。
「来月の王宮の茶会は一緒に行こう。少し顔を出せば大丈夫だから」
「……はい」
王宮の薔薇も見頃なのだと思う。
そこで王子達を囲み、同じ若い世代で情報交換をする。
第二王子と第三王子はまだ婚約者が決まっていないから、令嬢達の水面下のやりとりが煩わしく、居心地の悪いお茶会ではあった。
婚約者のいないフェルシアノも、次期侯爵夫人の座を狙って近づいてくる令嬢達にうんざりしているらしい。
毎回体調を理由に早めに帰ってくるのだけど。
「待っているから、何か一枚羽織っておいで」
部屋に戻り、エルバはまず日記帳を開いた。
三年前の日付けに、鼓動が速まる。
幼い頃から毎日書いていたから、これは昨日書いたもののはず。
その後は真っ白だし、侍女に確認もしたし、日付に間違いはない。
夢の中で食事をして味がした記憶もないし、触れて温かいだとか、匂いがするだとか、すべてが生々しく現実として感じた。
長い夢を見ていたのかもしれない。もしかしたら、あれはこれから起こること? いえ違う。
あれが夢のわけがない。
フェルシアノからもらった、まだ新しい手鏡に目を止める。それに映るのは、少し幼い自分。
もしかして時間が巻き戻ってしまった――?
わからない。なぜ。どうして。
エルバはひとまず考えるのをやめた。わからないことが多すぎる。
それに夢であるなら、フェルシアノと過ごせる時間を大切にしたいと思ったから。
屋敷の庭園の一角に薔薇園がある。
フェルシアノの実母が自ら手入れをしていたという場所で、グアダルペは『フェルシアノが母親の面影を感じることができるように、このまま遺しておきましょう』と言ったらしい。
今はその言葉が本心なのか、何か裏があるのではないかと穿った見方をしてしまう。
そう考える時点で、あれが長い夢だとは思えないとエルバは気づいた。
幼い頃から薔薇園のことは、居心地がいい場所と思っていて、フェルシアノとよく遊んだ。
庭園のベンチに座って、包んでもらったクロスタータ――ジャムのタルトや、ビスコッティ――アーモンドの堅焼きビスケット、カンノーリ――筒状に丸めた生地を揚げてクリームを詰めたものなど、おしゃべりしながら二人で楽しむ。
侍女が持たせてくれる飲み物はオルヅォの時もあれば、冷たい柑橘水の時もあった。
今日はブルーベリージャムのタルトで、杏やスモモ、いちじくなど季節で変わるから食べ飽きることもない。
二人で薔薇の花咲く庭園で秘密の時間を過ごすことが嬉しかった。
その中で分け合ってお菓子を食べた思い出はいつも心に残っている。
朝食をとったばかりだというのに、フェルシアノはいつものように菓子を持ってきていた。
バーチ・ディ・ダーマ――チョコレートクリームを挟んだ小さなクッキーは食後でもつまめるからと言って。
「エルバ、もう一つどう?」
これまでのエルバならいくつも食べたと思うけれど、今は胸がいっぱいで一つつまんだだけで十分だった。
「ありがとう。もうお腹いっぱいだわ。フェルお義兄様が食べて」
「わかった。じゃあ、もう一つだけ食べたら?」
そういえば、前にもこんな会話をしたかもしれない。ただあの時は、食べすぎて太りたくなかったからだけど……。
目の前に差し出されて思わず口を開けてしまった。
フェルシアノがニコニコしながら舌の上にのせたから、そのまま口を閉じる。
「ちょうどいい大きさだね」
残りはすべてフェルシアノのお腹の中へ。
エルバは懐かしさを感じながらその日を過ごした。
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