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 まだ夜が明けきらない時間、兄が仕事に向かったのを確認してから、きっちり閉じられた扉の前に立つ。
 この時間、使用人たちは食事をとっていて、私はまだ眠っていることになっている。あと一時間は誰もやって来ない。
 
 勝手なことをしているのはわかっているけど、私の専属侍女には一緒においしい朝食をとることを条件についてきてもらっている……家令は気づいているけど見て見ないふり。
 こっそりフットマンに馬車を呼んでもらうことに何も言わないから。

「…………」

 何も音がしない。
 兄の部屋の中は静まり返っていて、いつも不安な気持ちになる。
 いつか、間違いが起こるのではないかと――。

 小さくノックしてから、扉を開けた。
 いつもならカーテンが閉まっていて薄暗く、血の匂いと香料や何かの混じった独特な匂いがするはずなのにしない。
 カーテンはそのままで窓だけが開いていて、冷たい空気が通り抜ける。

 おかしい。兄が窓を開けることなんてない。
 いつも兄が痛めつける絨毯の上に目をやると、誰もいない。たいてい、人が倒れているのに。

「やぁ、おはよう」

 いきなり話しかけられて慌てて声のする方に顔を向けた。
 カーテンが揺れて、昨日見た男性がソファに座っているのがはっきり見える。

 表情までは読み取れない。
 今さらだけど、お互い顔を見られるのは良くないと思って、一歩後ずさる。
 最初からフットマンを連れて来ればよかったけど、遅い。

「お嬢様、部屋に戻りましょう」

 侍女の声に頷きたくなったけど、やっぱり怪我の手当てだけしたほうがいい気がする。
 兄が鞭をふるうのを知っていて何もできなかった罪悪感が拭えないから。
 侍女に向けて首を横に振ってから、彼に声をかけた。
 
「おはようございます。具合はいかがですか……?」

 普段ならほぼ意識のない男性が横たわっているのに、彼は平然としていた。
 もしかして昨夜は鞭を振るわなかったとか?

「あぁ、悪くない。動ける程度には。それにこの酒を飲んだら身体の内側から癒されていくよ」

 逆恨みされてもおかしくない。
 でも彼は笑顔で、敵意のようなものは一切感じられなかった。

「……そう、ですか……傷をみてもいいですか?」

 怪我の状態を確認したいけど、男性の力は強いから万一のことを考えると警戒感がわく。
 それでも、薬箱を掲げてみせると彼は穏やかに頷いた。

 兄はこの部屋に入る前に必ず武器になりそうなものは没収しておくから、大丈夫なはず。人の表情を読むのは得意だから。
 背後に侍女がいるのを確認して、ゆっく近づいた。
 
「見せてもいいけど、必要ないかな。俺、治りが早いんだ」

「でも……」
「ほら」

 私に背中を向けて羽織っていたシャツをあっさり脱いでみせた。
 ミミズ腫れと血の痕があるものの、血がにじんでいる様子も皮膚が裂けている様子もない。
 不思議だ。

「……本当ですね。では、このタオルで身体を」
「俺がやるよ」
「……じゃあ、その、手が届かないところだけ、手伝います」
「うん、ありがとう」

 彼が手を動かすのをぼんやり見つめる。
 見慣れない褐色の肌にミミズ腫れがなかったら、とてもきれいなんだろうなと思った。

「あのさ……」
「あ、やります」
「ありがとう……怪我した男の手当て、いつもしてるのか?」

 背中をふき始めた私に、彼が問う。

「そう、ですね……侍女と二人で。でも、皆さん、意識がほとんどないので……運ぶのはフットマンに頼んでいますし」
「今後は危ないから一人で来ないほうがいい」
「……気をつけます」

 なんだかおかしな状況だった。
 彼は悪い人じゃなさそう。
 むしろ兄が騙したんじゃないかって思ってしまう。

 背中をふき終わる頃にはミミズ腫れの赤みが薄くなっているような気もしたけど、どういうことなのかよくわからない。

「ありがとう、さっぱりしたよ」

 わずかな日の光とひんやりとした空気が、さぁっと部屋に入ってきて、彼が笑った。
 
「いえ……」

 兄がごめんなさい、と言おうとして口を開いたものの、彼が先に話し出した。

「ずっと旅をしていたんだけど、この国に来たばかりで情報を集めるためにカードで遊んだんだ。普段はあんなに酔うことはないんだが、この国の酒は強いな……まぁ、甘い香りに誘われて飲みすぎた自分が悪いんだけど。負けは負けだ」

 なんと言ったらいいかわからないでいると、

「ところで俺はアンドレア。君の名前は?」

 名乗っていいのか迷ったけれど。
 侍女が片づけているのを横目に答える。

「レナです」
「レナ……いい名前だ。気遣ってくれてありがとう。国に帰ったら、あらためてちゃんとお礼をしたい」
「いえ、大丈夫です。お気持ちだけで」

 彼の身分が分からないけど、もしかしたら他国の貴族かもしれない。話し方も態度も平民とは違う気がする。
 兄は知っていたのかどうか。
 わかっていて手加減したのかも?

「俺はそう思わないけど……レナはいくつ?」
「十四歳です。アンドレアさんは……?」
「二十歳。レナは成人まで四年もあるんだね」
「はい」

 早く大人になってこの家を出たい。
 でも、そのうち兄が侯爵家と釣り合いのとれる婚約者を決めてしまうだろう。
 嫁ぎ先がどんなところかわからないから不安ではあるけど。

「それじゃあ、手をかして。感謝の気持ちをささげたい」
「……どうぞ」

 彼の手に自分の手を重ねると、ぎゅっと握ってゆっくりと手の甲に口づけを落とした。

 本に出てくる王子様みたい。
 海を越えた向こうの国の物語にあったかも。
 温かくて、くすぐったいような不思議な感覚がある。

「ありがとう、レナ。感謝する」

 薬指のあたりにわずかに歯を立てられて、思わず手をひいた。

「あ……ごめんなさい」
「俺の国のやり方だから驚かせちゃったか。本当にありがとう。会えてよかった」

 痛くはないけど噛まれたところが熱を持っているみたい。なんだか変な感じ。

「それじゃあ、俺の従者が困っていそうだから帰るよ。またね、レナ」

 そう言うと、アンドレアさんは窓から飛び降りて――消えた。

 





 

 ******

 お読みいただきありがとうございます。
 フットマン→ドアの開閉や重い物の運搬など男性の使用人。
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