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 産まれて一週間、カトリオーナは一度も子どもを抱かなかった。
 産婆の話では出血がひどかったようで、回復に時間がかかったというのが表向きの理由ではある。
 
 焦げ茶色の瞳を見たくなくて、すべてを乳母に任せてしまった。
 それでも、お腹の中にいた子の泣き声が聞こえると目が覚めてしまうし、とても気になる。
 そわそわして、なのに会いに行かない自分に罪悪感もあった。

「遠縁の伯爵家に何年も子どもに恵まれない夫婦がいる。この子は死産したことにして養子に出したらどうか」

 見かねた両親はそう言ったけれど――。
 その日、カトリオーナは泣き声のする方へ足を向けた。
 
 子ども部屋の扉は開いていて、乳母があやすように抱いている。
 少し前までカトリオーナのお腹の中にいたのだと、ぼんやり眺めていると。

「カトリオーナ様、どうぞこちらへ」

 存在に気づいた乳母の笑顔に誘われて、吸い寄せられるように近くの椅子に腰を下ろした。

「……とても小さいわ」
「そうですね」
「それにとても弱そう」
「そうですね」

 不恰好なブランケットに包まれて、髪と顔の半分が隠れている。
 母と一緒に用意した手縫いの衣類と小物。
 カトリオーナが編んだものだった。
 
「…………」
「私が支えますから、抱っこしてみませんか?」
「きっと泣いてしまうわ」

 泣き止んだばかりなのに。
 まだ怖くて顔をのぞきこめない。

「大丈夫ですよ。たくさん泣いたら、坊っちゃまもこの後ぐっすり眠れるのではないでしょうか」

 そういうものなのかと赤ん坊をじっと見つめる。
 不思議と抱いてみたいと、思った。
 かすかに頷いたら、乳母が腕の中に赤ん坊を下ろす。

「…………温かくて重いわ」
「そうですね」
「じっと私をみてる」
「そうですね」

 薄茶色の瞳が私を見上げていた。
 とても小さくて頼りない。
 あぁ、彼はジョン・ジョーじゃない。

 胸の中になんとも言えない想いがじわじわと広がる。
 この気持ちがなんなのかまだよくわからない。
 
 この先父親に似てきたら、感情を揺さぶられるかもしれない。
 けど今は小さなこの子を守りたいと思ってしまった。

「……可愛い、とても」

 するりと言葉が飛び出した。
 カトリオーナは乳母にありがとうと伝えると、彼女はかすかに潤んだ瞳でほほ笑んで言う。

「いえ、とても可愛くていい子なんです。お腹がいっぱいになったら、ぐっすり眠ってくれます。お風呂もお好きみたいで嫌がって泣きませんし、気持ちよさそうにしています」

「まぁ……こんなに小さいのに……ずいぶん人間らしいのね」
「そうですね。私の娘は寝るのを嫌がりますし、お風呂の前に脱がせただけで泣きます。坊っちゃまはカトリオーナ様の小さい頃に似ていると奥様が……」

 乳母がハッとしたように言葉を止めた。
 子どもが生まれる経緯を彼女は知っているのだろう。ずっと会いに来ない母親なんておかしいもの。

 カトリオーナは少しも嫌な気持ちにならなかった。
 
「この子、小さい頃の私に似ているって?」

 穏やかな気持ちで問いかける。
 
「……はい、奥様だけじゃなくて旦那様もおっしゃっていました。それに古くからいる使用人たちも……です」
「嬉しい……」

 ただそう思った。
 独りで向き合うのは難しいけれど、みんながいてくれたら頑張れそう。
 たくさんの人たちに支えられていることに気づいて、カトリオーナ泣きそうになった。
 

 それから王都から戻ってきたライナスと話し合うことに。

「父から聞きましたが、契約書に私が望んだら養子に出せるとあるそうですけど、私は育てたいと思います。……不安がないわけじゃないですけど、この子には罪がないから……」
 
 彼は口を挟まず最後まで話を聞いてくれた。

「一緒に大切に育てよう。今、王都に新しい屋敷を建てているんだ。これから家族で住む屋敷。場所はこっちで決めてしまったけど、好みの内装があれば教えて。なんでも話し合って一緒に決めたい。……まずは息子の名前を」

 息子の名前はいくつかの候補の中からレジナルド・スチュワートに決まった。
 
 1年半ほど領地で過ごした後、迎えに来たライナスと、レジナルドを連れて王都に戻り、家族で完成した新居で暮らすことに。
 
 ひんぱんに領地に顔を出していたライナスのことは、早くから父親という認識があったようでレジナルドは会うたびにニコニコする。

 乳母たちのおかげでカトリオーナのことも母親と思ってくれているらしい。
 王都の屋敷に乳母とその家族もついてきてくれることになったから、彼女の娘とレジナルドはいい遊び相手となっていた。

 カトリオーナとライナスは離れている間も手紙のやりとりを続けたことで、今ではお互いの本音を話せる親友みたい。
 さらに仕事のパートナーとしても相性が良かった。

 カトリオーナは商会の仕事を少しずつ手伝うことにした。
 主にお茶会などで新製品のお披露目や宣伝を。
 
 もともとつき合いのある貴族から声をかけてもらえることもあるし、気さくな男爵家や子爵家から招待されることもある。
 
 兄は自分で商売をするより領地の繁栄に力を入れたいと考えていて、領地の特産物を増やして商会に高く買い取ってもらうから気にするなと笑った。

 むしろ都合がいいとも。
 申し訳なく思っていたから少しほっとしたし、もっと売り込もうとライナスと頷き合った。

 ジョン・ジョーは隣国との取引で、社交界に顔を出すことが少なくなったとも聞いていて、領地から戻ってかは見かけることはない。
 
 相変わらず色々な女性と浮名を流しているようで彼らしいとも思う。
 思い出すとまだ心がざわめくけれど、毎日が充実しているから、1日中考えることはなくなっていった。





 結婚して4年が経った頃。
 小さな喧嘩はするけれどカトリオーナとライナスの関係は円満で、レジナルドは何かに夢中になるとそれしか目に入らない子となった。

 元気に走り回って何をするかわからなくて目が離せないというより、誰かのそばでなんで? なんで? とまとわりついて質問していることが多いように思う。

 カトリオーナも質問ばかりして困らせていたと聞いて、納得するしかなかったけれど、子どもっておもしろい。

 泣くことしかできなかったのに、ちゃんと自分の足で立って、考えている。
 ライナスが根気よく質問に答えているのがほほ笑ましかった。
 
 カトリオーナはもう夜会に出ることはなく、身内の気楽な集まりだからと伯爵家のパーティーに呼んでもらうことはある。

 正装したライナスはドキドキするくらい格好いいし、カトリオーナも宣伝を兼ねて新しいドレスを着ることができて新鮮な気持ち。

 ライナスとのダンスはドキドキするし、スマートにエスコートしてくれる夫とデートしてるみたいに感じてしまう。
 
 少しずつ、少しずつ彼に対して好きという気持ちが積み重なっていった。

 だけどカトリオーナは別の男の子どもを産んでいるし、ライナスは仕事のパートナーと思っているはず。

 今の関係を壊すのはいけない、望みすぎだと、そう思っていたのに――。

「ローナ、本当の夫婦になってもらえないか?」
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