1 / 8
1
しおりを挟むカトリオーナは恋愛結婚に憧れていた。
婚約者はまだいない。
伯爵家の末娘として生まれ、両親は彼女に甘く、結婚は好きな相手を選んでいいと言われてきた。
恋人と付き合って3ヶ月、女学校も卒業間近。
まだ少し報告するには早かったけれど、愛する人の子どもを宿したことが嬉しくてカトリオーナはすぐ伝えた。
「俺の子のはずはない」
喜んでくれると思ったのに、彼は冷たい。
「ジョン・ジョー、信じて。あなたの子なの」
いつものように抱きしめてもらおうと、彼に腕を伸ばす。
バチンと重たい音がしてカトリオーナの体が吹っ飛んだ。
柔らかいソファに着地したものの、頭の中が真っ白になって呆然とする。
「嘘をつくな、キャット。俺は嘘つきがこの世で一番大嫌いなんだ。……クソッ、もう二度と俺の前に顔を出すなよ。不愉快だ」
頬が熱く、痛い。
ジョン・ジョーに殴られたのだと、震える手を頬に当てて見上げた。
突然のことに言葉が出てこない。
彼はさげすむような視線をよこした後、舌打ちして背を向けた。
それからバタンッと扉が閉まる音が大きく響く。
わけがわからない。
どうして殴られたの?
2人は愛し合っていて、約束はしていなかったけれど結婚するんじゃなかった?
再び扉が開いて、顔を上げる。
残されたカトリオーナの目の前に、長身の美しい秘書が立つ。彼女はいつも冷たい目でにらんできたけど、今日は――。
「バカね。ほかの男の子供を妊娠するなんて」
あざけるように笑い、キャロラインの耳元に唇を寄せた。
「社長は種無しなのよ。知らなかったの? 前妻2人との間に子どもはできなくて、離婚後にどちらも再婚相手の子どもを産んだのよ。そして3人目の奥さんは別の相手の子を妊娠し、社長の子として育てようとしたの……でも生まれてみたら全く似ていなくて離婚したわ。……いやだ、なにも知らなかったのね? 馬鹿な子。……まぁ、あなたみたいな浅はかなお子ちゃまには彼は無理ね」
前妻がいたことは知っていたけれど、そんな話は聞いたことがなかった。
それに、カトリオーナは一つも嘘なんて言っていない。
初めては彼に捧げたし、それは彼も知っている。
本当にジョン・ジョーとしか経験がないのに。
「でも……」
「言い訳なんていらないから、さっさと出て行ってくれる? 私からのアドバイスは一つよ。貴族なんだからお見合いでもなんでもしてお坊ちゃんと早く結婚してしまいなさい。お腹が目立たないうちにね! 全く、いい身分よね、貴族って! 親に頼めば叶うでしょ。あははっ……」
カトリオーナは、ちょうど18歳になったばかりで結婚ができる年齢だし、彼とそうなるはずだったのに。どうして――。
「私、本当に……」
貿易会社社長のジョン・ポープと出会ったのは、彼が経営する貴族御用達の店で。
何度か顔を合わせるうちにティールームに行くことになって、それから時々デートを重ね、正式につき合うことになった。
歳は30を超えたばかりで、爵位はないものの顔立ちが整っていて、人気があり呼ばれれば社交界にも顔出す。
一代限りの男爵位が認められそうだと少し前に聞いたばかりだった。
この国の貴族は名前が長いけど、平民の彼の名前は短いから、尊敬する祖父の名をつなげてジョン・ジョーと呼ばせる。
カトリオーナのことは街の女の子のようにキャットと呼び、彼の前では伯爵家の娘だなんて気にしなくてもいい、ただの恋人になれた。
周りにキャットと呼ぶ人は誰もいなかったから新鮮で、どんどん彼にのめり込んで言ったのはしかたないと思う。
社交界で出会う男性たちより大人で野心的で魅力的に見えた。
それに恋、してしまったのだから。
父は気づいていないけど、母は学生時代の戯れだと思っているのか、羽目を外さないようにと言われただけ。
もちろん、はいと答えた。
ジョン・ジョーの部屋へは何度か誘われたし、抱きしめられたこともキスされたこともあったけど、その先へは進まなかった。
だけど誕生日には18本の薔薇とダイヤモンドのついたネックレスをジョン・ジョーからもらって、とても幸せを感じて……。
彼に大丈夫だからと誘われて、唇を重ね肌をさらした。
途中で痛くてやめて欲しかったけど、強引に押し切られ、訳のわからぬまま子種を受け入れた。
ただ彼を信じて。
何も知らなくて、わかっていなかった。
彼は妊娠しないと思っていたから遊びでつき合っていた?
貴族令嬢の処女性は今でも大事にされていると、彼だって知っていたはずなのに……。
結婚は好きな人とするって伝えたこともある。本気で好きで、彼と結婚することを夢見ていたから。
ジョン・ジョーが笑顔でいたから、同じ気持ちなんだって信じていた。
彼は言葉で愛情表現はほとんどなかったけど、プレゼントの大きさで示してくれているのだと――。
結婚できないなら、恋人関係になる前に言って欲しかった。
あれは愛ではなくてただの欲望で、愛していると言ったのはその場限りのもので、気分を盛り上げるだけの言葉だったなんて。
ポタポタと涙が落ちる。
「……もう、しかたないわねっ、最後に馬車を呼んであげるから。そんなところで泣き出さないでよね。……社長も子どもに手なんか出すから! 早く涙をふいて、誰かに見られたら私がいじめたみたいじゃないの!」
カトリオーナにイライラした秘書が声をかける。
彼女に引っ張られて外に連れ出され、馬車を呼び止めるのをぼんやり見ていた。
いつもは社長の馬車で送られるのに、彼の姿はどこにも見えない。
これが夢だったらいいのに――。
5
お気に入りに追加
775
あなたにおすすめの小説
アルバートの屈辱
プラネットプラント
恋愛
妻の姉に恋をして妻を蔑ろにするアルバートとそんな夫を愛するのを諦めてしまった妻の話。
『詰んでる不憫系悪役令嬢はチャラ男騎士として生活しています』の10年ほど前の話ですが、ほぼ無関係なので単体で読めます。
麗しのラシェール
真弓りの
恋愛
「僕の麗しのラシェール、君は今日も綺麗だ」
わたくしの旦那様は今日も愛の言葉を投げかける。でも、その言葉は美しい姉に捧げられるものだと知っているの。
ねえ、わたくし、貴方の子供を授かったの。……喜んで、くれる?
これは、誤解が元ですれ違った夫婦のお話です。
…………………………………………………………………………………………
短いお話ですが、珍しく冒頭鬱展開ですので、読む方はお気をつけて。
ガネット・フォルンは愛されたい
アズやっこ
恋愛
私はガネット・フォルンと申します。
子供も産めない役立たずの私は愛しておりました元旦那様の嫁を他の方へお譲りし、友との約束の為、辺境へ侍女としてやって参りました。
元旦那様と離縁し、傷物になった私が一人で生きていく為には侍女になるしかありませんでした。
それでも時々思うのです。私も愛されたかったと。私だけを愛してくれる男性が現れる事を夢に見るのです。
私も誰かに一途に愛されたかった。
❈ 旦那様に愛されなかった滑稽な妻です。の作品のガネットの話です。
❈ ガネットにも幸せを…と、作者の自己満足作品です。
半日だけの…。貴方が私を忘れても
アズやっこ
恋愛
貴方が私を忘れても私が貴方の分まで覚えてる。
今の貴方が私を愛していなくても、
騎士ではなくても、
足が動かなくて車椅子生活になっても、
騎士だった貴方の姿を、
優しい貴方を、
私を愛してくれた事を、
例え貴方が記憶を失っても私だけは覚えてる。
❈ 作者独自の世界観です。
❈ ゆるゆる設定です。
❈ 男性は記憶がなくなり忘れます。
❈ 車椅子生活です。
すれ違う思い、私と貴方の恋の行方…
アズやっこ
恋愛
私には婚約者がいる。
婚約者には役目がある。
例え、私との時間が取れなくても、
例え、一人で夜会に行く事になっても、
例え、貴方が彼女を愛していても、
私は貴方を愛してる。
❈ 作者独自の世界観です。
❈ 女性視点、男性視点があります。
❈ ふんわりとした設定なので温かい目でお願いします。
地獄の業火に焚べるのは……
緑谷めい
恋愛
伯爵家令嬢アネットは、17歳の時に2つ年上のボルテール侯爵家の長男ジェルマンに嫁いだ。親の決めた政略結婚ではあったが、小さい頃から婚約者だった二人は仲の良い幼馴染だった。表面上は何の問題もなく穏やかな結婚生活が始まる――けれど、ジェルマンには秘密の愛人がいた。学生時代からの平民の恋人サラとの関係が続いていたのである。
やがてアネットは男女の双子を出産した。「ディオン」と名付けられた男児はジェルマンそっくりで、「マドレーヌ」と名付けられた女児はアネットによく似ていた。
※ 全5話完結予定
おかえりなさい。どうぞ、お幸せに。さようなら。
石河 翠
恋愛
主人公は神託により災厄と呼ばれ、蔑まれてきた。家族もなく、神殿で罪人のように暮らしている。
ある時彼女のもとに、見目麗しい騎士がやってくる。警戒する彼女だったが、彼は傷つき怯えた彼女に救いの手を差し伸べた。
騎士のもとで、子ども時代をやり直すように穏やかに過ごす彼女。やがて彼女は騎士に恋心を抱くようになる。騎士に想いが伝わらなくても、彼女はこの生活に満足していた。
ところが神殿から疎まれた騎士は、戦場の最前線に送られることになる。無事を祈る彼女だったが、騎士の訃報が届いたことにより彼女は絶望する。
力を手に入れた彼女は世界を滅ぼすことを望むが……。
騎士の幸せを願ったヒロインと、ヒロインを心から愛していたヒーローの恋物語。
この作品は、他サイトにも投稿しております。
表紙絵は、写真ACよりチョコラテさまの作品(写真のID:25824590)をお借りしています。
ただずっと側にいてほしかった
アズやっこ
恋愛
ただ貴方にずっと側にいてほしかった…。
伯爵令息の彼と婚約し婚姻した。
騎士だった彼は隣国へ戦に行った。戦が終わっても帰ってこない彼。誰も消息は知らないと言う。
彼の部隊は敵に囲まれ部下の騎士達を逃がす為に囮になったと言われた。
隣国の騎士に捕まり捕虜になったのか、それとも…。
怪我をしたから、記憶を無くしたから戻って来れない、それでも良い。
貴方が生きていてくれれば。
❈ 作者独自の世界観です。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる