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しおりを挟むおしゃべりは身を滅ぼす。
幼い頃にそう学んだ私は、女子寮の前でエリヤスさんにありがとうとおやすみなさいの気持ちを込めてお辞儀をした。
「気にするな、帰り道は一緒だからな」
本当はとても偉い人で、大学の教壇に立って欲しいと誘われているのを何度か見かけた。
そんなエリヤスさんは私にも優しくしてくれる。
困っていると、すぐに気づいてくれて声をかけてくれた。
彼の元で働いて、今1番穏やかな気持ちで過ごせている。
おじい様は私が噂に巻き込まれないように旧友の男爵に預けた。
最初はおじい様にも捨てられると思って大泣きしたけど、何度も何度もそうじゃないと優しい言葉で説明してくれたのをおぼえている。
幼い私は全部納得できなかったけれど……。
両親に捨てられ、話すことを恐れた私は社交界にデビューなんて少しも考えられない。
男爵夫人は元々商家の生まれで、私にこれから生きて行く上で必要なことを教えてくれた。
私が伯爵家の生まれだからか当たりがきつかったけど、逆に本音で包み隠さず話す人だったし、忙しい毎日は余計なことを考えずにすんでよかったと思う。
男爵の子どもたちは私よりずっと大きくてみんな結婚していたから、同じ年頃の子と話したことのないまま仕事に就くのは大変だった。
顔が広く、周りから信頼されている男爵の口添えがなかったら今ここにいないと思う。
「また明日もよろしくな、リェーナ」
私が扉を開けて入るまで立っていてくれるから、急いで入って隙間からのぞいた。後ろ姿を見送ろうと思ったのだけど。
玄関の明かりに照らされて、エリヤスさんがちょっと笑ったように見えたのは、もしかしてこちらの姿が見えている?
慌てて背を向けて姿を隠した。
エリヤスさんも少し先にある男子寮に向かう足音が聞こえないか耳を澄ませる。
少しも聞こえなくて、私は食堂に寄らず部屋に入った。
今のうちにお風呂に入って部屋で食事にしよう。
食事に出かけた子たちと会いたくない。
食堂にいる女の人たちはずっとおしゃべりしていて、噂話を広げているけど大丈夫なのかな。
私は今でも怖い。
余計な話をしなければ変なことに巻き込まれない、あんなにつらい思いはもう2度としたくない。
今はママとおじ様が悪いことをしたってわかっているし、怒りも覚える。
でも、言わなければあんなことにはならなかったと思うと……日常でも口を開くことができなかった。
ママたちが向かった遠い国はおじい様の親戚が住んでいて、頼るつもりだったらしい。
男爵から聞いた話によると、その国は貧しく、戦争が始まってしまい消息不明だと聞いている。
以来、定期的に届いていたお金を催促する手紙が途絶えたそう。
貴族として生まれて何不自由なく暮らしていた彼女たちが異国で暮らすのは難しかったと思う。
もう会うことはないとわかっても少しも悲しくならなくて、涙も出ない私は人間として何か欠けているのかもしれない。
この頃、こんな私にジャンさんが話しかけてくるようになった。きっと一人ぼっちで可哀想と思われているのかな。
彼は人気があるみたいで、女の人たちに嫌がらせをされるようになった。
書類が入れ替わっていたり、使っていたペンがなくなったり。
なぜかすぐエリヤスさんが別のペンを届けてくれるから困ったことにはならないけど。
特に今日、一緒に食事に行くと言った可愛い顔をした、私よりひとつ年下のブリッタさん。
きっとジャンさんが好きなのだと思う。
私はジャンさんのことはキラキラしてまぶしくて少し苦手。
あまり話しかけてこないでほしいとは思うけど……。
端のほうでさっとお風呂に入って、目立たないように部屋に戻った。
ベッドと机と椅子、衣類箱しかない殺風景な部屋。
だけど1日の終わりはほっとして、嬉しくなる。
ポタポタと髪から水滴が落ちて、慌ててタオルで拭く。
いつもよりお風呂が空いていたのに癖でついつい急いでしまった。
水差しからコップに水を注ぎ、エリヤスさんからもらった惣菜を開く。
今日はサワークリームを使ったオニオンとポテトのグラタンと、胡桃を使ったクッキーにチョコレートがかかったもの。今日もちょうど私にぴったりの量。
食堂に行かなくてすむ。
「…………ぉいしい」
話さなくなったら小さな声しか出なくなった。使わないと退化するのかな。
私ってこんな声だったかなって、思うけどよくわからない。
グラタンを食べた後はクッキーを一つ摘む。
これも甘くておいしくて、疲れがとれる。
エリヤスさんは甘党なのかな。
食堂の夕食にデザートはない。
いつもデザートやお菓子がついていて、先週食べきれなかったクランベリーの砂糖がけは毎日一粒ずつ楽しんでいる。それでもまだ何日も楽しめるくらい残っていた。
一生懸命仕事して、お返ししているけど、他にも何かしたほうがいいのかな。
押しつけているだけだから気にするなってエリヤスさんは言うけど、独りで食べながら悩んでしまう。
「…………⁉︎」
いいことを思いついた。
これなら私にもできるかもしれない。
翌日、ジャンさんに仕事終わらなかったんだね、大変だったねって言われて深々と頭を下げた。
「いや、仕方ないよな。今度早く終わる時に一緒に行こう」
行く気もないのに頷いていいのか迷ってうつむいた私の頭をポンポンと叩いた。
「また誘うよ」
「…………」
なんて答えたらいいかわからない。
しゃべらない私と一緒にいて楽しいと思うかな。
「リェーナのこと、知りたいんだ。ほら、だって、せっかく同じ職場になったんだしね! 友好を深めたい」
「…………」
どうしよう。
「それなら、私も知りたいわ! みんなで行きましょうよ」
ブリッタさんが口を挟んできて、私はすぐに頷いた。少し勢いがありすぎたかも。
この間、次は2人でって言われたけど、そんなの困ってしまう。
「じゃあ、次もみんなで行きましょう。ね、リェーナさん!」
私は彼女の言葉に頷いた。
「……リェーナ、ちょっといいか」
エリヤスさんに呼ばれて彼の元に向かう。
すごく居心地悪かったから、ホッとする。この後急な仕事を割り当てられてもいい。忙しいほうが好きだし、夜はぐっすりたくさん眠れるから。
「……これ、見てもらっていいか?」
彼の手元をのぞき込んだ。
今日も時間通りに終わらないのがそれだけでわかる。
「リェーナならできるな」
信頼されているみたいで、エリヤスさんの役に立つのが嬉しい。
「…………はい」
小さい声で答えると、任せるよって髪をくしゃくしゃにまぜてきた。
そんなことされたのが初めてでびっくりして見上げると、ちょっと困ったように笑って言う。
「今日終わらないようなら、声をかけて」
頷いてから、席について書類を広げた。
この量ならなんとかなる。
忙しいと誰も話しかけてこない。
私は作業に没頭した。
「リェーナありがとう、よくできているよ。さぁ、帰ろうか」
今日もエリヤスさんと2人きり。
彼に誉められるのも、ほかに人がいないのも嬉しい。
いつもの帰り道、お惣菜屋さんに寄る前に立ち止まって欲しくてエリヤスさんの服の裾を掴んだ。
「……どうした?」
目をぱちくりさせる彼を、とあるお店に引っ張っていく。
「なんだ? 今日はこの店に寄りたいのか。……そうか、女の子だもんな」
エリヤスさんが言っていることがよくわからないけど、このお店は女の子たちが美味しいと噂していたお菓子屋さん。
私はドキドキしながら中に入り、手にしていた紙を見せる。
今朝、いつもより早く寮を出て、紙に欲しいものを書いて用意してもらった。
「お待ちしてました。リェーナさんの分はちゃんとここにありますよ。……あら、エリヤスさんに? まぁ、ふふっ」
小声で尋ねられて頷いた。
エリヤスさんがなぜか真っ赤になっているけど、理由はわからない。
いつものお礼なのに。
「リェーナさん頑張って。うん、大丈夫よ!」
受け取ったのはチョコレートケーキで、間にアプリコットジャムと練乳で甘みをつけたクリームが交互にはさんであって、溶かしたチョコレートで覆われているらしい。
幸せを願うケーキなのかな。
大きいけど日持ちは1週間と言われたからきっとペロリと食べちゃうと思う。
お店を出てすぐに私はそわそわしているエリヤスさんに渡した。
すごくすごく嬉しそうな顔。
やっぱり甘いもの好きなんだ。
「リェーナ……俺も同じ気持ちだ。結婚しよう」
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