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序章:ティディス・クリスティスは皇帝陛下のお世話係
しおりを挟むまるで、靴底が床に張り付いてしまったかのように、足がすくむ。
ぎくしゃくとした足取りで私は広く立派な、けれど調度品の少ないなんだかがらんとしている宮城を奥へ進んでいく。
心臓が、今までにないぐらいに激しく鼓動を打っている。
私は今、借金取りの方々に金を出せと怒鳴られている時よりもずっと緊張している。
二階の支度室で準備をした物品が乗ったカートの車輪が、カラカラと音を立てるのがとても気になる。
水差しの中のお湯が零れないように慎重にカートを押して、真新しいお仕着せに身を包んだ私は、重厚感のある大きな木製の扉の前に立った。
ここはガルディアス皇国の、皇都にある城の奥。
皇帝陛下や、ガルディアス皇家の方々の居住空間である内廷にあるいくつかの宮城の一つ、黎明宮。
皇族の方々と、選ばれた侍女たちしか入ることのできない内廷に、どうして私がいるかというと──。
私が、奇跡的に皇帝陛下のたった一人のお世話係に選ばれたからである。
「皇帝陛下、起きていらっしゃいますか、皇帝陛下」
私は遠慮がちに、扉を叩く。
緊張でうまく声が出ない。どの程度力を入れていいのか分からずに叩いた扉は、こっこっ、というほんの小さな情けない音を立てた。
(返事がないわね、だから入ってはいけないわよね……)
私は誰もいない広い廊下を、無意味にきょろきょろと見渡した。
廊下はしんと静まり返っている。
助けを求められる相手はいない。
皇帝陛下レイシールド様の居城である黎明宮は、内廷にある宮城の中でも一番大きい。
けれど、その広い宮城には私以外の使用人は一人もいない。
皇帝陛下のお世話係――つまるところ侍女が、一人しかいないなんて奇妙な話だと思うのだけれど、これには事情があるようだ。
とりあえず今は、考えこんでいないでお勤めを果たさなくてはいけない。
「皇帝陛下、皇帝陛下。起きていらっしゃいますか、皇帝陛下……!」
先ほどより大きな声で陛下を呼んだ。
うるさいと怒られるかもしれないけれど、仕事なので仕方ない。
緊張し過ぎて喉から胃が、胃といわずに全ての臓器が飛び出しそうだ。
(頑張るのよ、ティディス。お城仕え一日目で、挫折するわけにはいかないわ……!)
私がここに居ることができるのだって、奇跡みたいなものなのだから。
「皇帝陛下、入ります……っ」
どれほど呼びかけてもお返事がないし、沈黙があたりを支配するばかりだ。
お仕着せのエプロンのポケットに入っている懐中時計を引っ張り出して、時刻を確認する。
私の朝の仕事は、皇帝陛下を起こすこと。
時刻は午前六時半。春の気配が近づいているけれど、三月の朝はまだ肌寒い。
窓の外はまだ朝靄がかかっている。皇帝陛下の寝室は黎明宮の二階にあるので、廊下の窓からは庭園を見下ろすことができる。
皇帝陛下の宮城の庭園だというのに、自然そのままという感じのあまり手入れのされていない庭園が、眼下に広がっている。
縦横無尽に広がっている様々な草花を見ると、私の家の裏庭を思い出して少し安心できる。
皇帝陛下の朝の支度のための諸々の準備を整えて、それをカートに乗せて寝室まで運ぶのが私の朝の仕事である。
必要なことは、昨日のうちに全て侍女頭のエルマさんから教えてもらった。
ここにくるまでは内廷の侍女の方々はどれほど恐ろしいのだろうと思っていたけれど、そんなことはなくて、むしろ私の境遇を哀れみながら、エルマさんは丁寧にお仕事を教えてくださった。
他の侍女の方々にも励まされながら、今日を迎えた私は、とても恵まれている。
そんな恵まれた環境で幸運にも働けることになったのだから、お部屋に入る前から心が折れるわけにはいかない。
「皇帝陛下……入りますよ、皇帝陛下……!」
扉を開いてカートを中にカラカラと押し込みながら、ついでに自分の体も押し込んだ。
こそこそする必要はないのに、こそこそ中に入って、静かに扉を閉める。
扉を隔てた先には広いリビングルームがある。
暖炉と、私が十人以上座ることができそうなソファセット。
書架には歴史書や軍略書などの本が並び、壁には鞘に入った剣が飾られている。
調度品は少ないのだけれど──。
「ひっ」
壁からぬっと、鹿の首が突き出しているのに気づいてしまって、私は青ざめた。
──レイシールド・ガルディアス様は、巷では冷血皇帝と評判である。
ガルディアス皇国に隣接するフレズレン王国との争乱にお若い頃から身を投じて、兵を率いてフレズレンの侵略者たちを撤退させた。
レイシールド様が通った道には屍の山ができるのだという。
恐ろしく強い武王であり、冷酷にして冷血。
我が国の子供達は、レイシールド様が馬に乗ってやってくると言うと、恐ろしくて泣いてしまうぐらい――なのだそうだ。
私は世情に疎い。だからその程度の噂ぐらいしかしらないのだけれど。
そんな皇帝陛下のお世話係に、どうして私がなったかといえば。
我が家が、崖っぷちの没落寸前の、借金まみれの伯爵家だったからである。
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