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 女神を中心として放たれた氷の矢が、圧倒的な質量と速度で降り注ぐ。
 ジルベルト様が作り上げた鉄線を組み上げたような巨大で無骨な檻が、無数の氷の矢を弾き飛ばす。
 女神の力とは強いのだろう、檻を貫通して床に突き刺さるいくつかの矢が、再び浮き上がって私に向かい飛んだ。アスタロトの作り上げた水の膜のようなものと、リアの作り出した植物の檻が、二重の壁になり私を守ってくれている。
 それでも突き進む氷の矢は、シュゼルの宝石の防護壁に突き刺さった。
 メルクルが私を庇うように抱きしめる。
 ラファエル様は大丈夫だろうか。心配になり視線を送ると、軌道が逸れた矢はハミルトンの防護壁が弾き、それを貫いたものはラファエル様の前で霧散しているようだった。エンデバラードの嫡子には魔力が通じないと言っていたけれど、見えない力が働いているように、ラファエル様の周囲には女神の力は今のところ及んでいないようだ。

「……つまらないわ。……本当に、つまらない!」

 女神が優雅に片手を宙へと突き出した。
 掌を中心に、凄まじい光量が集まり始める。先程よりも多量の、氷の矢よりも更に鋭い形をした光の矢が、天井を無数に埋め尽くした。

「アスタロト、ふらついてるじゃないですか。歳ですね」

「うーん、そうかも。流石女神だね、魔力量、おかしいでしょ!」

 リアとアスタロトの作り上げた壁が、更にその大きさを増した。
 ジルベルト様の鉄の檻も、更に無骨に歪に組み上がる。女神が手を振り下ろすと、光の矢が降り注ぎ、堅牢な壁を軋ませた。
 じりじりと、その質量に押されているのがわかる。
 私を抱きしめるメルクルが震えている。彼女はジルベルト様たちとは違い、戦うのが苦手な人蝶族の侍女だ。怖い、だろう。
 光の中で、女神が唇の端を吊り上げるのが見えた。
 彼女の真上には、城の柱よりも長く太い、巨大な光の槍が浮かんでいる。

「……結界に割いた魔力を戻す」

「良いよ、若君。国の結界よりも、リディスちゃんの方が大事でしょ!」

「えぇ、ジルベルト。俺たちでは、女神には敵わない。……リディスさんを、守ってください」

 アスタロトたちが頷くと、ジルベルト様の様子が変化した。
 黒に近い赤い髪が、炎のような燃えあがる赤に。その背には黒く滑らかな、美しい鳥の羽のようなものがばさりとはえる。片手に、闇を固めたような禍々しい黒い剣が握られた。
 ラファエル様も、剣の柄に手をかけている。「シンシア……」と呟くのが聞こえた。

「……シンシアさん」

 私もその名を呼ぶ。
 女神の中のシンシアさんはどこに行ってしまったのだろう。シンシアさんは、生まれた時からエルヴィーザ様というわけではなかった筈だ。どこかで、先程のルシスに意識を奪われたジルベルト様のように、エルヴィーザ様に変わってしまったのだろう。
 それは果たしてシンシアさんの望みだったのだろうか。
 シンシアさんは、ラファエル様のことが好きだったとエルヴィーザ様は言っていた。かつて愛に惑ったクロネアさんのように、シンシアさんも手に入らないものに焦がれて、女神に体を明け渡してしまったのだろうか。
 以前の私は、感情に振り回されて自分を損なってしまう方々のことを理解できなかったけれど、今はその気持ちがわかるような気がする。
 私も、同じだった。女神にジルベルト様を奪われてしまうのではないかと思うと、不安だった。先程の様子を目の当たりにして、元のジルベルト様にはもう戻らないのかもしれないと思うと、胸の中に氷塊を詰め込まれたように辛く、苦しかった。

 光の矢の襲来がおさまると、なんとか耐え忍んだ防護壁が消えた。
 アスタロトとリアが、肩で息をしながら床に膝をつく。シュゼルの宝石の壁も、ぼろぼろに削られてしまっている。
 ジルベルト様の剣が、襲い来る光槍を受け止めた。黒い光と、白い光が膨れ上がる。
 眩しさに目を細める。まるで、神話の中の光景を見ているようだった。広間に光があふれ、城全体が揺れているような錯覚を感じた。

「くだらねぇのは、お前だ。古びた女神」

 ジルベルト様の魔力で作られた剣から溢れた黒い本流が、女神の槍を押し返して飲み込み、消し去った。
 切っ先が、女神へと向けられる。
 醒めた目でそれを見つめていた女神に表情が戻る。怯えが走るその顔は、女神ではなく私の知っているシンシアさんのものに見えた。

「……ジルベルト様、駄目です……!」

 エルヴィーザ様に支配されていたとしても、その体はシンシアさんのものだ。
 彼女には非はない。ラファエル様の婚約者が私という非の打ち所がない美少女だったのが、彼女の不幸だっただけだ。
 振り下ろされようとしていた切先が止まる。「リディス?」と不思議そうに私の名を読んだジルベルト様の足元に、自分の身を守るようにしながら崩れ落ちたシンシアさんの瞳が、私を見る。
 それは一瞬の事だった。
 床にちらばる氷の矢の一つが浮かび上がり、私の胸へと真っすぐに飛んだ。
 私を庇おうとしたメルクルと、無理やり体の位置を入れ替える。私の終わりは、私の無力さと迂闊さがもたらしたものだ。メルクルを犠牲にするわけにはいかない。
 氷の矢が私の胸をつらぬき、シンシアさんの、エルヴィーザ様の笑い声が広間に響き渡った。

 これで、終わりなのかなと思う。

 今までの私は、終わりを受けいれていた。

 フォンテーヌ家に産まれた淑女としては、無状な姿を見せるわけにはいかない。
 終わりは潔く。無駄に足掻いたりはしない。そうでなければいけないと、思っていた。
 体に力が入らない。私を抱きしめて泣き叫ぶメルクルから奪うようにして私を抱き、ジルベルト様が泣き出しそうな顔でこちらを見ている。「リディス、リディス」と何度も名前を呼んで、きつく体を抱いてくださるのが心地良い。

「消え失せろ、腐った女神……!」

 ラファエル様の怒りに満ちた声が聞こえる。視界の先で、白刃がシンシアさんの体を貫くのが見えた。
 シンシアさんは死んでしまうのだろうか。エルヴィーザ様は、カミ様の娘なのだから、その責任をとってシンシアさんの時間ももう一度戻してくれたら良いと思う。
 できる事なら私も。私も、ジルベルト様と共に、もう少し。

 もう少し、同じ時を歩んでいたい。

「……ジル様、ごめんなさい」

 目を伏せると涙が溢れる。
 大嫌いだと言ってしまったのは、嘘だ。私はジルベルト様の事が、好きだ。婚礼の衣装を着て、明日ジルベルト様と結ばれることを、心から楽しみにしていた。
 無様でも良い。愚かでも良い。それは公爵令嬢としてあるべき姿でなくても、構わない。
 もう少し生きていたいと、思う。

「私、あなたが……、大好きです」

「リディス……!」

 ぽたぽたと、温かい液体が頬に落ちる。
 ジルベルト様は泣いているのだろう、手を伸ばして拭ってさしあげたいけれど、腕が動かない。

 私は、ーー死にたくない。こんなところで、死んでたまるものかと、思う。

 そもそも、エルヴィーザ様の在り様を知っていたのだから、カミ様がどうにかするべきじゃなかったのか。女神なのに全ての男性に愛されないからといって、駄々をこねるような性格に娘を育ててしまったカミ様は、親としての能力に乏しいのではないのか。
 それはまぁ、今更指摘するまでもなく乏かったのだろう。
 なんせ私の寝室に無断で入ったり、浴室に無断で現れるぐらいの失礼な行動ができる方なのだし。
 私の様な母としても完璧だろう美少女が伴侶として側にいるのなら、何か変わっていたのかもしれないが、何せカミ様は独り身のようだし、娘とどう接して良いのか分からなかったのだろう。
 お陰で女神があろうことか、本当なら無償の愛を注ぐべき私たちに刃を向けるようになってしまったのだから、困ったものだ。
 ここで私の命が途絶えたら、もう一度カミ様に会えるのだろうか。
 一言文句を言わなければ気がすまない。

「……リディス、悪かったと思っているよ。だから、そう怒った顔をしないで欲しい」

 時が止まったように、皆の声が聞こえなくなったと思ったら、私の真正面にカミシールが浮かんでいた。

「……本当ですわ。カミ様なら、エルヴィーザ様のお気持ちが安定するような環境を、作るべきですわ。見目麗しい男性を常に侍らせて差しあげるとか、エルヴィーザ様専用の男性の楽園を作るとか」

「我の娘を、男狂いのように言うんじゃない」

「違いますの?」

「エルヴィーザが何を考えているのか、我としても理解できなかった。前回はエルヴィーザではなく、シンシアだと思っていたんだ。だが、ようやく分かったよ。悪かったな、リディス。……手を貸そう」

 カミ様の手が、私の左手の刻印に触れる。

「カミ様。……シンシアさんのことも、お願いしますわね」

「あぁ、分かってる。エルヴィーザが、お前たちの運命を狂わせて、すまなかった」

 触れられた刻印が、熱を持つのが分かる。
 カミ様の姿が消えると、私の刻印が薄ぼんやりと輝き出し、それと同時に私の胸に開いた穴から、それを埋めるようにするすると薔薇の花が咲き乱れた。
 薔薇は私の体の中へと入り込み、傷口を塞いだようだった。
 ようだったというのは、私の意識はそこで暗く途切れてしまったからだ。

 私を囲むようにして覗き込んで、名前を呼んでくれるジルベルト様や、アスタロトやリア、メルクルやシュゼルの声が耳にいつまでも響いていた。



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