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しおりを挟む不穏な空気を感じたのだろうか、「メルクルも一緒にいます!」と私の手をメルクルが握りしめた。
ラファエル様がどれ程の人数でいらしているのかは知らないけれど、落ち着いているリアの様子からして大軍を持って攻めてきているという訳ではなさそうだ。危険はないと判断して、メルクルも連れて行くことにした。
メルクルは戦う力に乏しいと言っていたのに、私と共に居てくれようとする心遣いがありがたいと思う。
ジルベルト様の部屋から、同じ階層にある謁見の間へと向かう。そこは私がこちらに来て、一番最初に通された場所だ。
「リディスさん、今のエンデバラード王は随分若いのですね。リディスさんの元、婚約者だとジルベルトから聞きましたよ」
「ええ、ラファエル様は私よりも二つ年が上なので、今は十八歳だと思いますわ。リア様達からしてみたら、とても若いのでしょうね」
回廊を歩きながらリアに尋ねられたので、頷いた。
やはりラジエル王ではなく、ラファエル様がいらしているようだ。ラジエル王がこちらを訪れる理由はみあたらないので、王位を譲ったというのは予想に難くない。
「エンデバラード王家は随分身分を軽んじているのですね。王と共に来たのは、若い男がもう一人、それから得体のしれない女が一人。若い男の方は……、あれは、……まぁ、良いです。リディスさん、君の事は俺たちが守りますから、安心してくださいね」
にこりと、リアが微笑んだ。
リアの言葉は大方の予想通りではあったが、護衛騎士も連れずに来るとは、もしかしたら独断での行動なのかもしれない。もう一人の男というのはハミルトンなのだろうけど、彼が武力に優れているという話は聞いたことがない。
ラファエル様が私に何かするとは思えないけれど、リアの心強い申し出を有難く受け入れる事にする。
「ありがとうございます」と礼を言うと、リアはとても大切なものに触れるように私の手の紋様に触れた。そのまま手を引かれて、王の間へと通される。
謁見の間の玉座の背後にある扉から中へと入る。広間は初めてここに来た時の薄暗さとは姿を変えて、隅々まで掃除が行き届いて豪奢な燭台がいくつも掲げられていた。ジルベルト様の座る椅子は、骨と鉄くずをごちゃごちゃと組み合わせたような趣味の悪さは変わらないが、今はそこに植物の蔦が纏わりついて、赤い薔薇がところどころに咲いている。多分木精の方々が飾り付けてくれたのだろう。
ジルベルト様の隣には、アスタロトとシュゼルが並んでいる。シュゼルが図書室から外に出ているのをはじめて見た。私を連れたリアは、アスタロト達とは反対側の椅子の横に立ち、メルクルが私のすぐ後ろに控える。
石造りの室内に敷かれた絨毯の上に、久々に姿を目にするラファエル様が立っている。
いつもの柔和な笑みは失せ、感情の読めない瞳が私をちらりと一瞥した。
その横にはハミルトンが。長い黒髪を一つにまとめて、白いローブを羽織っている。彼の姿を目にするのは、今生でははじめてのことだ。今生の私は彼の名前と存在だけしか認識していない筈なので、無暗に話しかけないようにしなければと自分を戒める。
彼らの後ろには黒い布を纏い、フードを目深に被り顔を隠した小柄な女性が控えていた。
シンシアさんなのだろう。姿を隠している理由はよく分からないけれど、それ以外には考えられない。
それにしても、と私は思う。
シンシアさんはここに連れられてくることを、受け入れたのだろうか。
男爵令嬢で、元々は庶民で、王立学園でもあれほどおどおどしていたシンシアさんが、魔族の国に行く事を決心したとしたら、その理由は一体何なのだろう。
私は結局、シンシアさんが何を思っていたのか、前回の人生では理解することが出来なかった。
シンシアさんは話しかけても私の言葉を否定するだけで、まともに話をすることができなかった。
私に虐められていると思っているシンシアさんが、私と話をしようとは思わなかったのは、当然なのだろうけれど。
今回の彼女もなにを考えているのか、私にはまるで分からない。
「初めまして、魔族の王。私はエヴァンディア王国、国王である、ラファエル・アルタ・エンデバラードと言います」
ジルベルト様とは違う優雅な所作で、ラファエル様は丁寧な挨拶と礼をした。
朝の日差しのような金の髪に、湖面のような緑の瞳の優しげな美丈夫であるラファエル様は、白の服に深い藍色のマントを羽織っている。
ジルベルト様は黒の服に真紅のマントを羽織っているので、真逆の装いにみえる。
私は我が子を見守る母親の気持ちでジルベルト様に視線を送る。ジルベルト様は大丈夫だろうか、きちんと王としての挨拶ができるのだろうか。
私の事を初対面で小娘呼びしたジルベルト様である。もしかしたら、また粗野な態度をとるのではないだろうか。
「俺はジルベルト・ユール・ハインゾルデ。まだ皇子の身分だが、明日正式に伴侶を娶り、即位することになっている。王として扱ってくれて構わない」
大丈夫だった。しっかりとした言葉だ。
私はジルベルト様の成長に感動した。
ラファエル様がもう一度深く礼をしたあとに、一歩前に踏み出す。
ジルベルト様は敗国の王という立場なのだが、傲慢な態度を取らず客人としての礼を弁えているあたりラファエル様は流石だ。
シンシアさんが現れる前のラファエル様は、立場に驕ることなく良く学び教えを乞う、将来を待望された王太子様だった。
「本来ならば隔絶され入ることが叶わない魔族の国へ迎え入れてくれたこと、感謝します。千年間隔たれた国へ私たちを通してくれたのは、再び人と共に暮らすことを考えていると捉えても?」
「知っての通り、王国は我が国へフォンテーヌ公爵家の令嬢であるリディスを遣わしてくれた。遠い過去の大戦で隔たれた国を繋げるのは、リディスの望みだ。前向きに、考えている」
「……私たちにとっても、大戦は遺恨さえ消え去る程の過去の話。国と国が再び手を取り合うのは、互いにとっての利になることだと考えます。……ジルベルト王の伴侶というのは、やはり」
ラファエル様の視線がもう一度私に向いた。
激しい感情を押し殺したような視線を、私は逸らさずに見返す。
古くからの友人に久々に再会したような、気安い懐かしさを感じる。
「あぁ。フォンテーヌ公爵令嬢、リディスを我が伴侶として迎える」
「……そのことで相談があり、自らここまで来ました。元々リディスは私の婚約者。ジルベルト王が伴侶にすると決めたということは、その清廉な心根と淑女としての振る舞いを認められたということでしょう」
「そんな言葉では足りないほど、リディスのことは深く信頼している」
「私のために幼い頃から王妃としての心得を学んでいたのですから、当然の事ですね」
ラファエル様の柔和な口調が、やや毒を帯びる。
私が学んでいたのはラファエル様のため、というわけではないのだが、口を挟むのは躊躇われた。
ジルベルト様は落ち着いているようなので、もうしばらく様子を見守るべきだろう。
「リディスは大戦の傷を未だ引きずる両国を憂いて、貴殿の元へと向ったのでしょう。魔族と人を繋ぎたいという志は立派なものだ。けれど、私としてはリディスに国に戻って欲しいのです。正式に婚約の破棄は為されていない。リディスは未だ、私のものですから」
「婚約などは所詮書面上のことだろう。エヴァンディア王国の法は、我が国では無効だ。残念だが、その申し出には答えられない。友好を結び国交を回復させるといった有意義な相談なら、歓迎するが」
ジルベルト様がなんだか賢い事を言っている。口調を変えただけなのに、威厳に満ち溢れた上に立つ者に見えるのが不思議だ。
状況が許せば、素晴らしいといって褒めて差し上げたい。ついでに私に追い縋ろうとするラファエル様も、私のような優美で愛らしくかつ妖艶な美少女が忘れられない気持ちはよく分かるので、一旦落ち着かせるために撫でて差し上げたい。
「……友好を結ぶための婚姻なら、リディスじゃなくても良い筈だ。もっと相応しい人を、連れてきました」
悪意などまるでなさそうな穏やかな笑みを、ラファエル様が浮かべる。
ハミルトンに促され、やはりというかなんというか、目深にフードをかぶった女性が前に出てきた。
本当にどういったつもりなのだろう。まさかジルベルト様と結婚したいわけでもないだろう。もしラファエル様たちに命じられて仕方なく従っているのだとしたら、それは哀れだから救ってあげるべきだとは思うけれど。
ラファエル様の隣に並んだ女性が、フードを外す。
胸元までざっくり開いたローブの隙間から、太陽のような刻印が胸元にあるのが見える。恐らく女神の印なのだろう。
とても戸惑ったような、心細そうな表情を浮かべたシンシアさんが、そこには立っていた。
シンシアさんに会うのも今生でははじめてなのだけど、ふわりとした肩口までの栗色の髪と青い目をしたそれなりに可愛らしい方、という印象は変わらない。比べるべくもなく私の方が美しいけれど、小動物を思わせる小柄な体に不安に潤んだ瞳は庇護欲をそそられる。
前回もうるうるぷるぷるしていたのだけど、今回もまたうるうるじめじめとしていて、流石アナホリヤスデの方だと感心させられた。
「王国の至宝である、女神エルヴィーザの魂を持つ器の少女、シンシアといいます。両国の友好の証としては、これ以上に相応しい者はいないでしょう。……リディスを、返して貰いたい」
ラファエル様の言葉に、シンシアさんはびくりと震えている。
私はジルベルト様に視線を向けた。
ジルベルト様はずっと、ルシスの妄執について気に病んでいた。女神を欲するルシスと、女神の消滅を願うアリア。御自身のものではない押さえつけていた感情は、シンシアさんを前にしたらどうなってしまうのだろう。
眉間に皺を寄せ、苦しげな表情を浮かべたジルベルト様が、玉座からゆっくりと立ち上がる。
シンシアさんの元に行こうとしている。
そう思った途端、私も一歩足を踏み出していた。
「ジルベルト様……!」
思わず駆け寄って腕に触れる。
ジルベルト様は今までにみたこともないような冷酷な表情を浮かべて私を一瞥すると、私の手を邪魔な虫でも払い除けるようにして、無造作に振り払った。
ジルベルト様にしてみれば軽く払ったつもりなのだろうが、乱暴に払われた私の掌は赤く腫れて、じんじんと鈍く傷んだ。転びこそしなかったが姿勢を崩した私を、背後からそっとリアが支えてくれる。
「……ようやく、再びエルに出会えた」
うっとりとそう呟くジルベルト様は、まるで別人のようだ。
その視線は最早私をうつしてはおらず、じっとシンシアさんだけを見つめていた。
「ジルベルト様、……駄目、ですわ」
なんと言っていいのかわからず、私は首を振る。
今のジルベルト様は、ルシスの妄執に飲まれているのだろう。こうも簡単に、のまれてしまうものなのだろうか。それほど、その妄念が強いということなのだろうか。
「下がれ、女。気安く俺に触れたことは許してやる。殺されたくなければ、消えろ」
私は大丈夫だと思っていた。
感情に振り回されず、どんな状況でも誇り高く、冷静に判断をして、受け入れることができるのだと思っていた。
それなのに、今はとても、悲しい。
「いや、……嫌、です……っ」
はらはらと、温かいものが頬を伝い落ちた。
子供のように駄々をこねて泣いている自分に驚いて、あまりに情けなくて、私は唇を噛み締めた。
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