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しおりを挟むジルベルト様と共に部屋に戻った私を待っていたのは、メルクルだった。
「おかえりなさいませ」との言葉と共に、寝室の手前にある浴室に連れていかれる。ドレスをてきぱき脱がされて、三人で入ってもまだ余裕のありそうな湯船につけられ、全身を洗われた。
メルクルはドレスのままだだったし、レースの手袋もつけたままだったけれど、全く濡れている様子がない。不思議なものだと思う。
「リディちゃん、ジルベルト様との初めての夜だし、月下椿の香りのお風呂にしたのよ。可愛くて良い香りのするリディちゃんに、ジルベルト様は恥も外聞もなく喜ぶに違いないわ」
「それは、ありがとうございます。きっと喜んで下さいますわ。……メルクルさん、メルクルさん以外にも、お城に人蝶族の方がいるのですね」
「もともとみんな、ここで働いていたのよ。お城で働けるのは名誉なことだし、アスタロト様もリア様も変わっているけど、城の者たちには優しいから、お城のお仕事は人気なの。お給料も良いし」
この国の貨幣をまだ私は見たことがないが、メルクルはお給料を貰って働いているらしい。
その辺りがきちんとしていることに、少し安堵した。
風呂から上がるとメルクルの羽が輝き、温かい風が巻き起こる。温かい風に全身を包まれるようにして、すぐに体も髪も乾いてしまった。とても便利だ。
良い香りのする液体で顔や体の手入れをした後に、さらりとして光沢のある薄桃色の夜着をきせられた。
髪は邪魔にならない程度に、緩く結ってくれたようだった。
「じゃあ、メルクルは下がります。リディちゃん、おやすみなさい。また明日ですよ」
「はい、メルクルさん。明日もよろしくお願いします」
私を連れて浴室から出て、メルクルはお辞儀をすると部屋から出て行った。
私は奥にある寝室への扉をくぐる。
寝室では、既に簡素な服に着替えを済ませているジルベルト様が、ベッドの端に座ってお酒か何かが注がれたグラスを傾けていた。
「私、先にお風呂に入ってしまいましたけど、よろしかったのかしら……」
「あ、ああ……、使ってねぇ浴室が無駄にあるから、俺はそっちに……、って、リディス、側によるな。さっさと寝ろ」
近づいていって、体をくっつけるようにして隣に座る。ジルベルト様が軽く身を引いて、慌てているのが面白い。
ベッドに座ると、正面の窓から大きな月が見えた。
「嫌ですわ。まだ眠たくありませんのよ」
「わかったから、あまり近づくな」
「それも嫌ですわ」
私はジルベルト様にもたれかかると、肩に顔を預ける。襟元が開いた服の狭間から、筋肉質な胸元が見える。触ってみたい衝動にかられたが、はしたないので我慢することにした。
「空が、いつも薄ぼんやりしているのは、結界に覆われているからですの?」
「あー……、あぁ。薄暗くて、憂鬱になるだろ」
「晴れた空の下を、一緒に歩けると良いですわね。雨の日には、部屋でぼんやりと外を眺めたいですわ。私と一緒なら、どんな一日でもきっと楽しくなりましてよ」
「そう、だな……。リディス、怖くねぇのか。……ユールは女神の器への執着から、逃げられずにアリアを苦しめた。本当はアリアを、愛していたのにな。結界を無くして世界を繋げたら、女神の器への渇望が更に強くなるのかもしれねぇ。ルシスの妄執に俺も」
「ジルベルト様は、私よりも女神の器とやらの方が優れていると思いますの?」
比べるべくもないだろうと軽く睨むと、ジルベルト様は気が抜けたように笑った。
「いや。お前は清く優しく愛らしく完璧な、俺の花嫁のリディスだったな」
「そうですわ。あなたの愛するリディスは、……きっと、大丈夫です」
微かに語尾が震えてしまったことに、気づかれてはいないだろうか。
私を蝕む私の記憶を、消してしまいたい。
前回の私も完璧な公爵令嬢リディスだったけれど、結局誰も私を、助けてはくれなかった。
助けてほしいと望んでいたわけじゃないけど、もしかしたら、という気持ちはある。もしかしたら、また私は。
こんな風には不安になるのは、違う。
気を取り直そうと一度目を伏せると、体がぐらりと傾いた。
ベッドに倒れた私の上にジルベルト様が覆いかぶさっている。
背後の窓から見える月の色よりも、ずっと綺麗な金色の瞳が射抜くように私を見ている。
「リディス、……隠してるんじゃねぇよ」
「私、は……」
「不安なら、不安だと言って良い。そうさせてる俺を、責めてくれても構わない」
「まだ起きてもいないことで、不安になるのは馬鹿げておりますわ……、私は大丈夫です。私が揺らいでいては、あなたを支えることなどできませんもの」
ジルベルト様の手が、私の刻印に触れる。
再びざわざわとした何かが、体の内に起こるのがわかる。唇がゆっくりと重なった。
少しがさついていて、柔らかくて、私よりも大きくて、食べられているような気分になる。
室内の灯りが消えた。月明かりだけが差し込む部屋はとても静かで、衣擦れの音と、唇が合わさる濡れた音だけが聞こえる。
ベッドのシーツの上に押し付けられている手が、熱を持ったように熱い。
目を閉じて、優しく触れるだけのものから徐々に深くなる柔らかく湿った舌を受け入れる。
口の中がいっぱいになって息苦しいけれど、充足感も感じる。私の中が、知らない何かに満たされていく。
隠しているものが暴かれていくような解放感が、体を巡る。
まるで甘い蜜でも啜るように、秘められた何かを探すように、口の中をうごめく舌が擦れるたびに、体が勝手に跳ねた。
「……は、……、」
逃げようとする私を抱きすくめ、押さえつけて、ジルベルト様がさらに深く押し入ってくるような気がした。
刻印と、喉の奥から身体中を何かが暴虐に走り回る。
ぼろぼろと、泣きじゃくりながらそれを受け入れている私の背を、ジルベルト様が優しく撫でた。
魔力を注がれているのだと、働かない頭でぼんやりと考える。
「リディス……、好きだ、リディス」
救いを求めるような声だった。
拘束が解かれて自由になった両手で、ジルベルト様の頭を抱きしめる。
両手は震えていたけれど、暗闇の中では最後に残った炎のように見える暗く赤い髪に手を通し、抱き寄せることができた。
「ジル、さま……」
まだ、体が作り変えられているような感覚が残っていて、名前を呼ぼうとした声はとても拙い。
何を言おうとしたのか自分でも分からない。私はしばらく、そのまま天井を眺めて呼吸を整えた。
そっと私の手の中から体を起こしたジルベルト様が、私の体をすっぽりと抱きしめる。
そして私を抱いたまま、ベッドに横になった。
温かくて守られているようで、とても気持ちが良い。
「悪ぃ、無理をさせたな」
「……印に触れられると、おかしな気持ちになりますの。……魔力が、流れるのですか?」
「今は、無理やり流し込んだ」
「必要な、ことなのですね」
呼吸が落ち着いたので、私は涙に濡れた目元を擦った。
「……俺を受け入れる負荷で、お前が壊れるかもしれねぇ。少しでも、俺の魔力に馴染ませておきたい。……いや、言い訳だな。今のはただ、そうしたかっただけだ。お前を泣かせて、俺に縋り付かせたかった」
「……っ」
どういう訳か、鼓動がうるさい。
頬が上気しているような気がする。
暗闇で良かった、表情の変化から、動揺を悟られずに済む。
「リディス、お前が強く在ろうとしていることは、よく分かってる。俺も随分、お前に救われた気がする。だから、たまには俺にも甘えてくれねぇか」
「……私、随分甘えていると、思いますわ。……あの、でも……、もしよろしければ、暫くで良いので、こうしていてくださいまし」
「わかった」といつもより少し掠れた声が鼓膜を震わせる。
私は目を伏せて、体の緊張を解いた。背中を撫でる手が心地よくて、すぐに眠気が襲ってくる。
もっと話をしたかったけれど瞼の重みには勝てなくて、肌を辿る指先の熱さを感じながら、私は眠りに落ちた。
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