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しおりを挟むジルベルト様は無言で部屋にずかずかと入ってくると、私の手を握っていたアスタロトの手を徐に捻り上げた。
私は手を引っ込めると、膝の上に置いた。怒っているジルベルト様は、やはり迫力があって、少しのことでは動じない私でも威圧感を感じてしまう。
「アスタロト、何をしている?」
「何をって、可愛いお嬢さんをもてなしているんだよ、見ればわかるでしょう?」
アスタロトは特に痛がる風でもなく、笑顔を浮かべたまま首を傾げてみせた。
「どういうつもりだ、お前。こんな小娘を誑かして、何を考えてやがる?」
「君こそ、何をそんなに怒っているのやら。若君は、リディスちゃんを掃除婦にしたんでしょう、だったら別に僕がリディスちゃんとの時間を楽しんでも別に問題ないでしょう。リディスちゃんは、君の伴侶ってわけじゃないんだから」
全く悪びれていない口ぶりでアスタロトが言う。ジルベルト様は小さく舌打ちをした。
それから捻り上げていた手を離すと、私の方へと視線を向ける。
「お前もお前だ、アスタロトには気を付けろと俺がせっかく忠告してやったってのに、馬鹿な女だ」
「ジルベルト様、食事中に騒ぎ立てるなんて、すこし無作法ではなくて?」
ジルベルト様が怒っているのは、アスタロトに嫉妬しているからだろう。
微笑ましくは感じるが、とはいえ挨拶もせずに突然暴力に訴えるなんて、あまり関心できる行動ではない。
夫の行動を諫めるのは良き伴侶の務めだ。私が注意すると、ジルベルト様は私の腕を掴んで無理やりに椅子から立たせた。
私の腕を掴んでもすこし指が余る程度に、ジルベルト様は体の大きな方だ。大きいといっても無駄な肉がついていない体はどこもかしこも硬そうで、騎士団の方でもこれほどの体格の方はいないかもしれない。
座っている姿しか見ていなかったので分からなかったが、私が並ぶと頭が一つ分か、それ以上に背が高い。
私は十八歳になったらもう少し身長が伸びていた気がするので、あと二年もすれば隣に並ぶと丁度良いぐらいになるだろう。ジルベルト様を見上げながらそんなことを考えていると、金色の瞳がこちらを向いた。不機嫌になると瞳孔が小さくなるようで、目つきの悪さが更に際立って見える。
「離してくださいまし。そんなに必死につかまなくても、私は逃げませんわよ」
「クロネアがうるさいから様子を見に行ったら地下室にはいねぇし、どこにいるかと思えばこの嘘吐き蛇と随分親しそうにしやがって、お前は自分の立場を分かってるのか?」
「私は掃除婦リディス。けれど、どんな肩書がつこうと私は私、掃除婦だからと言ってアスタロト様の申し出を無下にするような無粋な真似はいたしませんわ」
「お前、何か食ったか?」
「えぇ、森コグマのお肉、というものを……」
途端ジルベルト様は嫌悪するような表情をアスタロトに向ける。
「お前、なんて惨いことを……」
「酷い? 若君は人間についてよく知らないんだろうけど、リディスちゃんは何か食べないと生きていけないし、僕たちと違って若君がその細い腕を何かの拍子に引きちぎってしまっても、自分では元に戻せないし、酷い時は死んでしまうんだよ。脆弱なくせに、誇り高くて賢いところが溜まらなく可愛いよね。若君は、リディスちゃんはいらないんでしょ。だったら僕が貰っても良いじゃない」
「森コグマの肉には、毒があるだろ!」
「そうだったけ、忘れていたなぁ」
毒、と聞こえた。
アスタロトは全く悪びれた様子もなく、微笑んでいる。「だとしても大丈夫だよ、僕がきちんと助けてあげる」と優し気に言う彼自身が、一瞬毒蛇に見えた。
何とはなしに、舌先がぴりつくような感覚がある。徐々にその痺れは、全身に広がっていくように感じられた。体が熱い。
あぁ、私としたことが。王となる者は微弱な毒を摂取して毒への耐性を体につけることがあるという。私もそうしておけば良かった。
カミ様もどうせ時間を戻すなら、産まれた時からにしてくれたら良かったのに。クライブやお兄様が、私の口に入れるものは必要以上に気を付けてくれていたので、毒に触れる機会など私にはなかった。
「……迂闊、でしたわ。私に食べられないものがあるなんて……。皆の目をぬすんで、少しづつドクテングタケを齧っておけば良かった……」
『いや、今の流れで毒を食べておけば良かったってならないだろう、普通は』
頭の中で今一つ配慮が足りない創造神の声がしたけれど、私は聞こえなかったことにした。
アスタロトからは私への害意は感じられない。わざと毒のある肉を私に与えたとしても、彼には別に私が邪魔だから排除したいとか、そういった感情は全くなさそうだった。
彼は小動物を愛でる様な純粋さで、親愛の情を差し出してくれているように感じられた。
つまりアスタロトは私に対して、『毒で苦しむリディスちゃんを献身的に助けたい』という歪んで重苦しい愛情を抱いているということだ。
思えば私は滅多に自分から、他者に助けを求めたりしたことがない。大抵の事は一人で解決できてしまうし、恵まれた者は助けられる側ではなく、助ける側でいなくてはいけないと思っていたからだ。
つまり、可憐な私が毒で体を侵されて「アスタロト様、苦しい……っ」と彼に縋り付く姿は、とても希少であり、彼のちょっと重たい支配欲を満たすということだろう。
私がジルベルト様に身を捧げると言ってしまったばかりに、アスタロトの本来ならば純粋だったかもしれない愛情を歪めてしまい、申し訳ない限りだ。
きちんと応えてさしあげなくてはいけないが、アスタロトのためにそう年中毒で寝込むわけにもいかない。
「何言ってるんだ、馬鹿女。毒で頭が変になったのか?」
「リディスちゃん、具合が悪そうだね。大丈夫?」
「いい加減にしろ、アスタロト。お前のせいだろうが。……来い、リディス」
床に膝をつきそうになった私を、ジルベルト様の腕が荷物のように抱えあげる。
手足は痺れて、呼吸が苦しい。食べたお肉は半分ぐらいだし、たぶん致死量ではないのだろうけど、嫌な汗が額を流れ落ちるのが分かる。
「それは、僕の――だよ、若君」
アスタロトが何か言ったようだが、あまり聞こえなかった。
「ふざけるな。こいつはただの掃除婦だ、構うんじゃねぇよ、クソ蛇」
ジルベルト様が苛立ちを含んだ声で怒鳴る。私は苦しいのだから、あまり大きな声を出さないで欲しい。
「またね、リディスちゃん」と手を振っているアスタロトに返事をすることができなかった。
全く、毒に耐性のないこの体が恨めしい。こんなことなら野営の時に、安全な食材を食べるだけでなく、毒草にも手を付けておくべきだった。私の怠慢がこの事態を招いてしまったのだから、反省するべきだろう。
私はジルベルト様に抱えあげられながら、ぼんやりと考える。
それにしても、ジルベルト様の腕は安定感が凄い。抱かれていると、まるで幼い子供に戻ったような気がする。
運ばれている体の揺れが、あの時の、私が一度命を落とした時の馬車の揺れの様に感じられる。
あの時、どうして馬車はあんなに急いでいたのだろう。
何か急がなければいけない理由でもあったのだろうか、私を娼館に連れていく、それだけの為にどうしてあんなに馬を駆けさせていたのだろう。
「私……、また、死んでしまうのかしら……」
「また?」
「……ジルベルト、さま、……情けない姿を、みせてしまい、申し訳ありませんわ」
無意識に何か呟いてしまったらしい。
訝しく聞き返されてふと我に返り、私はジルベルト様に謝った。
掃除婦として明日からのクロネアさん対策を練らなければいけないというのに、地下室を綺麗にしただけで毒に苦しむことになるなんて、予想していなかった。
反省しかない。森に住んでいるらしい森コグマとやらを捕まえて、どの程度の毒があるのかを調べないといけない。生き延びたら、少しづつ食べて、不測の事態に備えて毒耐性のある体を手に入れなくては。
「ちょっと黙ってろ、馬鹿女。……お前は何も悪くない」
そんなことは知っている。私は別に悪くない。
少し努力が足りなかっただけなので、生きてさえいれば不足分は取り返せる。
わざわざ私のしている反省について、慰めて貰わなくても大丈夫だ。
けれどこれはジルベルト様の優しさなので、私は快く受け入れる事にした。
「……ありがとう、ございます」
「……安心しろ、死にはしない」
視界が暗い、何か柔らかいものの上に体が落とされたのが分かる。
腹の上に、大きくて暖かい手の平が触れている。温かさと共に、じわじわと苦しさが消えていくのを感じる。
「……っは、……ぁ」
首を絞められているかのように苦しかった呼吸が、少し楽になった。
目を薄く開くと、ジルベルト様が難しい顔をして私を見ている。こうして近くで顔を見ると、目つきは悪いが金の瞳はとても美しい。夜空に浮かんだ明るい星のようだ。
「本当に、肉の毒だけか、これは?」
囁くように尋ねる声に返事をすることが出来ない。
私は森コグマのお肉を食べて、搾りたて森イチゴを飲んだだけだ。他には特に何も口の中にはいれていない。全身の痺れと呼吸は随分楽になったが、体が熱いのは治まらない。
「……仕方ない、これは治療、治療だからな、他意はない」
ジルベルト様がなにやらぶつぶつ言っている。
何でもいいから治るのならさっさと治して欲しい。クロネアさんの対策以外にもやることが増えてしまったので、こんなところで寝ている場合ではないのだから。
「リディス」
名前を呼ばれたので、返事をしようと唇を開いた。
何か柔らかいものが触れたと思ったら、熱くて大きい何かが私の口の中に入ってくるのを感じる。
それはなんだかよく分からないが、私の喉を通って体の内側を動き回り、暫くしてもう一度唇からするりと抜けて出て行った。
圧迫感と不快感は一瞬で、すっかり心地よくなった私は目を閉じるとそのまま眠りに落ちた。
遠くで名前を呼ぶ声が聞こえたが、今は眠くてそれどころじゃない。ジルベルト様には目が覚めたらきちんとお礼を言おうと思う。
もう一度何かが触れたような気がしたけれど、あまり気にしないことにした。
ジルベルト様は私の夫となる方なので、好きなだけ私に触れて構わないのだから、言うべき言葉は特にみつからなかった。
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