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 アスタロトに手を引かれながら訪れたのは、今までの無機質な風景とは真逆の部屋だった。
 床には金糸で刺繍の施された美しい絨毯が敷かれており、壁には繊細な細工がなされた燭台が、奇妙に青い炎を灯している。
 立派なテーブルには深紅のテーブルクロスが敷かれ、金の食器の上には美味しそうな肉料理が湯気を立てていた。
 テーブルの上にも燭台があり、ちらちらと炎が揺らめいている。花瓶には、赤い薔薇が一輪。ともかく一つ一つはとても良いものだと分かるのに、全体を見渡すと目に痛いほど赤くて華美な部屋だという印象になってしまう。
 アスタロトに促されて、私は椅子に座った。
 彼も私のすぐ前の椅子に座ると、彼の体に巻き付いていた蛇はするりといなくなって、奥にあるソファの上の大きなクッションにとぐろを巻いて落ち着いた。
 部屋の窓からは夜空が見える。空には星が輝いていて、私の国のそれとあまり変わらないように見えた。

「さぁ、リディスちゃん、召し上がれ」

 アスタロトの言葉と共に、グラスの中に赤い液体がひとりでに湧き上がった。
 ワインの様に見えたが、よく分からない。

「私、お酒は……」

「まだ君は子供だから、それはお酒じゃないよ。森の野苺を潰して作った飲み物で、若い女の子に人気だという話だから取り寄せてみたんだけど、どうだろう?」

 いつの間にかアスタロトの手の中には瓶が握られている。瓶のラベルには、『生しぼり森イチゴ』と書かれている。あまり美味しそうな名前ではないが、こちらの方々の感性はまた違うのだろう。
 お酒ではないと分かったので、「それでは、遠慮なくいただきます」と言ってからグラスに口をつけた。
 ほんのり甘酸っぱくすっきりした味がした。そういえば喉が渇いていたのでありがたい。

「それは森コグマの肉。人が何を食べるのか、あんまり覚えてないんだけど、どうかな。肉なら大丈夫かなと、思うんだけど」

「ありがとうございます。見た目は、私が普段食べていたものとあまり変わらないように見えますわ」

 私はナイフでお肉の端を切ると、口の中に入れる。
 お肉はちょっと硬く野性味あふれていたが、特に問題はなさそうだった。美味しくはないけれど、贅沢は言っていられない。

「食べられる?」

「はい、美味しくいただいております」

 硬いので極力小さく切り分けながら、私は答える。親切には愛情を返さなければいけないので、私が微笑むと、彼はとても嬉しそうに目を細めた。

「良かった。人間って料理作るの上手でしょう、大戦前は僕も美味しいものを沢山食べていたような気がするんだけど、すっかり味を忘れちゃってね。魔族は食事をとる必要はないから、料理ができる者がいないんだよ。飲み物とか、お酒とかは嗜好品として売買されてるけど、食べ物はねぇ……、僕は趣味で森の生き物を捕まえてきて時々こうして作ってるんだけど、自分で食べても美味しいんだか美味しくないんだか、よくわからないんだよね」

「そうですの……」

 美味しくはない。
 けれど私の為にわざわざ準備をしてくれたのだとしたら、有難い事だ。
 有難いが、料理ができる者がいないとしたら、今後の私の栄養状態が大変なことになる。どうにかしなければいけないと、私は硬い肉を咀嚼しながら思う。

「若君なんか、大戦後に産まれてるから、食べ物を口に入れた事が一度もないんじゃないかなぁ、僕が作ったものを見ても、嫌そうな顔をするだけだし」

「必要が無くても、生活の楽しみとして美味しいものを頂くのは、良い事だと思いますわ」

「そうでしょう? 必要ないからなにもしなくて良いなんて、それじゃあ永遠に寝て起きてを繰り返すしかないじゃない。人間ってそういう楽しい事を、沢山するでしょう、例えば花を育てたり、絵を飾ったりとかさ。最近の魔族ときたら、終末論が持て囃されてて、つまらないったらないんだよね」

「終末論というのは、ジルベルト様が女性を娶る気がないから、ということですの?」

「そうなんだよ、リディスちゃん。先代もそうだったんだけどさぁ、やる気がなくてうんざりしてしまうよ。女の魔族は必死だけどね。王の傍に侍られたら、一目置かれるし、権力が持てるってことだしね。クロネアなんて特にそうだよ。四六時中若君を追いかけまわして、他の魔族たちを攻撃してね。昔はもう少し、賑やかかだったんだよ、この城も。みんな嫌気がさして、自分の住み家に帰っちゃったんだよ」

 もしかして、クロネアさんの痕跡を掃除するのが嫌になって皆逃げてしまったんだろうか。
 掃除しても掃除してもクロネアさんは汚すので、確かに嫌になりそうではある。

「でもリディスちゃん、クロネアに指摘してくれたよね、皆が言いたくても言えなかった、あれのこと」

「あぁ、あの、粘液……」

「そう、それ! 僕ですら恥ずかしすぎて、指摘できなかったやつだよ。ありがとう、リディスちゃん。あのあとクロネアは若君に君が苛めたって泣きついていたけど、僕としては本当に有り難かったんだ。溜飲が下がったというやつだよ」

「アスタロト様の立場なら、注意できるのではありませんか?」

「僕が? いや、流石の僕でも、女性にその……、そんなことは、言えないというか……」

 アスタロトは視線をそらした。やはり、クロネアさんのあれは口にしてはいけない身体的特徴だったのだろう。とはいえ、掃除婦としては重要な問題なので、申し訳ないとは思えど遠慮するわけにはいかない。
 それにしても、これからどうやって対処していけば良いのだろう。

「そうなのですね。アスタロト様、ところで少し不思議に思ったことがあるのですが、聞いてもよろしくて?」

「うん、何だいリディスちゃん。何でも聞いていいよ」

「魔族の方というのは、人にはない力を持っていますよね?」

「まぁ、そういわれると、そうなのかな。魔導士なら、僕たちみたいなことができるけど、君の国には居ないみたいだもんね」

「魔導士の方というのは、人間なのですね」

「そうだよ。リディスちゃんには言った気がするけど、例えば僕とリディスちゃんが婚姻の誓いを結ぶとするじゃない? そうすると、リディスちゃんは僕の力を半分持った、半魔の子供を産むことになるわけ。半魔は、十分成長すると、人のままでいるか魔族になるか選ぶことが出来るんだよ。人のままでいることを選択した人間たちの体には、僕たちの力……、魔力が残るんだ。その子たちがまた子供を作ると、魔力は薄れるけど、血筋には残る。そういった魔力を十分に操れる人間の事を、魔導士と呼ぶんだよ」

「なるほど。つまり、半魔とはジメジメツムリのようなものですのね」

「ジメジメツムリ」

「えぇ。ジメジメツムリは、性別が無く産まれてきます。年頃になると、子孫を残すために自分の性別を選んで体を変化させるのです。生き物の神秘でしてよ」

「リディスちゃんは物知りだねぇ」

 アスタロトは細長いグラスに口をつける。
 赤い液体を嚥下して、眉を潜めた。それから、「何これ、甘ったるい」と小さい声で呟いた。

「魔導士についてはよく分かりましたわ。私が気になったのは、その大戦、のことなのですけど……、たとえ魔族の方の絶対数が少ないとしても、強大な力があれば、人など容易く滅ぼすことができたのではありませんの?」

「あぁ、それね。何ていえばいいのかなぁ……、昔の話だし」

 アスタロトは言い淀んだ。
 それから少し考えるように、テーブルに肘をついて指先を組んだ。

「例えば、そうだねぇ……、人間にもいろんな性格の者があるでしょ。リディスちゃんみたいに、生真面目で誇り高くて損をする子もいれば、他人に媚びて上手に生きていく子もいるよね。悪人もいれば、善人もいる」

「私は私の性格で、損をしたことはありませんわ」

「そうかな。まぁ、そういう事にしておこうか。ともかく、魔族も一緒なんだ。かつて大戦前は、それなりに仲良くやっていたよ。世界には様々な種族がいるのが普通だったからね。だけど、一部の種族が、無力な人間を食い物にしたんだ」

「騙した、ということですの?」

「いや、……もっと酷い事だよ。元々は小さな火種だったんだ。同じ種族での小競り合いの方が、よっぽど悲惨な状態だったっていうのに、どうしたって他種族からの攻撃は目立ったんだろうね。そのうち、その小さな火種が大火になった。人と、他種族の争いへと発展する程にね」

「あぁ、……皆が皆、人と争いたいと望んでいたわけではない、ということですのね」

「そうなんだ。強硬派は一部だったんだよ。そりゃあ、一丸となって人と戦えばこちらが勝っていただろうけど、皆別に戦いたい訳じゃなかったんだ。だって、半魔の親だって沢山いた訳だから……、それなのに、大戦は起こってしまったんだよ」

 アスタロトは哀し気に目を伏せる。
 防壁に空いた小さな穴から防壁が崩れてしまう事があるように、どうしようもなかったかもしれない。
 もし私がその時生きて居たら、もし私が時の王の傍で助言できる立場だったなら、そんな風にはけしてさせなかった筈だ。
 大きな争い程、愚かな事はない。私も少し、悲しい気持ちになる。

「アスタロト様……、けれど、人間は、愚かなものばかりではありませんわ」

「そうだね、リディスちゃん。僕はかつて、人間が好きだったんだよ。だから、君が来てくれて、とても嬉しい」

 私は食事の手を止めてアスタロトをみつめた。
 彼は微笑みを浮かべると、テーブルの上から手を伸ばして、私の手を取った。
 赤いテーブルクロスの上で握られている私の手は、アスタロトのそれに比べてとても小さい。アスタロトの手の平は、やや女性的な見た目と反してとても大きくて、そして思った通り、ひんやりとしていた。

「ねぇ、リディスちゃん。わからずやで我儘な若君なんてやめて、僕にしたら?」

「アスタロト様は王になりますの?」

「いいや、ならないよ。王とは種族だからねぇ、一つ前の王だったユールがその力を譲ったのが、今の若君なんだ。若君が新しい魔族を……、もしかしたらリディスちゃんに産んでもらって、その子に力を譲ったらその子が新しい王になるんだよ。そういう事」

「ユール様は眠りについたとおっしゃっていたような気がしますけれど」

「ユールは長い間生きるのに飽きちゃったんだよ。消滅したわけじゃないけど、眠りについている。それなのに若君が未だ中途半端に皇子でいるのは、伴侶を貰う気がないからだね。王は、新しい魔族を生み出してはじめて、王になるんだ」

 私は目を伏せて、少し考える。
 アスタロトの想いに応えてさしあげるのもやぶさかではないが、物事には順序がある。
 私の愛情はひとしく愛すべき者たちに与えられるのだけれど、不誠実なのはいけない。
 ジルベルト様に身を捧げると宣言しているのだから、やはり一番初めにこの身を捧げるべきなのはジルベルト様だろう。

「アスタロト様、お気持ち有難く受け取らせて頂きますわ。ですが、私はジルベルト様に……」

 気持ちだけは受け止めてさしあげて、心変わりの件はお断りしようとした矢先の事。
 部屋の扉が徐に開いた。
 視線を送ると、そこにはとても不機嫌そうな顔をしたジルベルト様が立っていた。


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