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しおりを挟む私が廊下を右往左往しながら泡をかき回し、水場と廊下をいったりきたりして泡を洗い流し、乾いたモップで磨き上げ終わったのは、クロネアさんが去ってから体感的には数時間後のことだった。
廊下には窓もないし時計もないので、時間の感覚も今が朝なのか昼なのか、夜なのかも分からない。
そもそもこちらの世界に朝昼晩の概念があるのかすら分からないが、せめて時計ぐらいは欲しいものだなと思う。
つるつるぴかぴかの廊下は、本来の壮麗な大理石の輝きを取り戻していた。私が廊下に立つと、私の姿がぼんやりと廊下に映るぐらいには磨き上げられている。
私は大理石の上で濡れそぼった服を、もう数年したらすらりとしているのに必要な場所にはしっかりと柔らかい肉付きを持った、愛と美の女神を髣髴とさせる体になる予定の、まだ発達途上のそれはそれでどことなく色香が漂っている肢体に張り付かせて廊下を眺める。
相変わらず光源が少なすぎて薄暗いが、健やかな生活を送れる程度には綺麗になった。
それにしても、この地下室は部屋数がやたらと多い癖に、訪れた者は今のところ害水精ミズイロウミウシの方ことクロネアさん一人だけだ。
私の使っている部屋の扉だけ赤いということは、もしかしたら住人がいない扉は黒いままということなのだろうか。よく分からないが、明日になっても誰も来ないようなら他の部屋も自由に使わせて貰おうと思う。特に部屋の中には目新しいものはなかったけれど、未使用の部屋の四面体のランプを廊下に移せば、もう少しは明るくなるだろう。やはり光がないと良くない。公爵領の森で狩りをしながら野宿ができる程度の野営力のある私と言えども、暗い空間にずっといたら気も滅入るというものだ。
確かあれは十歳を過ぎたばかりの年齢だっただろうか、弓矢と小型のナイフを持って森に出たまま三日ほど戻らなかった私を、ラファエル様とお兄様とクライブが必死になって探してくれたことがあった。
私としては野営の邪魔をされたくなかったので、探されているのを承知で逃げ回っていたのだけど、あの時のラファエル様は今にも泣きだしそうな様子でたいそう愛らしかったなと思う。
王族に連なる者は万が一に備えてある程度の武芸も身につける必要がある。お兄様だって、虫も殺せないような見た目で一人でキバオオカミの群れを一掃できるぐらいの剣の心得があるのだ。
公爵家は恵まれているけれど、恵まれているからこそ領民を守らなければいけない。もちろん、治安維持のための騎士団はあるが、やはり領主が守られてばかりでは士気も落ちるというものである。
恵まれたものは、力ないものを守る義務がある。私の野営もその訓練の一つだ。掃除婦一日目で廊下の大掃除をやり遂げることが出来たのも、野営で培った体力があればこそだろう。やはり、備えあれば憂いなしという言葉は適切だ。
私は濡れて汚れた服をとりかえるために、新しい服とブーツを持って水場のある部屋へ行った。体をふくための布は持ってきていなかったので、ベッドのシーツをはがしてきた。働く者の生活環境管理は雇い主の義務なので、ジルベルト様に会ったらきちんと要求しなければいけない。
とはいえ今は全体的にびしょ濡れなので、先に着替える必要がある。シーツには犠牲になってもらうしかないだろう。
水場でさっさと濡れた衣服を脱ぐと、水桶に綺麗な水を汲んだ。
真冬のように寒かったら死活問題だが、地下室の温度は生温いぐらいだ。裸になっても左程寒くはない。
水もちょっと温いぐらいなので、特に問題なさそうではある。
私は着替えや布など濡れたら困るものを床から張り出している棚の上に乗せると、髪も泡がついて汚れてしまったので、頭から水を被った。
足元に溜まった水は、タイル状の床にある排水路に吸い込まれていく仕組みになっているのは確認済みだ。もしかしたらここは、水場というか、浴室なのかもしれない。
「……お嬢さん、こんなところで魅惑的な裸体をさらけだして、危ないとは思わないのかい?」
ざばざば体を洗って体が綺麗になる心地良さを噛み締めていると、優し気なのにどことなく空虚さがある声がした。
十分体は綺麗にできたと思うので、私は手を止めて振り向く。
閉めた筈の扉が開き、壁に凭れかかるようにしてアスタロトが立っていた。
相変わらず大きな蛇が体に巻き付いている。蛇は体温が低いから人に触れられると火傷を起こしているような感覚になってしまうと学んだことがあるが、あれだけ巻き付いていて平気なのだから、アスタロトの体は冷たいのかもしれない。
「ごきげんよう、アスタロト様。水浴び中でしたので、こんな格好で申し訳ありませんわ」
「お嬢さん、ちょっとは恥ずかしがるとか、慌てて隠そうとか、しないの?」
「私の体には特に恥ずかしいところなどありませんわ。どの角度から見ても、完璧な造形美でしてよ」
「そういうことじゃないんだけど。ちょっと泣かせてみようかなと思ったのに、虐めがいのないお嬢さんだね。若君は、君の事が気になって仕方ないみたいだけど……」
アスタロトは肩を竦めると、私の方に指先を伸ばして軽く振った。
その途端、私の濡れた体はふわりと風に煽られて、すっきり乾いてしまった。
「美しものを見せてもらったお礼だよ。僕としては役得でありがたいけど、つい魔が差しちゃったら困るから、早く服を着てくれると有難いな」
「ありがとうございます。拭くものがなかったので、ベッドのシーツを犠牲にするところでしたわ。これで、今日も心地良く眠ることができます、アスタロト様の不思議な力は、とても便利ですのね」
濡れた床もすっかり乾いている。
私はアスタロトに言われた通り、準備してきた少しだけリボンやフリルの飾りがついた着心地の良い薄桃色の衣服に着替える。
掃除のときに着ていた茶色いワンピースよりはスカートが短めの作りになっている。丈の短い靴下とブーツを履くと、先程まで濡れ鼠になりながら働いていたとは思えない気品に満ち溢れた姿になった。こんなに美しい掃除婦は、国中を探しても二人といないだろう。すっきりと乾いた体に、体を動かした後の倦怠感が心地よく纏わりついている。
アスタロトは着替えている私を、にこやかに眺めていた。本当は注意しなければいけないのだろうが、私は少し疲れていたし、子供の成長を微笑ましく見守るお父様のような視線だったので、あまり気にならなかった。
「お嬢さんの国には、魔導士はいないの?」
「まどうし、とは」
「何でも知っているお嬢さんだと思ったけど、知らないこともあるんだね」
「多くを学んだつもりでも、知らないことは沢山ありますわ。まどうしというのは、私の国にはいませんでしたわね」
「そうなんだ。大戦の前は、どこにでもいるありふれた存在だったんだけどね。人の体には、血液が流れているだろう。魔族の体には、魔力という血液のようなものが流れてると思うと分かりやすいかもしれない。僕たちはその魔力を、呼吸をするように簡単に操ることができる。例えばお嬢さんの体を乾かしたり、……お嬢さんの、心臓を魔力の刃で貫いたり、ね」
壁に凭れていた体を離したアスタロトが、私の傍まで来たかと思ったら、私の心臓のすぐ上に指先を当てた。囁くように言われた言葉は脅しではなく真実なのだろう。
魔族にとって人間は簡単に命を奪う事ができる存在、という事だ。それだけの力があるのに、かつての大戦で数が少ないという理由だけで敗北してしまうものなのだろうか。
「お嬢さんは、怖くないの? こんなところに一人きりで。僕の気が変わったら、その瞬間お嬢さんはもう、生きていないのかもしれないんだよ」
「それが私の終わりなら、私はそれを受け入れましょう。どうにもならないことというのは、どんな瞬間にもありますわ。生きたいという理由で保身に走りなにも為せないのは、私にとっては賢明な生き方とは思いませんもの」
「本当に愉快なお嬢さんだね。地下室に落とされてベッドに蹲って泣いてるのかなと思ったのに、あっという間に地下室を綺麗にしてしまうし、クロネアに絡まれても落ち込んだ様子もないし、挙句こんな狭苦しい罪人用の浴室で、堂々と体を洗ってるしさ」
アスタロトは私から手を離すと、微笑んだ。
彼の体に纏わりついている大きな蛇が、私に顔を擦りつけてくるので撫でてあげた。蛇は飼った事がないけれど、とても可愛い。
「さぁ、こんなところで立ち話もなんだから、一緒においで。お嬢さんは働き者だし、疲れただろう。愛らしいお嬢さんにお似合いの場所で、食事でもしよう」
「掃除婦用の食堂があれば、私はそちらにまいりますわ。教えてくださると、有難いのですけれど」
「千年ぶりのお客さんなのに、失礼な事ばかりして申し訳ないと思ってるよ。どうか、美しいお嬢さんと食事をする権利を僕にくれるかい? リディスちゃん、僕は君と話がしたい。君の体も見せて貰ったし、ちょっと脅したりもしちゃったし、お詫びにきちんとした食事を君に食べて欲しいんだ」
アスタロトは私の手を取ると、指先に口づけた。
その口ぶりや仕草がどことなくクライブに似ている。私は懐かしく思いながら、頷いた。
掃除婦としての私は、まだ廊下を綺麗にしただけなので、アスタロトに構っている暇などない。
さっさと食事をとって休んで、体力が回復したら害水精ミズイロウミウシ対策を考えなくてはいけないので、とても忙しいのだ。
けれど懇願されてしまっては、応えなければいけない。ひねくれ捻じ曲がった愛情にも応えるのが、私の責務だ。
「良かった、リディスちゃん。じゃあ行こうか」
「えぇ、食事だけご一緒いたします。食事が終わったら、ここに帰してくださいましね」
汚れた服も洗わなければいけないし、倉庫の備品も確認しなくてはいけない。
使ったモップももう少し日当たりの良い処で、本当は乾かしたい。粉石鹸も使い勝手が良いように、小分けにして小さな袋か、小瓶のようなものにしまっておきたい。
私の言葉に、アスタロトはとても愉快そうに笑った。
何がおかしいのかよく分からないので首を傾げていると、彼は私の手を優しく握る。
ふわりとした浮遊感とともに、私は人生において何度目かの瞬間的な移動を行った。
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