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嫌がらせ
しおりを挟む食堂の給仕係の女性に礼を言いながら食器を返した。
「ありがとうございました、ごちそうさまです」
と挨拶をするルティエラに返事をしてくれる者は、はじめのころこそいなかった。
けれど食堂の給仕のご婦人は、無愛想ながら「午後も頑張るんだよ」と声をかけてくれる。
それがとてもありがたく、ルティエラは微笑むと礼をした。
公爵令嬢だったときは、できなかったことだ。
貴族は庶民に声をかけてはいけない。使用人は同じ人間ではないのだからと、礼を言うのも禁止されていた。
王妃になるように育てられていたルティエラは、それがどんなに不自由なことだったかを思い知っている。
皆には嫌われているが、声をかけるのはルティエラの自由だ。
食事を支度してくれたら、礼を言っていい。世話になったら礼を言っていい。
それはとても自由で楽しい。
惜しむらくは、誰もルティエラの相手をしてくれないことではあるが──。
(酒場では、皆が私を受け入れてくれたわね。私がルティエラ・エヴァートンだと知らないからだわ)
悪女ルティエラの名前は広く知れ渡っているが、顔立ちまでを知っている者は、庶民たちの中にはほとんどいない。
金の髪も一般的で、ルティエラという名前もそう珍しいわけでもない。
庶民と同じような──それよりも質素な服を着て、にこにこしながら酒を飲んでいるルティエラを、悪女ルティエラ・エヴァートンと思う者などほぼいない。
(だから、見知らぬ男娼の方と、一夜を共にできたのね)
裏庭にしゃがみこんで草むしりをしながら、ルティエラは昨日のことを考える。
今日はずっと、そのことばかりを考えている。
(できれば、覚えていたかったな)
一夜きりのことだとしても、深く愛されたかもしれないのだ。
それはどんな感覚なのか、覚えていたかった。
忘れてしまったことが残念でならない。
驚きはしたものの、そう悪い経験ではないような気がしている。
ルティエラはもう貴族ではない。一夜の過ちを咎めるような者は誰もいない。
もう誰もいない。すがすがしいほどに、一人だった。
「ルティエラ様、草むしり、大変ですね」
タンポポなどの根は、頑丈で、抜けにくく、途中でちぎれてしまう。
ひげのように細い根を持つ雑草の方が抜きやすいと思いながら、手を泥だらけにしていると、声がかけられた。
誰だろうと振り向くと、そこには侍女たちを引き連れたクラリッサがいた。
王国人としては珍しい、青髪の女性である。
明け方の空のような深い青髪と、空色の瞳は、天候を操る聖女の容姿としてふさわしく、明るく無邪気に皆を照らす様はまるで太陽のようだと言われている。
ルティエラは地面に膝をつくと、礼をした。
今の立場は、クラリッサは聖女、ルティエラは庶民である。
同じ目線で話をすることは許されていない。
これは別に卑屈になっているわけではなく、よけいな面倒ごとをおこさないようにするための保身術である。
以前一度声をかけられたときに立ち上がったら、「聖女様に危害をくわえるつもりか」と、彼女の護衛や侍女たちに責められたのだ。
それ以来、気をつけるようにしている。
「エヴァートンの花とまで言われたルティエラ様が、そのような使用人の服を着て、手を真っ黒に汚して草をむしっているなんて、おいたわしいことです」
同情するように、クラリッサは言う。
彼女の取り巻きたちは口々に「さすがは聖女様、お優しい」「ご自分を虐めた悪女にさえ同情するなんて、なんて心が広いのでしょう」と褒めそやした。
クラリッサが何をしにきたのかぐらい、ルティエラには分かる。
あれは、一ヶ月ほど前に遡るだろうか。
ルティエラは今日と同じように裏庭で草むしりをしていた。それはよく晴れた日のことで、日差しが少し暑いぐらいだった。
その日唐突にルティエラの元に現れたクラリッサは、「ルティエラ様、暑い中お可哀想」と言って、ルティエラのためだと言い、裏庭に雪を降らせたのである。
彼女の取り巻きたちは、彼女を褒め称えた。
ルティエラは消えない雪の中で草をむしらなくてはならず、手が凍えて感覚を失うぐらいだった。
多分、嫌がらせである。クラリッサはルティエラが彼女を虐めたのだと思っている。
立場が変わった今、クラリッサは学園で受けた仕打ちを恨み、ルティエラに復讐をしているのだろう。
ルティエラは誰にも言わなかった。
言ったところで、クラリッサを虐めたお前が悪いのだという結論にしかならない。
ルティエラの望みは、ただ一つだ。粛々と刑期を終えて、城からも立場からも自由になること、それだけである。
「そうだわ。ルティエラ様、その汚れた手を、洗い流してさしあげますね」
くすくすと、クラリッサは笑った。
その途端に、クラリッサたちのいる場所は晴れているのに、ルティエラの周囲にだけ、大粒の雨がざああっと降り出した。
「それでは、頑張ってくださいね」
流石はクラリッサ様。お優しいクラリッサ様。
相手は悪女なのですから、雷でも落としてさしあげればいいのに──。
そんな声が、足音と共に遠ざかっていく。
ルティエラは空をみあげる。
聖女の力で降らせた雨だが、雨は雨だ。
ルティエラは雨が好きだ。雪も嫌いではない。晴れの日も曇りの日も、ルティエラの心に影を落とさない。
「ふふ……」
確かに雪の中での草むしりは大変だったが、苦しいばかりの日々に比べればたいしたことではない。
雨は、湯浴みさえすることができずに朝から働いているルティエラの体の汚れを落としてくれるようで、心地がいい。
目を閉じて、微笑んだ。
体が濡れて、メイド服が重たくなった。髪が乱れて、額や首に張り付いた。
両手を広げて笑っていると、新しい足音が近づいてくる。
「大丈夫か……!?」
ルティエラの傍まで真っ直ぐに走ってきた男が、ルティエラの体を抱えるようにして雨の中から晴れた場所へと強引に連れていった。
驚いて目を見開くと、睫に雨の雫がついているせいでぼやけた視界にうつったのは、先程すれ違った仮面の騎士団長──レオンハルトだった。
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