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しおりを挟む逃げよう――とは思わなかった。
私の目の前にいるルカ様は、屋根裏部屋で孤独に心を蝕まれながら私が夢想していたルカ様の姿だった。
思い描いていた理想通りの吸血伯ルカ・ゼスティア。
けれどゼスティア家に来てからのルカ様は、大袈裟に私に好意を伝えてくれた。何度も抱きしめて、私が大切だと伝えてくれた。「俺はこれで、正しかった――?」微睡みの狭間で、囁かれた言葉を覚えている。
「ルカ様。……私は、聖人ではありません。……私を貶めた、卿が憎い。牢屋の中で苦しんでいる姿を見ましたが、哀れとは思いません。鈴に酷い言葉を吐いたエミリアは嫌いです。他者を見下すその本音は、ルカ様の言うように、その在り方を変えると言う事は難しいでしょう」
「エミリア・エンリケのような差別主義者が首長の座を継ぐのは、街にとっては喜ばしい事ではないね。再び、戦乱が訪れる可能性もある。……でもマリィ、そんな事は別に重要じゃない。この女は、マリィを傷つけた。ゼスティアの吸血伯である俺の妻に対する暴言は、十二分に不敬罪で、私刑に値する」
「ルカ様、そうだとしてもこれは、やりすぎです。罪には相応の罰があるのでしょう。ただの暴言で処刑をするのはいけません」
可哀想だから助けてあげて、とは言えない。
それは偽善だ。私は、そんな風には感じていない。
ダイス伯爵も、エミリアも嫌いだ。今後和解することはないだろう。だからやっぱり、可哀想だとは思えない。痛そうだな、とは思うけれど。
「相応の罰を与えているつもりだよ。こういった輩は、何度も繰り返すからね。繰り返すたびに、攻撃性があがっていく。……勿論、いつでも殺すことはできるけれど、俺はマリィが傷つくのは見たくない。マリィが傷つけられる前に、始末するべきだ」
「私も、エミリアの差別的な発言には虫唾が走ります。私に対する暴言と鈴に対する暴言。根の深い差別主義者だということが良く分かります。私や鈴の事をよく知りもしないで、その立場だけを見て酷い言葉を言う愚かな女です。ですが、暴言の対価が命というのは違う気がするのです」
私は首を振る。
感情的になってしまえば――死んでしまえば良いと思ってしまう。
ダイス伯爵も、クラーラも、お父様もアラクネアも、エミリアも、メルヴィル様も。
死んでしまえと、思う。
心の奥底に隠していた本音だ。けれどそれは、その感情は抱いてはいけない禁忌だからと、目を背けていた。
私の心の中にも残酷な部分がある。残酷で冷酷な私は、苦しむダイス伯爵やエミリアを見て、良い気味だわと笑っている。
ルカ様が私の為に二人を苦しめてくれて嬉しいと、薄暗い笑みを浮かべている。
それは憎しみに飲まれた獣のような己の姿だ。
それは駄目だと自分に言い聞かせる。私には、言葉がある。私には言葉しかない。
言葉とは理性。感情を押さえつけるための、知性。私とルカ様が、道を踏み外し堕ちて行かないようにするための、大切なもの。
「殺してはいけない? ……一人殺しても、二人殺しても一緒だよ。戦場では、多くの亡骸が塵のように散らばっていた。亡骸には名前はない。それが誰なのかも分からない。散らばる亡骸の数だけ失われた命と、マリィを傷つけた二人と、命に違いはある? 私刑に処されて川に捨てられても、喜ぶ人間の方が多いような連中だ」
「ルカ様は……、戦場で多くの兵を屠ったのでしょう。国を守るための戦いで多くを屠ることは、栄誉です。けれど、私刑で失われる命は、戦場のそれとは違います。それは個人的な感情からのもの。個人的な感情で人の生き死にを決めてしまえば――、私の周りにはあっという間に、屍の山ができてしまいます」
「……名をあげてくれたら、全員、俺が」
「ルカ様。……それでは、私を殺してください」
私はルカ様を見上げて言った。
ルカ様は俄かに目を見開く。赤い色の硝子玉のような瞳には感情が徐々にだけれど、戻ってきているような錯覚を感じた。
「……私は自分が嫌いです。ずっと、嫌いでした。不実な父の血が流れる体の私は、生きているだけで母を傷つけてしまう。母を守る事ができず、ミュンデロット家も奪われてしまった。何も、できなかった。王妃様に救っていただいたのに、メルヴィル様との婚姻はあんな形で破談になってしまった。……そしてルカ様に救っていただいたのに、私は弱弱しく縋りつくばかりで、自分の事情もあなたに話すことさえできず、ルカ様が私を救って下さった理由を聞くことも、ルカ様がどんな事情を抱えているのかを知ることも、怖くて、あなたを失いたくなくて、なにもしなかった」
「マリィ……」
「だから、私は私が嫌いです。私の嫌悪の感情で人を殺して良いと言うのなら、私を一番初めに殺してください」
「それは、できない。……俺は、こんな俺だけど……、マリィが大切なんだ」
「何故ですか? ゲオルグお爺様の孫だから? ミュンデロット家の生き残りだから? それだけで――手を血で染めるというのですか? 私が嫌いな私を、ルカ様はその程度の理由で、大切にしてくれるのですか? 納得がいきません、分かりません……!」
「違う。……そうじゃないんだ。それだけじゃない」
「じゃあ、どうして……!」
「……マリィ。……君は、俺の妹なんだよ」
ルカ様は静かな声音で言った。
「妹……?」
何を言われているのか分からずに、私は同じ言葉を反芻する。
妹。――お母様は若くして私を産んでいる。ルカ様は二十七歳と言っていた。お母様が産むことはまず無理だろう。だとしたら、妹というのは。
「義理のね。……それは後で、ゆっくり話そう。……マリィの気持は理解したつもりだよ。エミリアの処遇については、もう一度考える。……元々、二度と歯向かう事をしないように心を壊そうとは思っていたけれど、命までは奪わないつもりだったんだ」
「……助けて、くれるの……?」
叫びすぎて喉が潰れてしまったのか、哀れな掠れ声でエミリアが言った。
「……命だけは。マリィの優しさに感謝するんだな。俺はいつでもお前をの命を奪えることを忘れるな。――もしまた、我が家の者を傷つけるのなら、死ぬよりも苦しい目に合わせたあとに、ゆるゆるといたぶりながら、殺す」
エミリアは涙を溢しながら何度も頷いた。
体が揺れるたびに、天上からぶら下がった鎖が、ぎいぎいと嫌な音をたてた。
「マリィ、隣の男も命を奪ったりはしていない。……体の一か所を傷つけて、ゆっくりと血を抜くと伝えただけだ。……放置しておけば、そのうち狂うか、血が失せていくと思い込んで、勝手に心臓が止まる。ダイス卿の罪は重い。それでも、助けたい?」
「……助けたいとは思いません。……けれど、憎しみのまま殺したいと願ってしまえば、ルカ様の手が汚れてしまう。私はあんな男の血で、ルカ様の美しい手を穢したくありません。だから、……解放を。……もし次があるとしたら、しかるべき法に乗っ取って、王の名の元に裁きを受けることを望みます」
「分かった。……楼蘭、聞いていた?」
ルカ様が呼ぶと、暗がりから音もたてずに楼蘭が姿を現した。
かっちりとした執事服を着たいつもの楼蘭は、城の廊下ですれ違った時のように、私に優しく微笑んだ。
「マリィ様。ご安心を。……私も本音では、どちらの人間にも死んで欲しいと思っていますが、命令には従います。命は奪わずに家へと帰しましょう。……歯向かう気が起きない程度には、もう十二分に、恐ろしく、痛い思いをしたでしょうからね」
「楼蘭、ずっと居たのですね」
「はい。ここは、ゼスティアの牢獄。戦乱の最中は、捕虜を幽閉していた場所です。随分なものをお見せしてしまい、マリィ様には申し訳なく思います」
「鈴は……」
「鈴音は家にいますよ。……あれのことを、嫌わないでくださいね。あれは、マリィ様を娘のように思っていますから」
楼蘭の口ぶりでは、鈴音もきっと、今日の事を知っていたのだろう。
ルカ様と楼蘭が、葬儀に参加するために王都に行くついでにダイス伯爵を攫ってきたこと。私刑に処するということを。
長く東国と戦ってきたルカ様や、東国から亡命してきた楼蘭達と、戦いを知らない私との間には命の重さについて大きな隔たりがあるように感じられた。
それでももう、戦争は終わった。
命を奪うべき罪ももちろんあるだろう。けれど、ダイス伯爵もエミリアも、そこまでの罪は犯していない。ダイス伯爵はクラーラと共謀していただけだし、結局は未遂だった。エミリアは差別主義者だけれど、暴言だけで命を奪うと言うのはやはり少しいきすぎている。
気に入らないからといって殺してしまうのは、暴君と同じだ。
誠実で優しく、凛としていて。
お母様はそう私に言った。だから私は、憎悪に飲まれてしまうわけにはいかない。
「……楼蘭。マリィを連れて部屋に戻るよ。あとは、適当に。……遅くまでつきあわせてすまないね。明日は休んで良い。鈴音にも、そう言っておいて」
「分かりました」
ルカ様に促されて私は地下室から一階へと戻った。
繋がれた手はひやりと冷たかった。私たちは黙ったまま二階へとあがり、主寝室へと戻った。
冴え冴えとした月明かりが、窓から差し込んでいる。時刻は深夜零時を過ぎていた。
眠気は感じなかったけれど肌寒さを感じて、私は自分の体を抱きしめると、腕を手で擦った。
羽織っていた漢服を脱いで床に放り投げたルカ様の鍛え抜かれた体が月明かりに照らされている。彫刻のように美しい体には、いくつもの引き攣れたような傷跡が残っていた。
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