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他の誰でもないあなただけを
しおりを挟むオルフェレウスの体はラーチェルよりもずっと大きい。
どちらかといえば貧相でどちらかといえば小柄で、あまり特徴のないラーチェルだが、オルフェレウスを前にすると皆同じように小柄な女性になってしまうぐらいには、上背があって筋肉質で体格がいい。
すっぽりと包まれるようにして抱きしめられると、驚きと戸惑いで涙がひっこんでしまった。
木製の古めかしいベッドが、ギシと、軋む音を立てる。
オルフェレウスの呼吸の音や、鼓動の音が体を通じて響いてくる。それが妙に切なくて、ラーチェルは眉を寄せる。
頬も、首も、指先までもが熱い。
熱に茹だって、息が苦しい。
バニラとシナモンと、それから森の香りがする。
ラーチェルを心配して探してくれていた。暗い森の中で倒れているのではないか、魔物や動物に襲われたのではないか、迷子になったのではないかと。
そうして──ラーチェルを探してくれる人が、今までいただろうか。
「ラーチェル、傷ついた君を見て私はどうしようもなく、深い喜びを感じている。本当に──感情というものは、思うようにならない」
低く冷静な声が密やかに部屋に響く。
肌で、鼓膜でその声を感じて、ラーチェルは僅かに身じろいだ。
背筋をそわりとした感覚は這いあがり、落ち着かない。
骨張った節の太い指を持つ大きな手が背中を抱いている。
スカートが乱れていないだろうか。足がオルフェレウスの足に触れてしまっているのが、やけに気になった。
「結論から言わせてもらえば、君の勘違いだ」
「え……」
「勘違いだ、ラーチェル。私はナターシャのことなどなんとも思っていない」
「で、ですが、オルフェ様は……ナターシャに、あ、愛の言葉を」
「あぁ、聞いていたのか。あれは、嘘だ」
「嘘……?」
真っ直ぐで生真面目で嘘が嫌いで──オルフェレウスとはそんな人だと思っていた。
だから、嘘をつくなんて想像さえしなかった。
──たとえば、あなたのような。
その言葉は、あなたのような人が結婚相手であればよかったという意味だ。だからオルフェレウスは、ナターシャを想っていたと、思い込んだ。
あれは、嘘──?
「ナターシャという女がどういう人間かを知りたかった。ただそれだけだ。君が聞いているとは思わなかった。……その後、あの女に好意を持っているという演技についてはきちんと、嘘だと伝えてある。あらぬ誤解はされていない」
「え……え……?」
ラーチェルは混乱した。
切ない気持ちや羞恥よりも混乱の方が勝り、オルフェレウスの背中をぱたぱたと軽く叩いた。
僅かに腕の力が緩んだので、オルフェレウスの胸を軽く押して、服をぎゅっと掴むと、その表情の乏しい美しい顔をまじまじと見上げる。
「オルフェ様、ナターシャをからかったということですか? 好きだと伝えて、それは嘘だと言ったと……?」
「好きとは言っていない。流石に、そこまでの嘘はつけない。つく必要もない」
「オルフェ様は私に、嘘はつかないと言いました」
「君には」
「……っ、オルフェ様、女性をからかうのは……」
オルフェレウスはラーチェルの肩に額をあてた。
金の髪が頬や首に当たり、くすぐったい。背中が震えている。どうやら、笑っているらしい。
「……はは」
「オルフェ様……私は、真剣に悩んで……」
はじめて笑い声を聞いた。嬉しいやら悲しいやら、頭がごちゃごちゃになる。
オルフェレウスのことを少しは理解したと思っていたのに、さっぱり分からなくなってしまった。
「すまない。泣いたり困ったり怒ったり。君の表情が変るのをこんなに傍で見ることができるなんて……こんな幸福があるのかと思うと……嬉しくて、つい。笑ったのは、いつぶりだろう」
「オルフェ様……」
「悲しい顔をしないでくれ。ふざけているわけではない。ただ、君の嫉妬が嬉しい。君の勘違いが可愛らしい。君の涙が私を想ってのものだと、期待をしてもいいか、ラーチェル」
「で、ですが、分かりません……私、分からなくて」
紡がれる言葉には、深い感情が内包されている。
それを嬉しいと思うのに、頭がついていかない。心も、置いてけぼりになっている。
オルフェレウスのことを理解したいのに、言葉を交わすほどに分からなくなってしまう。
「ナターシャは、私に君と別れろと言いに来た。わざわざな」
「まさか、どうして」
「あの女の心の中までは知らない。興味もない。だが……恐らくは、昔から何でも自分の思い通りに物事を運んできたのだろう。傲慢で、自己愛が強い。あまり近づかないほうがいい」
「……っ、でも、友人です。昔からの」
「変だと感じたことはないのか?」
「……それは」
「あるのだろう。心に従うべきだ。ミーシャ様や、ヴィクトリス嬢、ルルメイア殿と共にいる君は生き生きとしている」
それは、ラーチェルも感じていた。
ナターシャといるよりも、彼女たちと話していた方がずっと気が楽で、楽しい。
そんなことを感じる自分は、ひどい女だと思ったこともある。
古くからの友人を裏切っているような気がしたからだ。
「誤解は解けただろうか。私はナターシャを追い払いたかった。もう二度と私に近づいてこないように、わざと傷つけた。……ひどいと思うか?」
「……分かりません」
ラーチェルは一度うつむいた。
今のは嘘だ。
嘘は──つきたくない。もうなにも、誤魔化したくない。
「ごめんなさい。違います。……私、嫌な女です。今、嬉しいと思いました。オルフェ様が……ナターシャのことを好きじゃなくてよかったって。私を、追いかけてきてくれて、嬉しいって」
「私は君が好きだ、ラーチェル」
「……っ」
「君だけが好きだ。他の誰でもない、君が。そうでなければ結婚しようとは思わない。これはもう、伝えたな」
「は、はい」
「信用できないか?」
大きく首を振った。信用なら、している。
それでも心が弱くて。
勝手に傷ついて戸惑って、悲しんだだけだ。
「誤解が解けて、君が無事で、よかった。……明日は仕事があるのだろう。私も協力する。今日はもう、眠ったほうがいい」
「……はい」
もうとっくに、日付も変ってしまっている。
離れていく体温が、名残惜しく感じた。
そう思っていることを恥じながら、ラーチェルは部屋から出て行くオルフェレウスを見送った。
「そういえば……今日の弁当も美味しかった。ありがとう」
「あ……食べてくださったのですか?」
「あぁ」
「よかった。……よかったです、本当に」
もしかしたら迷惑かもしれないと思っていた。
オルフェレウスはラーチェルにだけは嘘をつかない。その言葉が灯火のように、心を照らした。
「しかし、何故うさぎの形をしていたんだ? 何か意味が」
「えっ、あ、ああ……っ」
「ラーチェル」
「うさぎの形、していましたか?」
「あぁ。うさぎの形だったな」
「食べたのですね」
「食べた。君が作ったものを残すはずがない」
「ふふ……あはは……見たかったです、オルフェ様が食べているところ」
それは──シエラ姫の分だ。
同じようなバスケットに入れてあったので、間違って渡してしまったのだろう。
あの可愛らしい弁当を食べているところを想像すると可愛らしくて、ラーチェルは目に涙を浮かべてくすくす笑った。
オルフェレウスは眩しそうに目を細めた後、ラーチェルに顔を近づける。
軽く唇が目尻に触れて、離れていく。
キスを、された。
はじめてのキスを──。
みるみるうちに顔が真っ赤に染まる。
オルフェレウスは何事もなかったように「おやすみ」と言って部屋から出て行こうとして──ごつん、と、痛そうな音を立てて、扉の天辺に額をぶつけた。
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