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ベストラス村と食堂のお姉さん
しおりを挟むシンプルなワンピースに白衣を着ているのは身分を証明しやすいからだ。
調香府の職員証は鞄の中に入っている。
数日分の荷物が入った鞄を持ち、ラーチェルは乗合馬車に乗り込んだ。
貴族の馬車と違い、乗合馬車には屋根がない。木箱に簡単な長椅子を乗せたような簡素な作りになっていて、風が直接体にあたる。
からからと車輪が回り進んでいく。
旅とは兎角金がかかるものだが、華やかな王都に一度訪れたいと考える人々は割と多い。
王都には女神を祀った大聖堂もあるために、そこに巡礼に行きたいと考える信仰心のあつい者も多いのである。
一生に一度でもいいから、大聖堂にある女神像を目にしたい──というのが、最近の旅行の流行りだ。
いつでも女神像を見に行くことのできる場所に住んでいるラーチェルは、とても恵まれている。
それは十分わかっている。
ラーチェルのような立場の者が、恋だのなんだのに現を抜かしているというのは、間違っている。
秋の風が心地よく、空は晴れ渡り、旅行日和だ。
オルフェレウスとナターシャのことは忘れてしまおう。
オルフェレウスの心がどこにあったとしても、あの誠実な人は、ラーチェルに優しくしてくれる。
オルフェレウスはナターシャが好きで、ラーチェルはルイが好きだった。
恋に破れた者同士、上手くやっていけるかもしれない。そこに、愛や恋がなくても。
──同志、のようなものとして。
途中の街で一泊して、再び朝から乗合馬車に揺られて半日。
ベストラス村に辿り着いた時にはすでに夕方になっていた。
訪れる者の少ない、山を背にして国の端にあるような僻地である。
あんなところに何をしに行くのかと、乗合馬車の御者に驚かれた。
「若いお嬢さんが行く場所でもないだろうが、その格好からすると研究者かなにかかね」
「はい。植物の研究をしている者です」
「はぁ、若いのに感心だ」
こうして王都の外に出て、人々の中に混じると、肩の力が抜けるようでほっとする。
誰もラーチェルのことを知らず、ラーチェルも誰のことも知らない。
それがなんだか、気が楽だと思えるのだ。
社交界も、ドレスも化粧も装飾品も、ラーチェルはもちろん好きだ。
美しいものや楽しいこと、綺麗なものや可愛いものが昔から好きだった。
だが、ありのままの自然の雄大な美しさに比べたら、その生命の力を少しだけ分けて貰って小瓶に詰めた香水などは、とてもちっぽけなものである。
だが、そのちっぽけなものが、人の心を癒したり華やいだ気持ちにさせる。
ラーチェルは、それがとても愛しいと思う。
仕事は、好きだ。
余計なことを考えないようにしないと。
せっかく来たのだから楽しもうと、村にある唯一の宿屋に荷物を置いて、ラーチェルは食堂に向かった。
夜の酒場や食堂は、色々な人々が集まるために情報が得やすい。
香木について、話を聞いておきたかった。
「わぁ、美味しいです。お肉、すごく柔らかいですね」
食堂は沢山の人で賑わっている。小さな村の主な産業は、林業と農業。川があるが海はないので、食堂のメニューは川魚と獣肉がほとんどである。
ラーチェルが頼んだのはランドル鳥の煮込み。すっきりとしたスープの中に大きな鳥の足肉がごろっと入っており、根菜が一緒に煮込まれて、飾りつけにウルチの葉が飾られていた。
ランドル鳥は王国の西側に多く生息している鳥である。
太い足が特徴の鳥で、狩猟の際にはよく捕れる。肉質が硬いのであまり人気はないが、ラーチェルの食べている煮込みはとても肉が軟らかくて美味しい。
「ランドル鳥をここまで柔らかく煮込めるなんて、すごいですね」
「褒めてくれて嬉しいわ。煮込む前に、ラーマミルクと果物を剥いた皮を一緒に漬けておくの。一晩じっくりと」
「ミルクと、果物の皮ですか?」
「ええ。そうするととても柔らかくなるのよ。臭みも取れるし」
食堂の店主がにこやかに答えてくれる。
ラーチェルよりも少し年上の、どことなく愛嬌のある可愛らしい女性だ。
「エウリアちゃん、お酒!」
「はいはい」
「エウリアちゃん、こっちにも!」
「わかったわ」
ラーチェルに飲み物を届けてくれたエウリアという女性は、忙しそうに動き回っている。
ラーチェルは食事を終えると、食器をエウリアの元に届けた。
「ありがとう、助かるわ」
「いえ。とても美味しかったです。ごちそうさまでした」
「嬉しいわ。旅人さんは珍しいのよ。田舎の料理が口にあうかどうかわからなくて。褒めて貰えて嬉しい」
「エウリアさんは、お一人で食堂を?」
「ええ。一人よ」
「忙しそうですね」
「ふふ、そうね」
「もしよければ、お手伝いしましょうか?」
「えっ!?」
料理をしながら酒を出して、再び料理をして、皿を洗って。
エウリアはてきぱきと素早いが、それでもかなり忙しそうだった。
ラーチェルがそう申し出ると、エウリアは驚いたあとに「いいの?」と、ぱっと花が咲いたように笑った。
手伝いといっても、酒を出して、テーブルをふいて、食器を洗って。
その程度のことである。
気づけば酔った男性たちに「ラーチェルちゃん」と呼ばれていた。
「ラーチェルちゃん、お酒」
「こっちも」
「どこから来たの?」
「えっ、王都!? すごいな! そういえば何年か前に、王都の騎士様が来たよなぁ」
「すごい強面の。なかなかの美形だったが、愛想がなくてな。怪我をしたのを、エウリアちゃんがよく面倒を見て……」
「そうそう。エウリアちゃん、騎士様が好きだっただろ?」
オルフェレウスは怪我をして村に世話になったと言っていた。
その話も聞けるかしらと思っていたが、エウリアが面倒を見たとは、世間は広いようで狭いものである。
忙しなく働いていたときは忘れていたのに、オルフェレウスのことを思い出すとちくりと胸が痛んだ。
「やだ、好きなんて恐れ多い。それに騎士様には好きな人がいるのよ。そんなこと、すぐにわかったわ」
「さすがはエウリアちゃん」
「女は怖いね、隠していてもすぐにわかるんだから」
「ねぇ、ラーチェルちゃん」
「私はそういうのは、どうにも鈍くて……ずっと一緒にいても、恋愛感情には気づかないぐらいで」
恐縮しながらラーチェルが言うと、男たちは「そういうのが可愛いんだよ」と盛り上がりはじめる。
時計の針はもう午後十一時を示している。
エウリアが「そろそろ帰りなさいよ、皆。奥さんや子供が待ってるでしょう?」と、男たちを追い出し始めた。
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