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あまりよくない日

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 ◇


 今日はあまりいい日ではないなと、オルフェレウスは考えていた。
 ラーチェルとの結婚が思わぬ偶然で決まってからはずっと浮かれていたが、人とは一つの幸せが手に入ると、どんどん貪欲に、もっと欲しいと求めてしまうものだとつくづく思い知らされている。

 オルフェレウスはずっと、自分は幸せになってはいけない人間なのだと考えていた。
 自分を律し、無欲に生きなくては。一生を、女神に捧げなくてはと。

「オルフェレウス。私はあなたを生んではいけなかった。私が全て悪いの。ごめんなさい、ごめんなさい」

 オルフェレウスの母は口を開けばそんなことばかりを言う女だった。
 母のことはよくわからない。
 前王スクルドに愛されて、子を成した。強引に迫られたわけではなく、スクルドは母に夢中で、母もスクルドを憎く思ってはいなかった。

 実際、オルフェレウスが生まれてからもスクルドの母に対する寵愛は深くなるばかりで、毎日のように母のいる城内に建てられた離宮に訪れては、朝まで共に過ごしていた。
 合意の上で子を成したのだろうに──。

 オルフェレウスに記憶はないが、おそらくは母も浮かれていたのだろう。権力者に愛される喜びが確かにそこにはあったのだ。

 しかし、オルフェレウスが生まれてまもなく、母の幸せに冷や水を浴びせるようなできごとが起った。

 正妃マチルダが死んだ。
 オルフェレウスの赤子の時の話だ。人づてに聞いた話では、正妃はスクルドが母を愛するようになってから、どんどん衰弱していったらしい。

 ルーディアスはそんなマチルダを心配し、何があっても笑顔を浮かべて「母上には僕がいます」と健気に支え続けていたのだという。
 あの姿は、涙なくして見ることはできなかったと、当時を知る者は口をそろえて言った。

 けれどマチルダは、心を病んでいたのだろう。
 城にある礼拝堂の女神ルマリエ像の前で、毒を飲んで死んだ。

 それを発見したのはルーディアスだったのだという。
 その時の兄の気持ちを思うと、オルフェレウスはいつも吐き気におそわれた。
 自分の存在の罪深さに。己のような罪の子供が、どうして生きているのか、どうしてと、思わずにはいられなかった。

 女神ルマリエは不貞を嫌う。婚姻とは、聖なるものだ。
 夫婦とは比翼である。生涯を共にすると、ルマリエの前で誓う。
 そのルマリエ像の前で命を絶ったということに、マチルダの無言の訴えが秘められていた。

 マチルダの死は、病死とされた。
 王の軽率な行動によって王妃が服毒死したなどと知られたら、国が乱れかねない。
 マチルダは辺境伯家の娘だ。国境を守るために独自の軍事力を保有する辺境伯家がそれを知れば、反乱を起こされかねなかった。
 だから、秘されたのである。毒死と病死の区別をつけることはとても難しい。
 マチルダの衰弱は皆が知っていたので、病死については誰も疑わなかった。

 母はその時はじめて、自分の罪深さに気づいたのだろう。
 オルフェレウスが物心つくころには、毎日のように「申し訳ありません、マチルダ様」と、謝罪の言葉を繰り返しながら女神ルマリエに祈りをささげていた。

 オルフェレウスにも祈るようにと言い、「あなたは罪深い子。あなたの存在はルーディアス様を苦しめる」と繰り返した。

 オルフェレウスは幼心にその通りだと思っていた。
 自分の存在は、王国の教典に背いている。
 生まれてはいけなかった。罪深いこの身が許されるように生きなくては。
 幸せを得ようなどともっての他だ。

 そんなことばかりを考える日々だった。

 だが、今は違う。ずっと欲しかった人が、手に入った。
 偶然だった。偶然──ラーチェルが、オルフェレウスの手をとったのだ。

 あの出来事がなければ、オルフェレウスは己の心など隠して、墓場まで持っていっていただろう。

 幸運が重なりラーチェルと結婚が決まって。毎日のようにラーチェルに会うことができるようになった。
 朝は迎えに行き、共に食事をして、手料理まで作って貰って──。
 手に触れることも、抱きしめることもできた。

 ラーチェルは戸惑っているはずだ。手放したくない、怖がらせたくない。
 恋人などいたことがないから、どのように距離を縮めていいのかわからないが、できることなら穏やかな関係を築きたい。焦るなと、自分に言い聞かせていた。

 ルイに嫉妬し、ルドランに嫉妬し、最近ではラーチェルと話しをしていた部下たちや、リュシオンにも嫉妬している。
 表面上は取り繕っているが、蓋をあけると自分も母と同じ。
 感情で動くような人間だと思うと辟易した。

 だが──今日は迎えに来なくていい、朝が遅いからとラーチェルに言われて、少し落ち込んだ。
 朝からラーチェルの顔を見ることができずに落ち込んだところに、ナターシャからの呼び出しである。
 
 本音を聞き出すために本心でもないことを口にしたが、本当に、不愉快だった。
 薄々は気づいていたが、あの女はラーチェルの友人のふりをして、彼女の悪口を言いふらしていたのだろう。
 それも、男漁りなどという──あり得ない嘘を。

 オルフェレウスは長い間ずっとラーチェルを遠くから見ていたのだ。
 そんなことはあるはずがないと、よく知っている。

 ろくでもない女ではあるが、少しは懲りただろうか。大人しくしていてくれるといいがと考えながら騎士団本部の執務室に戻ると、部下がにこにこしながらバスケットを持って現れた。

「団長、ラーチェル様から贈り物ですよ」
「ラーチェルから?」
「はい。渡しておいてほしいと頼まれました。それから、伝言も」

 ここまで来たのなら会っていけばいいのにと考えながら、オルフェレウスはバスケットを受け取る。

「伝言とは?」
「しばらく留守にする、週末には戻る、だそうです。なんだか忙しそうでしたよ」
「……しばらく、留守に?」

 低い声で尋ねると、部下は不穏な空気に気づいて真っ青になった。
 ちょうど昼休憩を知らせる鐘が鳴る。バスケットの中身は弁当だろう。
 今日も作ってくれた。それは嬉しいが──出かけるなど、聞いていない。

「どこに行くと言っていた?」
「さ、さぁ、知りません。そこまで聞くのは失礼ですし……」
「そうか」

 部下を責めても仕方ない。
 しばらく留守にということは、遠出をしたのだろう。
 ラーチェルはバニラの香りのする香木に興味を持っていた。
 採集に行くのだとしたら、共に行こうと思っていた。あの場所は、少し危険だ。

「……団長、すごく可愛いお弁当ですね」
「………………あぁ」

 すぐさま行き先を突き止めて、後を追おうと思った。
 だが、せっかくの弁当を腐らせたくない。

 オルフェレウスは手早くバスケットからランチボックスを取り出すと、蓋を開いた。
 そこにはとても可愛らしい、うさぎ型をしたオムライスが入っていた。

「団長がすごい形相でうさぎさんオムライスを食べている」
「本当だ」
「悪魔みたいな顔でうさぎさんオムライスを……」
「ラーチェル様のお弁当、いいな……しかし、うさぎさんオムライス……」

 オルフェレウスが無言で弁当を食べ始めると、部下たちがわらわらと寄ってくる。
 ラーチェルの作ってくれたものである。
 しかし何故、うさぎなのか。
 もしかして何かのメッセージが隠されているのか。うさぎに?

 考えてもわからなかったが、ただ、うさぎさんオムライスは、非常に美味しかった。

  
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