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嗅覚と味覚
しおりを挟むオルフェレウスは、黒い手袋をするりと外した。
かっちりとした軍服を着て革手袋をしている彼の肌が露出しているのは、首と顔ぐらいである。
革手袋が外されると、長い指を持つ無骨な手が顕になる。
なんだか見てはいけないものを目にしてしまった気がして、ラーチェルは視線を逸らした。
ただ、手袋を外しただけなのに。オルフェレウスのストイックさのせいで、肌が顕になることを禁忌だと感じてしまうのかもしれない。
「ラーチェル。具合が悪いのか」
「い、いえ。なんでもありません。大丈夫です」
「ならばいい。だが、何かあれば言いなさい。君は無理をしすぎるところがあるだろう。昨年も、確か、研究発表会の後に熱を出した。数日寝込んだはずだ」
「どうして、それを……?」
「調香府の者たちが心配して話しているのを聞いた」
ラーチェルは気恥ずかしさに俯いて「気をつけます」と小さな声で言う。
何かに夢中になると、時間も忘れて寝食も忘れる悪い癖がある。そのくせ、体が頑丈にできていないので、時々熱を出すのだ。
ルイがナターシャと結ばれてからは、それを忘れたくて勉強や、仕事に没頭する時間が多かった。
これからは、気をつけなくてはいけないと自戒する。
オルフェレウスに迷惑をかけたくない。
「それが悪いと言っているわけではない。心配ではあるがな。不調の時は、俺が君を看る。医術の心得があるのでな、安心して欲しい」
「ありがとうございます、オルフェ様。そうならないように、気をつけますね」
「俺は構わないが」
「私が構うのです。忙しいオルフェ様の手を煩わせたくありませんから」
オルフェレウスは何故か少し、残念そうに「そうか」とつぶやいた。
ラーチェルにはそう見えたが、表情があまり変わらないので気のせいかもしれない。
「オルフェ様、お口に合うかわかりませんが、召し上がってください。もし気に入っていただけたら、お時間が取れない時は、お弁当だけ渡しに行きますね」
「あぁ。……ありがとう、ラーチェル。何かを食べたいと感じたのは、はじめてだ」
オルフェレウスはぽつりと呟いた。
彼にとって食事とはそれほどまでに味気ないものだったのだろうか。
その言葉に、つきりと胸が痛んだ。
彼の立場や気苦労に想いを馳せる。もっと知りたいと思う。
幼い頃のこと。騎士団長になってからのこと。ラーチェルの家で共に過ごした、ラーチェルが忘れてしまった時間のことも。
ラーチェルは痛む心を隠して、微笑んだ。
「そうおっしゃってくださり、嬉しいです。喜んでいただけた分だけ張り切ってしまって、品数が増えてしまうかもしれません」
「どれだけ増えても構わない。君の手料理を食べることができる幸運に感謝を」
静かな声で祈りを捧げて、オルフェレウスはハムサンドを手にした。
ラーチェルにとっては少し大きめのハムサンドだが、オルフェレウスが手にすると小さく見える。
改めてその体格のよさに感心した。
ばくりと一口食べて、それから、口元に薄い笑みを浮かべる。
「美味しい。……味が、する。君が作ってくれたからだろうか」
「……味を感じないのですか?」
「そうだな。何を食べても同じように感じる。恐らくは、興味がないからだ。味が分からないというわけではい。辛いや、甘い、などは理解できる。魚臭さや獣臭さもわかる。だが、美味しさはわからなかった」
「オルフェ様……もっと、たくさん食べてください。これが好きとか、好みの味があれば言ってくださいね。私、人よりも香りを強く感じるのです。だから料理も上手なのだと、お母様に言われます。少しは自信があるのですよ」
人よりも香りが強く感じられる分、味覚も繊細なのだと母は言う。
ラーチェルが働き先を探しているとき、母には菓子職人や料理人の道も薦められたぐらいだ。
結局、調香師を選んだのだが。募集があれば、そちらの道に進んでいたかもしれない。
「どれも、美味しい。君の作るものは繊細で、優しい味がする」
「ふふ……オルフェ様は私を褒めるのがお上手です。すごく、調子に乗ってしまいそうです」
「そうしてくれて構わない。だが、無理はしないでくれラーチェル」
「ええ、もちろんです」
オルフェレウスの分の弁当は、あっという間になくなった。
もう少し量を増やしたほうがいいかしらと考えながら、ラーチェルは弾む気持ちに口元を綻ばせる。
こんなに喜んでくれるなんて。
作ってよかった。迷惑がられなくてよかった。
じっと、オルフェレウスがラーチェルが口にしているハムサンドを見てくるので、ラーチェルは首を傾げた。
「オルフェ様、もう一つ召し上がりますか?」
「……いや」
「私には少し多いのです。もしよければ」
「いいのか?」
どことなく嬉しそうな様子だ。よくよく見つめていると、その表情や口調の変化を察することができる。
オルフェレウスのことを少しずつ理解できているようで、嬉しかった。
ラーチェルは普段、物言わぬ草花と向き合っていることが多いが、それに似ている。
残りのハムサンドを差し出そうとすると、オルフェレウスは何かを逡巡するように視線をそらして、それから口を開いた。
「……あ、あの」
「……」
口を開いているから当然無言である。
これは、もしかして、食べさせてくれと言っているのだろうか。
そんな風に甘えるような人には見えないのに。なんだか無性に照れてしまって、ラーチェルの頬はみるみるうちに赤く染まった。
オルフェレウスがそうして欲しいというのなら、頑張らないと。
照れながらハムサンドを差し出すと、オルフェレウスはぱくりとそれを食べた。どうにも照れてしまって、顔を見ることができない。
「……美味しかった。ありがとう」
差し出し続けていると、どうやら食べ終わったらしい。
さらりと、素手で頬を撫でられて、ラーチェルは震える声で「はい」と何とか返事をした。
はい、のような。ひゃい、のような。ふぁい、のような。
妙な響きの声が出てしまい、なおさら気恥ずかしかった。
ばくばく鳴る心臓をおさえて、ラーチェルは食べ終わったランチボックスをそそくさと片付けはじめる。
「急ぐのか?」
「そんなことはないのですが、オルフェ様はお忙しいかと思いまして」
「忙しければ伝える。君も、同様にしてくれ」
「は、はい」
「今日は、訪れが遅かった。仕事か?」
「申し訳ありませんでした」
「怒っているわけではない」
ラーチェルは片付けたランチボックスを手提げの袋に入れると、あいている椅子に置いた。
それから、椅子に座り直す。
ヴィクトリスの言葉を思いだした。
──殿下はよい広告塔になりますね、というあれだ。
「実は、次回の研究発表会を任されまして」
「それはすごいな」
「ありがとうございます。それで、今回はリュシオン様との共同研究ということになって」
「リュシオン?」
オルフェレウスの眉がぴくりと動く。
「何故だ?」
「リュシオン様がそうしたいと望んでくださったようなのです。それはいいのですが、打ち合わせをしていたら話が長くなってしまって、遅くなってしまいました。忙しいわけではないのです」
「二人きりだったのか」
「はい。オルフェ様、どうされました?」
仕事の話しをしていただけだ。特に後ろ暗いところはない。
オルフェレウスはラーチェルが誰と話をしていたとしても、さして気にしないだろう。
もしかして嫉妬をしてくださっているのかと一瞬期待したが、そんなわけがないかとその考えをラーチェルは打ち消した。
結婚の話が出てから、少し、浮かれすぎている。
「いや。なんでもない」
「そうですか……。新しい香水の開発を、一ヶ月で行わなくてはいけなくて。どうしようかと考えていて」
「時間があまりないのだな」
「はい。そ、それで、あの……もしお嫌でなければ、オルフェ様にお力添えをしていただきたいのです」
「私に?」
結婚が決まったからと、調子に乗りすぎではないのか。
オルフェレウスに迷惑をかけるなんて。
色々ぐるぐると考えそうになるが、ラーチェルはオルフェレウスから僅かに香っている、シナモンとバニラの香りがずっと気になっていた。
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